プラトンのレビュー一覧
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ソクラテス=無知の知 ぐらいの知識で読み始めたけど無知の知が生まれた壮絶な背景に胸を打たれた。
政治家になっていい暮らしがしたい、際限なく欲を満たしたい、と言う動機で弁論術を学ぶ事が流行するが、弁論術ってただのおべっか人気取り術じゃん、偉い人の機嫌を取ることと市民の票を獲得する事だけが目的になってるじゃん。
私たちが一番知識があって国をいい方向に運べますって顔してるだけで、実力や矜持は一切伴ってないじゃん。
というソクラテスの指摘がアテナイ全体に刺さりすぎたせいでソクラテスの存在は権力者達から疎まれるようになっていく。
作中でゴルギアスのアテナイでは知っているという事よりも知っていると周りに思われる事の方が重要だという言説が当時の雰囲気を物語っているし現代でも通ずるなと感じた。
一冊も本を書いていないソクラテスに変わって思想を紡いだプラトンとそれを現代まで伝えた訳者に感謝したい。 -
Posted by ブクログ
193P
プラトン
(Platon 前427~前347)ソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアのフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。
饗宴 (光文社古典新訳文庫)
by プラトン、中澤 務
このように、自分を愛してくれる人に身をゆだねるのは恥ずべきことだと定められた地域に、そんな定めがあるのは、それを定めた人々の悪しき性格が原因です。悪しき性格とは、すなわち、支配する人々の貪欲と、支配される人々の臆病のことです。これに対して、そのようなことは美しいことだと端的に定められている地域に、そんな定めがあるのは、そう定めた人々の精神の無能さが原因なのです。
ゼウスは、人間を哀れに思い、別の方法を思いついた。ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。じつは、それまで人間は、後ろのほうに生殖器を持っていた。そして、性交渉によって子どもを作っていたのではなく、まるで蟬のように、地面に直接、子どもを生みつけていたのだ。そこで、ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。そして、それを使って、男性と女性の間で行われる性交渉によって、子どもを作るようにしたのだ。なぜなら、そのようにすれば、男性と女性が出会ったときに、体を絡み合わせれば子どもが生まれて、種を存続させることができる。また、男性同士の場合でも、少なくとも性的な満足は得ることができるから、ほかのことを考える余裕ができて、自分の仕事をしたり、仕事以外の生活の心配をすることができるようになるからだ。
男性のうちでも、両性をあわせ持っていた性――すなわち、太古の昔に〈アンドロギュノス〉と呼ばれていた性――の片割れである男性は、女好きだ。そして、浮気性の男の多くは、この種族から生まれる。女性についても同様であり、男好きで浮気性の女が、この種族から生まれる。
女性のうちでも、太古の女性の片割れである女性は、男性に心を惹かれることがあまりなく、女性に心をよせる。女性同性愛者は、この種族から生まれるのだ。
太古の男性の片割れである男性は、男性を追い求める。このような男性は、太古の男性の片割れであるがゆえに、少年のころは成人男性に愛情を感じ、男性と一緒に寝て、その腕に抱かれることを好む。そのような者は、少年や青年の中で最も優れている。なぜなら、生まれつき最も男性的なのだから。
さて、少年を愛する人であれ、それ以外のどんな人であれ、自分の半身に出会うときには、驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る。彼らは、いってみれば、いっときたりとも互いのもとから離れようとはしない。彼らは、生涯を共に生きていく人たちだ。しかし、彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。しかし、彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ。
俺たちにはわかる。この言葉を聞いて、その申し出を断る者や、別の望みを申し出る者など一人もいないだろう。むしろ、自分の聞いた言葉こそ、まさに自分が望み続けてきたことだと思うだろう。すなわちそれは、愛する人と一緒になって一つに溶け合い、二つではなく一つの存在になるということだ。なぜなら、これこそが俺たち人間の太古の姿であり、俺たち人間は一つの全体であったのだから。そして、この全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそ〈エロス〉なのだ。
