336P
宮本常一誕生日同じ
宮本常一の忘れられた日本人の命懸けでキンタマのデカさを自慢してくるタヌキが出てくる所好き。面白すぎる。
宮本常一の忘れられた日本人の良さは、性を奔放に楽しむ日本人の野蛮な描写は"美しい日本"のメッキが剥がれるから、現代の"似非保守"にも都合が悪いし、"女性は性搾取にされていた"ということにしたい"偽善的左翼"にも都合が悪い所だと思う。
宮本 常一
1907年、山口県周防大島生まれ。大阪府立天王寺師範学校専攻科地理学専攻卒業。民俗学者。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授、日本常民文化研究所理事などを務める。1981年没。同年勲三等瑞宝章
柳田国男・渋沢敬三の指導下に、生涯旅する人として、日本各地の民間伝承を克明に調査した著者(一九〇七―八一)が、文字を持つ人々の作る歴史から忘れ去られた日本人の暮しを掘り起し、「民話」を生み出し伝承する共同体の有様を愛情深く描きだす。「土佐源氏」「女の世間」等十三篇からなる宮本民俗学の代表作。 (解説 網野善彦)
「蚕を飼うようになるまで、このあたりで金になるものは、藍と茶と煙草と馬くらいであった。馬はたくさん飼うておりました。名倉馬というて、どこの家にも二頭や三頭はいた。十頭もいた家があります。田口から津具へぬけて信州へはいる伊奈街道も、稲武から根羽を通って信州へはいる飯田街道も、中馬*がたくさん通っていまして、その馬を名倉から出したもんであります。それで馬を家の中で飼うものだから昔から家が大きい。 藍もよいのができまして、それを筵に入れて海老まで持っていきました。買いに来るものもあった。買いに来るのは田口の谷五郎という紺屋でありました。稲橋にも紺屋があってそこからも買いに来ました。田口の紺屋は糸をそめるだけであったが、稲橋の紺屋は下の方から腕ききの職人をやとうて来て、糸ばかりでなく、しるしや模様もそめておりました。 煙草もよいのができました。山中でできたものはやにがすくなくて喜ばれたもので、これは吉田(豊橋)から買いに来ました。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「働く働くと申しましても、ただ牛や馬のように働くのはだめで 。 この村ではみな仲よく働きましたが、もとはただ働くだけのことでありました。どういうものか、この村にはオイコ(背負子)のある家は私の家のほかに二、三軒しかありませんでした。オイコをもたずに百姓するのはおかしいようだが、百姓家には大工道具というものがない。金といえば鍋釜に 丁、鍬、鎌くらいのもの、鋸や鉋やのみをもっている者はありません。その上近くに大工がなければオイコをつくってもらうこともできません。それである者のところへかりにいく。私の家にはオイコが二十近くもある。ところが、こわれたらこわれたままでかえす。こちらもたまったもんでありません。そこで私の親父が、「オイコを借るのもいい加減にせえ、自分の家でつくったらよかろうに、大工をたのまなくても、自分で工夫すればいい」と文句言いましたら、それですっかり村中がつくりましたなァ。そういうもんでありましょう。ところが一軒一軒でオイコを持つと、みなよく働くようになりましたなァ。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「そうでないものでも、本人同士が心安うなるのが多くて、親は大ていあとから承諾したものであります。はァ、申すまでもなく、よばいは盛んでありました。気に入る娘のあるところまではさがしにいって通うたものであります。しかしなァ、みながみなそうしたものではありません。一人一人にそれぞれの性質があり、また精のつよい者もあれば弱いものもある。精のつよいものはどうしても一人ではがまんができんという者もあります。あっちの娘のところへ通うた、こっちの娘のところへ通うたというのがあります。しかし、みな十六、七になると嫁に行きますから、娘がそうたくさんの男を知るわけではありません。よばいを知らずに嫁にいく娘も半分はおりましたろう。若い者がよけいにかようのは、行きおくれたものか、出戻りの娘の家が多かったのであります。はいはい、よばいで夫婦になるものは女が年上であることが多うありました。それはそれでまた円満にいったものであります。はい、男がしのんでいっても親はしらん顔をしておりました。あんまり仲ようしていると、親はせきばらい位はしました。昼間は相手の親とも知りあうた仲でありますから、そうそう無茶なこともしません。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「共同体の制度的なまた機能的な分析はこの近頃いろいろなされているが、それが実際にどのように生きているか。