南直哉のレビュー一覧

  • 善の根拠

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    ネタバレ

    善の定義としては、一般には大きく2つに分かれる様に思う。一つはある絶対的な、ないしアプリオリな規範があり、それに近づくほど善、それから離れるないし規範が欠乏するほど悪、とするもの。もう一つは2つの両極端の間を善、とするもの。
    前者は一神教や独裁がそれに当たり、後者はアリストテレスの倫理体系や古代中国の道教、中庸で説かれる思想等が近いか。いずれも、自分以外の何処かに善の参照点を置き、それを前提にしているように思われる。
    この本は、どちらの立場でも解釈出来ない論理を掲げているように思われる。著者の他の書に見えている思想と根本は同一ながら、かなりラディカルな思想ではないかと思う。この人の本が好きなので、らしいとも言えるが。
    著者は、そもそも外部的な論理や倫理に善の根拠を求めていない。先の後者の倫理体系ですら、社会や他人との関係の中で様々に変わる中間点を模索する事がキーだと思うが、この本では、善とは自己を引き受け、生きる事を選択する事と解釈している。
    この部分だけなら、汎用的な規範や他者の決めたルールは必要ない。ただ、著者の言う自己とは他者からの働きかけの集大成として形成されるものであって、自己それ自体は自然発生的には存在し得ない。自分なりに理解すれば、自我の境界線の外側にある他者が先に決まり、その線の内側を仮に自己とするしかない、と読める。そこで、自己を引き受ける事が善であるなら、その否定、つまり他者からの働きかけという構造の拒否や他者を顧みない自己の認識が悪、という事になる。
    それ自体では独立して存在し得ず、他者によってしか作られない自己をあえて引き受ける事から、善と呼ぶべき何かしらが生まれ得る(必ず生まれるわけではない)。だから自己の引き受けの放棄はすべからく悪だし、自己の必要条件である他者が自己を引き受ける事の妨害、すなわち殺人や障害は悪、となるのだろう。
    たしか、著者の「老師と少年」にあったと思うが、生きる事それ自体が良いことでも、生きれば必ず良いことが生まれるわけでもない。ただ、全ての良い事は生きる事からしか生まれ得ない。生きられた生が、良きことを生み出すことがある、というだけでしかない。そう言う意味では本書で述べられているのは善そのものでなく、前提条件という意味でのまさに善の根拠、なのかも知れない。
    禅僧の修行が、必ずしも悟りに至れるという確証がある訳でなく(涅槃が定義出来ない以上、やむを得ない)、ましてや確定したスキームがある訳でもない中でひたすら帰依を繰り返していくこと、それ自体が尊く善きことであるとするなら、これはある面において人生そのものでは無いか。
    自分としては、これを信じれば幸せ、あれをやれば人生安泰、という考えよりはよほどしっくりくるし、ある意味では自分の人生を自分で作っていくしかない、という点では安心できる考え方だった。

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    2024年03月12日
  • 仏教入門

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    読みやすく、とても面白かった。思想編の無明の発見を元にすると仏教への理解への手がかりとなるようだ。最後の涅槃が知り得ないため、の者となると信じて仏道に励むことになり、先日読んだ浄土真宗とつながると思った。

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    2024年01月24日
  • 仏教入門

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    悟りとは、静的状態ではなく、死の受容に向けた運動であると著者はいう。この結論はとても腑に落ちた。

    座禅を身体技法として突き詰めると身体状態として言語から離れられること、ただ、それ自体は「悟り」ではないという。

    また、経典に記載あるブッタの悟りとは「無明」(無常、無我)の発見ではないかという主張。ここで、この悟り(無明の認識)は、ゴールではなく、先の悟りへのスタートラインであるという。

    禅宗の僧侶として、仏教自体を「手段」として、「実存」を考える著者ならではの見解だと思う。
    私自身はとても共感した。

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    2022年12月09日
  • 「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本

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    「夢や希望がないと人生がうまくいかないのでは」となんとなく焦りを感じる方にオススメの一冊。本書を通していえることは、生まれたいと思って生まれたのではないのだからうまくいかなくてあたりまえ。後ろ向きだなと思いますか?それはおそらく「親を選んで生まれてきました」と言われたほうが前向きでうれしいからでしょう。