エロスがひときわ美しいわけをお話ししましょう。第一に、パイドロスよ、エロスは神々の中でも、ひときわ若いのです。この主張に大きな証拠を与えてくれるのは、エロスご自身です。なぜなら、エロスは老年から逃げ去る神なのですから。誰の目にも明らかなように、老年というものは足早なものです。事実それは、必要以上に足早に、わたしたちのもとを訪れます。しかし、このような老年を、エロスは生まれつき嫌い、距離をおいて近づきません。そして、エロスはいつも若者と共にあり、エロスご自身も若いのです。古き格言は、うまいことを言うものです――似たものは、いつでも、似たものの近くにあると。
わたしは、パイドロスの言葉の多くに同意しますが、エロスがクロノスとイアペトス( 61) よりも古いという点には同意しません。むしろ、わたしはこう主張しましょう。エロスは神々の中でもひときわ若く、そして永遠に若いのです。ヘシオドスとパルメニデスは、神々の間に起こった太古の事件について述べていますが、彼らの言うことが正しいなら、その事件は、エロスではなくアナンケ( 62) によって生じたのです。神々は互いに去勢し合い、縛り合い、またそれ以外にも、たくさんの暴力的事件が引き起こされました( 63)。もしそのとき、神々の中にエロスがいたとしたら、神々の間には、いまと同じように友愛と平和があったことでしょう。しかし、それはエロスが神々の王となってからの話なのです。
かくして、ポロスとペニアの息子として、エロスは次のような性格を持つことになった。第一に、エロスはいつも貧乏だ。繊細で美しいなどとは、とてもいえるものではない。(たいていの者は、そう信じているようであるが。)それどころか、エロスは硬くひからび、裸足で家もない。寝床もなく、いつも地べたに横たわり、戸口や道端で空を見上げて寝ているのだ。エロスは、母の性質を受け継いでいる。それゆえ、彼はいつも欠乏と隣りあわせで生きているのだ。
まず、エロスですが、この言葉は、主として異性間あるいは同性間の性的な愛を意味します。さらに、人間以外のものに向けられた欲求を意味することもありますが、その場合も、性的な愛から連想されるような、激しい欲望を意味するのが普通です。本作でも、エロスという言葉は、もっぱら性的な愛を意味しています。それを逸脱する例外的な使いかたをしているのは、エリュクシマコスくらいでしょう。
本作でのエロスを語るうえで欠かせないのが、 パイデラスティア(少年愛) と呼ばれる古代の性風習です。これは、成人した男性と成人前の少年が性的な関係を結ぶものであり、古代ギリシャ・ローマ世界に広く普及していた風習です。この風習は、同性愛に対して否定的な感情が抱かれることの多いヨーロッパ世界では、タブー視されてきたものであり、栄光ある古代ギリシャ文化の汚点と見なす人もいました。
第一に、パイデラスティアは、すでに述べたように、成人男性の間の性的関係を表わすものではなく、成人男性と少年との間に成り立つ関係を表わすものでした。成人男性の相手となる少年は、パイス(あるいはパイディカ) と呼ばれ、通常は一二~一八歳くらいの少年です。身体的特徴でいえば、頰に産毛が生えだすころから、あご髭が生えだすころまでが適齢期とされていました。
第二に、成人男性と少年の間の関係は、現代の同性愛におけるような、対等なものではありませんでした。両者の関係は規則に厳しく縛られ、成人男性のほうが主導的な役割を果たし、少年のほうは徹底して従属的・受動的であることを求められました。この関係は、成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)少年は、成人男性に奉仕する役割を果たさなければならず、快楽を求めることは禁じられていました。また、売春的な行為も、恥ずべき行為として厳しく禁じられていました。
現代における性倫理は、一般的には、男性と女性の間の対等な尊重関係にもとづいて成立する愛情を理想としており、そのようなものが自然で正常な愛だと考えられています。そして、同性愛は、このような正常な状態に対する、いわば異常で不自然な状態と見なされる傾向にあるように思われます。
しかし、古代ギリシャ人の愛は、そもそもそのような近代的な価値観の枠組の外にあるといえます。彼らの性的な愛は、そもそも対等な関係を前提してはいません。むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。彼らにとっては、このような関係性こそが重要だったのであり、対象が女性であるか男性であるかは二次的な問題だったといえるように思います。
プラトンは、アリストファネスを徹底的にコミカルに描き出そうとしていますが、われわれは、このような姿をアリストファネスの現実の姿とは考えないほうがよいかもしれません。本作では、アリストファネスは、アガトンのサークルの気心の知れたメンバーとして描かれています。しかし、じっさいには、アリストファネスは保守的な人物であり、その喜劇作品の中で彼らを辛らつに批判しているのです。『雲』という作品の中では、ソクラテスが胡散臭いソフィストとして登場し、若者を道徳的に堕落させる人物として描かれています。また、『女だけの祭』では、アガトンの同性愛の習慣が揶揄され、批判されています。
