横尾忠則のレビュー一覧
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第1章 本当に死にそうだった―急性心筋梗塞で絵筆を持たなかった二週間
人生最大級の痛み、そして救急搬送
画家はアーティストではなく、アスリートである
痛みと恐怖
僕は病気と闘わない
第2章 僕も時々、死んだふり
生き物たちの「死んだふり」戦略
死亡通知と『遺作集』
自分のお葬式の夢を見た
自分の中の閻魔大王
ビートルズと三島さんに導かれて
下痢をしてインドがわかる
豊島横尾館は生と死の出会う場所
「死んだふり」はどこにでもある
第3章 面倒くさいで救われる
「面倒くさいことはやらない」主義
結婚は相手任せ、職業は運任せ
僕は人づきあいが苦手です
創作には「いい加減」が必要
頭を空っぽにするために
運命に従うか、逆らうか
自分は自分
第4章 新しい作品、新しい生き方
この年で手に入れた新たな画風
ハンディキャップが自然体
ダラダラアートと雲を眺める日
寒山拾得との出会い
寒山拾得は僕の精神的アイドル
「こんなん描けました」
自分の寿命、絵の寿命 -
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横尾忠則(1936年~)氏は、著名なグラフィックデザイナー、版画家、画家、作家。ニューヨーク近代美術館(MoMA)で現存のデザイナーで初めての個展開催、パリはじめ世界各地のビエンナーレでの受賞、ベルギー国立20世紀バレエ団のミラノスカラ座公演での舞台美術担当など海外でも活躍し、毎日芸術賞、紫綬褒章、紺綬褒章、旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞等を受賞・受章。また、初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞(2008年)、本エッセイ集で講談社エッセイ賞を受賞(2016年)。
本書は、月刊誌「ユリイカ」に「夢遊する読書」と題して2011~14年に連載(途中2年ほど連載休止)されたエッセイ18篇と、語り下ろしの1篇をまとめて2015年に出版され、2020年に文庫化されたもの。
内容は、連載のタイトルの通り、横尾氏の読書との関わりが通底するテーマとはなっているが、むしろ、横尾氏の半生を振り返った自伝的エッセイ集として読めるものである。
私は、ノンフィクションやエッセイが好きで、各種のノンフィクション賞、エッセイ賞を受賞した作品を多数読んできており、本書も、その流れで手に取ったもので、横尾氏のグラフィックデザイナー・画家としての実績等については、不覚にもほとんど知らなかったし、普通の会社員である私にとって、芸術家の世界・生活というのは最も想像し難いものの一つであったが、本書を読んで、ある意味驚きの連続であった。
特に、(若い頃の)「来るもの拒まず」という著者の姿勢がもたらした、幅広い分野での活躍と、様々な著名人との交流(登場するのは、三島由紀夫、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、寺山修司、モーリス・ペジャール、ジャンニ・ヴェルサーチ、黒澤明ら限りがない)、そして、それらから派生した数々のエピソードは凄まじい。
また、美術(芸術)に興味のある、或いはその道を志す人にとっては、横尾氏のキャリアや考え方は一つの参考になるものなのであろう。横尾氏のいう芸術とは、ひと言で言うなら「極めて肉体的なものであり、言葉で表せないもの」ということになろうか。
更に、もう一つの読みどころは、自己肯定感の強い横尾氏が、70代後半になって、話したり聞いたりすることに不自由を感じるようになり(連載の17篇までと18篇の間が2年空いたのはそのため)、自らの老化・死を否応なく意識するようになって綴った、最後段の生死観の部分であろう。結論的な見解が述べられているわけではないが、波乱万丈の人生を送ってきた芸術家が、どのような思考プロセスを辿るのかは興味深い。
世界的なグラフィックデザイナー・画家が半生を振り返った、興味深い自伝的エッセイ集である。
(2022年9月了) -
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2020年夏に刊行された本。コロナ後の社会の変化について。 人間、生命、歴史、国家、くらしと文化をテーマに21人の知性が語る。