    ●後悔は抱えたまま生きればいい
    「後悔のない人生にするには?」がキーワードの本が書店の店頭でよく見かけます。1回きりの人生、コスパの良いものにしたいに決まっているからです。でも、立場上たくさんの人を見送ってきた著者が断言します。「死ぬときに後悔が全くない人生を過ごした人はいない」。だから「ああすればよかった」と後悔して大丈夫なのです。さらに、後悔の気持ちは存分に感じたらなくなるそうです。だからその気持ちを無理に消そうとしなくて大丈夫という言葉は安心感がありました。また、同様に、悲しみも十分悲しむことが大切とのことです。

    ●何をどうしたいかハッキリさせる
    禅僧である著者への相談者でよくあるのが深掘りしていくと答えられないパターン。答えは簡単な所にあったり、少し行動するだけで得られる事が多いそうです。何か困ったことがあれば何がどうなのか書き出してみると良いとのアドバイスは、自己啓発本にも紹介されることの多いアイディアです。

    ●本当の気持ちを話せるだけで人は救われる
    最近読んだ「ほどなくお別れです/長月天音」にも書かれていました。これは死者でしたが、本当の気持ちは話せる相手を元気なうちに探していくことが生きることの大きな支えとなるようです。その相手の候補として信頼できる僧侶を探すというのもひとつのアイディアということを理解できました。そうそう、その時、「宇宙」の話をしてくる人はNGだそうです。

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    2022年10月27日
  • 「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本

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    改めて、仏教の教えとアドラー心理学は重なるところが多いなと感じた。生きることか死ぬこと以外に大変なことなど無いというお言葉に思わず笑ってしまた。問題の大きさを見抜くうえで役立つ視点の持ち方だと思う。冷たい夢という考え方もなるほどなとも感じた。夢や妄想はどこか煌びやかで華やかだけど、現実ではない。だから、夢から"覚め"、酔いどれから"醒め"、彩から"褪め"、そんな"冷め"た夢と言う考え方は心のどこかで持っておかないといけないよなって。人なのでどうしても欲してしまうけど、それは不安の裏返し。末期の眼をもって見つめ直したいと感じた。

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    2022年10月22日
  • 「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本

    購入済み

    生まれた意味などない

    「人はたまたまこの世に生まれただけであり、死はいくら考えても誰にもわからない」
    すべて受け容れ、生きていたいなら自分がやるべきだと思う事をして、出来た縁を大切にすること。

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    2022年09月09日
  • 善の根拠

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    『人間においてのみ、善悪が問題になるのは、この「自己」が「他者」に由来するという矛盾と困難があるからだ。すなわち、そういう存在の仕方を「自己」がしているからなのだ。この矛盾を矛盾として、困難を困難として認識できるということ(すなわち、それが「ある」こと)は、「自己」と「他者」の関係性それ自体を認識できるということである。(略)「自己」という存在が「他者から課された」という構造によって無根拠に開始されてしまうということである。善悪はこの構造に対する態度のとり方の問題なのだ』
    あと、3回はこの本を読まないと!

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    2022年07月14日
  • 不要不急―苦境と向き合う仏教の智慧―(新潮新書)

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    不要不急というお題で仏教僧がコロナを通じて語る本。お坊さんといっても仏教との距離感はさまざま。不要不急というお題は殊の外いろんなことをあぶり出す結果となっている。
    …真言より禅、、、やな。

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    2022年07月03日
  • 覚悟の決め方 僧侶が伝える15の智慧

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    便利で豊かな暮らしをめざす。果たしてそれでいいのか?このままの暮らしをしていてはいずれ立ちゆかなくなるのではないか?

    大震災から今の生き方を問われているという話など考えていかなければならないと思いました。

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    2022年06月27日
  • 生死の覚悟(新潮新書)

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    高村薫の転換点が阪神大震災だったということは聞いていた。そこで体験した「自分が死ぬということを覚悟する」ことが、その後の「晴子情歌」「新リア王」「太陽を曳く馬」の福澤影之3部作に結びつく。影之は高村薫の分身であったことを新書の中で告白している。そうやってみれば、生い立ちやライフストーリーは全然違うが、いくつか思い至るところがある。