ここに小さなスケッチをはさんでおこう。これは周防大島の小さい農村が舞台である。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「 「昔、嫁にいった娘がなくなく戻ったんといの」「へえ?」「親がわりゃァなして戻って来たんかって、きいたら、婿が夜になると大きな錐を下腹へもみ込うでいとうてたまらんけえ戻ったって言ったげな」「へえ」「お前は馬鹿じゃのう、痛かったらなして唾をつけんか、怪我をしたら「親の唾、親の唾」って疵口へつばをつけるとつい痛みがとまるじゃないか。それぐらいの事ァ知っちょろうがって言うたんといの」「あんたはどうじゃったの」「わしらよばいど(夜 奴)に鉢を割られてしもうて 」 「今どうじゃろうか。昔は何ちうじゃないの、はじめての晩には柿の木の話をしたちう事じゃが 」 「どがいな話じゃろうか」「婿がのう、うちの背戸に大きな柿の木があって、ええ実がなっちょるが、のぼってもよかろうかって嫁に言うげな、嫁がのぼりんされちうと、婿がのって実をもいでもえかろうかちうと、嫁がもぎんされって、それでしたもんじゃそうな 」」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「このような話は戦前も戦後もかわりなくはなされている。性の話が禁断であった時代にも農民のとくに女たちの世界ではこのような話もごく自然にはなされていた。そしてそれは田植ばかりでなく、その外の女たちだけの作業の間にもしきりにはなされる。近頃はミカンの選果場がそのよい話の場になっている。全く機智があふれており、それがまた仕事をはかどらせるようである。 無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。 女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「どうも助平話ばかりじゃあいそがないのう。しかしわしは女と牛のことよりほかには何にも知らん。ばくろうちもんは、袂付をきて、にぎりきんたま(握り睾丸)で、ちょいと見れば旦那衆のようじゃが、世間では一人まえに見てくれなんだ。人をだましてもうけるものじゃから、うそをつくことをすべてばくろう口というて、世間は信用もせんし、小馬鹿にしておった。それでも、そのばくろうにだまされては牛のかえことをしておった。わるい、しようもない牛を追うていって、「この牛はええ牛じゃ」いうておいて来る。そうしてものの半年もたっていって見ると、百姓というものはそのわるい牛をちゃんとええ牛にしておる。そりゃええ百姓ちうもんは神さまのようなもんで、石ころでも自分の力で金にかえよる。そういう者から見れば、わしら人間のかすじゃ。ただ人のものをだまってとらんのが、とりえじゃった。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「なさる。「なめますで、なめますで、牛どうしでもなめますで。すきな女のお尻ならわたしでもなめますで」いうたら、おかたさまはまっかになってあんた向こうをむきなさった。わしはいいすぎたと思うて、牡牛を牝牛のところへつれていきました。すると牛は大きなのを立てて、牝牛の尻へのっていきよる。わしゃもうかけるほうに一生けんめいで、おかたさまのほうへ気をとられることはなかったがのう、牛のをすませて、おかたさまのほうを見たら、ジイッと見ていなさる。牡牛はすましたあと牝牛の尻をなめるので、「それ見なされ 」 というと「牛のほうが愛情が深いのか知ら」といいなさった。わしはなァその時はっと気がついた。「この方はあんまりしあわせではないのだなァ」とのう。「おかたさま、おかたさま、人間もかわりありませんで。わしなら、いくらでもおかたさまの 」。 おかたさまは何もいわだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
宮本常一『忘れられた日本人』。面白かった!主に昭和前半、地方に住む老いた男性の聞き書きで構成されている。東北地方と西南地方の文化の違い、識字の有無による語りの切り口の違い等、興味が尽きない。女性も伸び伸びと生きる知恵を持っており、文字通り今の私たちの忘れていることを教えてくれる。
宮本常一『忘れられた日本人』143ページまで。面白い!昭和二、三十年代の地方を徒歩で巡り、古い証文などを写し取り、老人たちから昔話を聞いて記録している。百姓が美声の持ち主だったり、村娘が洗練された踊り手だったり、嬉しい予想外の文化の豊かさ。#読書中
宮本常一『忘れられた日本人』179ページまで。地方に住む老人たちの聞き書きがとても興味深い。著者は優れた聞き上手なのだろう。昭和二十年代、明治の記憶が残る人々の語る土地の歴史と人生。今は都市部に住む私が正に忘れていた生き方。#読書中