それでは、エロスとは何者なのかと問うソクラテスに、ディオティマは、エロスとは 精霊 だと答えます。ダイモンとは、神々に関係するさまざまなものや現象を意味しますが、ディオティマがここで言っているのは、神と人間の間にある超自然的な霊的存在のことです。ディオティマによれば、ダイモンとは、神々と人間の間をつなぎ、全宇宙を一体化させるものです。そして、占いや予言をはじめとする宗教的行為も、すべてこのダイモンを媒介として行われるのです。
このような説明に、われわれは違和感をおぼえるかもしれません。なぜなら、男性が宿している子、すなわち精子は、じっさいに生まれる子どもとは別のものだからです。しかし、われわれは、古代ギリシャの医学的な考えかたでは、精子と胎児は、われわれが考える以上に連続的であったことに注意する必要があります。すなわち、当時の一般的な考えかたでは、精子の中には胎児のもとのようなものが内在していて、女性の側から供給される同様の胎児のもとと結合して、胎児が形成されると考えられていたのです。ですから、当時の人たちにとっては、男性も子を宿しているのだという主張は、必ずしも奇妙なものではなかったと考えられるのです。
ご注意いただきたいのは、プラトンが二つの善の役割を区別しているからといって、必ずしも、その間に価値の上下を想定してはいないということです。一見すると、美しいものが、よいものを手に入れるための手段とか道具のように見なされていると感じられるかもしれません。しかし、じっさいの恋愛の場面において、男性が愛する女性のことを、子どもを手に入れるための手段とは捉えないように、美という善もそれ自体が一つの独立した善なのです。「よいもの」と「美しいもの」は、エロスのはたらきの中でその役割を異にする、同等の善なのだと考えることができます。
以上の図式は、心の場合でも、同様に成立します。ディオティマによれば、心の中に宿している子とは、知恵をはじめとするさまざまな徳です。そのような徳を心に宿す者は、しかるべき年齢になると、子を生むことを欲するようになります。身体の場合と同様に、その欲求は、美しいものを求める思いとなり、彼は美しいものを探し求めるようになります。すると彼は、美しい体、そして美しい心の持ち主に心を奪われます。彼は、美しい者にさまざまな話をしてやり、その者を教え導こうとしますが、やがて、子を生み、そして一緒に育てていこうとするのです( 14)。
愛情は、相手が美しいか否かには関係がないという反論があるかもしれません。しかし、ここで「美しい」「醜い」と言われているのは、世間一般の評価ではなく、愛する者の側からみた主観的な評価であるように思われます。つまり、ある男性が、ある女性に対して魅力を感じて惹かれるとき、そこに成立する肯定的な評価が「美しい」ということであり、逆に、嫌悪を感じたら、その否定的な評価が「醜い」ということになるわけです。この場合、「愛している」と「相手を美しいと思っている」は、ほとんど同じ意味であることになります。
比較のポイントは、外面の姿と内面の姿の違いにあります。ソクラテスの外面の姿は、美少年好きと無知です。彼は、いつも美少年につきまとっていますし、また、自分はなにも知らないと言っています。しかし、それは仮の姿だと彼は言うのです。じっさいには、ソクラテスは、相手の外面的な美しさや裕福さなどは軽蔑していて、気にも留めていません。また、ソクラテスが無知であるということも、アルキビアデスにとっては、事実ではありません。アルキビアデスがそう考えたのは、彼がソクラテスの内面に神々しい価値を見出したからです。それは、肉体的美しさのような世俗的価値を軽蔑する、節度をはじめとする徳でした。そのような神々しい徳の持ち主、そして美しい言葉で自分を魅惑する人物が、なにも知らないはずがないと、アルキビアデスは考えたのでしょう。
そのころ、アルキビアデスは、ソクラテスはじつは美少年の美しさなどは軽蔑しているのだということを知りませんでした。だから、彼の中に神々しい徳と知恵を見出したアルキビアデスは、自分自身を誘惑の材料にして、彼からそれを分けてもらおうとしたのです。そのために、アルキビアデスは、伝統的なパイデラスティアの作法に従おうとしました。すなわち、自分の美しい身体を彼に与え、それと引き換えに、ソクラテスに自分を教育してもらえると期待したわけです。
しかし、プラトンの描き出すアルキビアデスは、これとはまったく異なっています。アルキビアデスは、決して邪悪な人間ではありません。それどころか彼は、純粋で自分の気持ちに正直な人間的な人物であり、そして、そのような人間的な限界ゆえに失敗し、挫折していくのです。 このようなプラトンの描きかたを見れば、彼が単純にアルキビアデスを非難しようとしているのではないことは明らかです。むしろ、プラトンは、人間アルキビアデスがたどる運命を描くことによって、この現実の世界で、ソクラテスのエロスの道に従い、美の梯子を昇っていくということが、いかに困難で難しいことかを描こうとしているようにみえます。 -
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「たしかにそのとおりです、ソクラテス」
徳は教えられうるか? 徳とはなにか?ということについて考えてはいないから、良い議論ではないのだが……
徳は生まれ持っての性質というのが結論であったか?
