無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで201万冊以上配信中!
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
Posted by ブクログ
茂木さんも南さんも大変。色々考えることがありすぎる。もっと考えないようになれれば楽だろうに。ただ、二人ともその“楽さ”は求めてないんだろうな。でも、二人はほんと楽しそうにしてる。
この本は、テレビでもおなじみの脳科学者である茂木健一郎さんと、禅僧である南直哉(みなみじきさい)さんによる対談集。
2人の対談は、2004年から2008年までの間に、東京都の青末寺、青森県の恐山、東京都の新潮社で3回にわたって行われたものです。ですので、時間が進むに従って、お互いがお互いを深く理解し、自分の考えを深めてから、対談という形で自らの意見をぶつけ合うので、お互いに緊張感があり、さらに喜びがあるように感じられます。読んでいる自分もなぜか緊張してしまいました。
Posted by ブクログ
死や絶望があるからこそ、生きられるという感覚や今の自分があるという感覚。
なるほどと思わせられることばかり。
とてもおもしろかった。
私は自由というのは「航海する人」だと思う。「航海する人」は目的地を自分で決め、 そこから逆算して航路が生じる。そして自分が今どこにいるか、現在地を知っている。 「目的地·航路・現在地」、この三つを知っている人が、自分の力で海を渡って行ける人です。ところが、この三つのどれかを欠くと漂流してしまう。目的地がわからない、航路を知らない、現在地がわからないという状態。この人は自由でも何でもない。何もできないし、どこへも行けない。それを避けるには、目的地を決めて航路を選択せざるを得ない。つまり自己のあり方を決めなければいけない。けれど、これは苦しい。
その負荷から自由になりたいというのは、よくわかる。仏教でよく誤解されるのは、「あれもない。これもない。ないものもない」と全部解体して「はい、ゴール」と。 そう思う人がいっぱいいる。けれどそうじゃない。一回ばらして、もう一回自力で作り上げるっていうのが、仏教の修行なんです。ここがよく誤解されるところです。だから苦しいんです。だから修行なんです。ところが中には、それが悟りで真実だという人がいる。その先どうするのかは何も示されない。
生の最初から思い通りにはなっていない。思い通りにならないから辛いんです。ですが、人類はすべて最初から思い通りに生まれた人はいない、ということをもっと自覚するべきでしょうね。
苦痛が取り除かれていく現代社会について批判的に論じていますが、苦というものが除外されていくことの危険が今日リアルにわかりましたね。苦は生きることの本質と結びついているから、それを取り除いたら結局生きていないことになる。
僕も相当病んでるのかもしれない(笑)。でも、生きていること自体が病んでいる状態ということには、激しく同意します。やっぱり生は、まがまがしいものだと思う。 南 よく恐山で、霊魂があるかないかなんて話は仏教にとっては根本的な問題でも何でもないという話をします。じゃあ、何が仏教として一番大切なのか――。
おそらくお釈迦さんは、生きていて嬉しくて楽しくて結構なことより、辛くて悲しくて切ないことの方が多いというのが、仏教において物を考える前提であると言いたかったんじゃないかなと思うんです。もちろん、毎日が楽しい人はそれで結構。だけど仏教は、辛くて寂しくて苦しいことの方が多いという前提で話を始めるんだと言っている。 でもね、にもかかわらず死を選ぶことなく、寿命があるまでは必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするのかというのが、我々、仏教者のメインテーマだと思う。
仏教は安心立命を説くわけではない
希望というものは持つものではなく、絶望の中でひらめくものではありませんか。
持てる希望なんて所詮、一時的な質入れにしかならない。本当の希望というのは、絶望させることができる力のこと。その意味で、親鸞の「自然法爾」と、キリストの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は、ほとんど一緒だと思う。
クオリアのことを考えていたときに思ったのですが、例えば、明るさというのは相対的なもので、部屋の照明が明るく見えるのは周囲が暗いからで、昼間だったらそこまで明るさを感じませんよね。希望の光とか言うけど、周りが暗いから明るく見えるわけで、そういう意味では、底知れぬ暗闇つまり絶望を知っている人じゃないと希望の光りは見えない。
最初から希望と絶望が区別されているわけではなくて、親鸞は選択の余地なく絶望する。そこには戦略も何もない。そして、それがどんどん深くなっていくわけです。 でも生きているから絶望できるのであって、絶望の底で何かをひらめく。これを仮に希望と呼ぶことができるのではないですか。
「蓮を咲かせる泥になりたい」
南 先ほども言ったけど、中学生で「諸行無常」という言葉に出会ったとき、「あ、 助かった」と思ったんです。助けてほしいと思っていたわけじゃないけど、これを言った人と俺は似たような人間かもしれないと、嬉しかったというか本当に助かった。まさに思ってもいなかった光だったんです。今にして思えば青臭いけど、その当時はとても切実な、生きるか死ぬかの問題でしたからね。しかし人は余儀なく絶望したとき、その絶望に耐え切ったときに何かと運命的に出会うことがある
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか-。
人類誕生以来、問われ続けてきたアポリア(難問題)に、脳科学者と禅僧が挑む。
死はすべての者に平等に訪れる。
けれど誰もが望んでこの世に生れてくることはできない。
つまり、「私」に根拠はないのだ。
だからこその苦、だからこその人生。
それでも、その苦しみを引き受け、より良く生きるための方法はある。
無常の闇に射す一筋の光明を探すため、存在を賭けた脳と仏教の真剣勝負。
[ 目次 ]
星の友情(茂木健一郎)
1 無記の智慧(坐禅とクオリア 説明不足の仏教 悟りが最終目的ではない ほか)
2 脳の快楽、仏教の苦(裸になれる場所 恐山の日常 「信じる」とは何か ほか)
3 人生は「無常」である(クオリア、仮想、偶有性 「疑団」の破裂 偶有性の反意語 ほか)
悦楽する知(南直哉)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
なぜ自分は生まれてきたのか?何のために生きるのか?人類がずっと問い続けてきた難題をテーマに、禅僧と脳科学者が語り合う対談集です。
この世に望んで生まれてきた者など誰もいない。だから、生れて生きることには、もともと根拠が無い。根拠の無いものを問い続けたところで、当然答えは得られない。答えのないものを探し求めるから苦しい、根拠がないからこそ、自ら死を選び取るのもひとつの道なのだ・・・・・と、本書ではそのような会話が交わされます。けれど、苦は快楽だとも・・・・・。
修行とは解脱するために行うもの、悟りとは真理を見いだし、心の平安を得ることだと思っていましたが、そうではないのですねぇ。
答えがないとわかっていながら、それでもなお問い続けずにはいられない。人間って、なんて哀しく、美しい生きものなのでしょう。日頃なんとなく思っていたとおり、存在することというのは、根本的に破綻していたんだ。生きるということは、最初から不条理なものだったんだ。やっぱり生きるためには、生の矛盾と不安を生き切ることで、生そのものを引き受ける覚悟が必要だったんだなぁ。あぁ、せつない・・・。
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
ビジネス・実用
最高の結果を引き出す質問力 その問い方が、脳を変える! 試し読み増量版
試し読み
ビジネス・実用
試し読み
ビジネス・実用
小説・文芸
ビジネス・実用
ビジネス・実用
試し読み
ビジネス・実用
ビジネス・実用