『忘れられた日本人』
宮本常一
西日本の辺境、下層社会に生きる人々や老人の伝承を描く。北と風習は似てるが違いは貧しくとも自由で生き生きしているところ。土佐寺川シライ谷のシライとはシレエ(彼岸花)のこと。飢饉の時これを餅にして食べたらしい。動物も食べないほどまずいらしいが食べてみたい
忘れられた日本人
¥990 税込
宮本常一/岩波書店
文庫 336ページ
昭和14年以来、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907‐81)が、文化を築き支えてきた伝承者=老人達がどのような環境に生きてきたかを、古老たち自身の語るライフヒストリーをまじえて生き生きと描く。辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の舞台にうかびあがらせた宮本民俗学の代表作。
bokenbooks.com/items/60441437
宮本常一なんかを読む限りでは、昔の日本人って避妊方法もないままやりまくってる。
ヤリチンとヤリマン以前、貞操観念のない動物みたいな人が多い印象なんだけど、左翼にも右翼にも都合が悪いらしく、そういう「忘れられた日本人」には誰も触れないよね。
そんなに性欲自体が変わるのかなあ。
「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ」(『民俗学の旅』)
宮本一が父から授けられた「世間」を歩く際の心構え「十か条」の第十条
100分de名著
畑中章宏『宮本常一忘れられた日本人』
より
「 「おれのはどうだ」見ると、岩の上に腰をおろして前をひろげていますが、すごく大きいキンタマがだらりと下がっています。 「大きいのう」と言って、いきなり腰の脇差で、そのキンタマを切りつけました。するとキャッという声がして、そこには大きな古狸が死の苦悶をはじめていました。 こういう話はこの山中にはよくありました。百姓たちは谷の奥などで木を伐って焼畑をつくることがありました。そういう時、風もないのにすごいような風の音を聞いたり、また木の倒れる音をきくことがありました。これはこの土地から近い石 山の天狗や、黒森の天狗のしわざだと村の人々は信じていました。この付近には天狗のいる山は比較的多かったのだそうです。それが今ではどうも人臭くなったと言って天竺の方へとんで行ってしまったと申します。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「対馬ちうところは朝鮮へちかい。それで日本人が内緒でよく朝鮮へ人参を買いにいったものじゃちう。朝鮮人参ちうのはよくききもしたが、大そうな値のするもんで、手のひらいっぱいでも何両という値うちがあった。日本にはどうしてもでけんもんじゃから、内緒で買いにいったのよのう。それには銭屋五兵衛ちうのが大将で、加賀の銭屋か銭屋の加賀かちうて、加賀一番の大金持で、また大けな回船問屋じゃった。この人は対馬まで来るときは、日本の着物を着、日本の帆をまいてはしっておるが、対馬をすぎると、朝鮮の帆をまいて、朝鮮の着物を着て、朝鮮人になりすまして朝鮮へわたったちうことじゃ。銭屋はまァええとして、銭屋のまねをするもんが数知れんほどいって、対馬の役人の目をかすめては朝鮮へいく。どうにも手に負えるもんじゃなかった。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「祖父が死んでから盆踊りがみだれはじめた。あたらしいものにきりかえようとしたこともあったがうまくいかなかった。その豊富な昔話も私は十分にうけつがなかった。世間話はあまり持たぬ人だったが、その生涯がそのまま民話といっていいような人であった。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「 その頃まで芸人たちは船賃はただであった。そのかわり船の中で芸を見せなければならなかった。昔は遊芸の徒の放浪は実に多かった。それは船がすべてただ乗りできた上に、木賃宿もたいていはただでとめたからである。だからいたって気らくであって、いわゆる食いつめる事はなかったし、また多少の遊芸の心得があれば、食いつめたら芸人になればよかった。だから「芸は身を助ける」と言われた。芸さえ知っておれば飢える事もおいてけぼりにされる事もなかった。台湾へわたる船の中でも、そうした芸人たちが歌ったりおどったり手妻(手品)をして見せてくれるので退屈どころか、いつキールンへついたかわからぬほどだった。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「翁も十五になったとき、この一夜ぼぼへいって初めて女とねた。