南直哉のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ふと目に止まったネット記事。アルケミスト的に言うと「前兆」を感じた。読んでみると膨大な情報の中で幾度か出会う僧侶。この方とは何かと縁がある。何か波長が合うのだろうと勝手に思っている。記事は通学の見守り隊の話。一度読んで一生忘れない記事だった。著書にも書いていたが、その記事の前後、著者の言いたいことが理解できた。いや、この本数回読まないと到底理解出来ない。なぜなら「死」というわからないことを書いているから。「死」のみが平等。見た目や収入、境遇、色々あるけど、「死」を基準に生きることを考えることはその通り。だからかすり傷の「死」を経験した人の中には偉大な人がいたりする。かすり傷でも死を垣間見る。日常で死を感じる生き方を意識しなければ。50前にして彼岸が少しは見えないと…
再読。読むたびにニュートラルな位置に戻してくれる。「死」をニュートラルな位置として考えるとあらゆることが大した事でなくなる。その3つの技法と高田純次の3つの技法、「自慢話、昔話、説教」をしない、という技法を駆使すれば、精神衛生上安定する。あとは今回読んで座禅で我を解体できるか。仏教に帰依しているわけではないが、割と心に対して論理的と言うか、科学的な感じがしており、南住職はわかりやすく説明してくれる。恐山に行ってみたいな。 -
Posted by ブクログ
<メモ>
・死は経験できず、絶対に分からない観念である。
⇒「死」の話になると、死ぬ前と死んだ後の話ばかりになる。
・自分にこだわらず、執着を手放す。「放下」の生き方こそが死への準備になる。
⇒なすべきことをなすと死は休息。
・「死」はこの世とあの世のゲートをくぐること。そうなると単なる移動であって、あの世で生きているので死んでいない。
・生きることは、死につつあること。
・死の悲しみを封じてはいけない(きちんと悲しむ)
・死を受け入れる方法
①「体当たり玉砕」法(回避)
②「90歳越え」法(慣れ)
③「自分を大切にしない」法(受容)
・輪廻と仏教の無常は矛盾する
⇒一貫した魂があるとすれば、常に変化し続ける「無常」のつじつまが合わない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレだいぶ前に、”「死」とは何か”を読んだことがある。著者は大病を患い、その中で死と生について考え、その内容を講義するようになったと。
自分の読解力不足もあると思うが、どうにも、書かれていることになじめなかったのを覚えている。生と死のメリット/デメリットを比較し、死のデメリットは(概略)突然に生が切断されること、とくくってしまうのもどうかと思うし、故に生を充実されてポジティブに過ごすのが良い、とするのもすっと受け入れられなかった。生や死に良いも悪いも価値観を付与すること自体がどうなのか、と。
著者の南さんの本は大体買っているが、この本の中身も、今までの著作で語られてきたことをまとめなおした感が強い。新味がない、と言っているのではなく、それだけ、著者の中で考え続けられてきたテーマが時々に形を変えて現れているのだと思う。
著者の子供時代、病弱で死に近しい感じを抱いていた話はこれまでも語られてきたが、本書でも改めて述べられている。小さいときに死を身近に感じ、向き合い方のスタンスが固まっており、それ以降は表現の幅が増えてきただけ、とつづられているが、失礼な言い方ながら、それゆえに凄みが違う。死に向き合うために仏教を学び考えてきた人にとって、メリットなどというくくりで死をとらえることは浮薄と映るのではないか。
人間に自己というものはなく、他より課せられて「生まれさせられてきた」存在である以上、自己とは他とのかかわりの中でしか存在しない錯覚にすぎない。自己がない以上、輪廻も転生も存在せず、死とはそのかかわりが消失すること以外の何物でもないから、理解することもまた体験することも、よって死を語ることもできない。語り得ざることには沈黙するしかない。
このリアリズムのほうが、よほど、死を正しく取り扱っていると自分には思える。そして、理解しえない死を自覚するがゆえに、まだ死んでいない状態としての生が自覚され、それもまた理解しえないゆえに、そこに意味を付与する埋め草を求めたがる。人は、生が本質的に無意味(無駄だではなく、文字通りに意味を没している)であることを本能的に理解するがゆえに「退屈」を嫌うのだと(このあたり、暇と退屈の倫理学と対照すると面白い)。
そのうえで、死をより平安に受け入れるにはどうすればよいか。よくある「残された生を燃焼させる」系の物語を、著者は「死の回避」と呼称する。否定するわけではないが、これは死を後ろにして精いっぱい走り続け、そのまま吞み込まれる態度であると。死を受容するのではなく、残された人に自分の「生の証」を残したいという行為であるという。
