【感想・ネタバレ】『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことかのレビュー

あらすじ

われわれはどのように存在しているのか――人間存在根本の問いに『眼蔵』はいかに答えるか。ヨーロッパ現代思想も凌駕する画期的思想書に気鋭の禅僧が己の実在を賭けて挑む、現代人のための入門書にして決定版。(講談社選書メチエ)

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Posted by ブクログ

 久し振りに目を皿のようにして読んだ本。書き出し部分がタカピーな感じだったのでそのままうっちゃっていたが、気を取り直して読み始めた。
 確固たる本質のようなものが自分を離れたところに存在するとと考えてはならない。存在とか意味というものは彼我との間でその一瞬一瞬に生起されるものであり、何かしら永遠不変のものが独立してあるのではない。否、その「彼我」という概念ですら、対象が我を差し置いた存在としているが、それは誤った知見である。この一瞬一瞬の生起のことを著者は「縁」という言葉で表す。
 著者の解釈が全て正しいのかどうかは分からない。そぉ〜か〜?と首を捻る箇所も部分的になかったわけではない。
 それでも、「存在とは縁と縁の触れ合いによるものであり、固定したものの見方をしてはならない、山が歩くということもあり得るのだ」という指摘には背中がぞくぞくした。
 二十代の頃に正法眼蔵に一通り目を通したことはあるが、何一つ分からなかった。
 この本により「万物進みてこれを証する」という意味がやっと分かった気になれた。
 躓き躓き行きつ戻りつしながら読み終えるのに一ヶ月以上も掛かってしまったが、それだけの価値はある。

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2018年11月04日

Posted by ブクログ

『正法眼蔵』を、フッサールやハイデガーのものの捉え方を手がかりに読み解いたもの、という印象。仏教のものの見方の肝である「縁起」を軸にブレない読み解きを展開する。勉強になった。

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2017年02月26日

Posted by ブクログ

「Aは,それ自体に実体があるから存在しているのではなく,非Aとの関係するから存在している。」という「縁起」の考え方によって道元禅師『正法眼蔵』を解釈した本。
良い意味で入門書ではなく,仏教の基本的な知識が必要。
特に「因果」に関する部分は難解。
何度も読み返して「問い」を繰り返したい本。

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2015年01月11日

Posted by ブクログ

正法眼蔵の訳書、解説書は数多あり、また巻数も多くなかなか手を出せないでいたが、偶然とは言え、手に取ったのが本書で良かったと思う。何割理解できたかと問われれば答えに窮するが、一言で言うなれば「腑に落ちた」。以降、南氏の著作が続く。

再読201704
p29 (私訳) 諸法(我々が認識する一切を)の仏法なる時説(仏の目で見る=仏の言葉で言うなれば)、すなわち迷悟あり〜(「ある」が「在る」と同時に「なし」が「在る」=世俗諦)。万法ともに〜(この「在る」の世界から脱出するならば)、まどいなくさとりなく〜(こうした我々を誤らせる「在る」の世界が消滅する)。仏道もとより〜ゆえに(仏道はこの「ある/なし」が在る世界から出たもの(対岸にあるもの)であるから)、生滅あり〜(生/滅〜を外から見ている=勝義諦)。しかもかくのごとくなりと〜(そうは言えど、惜しまれつつ散るものを花と呼び、望まれず繁茂するものを草と呼ぶ)。
p31 机という関係の定型化は、それ以外の型の排除=「机として使おうとする主体(私)の働きかけ(期待)」と読みたい

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2017年04月15日

Posted by ブクログ

「正法眼蔵」、難解過ぎて嫌厭してた。存在するとはどういうことかという副題に引き寄せられ、つい手に取ってしまった。筆者もあとがきで書かれているように、フッサールのような哲学者の語り口に近い。
最後の最後に筆者の本音が垣間見れて良かった。

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2026年04月30日

Posted by ブクログ

『正法眼蔵』の「現成公案」の巻を中心に読み解くことを通して、道元の思想についての著者自身の解釈が提示されている本です。

著者は、『正法眼蔵』にかんして従来ひろく受け入れられてきた解釈の枠組みを「本証妙修」パラダイムと呼びます。これは、「ブッダの教えの正しさを本当に証明し会得しているということは、それをまさに修行しているという、そのことである」という解釈を意味しています。しかしこうした理解は、しばしば天台本覚思想において見られてきた、「ありのままが正しい」という発想に行き着くことになり、現状が否定を媒介することなく直接的に実体視されてしまうという問題がつきまといます。

これに対して著者は、「縁起」パラダイムにもとづいて、『正法眼蔵』を理解することを提唱します。これは、世界のあらゆる事物を実体視する見かたを排することで自己を解体するとともに、修行者としての自己を編成していこうとする考えかたです。著者は、前著『日常生活の中の禅』(2001年、講談社選書メチエ)において、自己が非己と出会い非己のもとにつねにすでにその身をさらしてしまっていることによって、実体としての自己を解体し縁起にもとづく編成された自己というありかたへの移行が生じると論じていました。本書でもこうした考えかたにそって、実体としての自己を否定する道元のことばの解説がおこなわれています。

さらに本書では、とくに因果をめぐる道元の考察を読み解くことで、修行者としての自己を編成する方法についての考察がおこなわれています。「不落因果」は因果を発無する誤りであり、「不昧因果」が世界の正しい認識だという解釈を、道元は厳しく批判しています。それは、正しい因果の理解によって悟りに達するという考えかたにもとづいており、それ自体が因果を実体視してしまっているからです。仏教は、「この世は無常だ。それで結構だ」と説いているのではなく、「この世は無常だ。では、どうする?」と問いかけているのだと著者はいい、因果を自己の編成の問題として受け入れることが、道元の思想の根幹だったと論じています。

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2026年06月11日

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