山本周五郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「雨あがる」
同名のあの映画が山本周五郎の原作だったのか。「・・・他人を押徐けず他人の席を奪わず、貧しいけれど真実な方に混じって、機械さえあればみんなに喜びや望みをお与えなさる、・・・」
「扇野」
おけいさん、尊敬します!
「鵜」
いつも喧嘩ばかりし、江戸から国許へ謹慎となった布施半三郎。謹慎となった身で、毎日川へ釣りに行ってしまう。ある日その川の上流から、女がなにも身にまとわず流れてくる。その日から、ひっそりと二人は会い始める・・・。
山本周五郎は雑誌の記事で知り、この選集で初めて読みました。江戸時代の町衆の人情や、侍や殿様として生きる姿、様々な階級の女の生活、そして恋情。
読みたい本リストに載せておいて良かったと思った著者でした。
今回は中短篇のみだったので、長篇も探しだして読もうと思っております。 -
Posted by ブクログ
表題の「あとのない仮名」の印象が強くて他を忘れる。
周五郎作品は主人公に辛く当たって最後に解放するというカタルシスのようなものを用意していることがわりと多いのですが、この作品はそうしたポイントがない。
世に拗ねた主人公であることは珍しくないけれど、その拗ね方に隙がない。一定の境地に達した完成された諦観を持っていてその拗ね方に、寂しさと不安を感じる。
この作品は周五郎の最晩年の作品らしい。
最晩年の作品として他に「おごそかな渇き」も読んだけど、あれもざわっとする読後感の強い作品だった。
あれだけ労働讃歌のような作品を多く残している周五郎の最晩年の作品で、そこへの諦観をこれだけ鮮やかに描くというのはどういう心境だったのだろう。 -
Posted by ブクログ
読み終わってうん、そうだね「長い坂」だったね。と思う。
主人公「三浦主水正(もんどのしょう)」が階級は低いが、志を胸に幼少の頃から学問に励み、周りからも認められ、藩の中で自分の役割を大きくして行く話。
最初はシーンの切替が多く登場人物が覚えられないのと、淡々と下積み話で読みづらいが、藩の仕事に携わってからはぐいぐい話に引き込まれる。しかし、つらい時期の話も長く、志高く生きるのは強い我慢が必要だよなとか、私も今のプロジェクトがうまく行っていないので、耐え忍ぶ時を共感する。
本著者は派手に良いという感じではなく、物語を積み上げ後半しみじみいいねと思わせる系話を書くのだねぇ。ラストも良かった。 -
Posted by ブクログ
(01)
普通には時代小説として読まれるだろう。また、文庫版の奥野健男の解説にあるようにビルドゥングスとして、また現代的にはサクセスのコツを含むビジネス小説として読まれるのかもしれない。
しかし、本書は文体論としても問題的なあり方をしており、驚きをもって読まれる。例えば、時系列あるいは空間系列に従うシークエンシャルな文脈の流れにあって、文脈から離れた回想や記憶の手がかりが、けっこう生々しい(*02)タイミングで突然に、普通のコンテクストからゆうとありえない角度からぶっこまれてる。こうした違和感のある文体、いってみればアバンギャルドな文体について、現代文学史の中では、川端康成の意想と比較しても面白いと思われる。
(02)
生々しさという形容から類推すれば、藩政時代の武家のエロスを会員制クラブあるいは秘密結社さながらの、魔窟な方面から描いてしまう件についても寡聞にしてちょっと知らない。戦国時代の女忍者や、中世の貴族、近世の町民や庶民(*03)といった典型ならあるあるなパターンであるが、そうではない時代と階級のエロスを描いている。主人公の夫婦関係や性愛のあり方についても異数(*04)といえるだろう。
(03)
匿名と顕名のありかたにも独特の徹底ぶりが発揮されている。つまり、名のない者が出てこないことの煩雑さのうちに物語が紡がれている。植物学の牧野富太郎が著者に範を垂れた雑木(*05)の有名性については有名なエピソードなのだろうか、本書での人名に対する偏執ぶりもかなり異様な部類に入るだろう。