そうできない者もいる(というか、その方が多い)。著者が語るのは、自らを大切に思わない、という一見ラディカルな方法である。自分に絶望する、自分を粗末にするのではなく、しょせん自己は他者とのかかわりにしか存在しないのであれば、欲を離れ、自分を離れ、ただ、他者と生きる際に必然的に生じる問題に取り組み続けること。これを著者は「放下」と称する。この生き方をし続けた果てに、自己という錯覚を分解することができれば、死は休息としてその人に訪れるであろう、と。
あるかのように自己を錯覚し、それに価値を付与しようとする作業を延々と繰り返すよりは、ずっと良い方法ではないかと思える。修行を通じて、この良い意味での自己の解体を行い続けるというのならば、正しく仏教は、著者の言う「死ぬ練習」なのであろう。 -
Posted by ブクログ
南直哉氏。
社会人経験を経て禅宗に出家された、現在60代半ばの方。
その語り口は非常に理路整然としており、物言いが明快であるため、仏教や禅の思想が驚くほど分かりやすく伝わってきます。
現役の禅僧の中で、私が、最も敬愛する方です。
「自分は生きている意味はあるのか」――こうした問いを常に抱える私のような人間にとって、氏の著作は心の重荷を軽くしてくれる一冊です。
その核心となる説を一部抜粋してまとめます。
氏は、「自分」という存在のもろさを指摘します。
「私は私である」という自己の記憶
他者から「私」だと認められること
この二つの根拠を失えば、「私」という存在はたちまち崩れ去ります。
私たちの存在は、誰もが生まれた瞬間に「着させられた服」のようなものだと。
皆誰もが「生まれたい」と願って生まれるわけではなく、性別も場所も身体特徴も、すべて選べずに誕生させられた存在。
いわば他者によって「自分」にさせられた存在なのです。
このような文章に触れると、心が深く安らぐのを感じます。
「生きる意味」を無理に見つけようとしたり、「有意義な人生を送らなければ」と肩ひじを張ったりする必要がなくなります。
ただ、「着させられた服」であるこの自分を少しずつ引き受け、なんとか今日を生きていく。
これだけで十分立派な人生なのだ、と言われると、気が楽になっていきます。
仕事、お金、育児、生活における義務や重圧に疲れた時、
立ち止まってこの本を開くことは、心を整えるため最良の処方箋となりうる一冊です。 -
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ネタバレ面白かったー!安定の小林秀雄賞です笑
最近まさに実存に悩むこともあって、それに対してこのような本があって、それにこのタイミングに出会うことに、やはり不思議な縁を感じてしまう。この本も「世界は関係でできている」という見方を提示しているわけですが。
現代が、鎌倉時代以来の変動期にあるのではないか、というのはそこまで確信を持って合点しているわけではないのだけど、そうなのだとすると自分の不安やよるべなさは、いつの時代にもあったものだろうし、今だからあるものでもあるだろうし、持ってもしょうがないよねと言える気がする。
…言語や言語で批判する結果、言語の埒外の領域を括り出し、これを「言葉を超えた心理」と言い切ってしまえば、それはまさに形而上学的実体を呼び込むことである。この危険を回避するには、言語化が必然的に引き起こす実体視に対して、禅定で確保された実存の視座から、言語による批判を不断に続ける以外にない。その徒労の切なさに耐えるしかない(p.120)
というところ、すごく同意、、徒労の切なさ、そうなんです。。
自身の浅学により難しい箇所もあったけれど、全体的に読みやすく、良かった。
「無明」とは、「非我」「無我」を「我」に錯覚する、言語の根本機能のことだと考えれば、これは直ちに、現にここにいる「自己」の構造分析になる。(p.51)
では、言葉の意味とはなにか。…対象ではなく対象との関係の仕方である。「机」は、我々が机として使う、そういう関係の仕方を意味している。であるにもかかわらず、それを「机」と名付け、その関係の仕方(=意味)が他人と共有され、そう教育されると、あるものが最初から「机」に見える。結果、「机がある」ことになる。これが「妄想」のメカニズムである。(p.69) -
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南先生が永平寺から恐山に赴任してからの7年間の間に見て、聞いて、考えたことを一般人への講演としてまとめたもの。
恐山は死者を弔い出会う所として最も有名な地であり、そこは今までの仏教教理が及ばない場所である。
本来、仏教では特に原典に近い禅宗では死後の世界は語らず。とするのが公式見解となる。
しかしながら目の前には、死者に関わらないと崩れ落ちそうな人がやってくる。
この事態にどのような解釈を考えれば良いか。
そんな事を主眼に置きながら、死者の弔いに訪れる人々との交流を通じて、生きることの本質、この世に生を受けたものとして背負い事について深く洞察している。
仏教に興味が無くても、人生について考えたい人におすすめの一冊。
強く心揺さぶられた内容は多すぎて割愛。 -
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ネタバレ帯にある通り「どうしようもない感情」が少しスッキリする