「人は自分の知らないものをどうして探求できるのか」-想起によって。
想起説 「自分で自分の中に知識をふたたび把握し直すということは、想起するということにほかならないのではないだろうか?」
(世界にもともとあった真理を習得しただけで、思い出した、というのはね……)
魂の不死
ソクラテスによる形の定義……つねに色に随伴しているところのもの
色の定義を持ち出したら循環するだけよな。
少年奴隷とソクラテスの対話
実念論においては想起説を認めよう。
「メノン、どうやらアニュトスは怒ってしまったようだ」
実際に道を通ったことがなく、ちゃんとした知識を持っていなくても、正しい道へ行けた場合。p106
徳(アレテー)……卓越性、能力、すぐれていること
「徳は教えられうるか?」
これは、メリトクラシーの中での至上命題となるのは必至であった。
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プラトン著『ゴルギアス』。舞台は古代ギリシャ。哲人ソクラテスと雄弁家たちとの対話。賢人の論理が、弁士たちの誤った説得至上主義を打ち砕く。
ソクラテスによれば、最高の人生とは、純粋さと誠実さを備えた人生だ。雄弁な人間は一見偉そうに見えるが、実際のところその言説は悪人を改心させたりすることはない。説教とは人々の社会に変革をもたらし、民衆の命を救って初めて私たちに大きく資するものだ。
すべての人間は死ぬ運命にある。彼自身自らの人生を以て、理想の人生とは何かを示した。21世紀に生きる私たちは一度きりの人生をどのように生きていくのか。彼は、読者の心にそう問いかけている。 -
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名著。
古典で哲学書というと,複雑で難解なイメージばかりが先行しがちだが,プラトンの対話篇は物語のように読めるので非常に読みやすいのだなということを知れた。
また本書は新訳ということで,21世紀の現代に生きる私たち読者のために,なるべく平易で分かりやすい文章になるよう努められていることが感じられた。
脚注や解説などで,この書を書くに至った背景や当時の歴史的な事情などに対する理解を補助してくれているので,内容を掴み取るのに苦労することは殆ど無かったと言って良いと思う。
もちろん,一般教養としてある程度の世界史(古代ギリシア史)に対する理解や,哲学に対する予備知識はあった方が,理解が容易くなるのだろうとは思うが。
(※私自身,大学で哲学について学んでいたことと,最近世界史の勉強をやりなおしたりしていたので,この点はある程度楽にクリアできたのだと思う。)
さて,本作『ゴルギアス』は,弁論術(修辞学)に対する批判を主として展開したものと解されることが多いらしいが,訳者の中澤氏が解説で指摘している通りに,実のところ本質的な主題はまた別にあるのではないかと思う。
それは最も紙幅を割いている第三幕「カリクレス」において明らかだが,中澤氏が指摘するところの「政治的な生 対 哲学的な生」,もっと分かりやすく言えば,現実主義 対 理想主義であり,より言葉の正確性を期すならば,現実 対 真理,事実 対 真実という構図なのではないだろうか。
この世界の"現実""事実"として現れていることは,誤解を恐れずに言ってしまえば,いいかげんであり,時代や場所など前提となる条件が形成している価値観によって,いかようにでもその意義(意味や価値)は揺らいだものになってしまう。
しかし真実,真理というものは,時代や場所などの条件によって,意味が変化したり価値が損なわれたりすることがない,絶対的,永遠不変的なものだ。
そして政治とは,現実の諸問題について対処する現象や行為のことであり,一方,哲学は,万物の究極的な根本原理(=真実,真理)を追求する営みのことだ。
作中でソクラテスはこのこと(現実の相対性と真理の絶対性)を,自分が恋をしているふたりという喩えを用いて,こう述べている。
「クレイニアスの息子(のアルキビアデス)のほうは、その時々で言うことがころころ変わるのだが、哲学のほうは、つねに同じことを言うのだよ。」
さて,本作は解説でも述べられている通りに,単に古代ギリシアの歴史的な背景における,当時の社会的・政治的な問題を取り上げて批判したり,抽象的に事実と真理を対立させているだけにはとどまっていない。