インタビューと寄稿された文で構成されている。コロナが蔓延し拡大していた頃の見解なので、現在の視点で読むとやや違和感がある意見もあるけれど、総じてコロナをきっかけに、今後社会が大きく変化すること、先が見通せない不安がつきまとうことで一致している。コロナ発生から1年が経って、ワクチン接種が進んでいるが、なかなか終息しないのが心配。 経済活動は悪化しているが、でもマクロレベルでの指標と実態の乖離は、それほど危機的ではないように思う。 影響が出てくるとすれば社会構造の変化、人間の付き合い方の問題だろう。 この本は、賞味期限が短いと思うので、読むなら早めがよい。 5年から10年経って、彼らの予想がどうだったのか検証には使えるかもしれない。 -
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ラジオ「荻上チキセッション」が夕方に移ってから聞くようになり、荻上チキさんとはどういう人かと探していて行きあたった本。読みたいと思った人の章のみ読みました。
養老孟司:「不要不急とは」という、今回もまた若干ずれた感のある内容なのだが、この用語への同氏の違和感は、医者でありながら現場ではなく解剖をやっている自分、また現在の老人で公職にもない自分の存在は不要不急なのではという根本から生まれている。そこからさらに、人間自体不要不急なのではという話。この辺りは、前回読んだ氏のインタビューで、老人はコロナ禍を乗り切ったところで生き甲斐はあるのかという疑問と相反するようで通じるところがあり、面白いなあと思った。それにしても毎回若干ずれてるのに毎回養老先生が出てくるのは、よっぽど好かれているということなんだろうなあ。
五味太郎:絵本作家だからなのか子供にあたたかい視点。そもそもの教育が、子供の権利のはずなのに子供に失礼だというところから発し、不安だったのはコロナ禍のせいなのか、収束して非日常から戻った際の「日常」は(特に子供にとって)そもそもよかったのかという議論。学校はありがたいけれど、現行の教育に対する疑問や批判が帳消しにされるべきではないということなのだろう。これまたコロナ云々を超えた根本的議論。
荻上チキ:検察庁法改正(定年延長)が見送られたことに見る世論の動きの分析。良くも悪くも議論が単純化されることで世論が盛り上がるというところに、なるほどなと思った。
ブレイディみかこ:息子が受けた、コロナ禍でのアジア人蔑視発言から、各人が自分のなかにある偏見に気づくきっかけになったという話。分析する息子さんも、その発言を注意した級友も、なんとも冷静ですごいなあと思う。またキーワーカーへの拍手の要不要論も、それが次世代に残すであろう影響から反対はできないというブレイディさん、現在がそうこうで終わらせずコロナ後に続いていく、次世代を育てていくという先を見据えた視点にハッとした。
(お名前を失念):会うことが暴力という言葉になるほどなあと思った。だから「あつ森」のように会わなくて良い平和なゲームが人気になると。裏を返せば、会うことの暴力に対峙できない人の中に、その分の暴力をネット上で振るう人がいるのではないかと思わないでもなかったが、生身とバーチャルの違い=暴力・重力という視点が面白いと思った。 -
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最近インドづいているので、勢いで再読。
お友達として三島さん、篠山紀信君が出てくる。
インドは人間が風景を創造している。美しい柄のサリーをまとった女性や噴水が調和する。日本では人間が風景を壊す。えらい違いだ、と言っている。
グラフィックデザイナーとしてNYから発信していたのに、インドでひととしての本質を悟った、ということなでしょう。
本当に美しいところなのかもしれない。湖から日の入りをずっとみて、そのまま夜には星が降ってくる。そんなインドの自然を感じられる本(UFOもでてくるけど)。
いまのインドは横尾さんが感じたときのままだろうか。そうであってほしい。 -
Posted by ブクログ
せっかく国外で暮らしているのだし、日本語の鍛錬がてら私も何か書いてみようかしらとたまに思うのだけど、どうもどこの国でもこんな風に心震えることが無いので成立しなそう。
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息苦しくなったぼくは、ふと空を見上げた。路地から見える蒼い空は亀裂のように細長くどこまでも続いていた。そしてそこには白く輝いた真昼の月が浮いていた。ぼくの心は一直線にこの月まで走った。ぼくにとってこの時の月は現実からの避難場所でもあった。月まで届く梯子でもあれば、ぼくは本当に駆け登ったかも知れない。この月が日本で見るのと同じ月であることが、ぼくをどんなに安心させてくれたことだろう、ここはやっぱり地球だった……と。
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そんなこと思ったこと一編たりともない。インドに行ったことがないからか?