    南直哉は、禅僧であり、道元の生き方の体現者である。どこから私淑したのかはわからないが、高村薫は彼を「師」と呼ぶ。
    びっくりしたのは、高村薫の小説作法である。「マークスの山」の水沢がフォークリフトを手足のように扱う様や、「柿照」の野田の熱処理加工管理の頭の整理の仕方など、もう自ら体験するほどに取材を徹底したのだとばかり思っていた。この「仕事」の描写が高村薫の魅力のひとつだった。ところが、高村薫は「現実の企業や組織を描くときに、現実だから迷惑をおかけしないように、直接の取材は絶対にしない」と決めているのだそうだ。信じられないが、どうもホントのようだ。南直哉は、取材もされていないのに、福澤影之が4ー5点にかけて自分とソックリで「小説のネタ元」疑惑をかけられたらしい。高村薫は、芝居ではなければ(^^;)、その事実をこの対談で初めて知り、大いに恐縮するのである。

    阪神大震災から13年間迷いに迷って、たどり着いた境地が、「太陽の」のラストらしい。期待して読みたい。

    南氏のいう。人は「死んで物体としての『死体』となり、あるときから『死者』となってあらわれる」という死の表現はピッタリくる。死とは何か。生とは何か。

    ここで、宗教の観点から展開される「オウム批判」は、決してメディアでは展開されていない部分だが、重要な部分である。直接言及以外、この本そのものがオウム批判になっている。

    内容全体が禅問答みたいなところがあるので、読む人を選ぶと思う。私は道元を体現したかのような南さんの境地に至りたいとは思わないが、唯一「(信じるとは何かという問いに対して)私は賭けだと思ってやっている」(126p)という説明には、納得するものがあった。私は私の信条が「絶対正しい」とは思ってやっていないが、やはり「これは賭けだ」という意識が何十年も前からあったからだ。

    「私は今、次の小説の準備もあって、ずっと歴史の本を読んでいます。中でも仏教の歴史を振り返るにつけ、日本人はこれまで「宗教」とどのように対峙してきたのか-ということを考えざるを得なくなりました」(122p)と言っているのは、まさに新著「我らが少女A」の話だろう。だとすれば、やはりかなり思弁的なお話になるはずである。

    先ず次に読むのは、「太陽を曳く馬」だ。暫く後のことになる。

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    2019年07月22日
  • 「悟り」は開けない

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    大人になると、悩みがだんだん少なくなると思っていました。
    知識や経験が身に付き、自分が抱えている悩みが解決すると思っていました。
    しかし、現実はそうではなく、常に沸き起こる問題、
    そして悩みで潰されそうになる。一体どうすればいいんだろうか?

    著者のアプローチは、自分が抱える問題の「答え」を「真理」として知ることではなく、
    問題を「解決」する上での「方法」として、なんと、、、仏教に賭けた。
    つまり、覚悟を決めて、「よし、(自分の問題解決として)仏教でやるしかない」と決意して
    実行した(ただし、実行(出家)は、周囲との軋轢も反対も生む・それでも、解決したいという
    強い思いが、著者にはあった)。

    この考え方は、宗教に絶対的な「真理」や「救い」を求める大多数の人とは、考え方の根本のベクトルが違う。
    仏教はあくまで、ツールであると著者は自分で判断した。
    著者のこの考え方は、相当、個人が抱える問題を理解する上でも、解決する上でも、応用可能だと思う。
    多くの人は、そこまで、問題に対して、真摯に考えもしないし
    、その問題を理解したり、解決する上でのツールを探すこともしない。
    ただただ、悩むだけである。悩んでも、時間が過ぎるだけで、解決することは、決してない。

    どんな宗教だろうと、学問だろうと、知識それ自体は、自分の救いにはならない(と思う)。
    自分がそれらを「学び」、「どう考える」か、その能動的な態度が重要になる。
    仮に、出家しても、その行為自体が、問題の解決にはならない。
    著者の態度を別の言葉でいえば、強烈な問題意識を持っているになる。
    著者の問題意識は、非常に参考になる。
    裏を返せば、問題意識があれば、何とかなると思える。
    皮肉だが、強烈かつ深い問題意識は、悩みの深さやかけた時間に比例する、

    著者の言葉でいうと、真理だろうと何だろうと結構だが、それは自分の問題の解決に使えるのか?
    それこそ重要だった。

    どんな知識だろうと、それ自体は、何も意味がない。自分で使えるモノに解釈し、加工しなければならない。
    なんて、覚悟を持っている人なんだろうと思う。

    私は、「自分ができないと思っていることを、どうすれば、できるようにすればよいか。
    果たして、できないことは、できるようになるのか?」という悩みを抱えていた。
    この「くだらない悩み」のスパイラルに陥っていた。