何故ならば,作中でポロスやカリクレスが示すような信念・価値観は,21世紀の現代を生きる我々にとっては,まるで「当然」とでも言わんばかりに,通底してしまっているものだからだ。
たとえばだが,仮に,不正をする側とされる側のどちらか一方にしかなれないとして,どちら側になりたいかと問われたとするならば,現代を生きる我々の大多数は,不正をする側を選ぶのではないだろうか。
さらに言うならば,カリクレスが主張するように,その不正を様々な権力(腕力・賢さ・金銭力など)を用いることによって,罪に問われることがない,あるいは罰を受けることがないと規定されていたとするならば,より一層,天秤の傾きは不正をする側へと傾くのではないだろうか。
だが我々のこのような浅ましい思惑を,ソクラテス(と著者プラトン)は,清々しいほどの一刀両断の内に断ち切ってみせるのである。
それは本書の内容の大部分に該当するため,分量の関係上,ここでは詳しく述べることは不可能なのだが,簡易にまとめてしまえば,「正しい」とか「誤り」という信念や価値観は可変的なもので,揺らぎを含んでいるが,「善」とか「悪」という真理の方は,永遠不変のものであるということに尽きるのではないかと思う。
そしてこのような,カリクレスらも含めた我々が「正しい」と,「"絶対"だと思い込んでいた」物事が,実は「絶対では無かったのだ」ということに気づかされる,ソクラテスの対話・問答を通した論駁こそが,無知の知(不知の自覚)への喚起であるのだと,思い知らされるのである。
現代に通ずる問題は,不正をめぐる件だけにはとどまらない。
作中でカリクレスが露わにする,弱肉強食の自然原理,際限無く肥大化し続ける欲望を叶えることを信奉する快楽主義は,資本主義を掲げて自由経済による競争社会をひた走ってきた,現代の我々の魂を奥深くまで蝕み,巣食ってしまった巨大な病魔と全く同じだからだ。
そしてこのことは,インターネットで繋がる新たな形式の社会においても,なお一層苛烈さを極めて進行していっているように思われる。
たとえば,SNSにおける人々の承認欲求の発露などは,非常に分かりやすくこのことを示しているのではないだろうか。
ソクラテスは果てのない欲望について,作中で穴の空いた大甕に液体を充たそうとするくらいに,困難をともなう(無意味な)行ないだという喩えを用いて批判している。
(心を満たそうとするだけの欲望や喜びが)たくさん流れ込むとするならば,同じだけたくさん流れ出ていく(一旦は満たされたはずのところから失われるので,失うことによる苦しみが押し寄せてくる)はずだと。
以上のようなことからソクラテスは,人がしあわせに生きるためには,永久に満ちることがない欲望を充足させようとし続ける,快楽主義の生き方ではなく,節度をもった生き方,つまり「徳」を習得し,実践していくことを目指した生き方をしなければならないと提言している。
徳をもつことができれば,必然的に正しく善い振る舞いができるし,節度をもって自らの欲望を抑えることで,人に対しても適切な関係を築くことができるので,その間には友愛が生まれると。
反対に,承認欲求などの欲望を満たそうとする快楽主義な生き方は,他者を自分の欲望を充足させるための道具としてしか見ていないので,その間には競争と対立による支配関係しか生まれないのである。
さて,とは言うものの,徳をもつための根拠となる思想については,現代の日本で生きる私としても,なかなか馴染めないというか,100%理解しきれるかというと,難しいところはあるのが実情だ。
何故かというと,その根拠が神による魂の救済と粛清にあるため,宗教から縁遠くなってしまっている身としては,実感を得にくいからであろう。
だが,一方でこう考えることはできると思う。
科学技術がどれだけ発達しても,宇宙について理解できていることは,ほんの僅かにしかすぎないように,究極的に言ってしまえば,我々は何故宇宙や地球が存在し,何故生命としてのヒトが生まれて,今なお現存しているのかを,100%完璧には知ることも理解することもできない。
そうであるならば,逆説的に言って,(言葉としては悪魔の証明になってしまうのだが,笑)当然,「神が存在"しない"」とも言い切れない。
そしてそのことこそが,やはり無知の知(不知の自覚)を促し,真理へとつながっていくのである,と。
だからこそ,「神の存在を信じ切ることはできないが,信じていた方が"よりよい"」なと感じるし,私は徳を目指して,よりよく生きていきたいのだ。