それから後もずうっとこの日は出かけていったが、明治の終頃には止んでしまった。 ところが明治元年には、それがいつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。それまで、結婚していない男女なら、よばいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。そういう制限もなくなった。みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことをしてはならんと、警察がやかましく言うようになった。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「その夏、隠岐島に国語教壇の講習会*があって、それに出席するため出かけた。そのまえに隠岐へは一度わたった事があり、その時十分見なかった牧畑などもできるだけこまかに見て来たいと思った。この旅で私は森脇太一氏に初めて うた。森脇さんもこの講習へ出かけた人であるが、おそろしくエネルギッシュな人で、もうその頃一〇〇〇ページをこえる大きな『邑智郡誌』という書物を出しておられた。森脇さんという人は学歴から言えば小学校を出ただけだったが勉強ずきで、独学で小学校の先生の検定試験に合格して小学校の先生になった人である。後に森脇という商家へ養子に行かれたが、根っからの百姓っ子で、百姓しながら先生をしていた。質素で勤勉で自分の力の出しおしみをしない人で、その上旺盛な知識欲をもっており、自分はまともな勉強をした事がないのだから、何とかしてよい先生について本当に生きた知識を得たいと思い、しかもその知識が自分にもまた子供たちにも役に立つものであるためには講習会などへいくよりは、先生に来てもらって直接指導をうけるのがよいと考え、家で百姓をして食う方は憂いのないものにし、月給をためて、それで島根師範から一人ずつ先生をまねいて、そのおともをして邑智郡内をあるきまわって実地について指導をうけたという。地理、歴史、動物、植物などあらゆるものにわたって郡内の自然人文現象を見、その見方を教えてもらい、かつ丹念に記録したのである。その費用はすべてためた金でまかなった。そしてその原稿が何千枚というほどになり、それをまた自分でためた金をもとにして、教育会などから若干の補助金をもらって出版したのが『邑智郡誌』で、森脇さんの二十歳から三十歳までの間の仕事であった。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「 「田中氏は既に七十歳を超える老人であるが、余裕綽々意気尚壮者を凌ぐ慨があり、談一度郷土の事柄に及べば談論風発一つとして知らざる事なく、夜を徹して語り、その博学と熱情とは訪ねるものをして驚嘆せしめずにはおかない。所謂地方の「生字引」として尊重される所以はここにあるのである。斯様にして「生字引」たらしめるのには理由がある。氏の「永久保存物目録」の序に「書き残す繰言」という題目の下に次の様な事が書いてある。「自分は幼少の時から何でも物を保存するという癖がある。そして学生時代から歴史的なものが好きである。(中略)今僕は若い時に書いたもの等出して見ても何の役にも立つものでもない。だがこれを歴史的に見ると、あの時はこんな事があった。僕が何歳の時にはどんな状態であった等という様な事を見るには矢張参考になる事がある。(中略)何の役にも立たない様なものでも歴史的に見れば、古くなる程面白味が出来てくるであろう」というのである。」」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「これは田舎にいて文字を解し、しかも百姓をしている老人に見られる共通した一つのタイプではなかろうか。地方をあるいていてこういう老人に う事は多い。その人たちは多くその故里を 愛している。しかし決して郷土自慢をしているのではない。酸いも甘いもかみわけた上で愛しているのである。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著
「高木さんの家を出るとき、高木さんは白米一升を袋に入れて、「一升くらいなら闇米としてとりあげられることもありますまい。これを持っておいでなさい。食うもののないところでは、これをたいてもらえばよい。なくなったら、また米のありそうな仲間のところへ泊りなさい」と言って下さった。 私は丘をこえて和田さんの家へいき、そこでお世話になって長友付近の調査をした。その夜であった。座敷で和田さんとはなしていると、「宮本さんいるか」と、土間の方から声をかけた人がある。高木さんの声である。台所の方へ出てみると、上りはなに腰をおろして高木さんはニコニコしている。」
—『忘れられた日本人 (岩波文庫)』宮本 常一著