    そのスパイラルの時、「どうすれば、できるようになるか?」を考えるだけで、肝心の具体的な「できないこと」に関するアプローチは、していなかった。時間ばかりが経ち、それでも、できないのは、なぜか、なぜかと考えていた。これは、笑い話しのようだが、本人は、真剣に悩んでいた。しかし、いくら悩んでもできるようには決してならない。

    やるしかない。自分の今ある能力で、できるようになると確信できるまで、やるしかない。友人にいくら、できるようになるには、どうすれば、いいかなと、アドバイスをもらっても意味がない。なぜなら、やるのは、本人だからだ。
    自分の問題と、友人他人の問題とが、100%一致することはあり得ない。共通する要素があるだけだ。その要素も、
    自分で理解しなければ、自分の抱える問題の解決には、役に立たない。

    「自分ができないと思っていることを、どうすれば、できるようにすればよいか。
    果たして、できないことは、できるようになるのか?」の悩みの回答は、一つしかない。
    どのようなアプローチをするにも、やるしかない。
    できるか、できないかは、自分で判断する必要はない。なぜなら、できる、できないは、
    自分では、絶対に判断できないからだ。それを決めるのは、あくまで、他者である。
    よって、自分は、ただただ、やるしかない。

    ただ、ただ、目の前のことを、やるしかない、できる、できないは、
    どうでもいい。そんなことに悩むの無意味。「できるようになる」は、
    未来のことだ。現在、できなくても、できるようになるためには、
    ただただ、やるしかない。

    著者の言葉は、こんな当たり前なことに気づかせてくれた。

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    2019年01月18日
  • 超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

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     「苦」に苛まれる「私」の外側に「God」という超越的存在を措定し、そこに救済を求めるのが一神教。
     対して釈尊は、絶対不変というものはない、正確に言えば、そのようなものを我々は感得することはできないと看破し(無常観)、自分の外側に解決を求めるのではなく、「私という存在」のありようを諦め(明らめ)ることで「苦」から脱することができると説いた。
     その境地が「悟り」と呼ばれるものだが、「悟り」がどういうものであるかは書き残されていない。
     種々の宗派はその無常観や悟りを様々なコトバで表現しようとし奮闘するのだが、コトバを駆使する限り、「無常」は表現できない。

     そのブレークスルーが著者にとっては道元だったらしいのだが、その辺りの消息は詳らかにされていない。
     ただ、釈尊と道元がいてくれて良かったと語るのみ。

     各宗派に対する著者のコメントには一々「ちょっと待ってよ」と言いたい部分はある。本書を以て仏教史を理解できたとは考えるのは危険だが、ここで述べられている仏教史は結論に至る過程でしかないので、それはそれで了解しても良いかな。

     同じ著者の「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」ほどの衝撃感はなかったが、引っ張り込まれる。

     本書は宗教というより、哲学書。
     著者は序文で言う。真理とかいったものはどうでも良い、自分に必要だったのは「人は何故死ぬのか、私とはどういう存在であるのか」という問いに答えてくれる、「使える」教えであった、と。
     「使える」というのは、「色即是空」の後の「空即是色」を指す筈だが、そこまで踏み込んでないのが、ちょっと残念。

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    2018年11月11日
  • 超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

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    ラディカルな論考。序章の1ページめから驚かされる。実存と超越、ぱっと見ると仏教書にしては変わったタイトルに感じるけれど、考えてみれば、仏教はずっとこの問題に向き合ってきたのだ。親鸞に関する論考は面白かった。自然法爾からあそこまで解体されるものなのか。釈徹宗先生あたりの意見も聞いてみたい。

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    2018年09月18日
  • 日常生活のなかの禅 修行のすすめ

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    南直哉師の初期論考を連読。『禅問答』は対話形式でしたが、こちらはモノローグでの仏教と曹洞宗の理解を深める内容で、時期が違っても同じく論じる一貫性に感服します。

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    2017年12月12日
  • 自分をみつめる禅問答

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    恐山の副山主・南直哉師による対話形式の仏教入門書と言えば聞こえがいいですが、プッダや道元禅師を超えて、縁起を基軸に非己があるからこそ自己があるとする仏教理解に沿って世間を再構築する試みには難解さがつきまといます。
    ここまでの理解にたどりつけるか、私自身に問われている気がします。

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    2017年12月11日
  • 「悟り」は開けない