この煩雑な顕名性は著者のポリフォニカルな語り口との関連で読まれてよいだろう。数章の並びの中に挟まれる断章あるいは幕間劇についても、脚本の柱のように立てられたシーンの下に繰り広げられる対話という構成は、神話的な情景すら帯びさせるにいたっている。
(04)
地の文にも面白味があって、普通の文体であれば、主人公が、云々と思った、何々と考えた、という構文なるところを、本書の場合、鉤括弧を付けない地の文で、科白のように言いかけて、やっぱり止めた、みたいな寸止め口調として現れている。科白にもなっていない、地の文にした主人公の思いでもない、宙吊りともいえるような、言いかけでやっぱり思いとどまってしまうこの寸止めな言葉については、近代私小説を解く鍵のひとつとなるだろう。
ちなみにこの寸止め感が主人公夫婦の寸止めな営みに通じることは言うまでもない。
(05)
植生を含む地勢という歴史地理の問題も含まれている。坂を呈示する標題からして地形地勢的であるが、橋、水路、山林、くぬぎの雑木を植栽した屋敷の趣味なども興味深い。エピローグとみなされる章で主人公はこれまで認識の外にあった緩い勾配に衝撃される。この一点をもってしても衝撃的な小説である。 -
Posted by ブクログ
(01)
普通には時代小説として読まれるだろう。また、文庫版の奥野健男の解説にあるようにビルドゥングスとして、また現代的にはサクセスのコツを含むビジネス小説として読まれるのかもしれない。
しかし、本書は文体論としても問題的なあり方をしており、驚きをもって読まれる。例えば、時系列あるいは空間系列に従うシークエンシャルな文脈の流れにあって、文脈から離れた回想や記憶の手がかりが、けっこう生々しい(*02)タイミングで突然に、普通のコンテクストからゆうとありえない角度からぶっこまれてる。こうした違和感のある文体、いってみればアバンギャルドな文体について、現代文学史の中では、川端康成の意想と比較しても面白いと思われる。
(02)
生々しさという形容から類推すれば、藩政時代の武家のエロスを会員制クラブあるいは秘密結社さながらの、魔窟な方面から描いてしまう件についても寡聞にしてちょっと知らない。戦国時代の女忍者や、中世の貴族、近世の町民や庶民(*03)といった典型ならあるあるなパターンであるが、そうではない時代と階級のエロスを描いている。主人公の夫婦関係や性愛のあり方についても異数(*04)といえるだろう。
(03)
匿名と顕名のありかたにも独特の徹底ぶりが発揮されている。つまり、名のない者が出てこないことの煩雑さのうちに物語が紡がれている。植物学の牧野富太郎が著者に範を垂れた雑木(*05)の有名性については有名なエピソードなのだろうか、本書での人名に対する偏執ぶりもかなり異様な部類に入るだろう。
この煩雑な顕名性は著者のポリフォニカルな語り口との関連で読まれてよいだろう。数章の並びの中に挟まれる断章あるいは幕間劇についても、脚本の柱のように立てられたシーンの下に繰り広げられる対話という構成は、神話的な情景すら帯びさせるにいたっている。
(04)
地の文にも面白味があって、普通の文体であれば、主人公が、云々と思った、何々と考えた、という構文なるところを、本書の場合、鉤括弧を付けない地の文で、科白のように言いかけて、やっぱり止めた、みたいな寸止め口調として現れている。科白にもなっていない、地の文にした主人公の思いでもない、宙吊りともいえるような、言いかけでやっぱり思いとどまってしまうこの寸止めな言葉については、近代私小説を解く鍵のひとつとなるだろう。
ちなみにこの寸止め感が主人公夫婦の寸止めな営みに通じることは言うまでもない。
(05)
植生を含む地勢という歴史地理の問題も含まれている。坂を呈示する標題からして地形地勢的であるが、橋、水路、山林、くぬぎの雑木を植栽した屋敷の趣味なども興味深い。エピローグとみなされる章で主人公はこれまで認識の外にあった緩い勾配に衝撃される。この一点をもってしても衝撃的な小説である。