横尾忠則のレビュー一覧
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横尾忠則さんを意識し出したのは、朝日新聞の土曜日の本のコーナーだった。以前から、名前やそれなりの作品は知っていたが、画家なのに文才があるなぁ、という単純な思いだった。。
そして、この本へ。
この本を読んで、今、思うこと。
三次元の世界だけで、生きていたら、もったいない!、っていうこと。
生命は、そんな枠組みにはまって生き方をしていたら、生命を享受してない、と今まで自分が思っていたことと合致するので、我が意を得たりという思い。
〈本から〉の抜き出しは、最小。もっともっと書きたかった 笑。
〈本から〉
いつも窮地に追い込まれると不思議なことにどこからか救助の手が差し伸べられる。このこともいつの間にかぼくの人生の特徴のひとつになってしまった。
実はぼくの内部に、このような破壊の衝動波が巻き起こす一種独特の快感を、心のどこかで歓ぶ危険な資質があるということも確かだった。
ぼくの想像における快楽とは様式の追求でもあった。様式の追求とは、つまり表現の可能性の拡大でもあり、自由の追求でもあった。
インドでの見るもの触れるもの全てがぼくを戸惑わせ、混乱させた。そしてぼくの中の価値体系に亀裂が入り、それをもはや押し止めることさえできないほどぼくは無防備だった。
ぼくはヘルマン・ヘッセの『シッタールダ』の生き方に共鳴する。
「画家になろう」
・・・(略)
ピカソ展
美術館の出口に立った時、ぼくは決断してしまっていた。「画家になろう」
ぼくはいつもこの「胸騒ぎ」を重視し、その衝動に従ってきたと思う。「胸騒ぎ」が生じると居ても立ってもおれない状態になる。ぼくの内部と外部がひとつになったような感覚だ。そんな時ぼくは「胸騒ぎ」を分析したりしない。なるべく即座に受け入れることにしている。
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2026年刊。『週刊新潮』連載「曖昧礼賛ときどきドンマイ」から47回分。
凄い、横尾忠則がまた新しくなっている。とぼけたタッチだけれど、論旨は明快。繰り言もない。老いのことも書いているのに、書き方が老いを感じさせない。
たとえば、ボーっと生きてんじゃねーよ、に対しては、ボーっと生きてもいいんじゃないの。断捨離ブームについては、自分の集めた物は自分の記憶、生きてるうちはどれも捨てるわけにはいかない。その生き方、その物言いが(私の場合は)ストンと落ちる。いつもながらのスピリチュアルも健在(これだけついていけないんだけど)。
傑作は、天皇・皇后陛下との懇談の回。23年11月、その席に招かれた。しかし、この時は重度の難聴。補聴器をつけてもうまく聴きとれない。こちらやあちらの編集者にしゃべらせてヒアリングの練習、でもうまくいかない。たまたま蕎麦屋にいた俳優の小澤征悦夫妻をつかまえて、その練習。そしていよいよ最高の緊張状態で、懇談の席に臨むのだが……
輪廻転生はあると言っているくせに、自分は生まれ変わりなんかしたくないという。どういうことなのか。でも、アートにしても朝日新聞の書評にしても、いまも新たな境地を展開し続けている。輪廻転生しなくたって、この世でちゃんとプチ転生してんじゃん。 -
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書評を通して、横尾忠則が読める。
朝日新聞掲載の書評、2009年から8年分、133冊。特徴的なのは、ネコ本の書評が5つ。美術関連の本に対しては、絵による書評もしている。「絵には絵を」ということか。
横尾は、若い頃にはまったく本を読まなかったという。読書環境にいなければ、それも当然。けれど、読める(もしくは読まねばならない)環境になって以降は、本気で読み出したようだ。
岩波少年文庫を解説した宮崎駿『本へのとびら』への書評がいい。70歳の古希を迎え、「幼い老人」として、児童文学に触れる人生の佳境に入ったとも書いている。そう、なにごとも遅すぎることはないのかもしれない。
いまも書評は健在。最近では地の文が白黒反転しているのや、エンボスふうのもあった。そしてなんと今朝、新聞を広げたら、上下が逆さま! -
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えー、なんで中野孝次で始まるの?
若い頃は本を読まなかったことを前面に出した自伝的エッセイ。読書が自分を形成したという中野孝次の対極に自分を位置づける。書名の『言葉を離れる』にもその含みがある。
横尾忠則は50代で『自伝』を著している。本書はその語り直し、もしくはその蒸留版か熟成版。個人的には、10代後半、高校卒業間近から神戸新聞図案係採用までの紆余曲折がおもしろかった。その曲折がいかにも彼らしい。
ところが、本書のもととなった「ユリイカ」誌の連載は、途中で言語障害(or記憶障害)になって、2年間のお休み。おそらく書名の『言葉を離れる』はこのことも含意している。幸いに、いまは復調。けさの朝日新聞にも書評を書いていた。
心酔していた三島由紀夫の章もある。三島邸に招かれた日のエピソード。行くと、澁澤龍彦らもいた。空飛ぶ円盤信者の三島。バルコニーに出て、目撃談を披露。「ほら、澁澤君、あの山の頂上に空飛ぶ円盤が現れたんだよ」。そこにお茶を運んできた夫人が言う。「あら、あなたまたウソついてんのね」。(和田誠風に言うと、横尾ちゃん、そこバラしちゃだめだよ。) -
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80年代のインドを著者が旅をした、その紀行文学。本作が他のありきたりな紀行文学と一線を画することができた、その最大の理由は、何よりも著者こと横尾忠則自身にあることはもはや自明の理であろう。何故、そこまで魅力的な内容に仕上がっているのかといえば、時に精緻なまでにインド人、インドの風土を描写し、かと思えば、観念的にUFOや謎の光との遭遇をエピソードとして盛り込んでくる。いってしまえば、まとまりのなさだ。しかし、それが決してマイナスに作用するのではなく、横尾自身も感じたインドの現実離れした空間と、そこで起きた様々な現実離れしたエピソードと相まって、上手く昇華されているのが、本作の肝なのであろう。
とはいえ、そういうまとまりのなさが許される最大の理由は、著者であり、日本を代表するグラフィックデザイナーにして画家の横尾忠則という存在にあることは疑いようのないということは付言しておくべき事実であろう。