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    生きる目的とか、幸せについてとか、答えを求める人にとっては物足りないのかもしれません。
    それでも僕のような、早い者勝ちの価値観にはついていけるけどノレない。
    一方で若者の無気力に違和感と、シンパシーを感じてしまう。
    そんな、時代の狭間の世代にとっては、大変面白く読むことができました。
    要するに今のままでいいんだ、と。
    夢と希望を追い求める時代は終わり、もっと肩の力を抜いて日々の喜びを噛みしめられることが何よりの幸せになる。
    読後、体が間違いなく軽くなる本です。

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    2017年09月12日
  • 恐山―死者のいる場所―

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    南直哉(みなみじきさい、1958年~)は、早稲田大学第一文学部卒業後、サラリーマンを経て、1984年に出家得度した曹洞宗の禅僧。曹洞宗大本山永平寺で約20年の修行生活を送り、2005年より恐山菩提寺院代(住職代理)。
    著者は、自分が抱えてきた問題である「死」について解決するすべを見つけるために仏道を志したと言うが、仏教の教えをあくまでも道具と捉えるスタンスは、僧侶としては異質で、周りから、「お坊さんらしくない」、「信仰がない」、「斯界のアウトサイダー」と言われると明かしている。
    その著者が本書では、「死」と「死者」について、また、その文脈の中で恐山のもつ意味について語っているが、自らが「一本の理屈の筋がきれいに通ったものではない・・・あえて言えば、「思ったこと」である」と書いているように、正直なところ、一度通読しただけで十分に消化できたという感覚は持てなかった。
    その中で、印象に強く残った、著者の「思ったこと」は以下のようなものである。
    「人間は、「あなたが何もできなくても、何も価値がなくても、そこにあなたが今いてくれるだけでうれしい」と誰かに受け止めてもらわない限りは、自分という存在が生きる意味や価値、つまり魂を知ることは、絶対にできません。・・・赤の他人が「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれるとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです」
    「霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には、「自分はどこから来てどこに行くのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに、人間の抱える欠落であり、生者に見える死の顔であり、「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです」
    「故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです。一番の供養は「死者を想い出すこと」なのです」
    「死者に会いに行ける場所であると同時に、それぞれがそれぞれのやり方で自分たちと死者との適切な距離を作ることができる場所でもある。それゆえに人はひきつけられる。恐山とは、そのような場所なのです」
    そして、2011年3月の東日本大震災の後に書かれたあとがきで、著者は、大震災以後の社会はこれまでの延長線上にはないとし、「霊場恐山は、いかにそこにありえるだろうか。私にいま、結論はない」と述べているが、「死」と「死者」について考えることに終わりはなく、自らそれを深めていかねばならないという思いを強くするのである。
    (2016年7月了)

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    2016年07月02日
  • 復興の精神

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    この本の企画がいいなと思った。
    有事のあとに、我々は何をするべきか、どう考えるか、、、ということを、新潮新書編集部が発したいというに対して著名人が正面から応えた…ものとなっています。

    養老孟司氏の著書は何冊か読んできていますが、この原稿だけでも氏の集大成のような感じさえしてしまうほど、明確で深みのある言葉だと感じました。

    また、普段のモヤモヤを南直哉さんの言葉によってスッキリできました。
    この両名が個人的にはとても面白かった。

    軽い気持ちで借りたけどすごく重みのある書だった。
    本当に、悩める学生たちに読んでほしい。

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    2015年11月17日
  • 恐山―死者のいる場所―

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    恐山の住職代理である僧侶が恐山の本質を説いた本。「死」について考えるうえで、様々な洞察を与えてくれる。
    恐山は、「もう一度会いたい 声が聞きたい」「また会いに来るからね」という生者の死者への想いによって支えられてきた「パワーレス・スポット」だという。死者は実在する。それは、幽霊や死後の世界があるというのではなく、死は生者の側にあり、生者の抱える欠落なのである。

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    2015年11月15日
  • 恐山―死者のいる場所―

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    1200年続く霊場、恐山。いつか行きたいところ。開山期間は5/1-10/31。結界門、宇曾利湖、四つの外湯、イタコ、無記、7/20-24大祭、地蔵会、地獄谷、賽の河原、極楽浜、魂呼び、あなたがそこにいてくれるだけでうれしい、パワーレススポット、永平寺のダースベイダー、獅子吼林サンガ、恐山には死者が実在する、一番の供養は死者を想い出すこと。

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    2014年07月21日