3章に出てくる「淡い関係」の人こそ私が大切に思っている人なのかもしれない
思えば私は自分という人間を見せるのが苦手で、人のことを心から信用することなどできたことがない
けれど「淡い関係」にあたる人たちには弱音を吐いたり、心の奥底の不安をポロッと話してしまう
人に心配や迷惑をかけるのが1番恐れていることなのにだ
話した後に後悔することが多いが、それでも淡い関係の人たちは私を見る目を変えることなく心の隅にいてくれるのだ
そんな淡い関係の人たちが大切であるということに気づくことができた
淡い関係の人たちに恵まれている自分はとても幸せだ
また作中に「家族にも日々のいたわりや心遣いを示す」とあるが、私の実家はこれが不足している
あいさつもなければ、感謝を示すこともない
ただ1人私だけが自発的にあいさつをする
私はそんな空間を無意識に息苦しく感じていたのだろう
その事に気づけただけでも自分を知ることに1歩近づけたような感覚がする -
Posted by ブクログ
著者のこれまでの本と同じ思想が、雑誌向けの柔らかい言葉遣いの中に貫かれており心地よい。これまでと同じ思想、と言うのはこの場合良い意味で、これまでの著作で語られた内容が変わっていない、と言うのは、確固たる信念と思想の根幹は変わることなく、語り口を少しずつ変えながら現れているだけ、という事を感じ取れるから。そして雑誌向けの言葉であるが故か、著者の人間に向ける優しい(と一口で言うのは僭越だが)視線がより感じ取れる。
中でも、「無駄な時間を取り戻さなくてはならない」「取り戻した無駄な時間を何かで埋める事を急いではならない」が特に響いた。
生は一切皆苦であり、生は他人から勝手に課せられたものでしかなく、生にも死にもそれ自体に付与された意味がないのならば、その意味を問うことに執着せず、意味を自分で与える事を考えなくてはならない。
付与された意味がない生ならば、それ自体は無駄である。あるかのような「生きる目的」を錯覚するのでなく、無駄な生という事を受け入れて、その上で意味を付与すると決意できるかどうか。
確かに、「生きているだけで大仕事」なのだろう。でも、一度そう思う事で、「好きで生まれたわけじゃない」という重荷を降ろしてやる事は、結構大事なのでは。少なくとも、社会貢献の名で人生を盲目的に塗り潰し続けるよりは、一度万事を休息して見ることは大事に思える。たとえ、生きている意味に疑問を今は持っていないとしても。それが「自分を見つめる」と言うことではないかと思う。 -
Posted by ブクログ
南直哉さんのファンや。これ何冊目やろ。彼の坊さんらしくないところや彼の哲学が好きや。
そもそも僕らは生まれとうて生まれてきたんとちゃう。問答無用にこの世界に投げ出されて、一方的に体と名前を押し付けられて「自分」にさせられた。不本意なままあらかじめ人生が始まってしもうた。
これは重荷に違いあれへん、生き始めた最初からすでに大仕事になってるやん。その重荷を投げ出さんと今までよう生きてきた!その事実だけで大したもんやで。
せんとあかんことなんて何もあらへん。生きる意味や目的や理由なんか誰にも知らされてへんし、何かの役に立つために生まれてきたんでもないし、ま、生きてたら何かの役に立つこともあるにすぎひん。無駄な時間と無駄な自分があるだけや。せやけど、その無駄をあえて受け入れて、人生を持ち堪えるために、無駄の上に意味をおいて謙虚に考えることが尊いことやねん。自分は何を大切に、何を大事に思って生きるんか?
でもこの世には自分の力ではどもならんことがある。そんな時は「しゃーないなぁ」と思い切る。ギブアップとちゃうし逃げるんちゃうし、とりあえずやり過ごして切り抜けるんや。こだわったり執着したらあかんで。「しゃーないなぁ」は過去と正解を捨てる決意。僕らはしゃーなしに生き始めたんやからしゃーなしに生きたらええし、それが生きるための大事なテクニックやねん。
って直也さんが言うてはります。
他にもいっぱいおもろいこと言うてはんねん。 -
Posted by ブクログ
30代の頃、小池龍之介さんの著書に傾倒したことがある。
キャリアというか、職場での「これから」を結果的に無くしてしまう、理不尽に損なわされる過程で、味わわねばならない苦しみから逃れたくて、縋ったのかもしれない。
「自分」が空しいものと悟り、煩悩から解脱するためには、何かを知ったり理解したりするだけでなく、坐禅などの修行で智慧を「体得する」必要がある、ということが著されていた。
一度は、坐禅会にも参加してみたのだが、時間をかけて修行することは、何か緩慢な自殺行為にも思えて、冷めてしまったことがあった。
この本は、その坐禅、修行などで、なにか最終的に解決、ということを否定しているところが、今の自分にとってすっとくる。
そういえば、小池さんの本に冷めてからもう15年ほど経ってしまった。いろいろなことが変わった。
十分に書かれていることが、一読で理解できたとは思えないが、何度か読み返して、よく考えてみようかと思う。