おそらくだが私は,(ただのビビりの勇気無し,根性無しということもあるだろうが,それ以上に人の"善性"を信じたいという意志が強いからこそ),たとえ仮に「絶対に誰にも見つからないし,もちろん罪に問われることも,罰せられることも起こり得ない」という特殊状況下に置かれたとしても,悪いことをするのは,躊躇ってしまうのではないかなと思う。
そしてそのような人間だからこそ,ありとあらゆる欲望が渦巻き,露悪さが支配権を握っている世界の現実(事実)には,心が傷付き,絶望に伏して倒れそうになることが多いけれども,常に理想(真実,真理)を目指して歩んでいく,ソクラテスやプラトンのような人々の姿に励まされて,何度でも立ち上がって,前を見据えて向かっていくことができる,勇気や希望をもらいながら,生きているのだと思う。 -
Posted by ブクログ
著者・プラトンの師匠である哲学者ソクラテスが活躍を綴った、対話型の哲学書です。タイトルになっているゴルギアスは人名で、当時著名だった弁論家です。著作も残っているほどで、弁論術の大家として広く知られ、弟子も多かったようです。また、余談ですが、100歳を超えて天寿を全うしたという説もあるそうです。BC400年前後の古代ギリシャ世界時代って、どんなふうだったのかあまり想像できないのですが、ソクラテスが刑死したのが70歳ですし、プラトンが病死したのが80歳です。なかなか豊かな時代だったのでしょうか?
さて、本書は弁論術を批判する本です。それも、ソクラテスが屁理屈に近いような論駁を激しく繰り返されながら、しつこくそれに相対していく姿が描かれています。その様は、本書の帯に「怒りの対話篇」とあるほどです。では、引用を中心にしながら内容にふれていきます。
ソクラテスは、弁論家とは何か、との議論で「知らない者が、知っている者より、知らないひとたちのまえで、大きな説得力を持つ(p62)」とまとめています。対して弁論家ゴルギアスは言います、「ほかの技術などなにも学ばずとも、ただこの技術だけを学んでおけば、専門家にまったくひけをとらない(p62)」
この箇所はわかりやすいですが、もっと微妙なところを細心の注意で仕分けするように分析する議論が前後にあります。二千年以上前に考えられ書き残された考察が、まだまだ現代の問題を取り扱っていると、ここの箇所だけでも思いませんか。このあとさらに思考の範囲を広げながら、弁論術とはどういうものかをあぶり出していきます。
弁論術は、他人を支配するもの、言いくるめるもの、聴く者におもねり道筋をつけ誘導していくもの、とされます。ソクラテスが好むのはそういった「弁論術」ではなく、「議論」のほう。「お互いに学んだり教えたりしながら、うまく議論を終わらせるのは、容易にできることではありません(p56)」「このひとは議論に勝ちたいだけで、議論で問題になっていることを探求する気などないのだと思ってしまうのです。(p56)」としながら、そういった議論というものの理想形を目指しているふうなのが読み取れます。
最終の第三幕。ソクラテスがカリクレスにさんざん言われているシーンがあります(第三幕「カリクレス編」は序盤から丁々発止な応酬で、読んでると「うひひひ」というような笑みがこぼれてくるほど刺さってきてすごいです)。哲学なんて若者のすることでいい歳してまだ哲学しているなんて大人を見たら、あまりに大人げなくて殴りつけたくなる、と。
哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人間になっているし、社交場でのふるまいも知らなくて恥ずかしい。財産や名声を持つように励め、実生活を生きる技能を磨け、たくさんのよきものを持つものを見習うのだ、と、カリクレスはソクラテスに迫っていました。
カリクレスは、強い者が奪って何が悪いのだ、という考え方。また、不正をするほうよりも不正をされるほうが悪い、とする立場。この本の舞台、古代ギリシャでは不正はされるほうが悪い、というのが一般的ぽいし、今日でも、盗まれるのは本人が悪い、と特に外国ではそうなるなんて言いますね。日本でもそういう傾向はあるのではないでしょうか。
ソクラテスはカリクレスに、きみには知識、好意、率直さがある、と返します。たいていの人は、そうやって真実を話してなんかくれない、ぼくのことを心配してくれないからだ、と。つまり、ここではとてもシンプルに、「心配」は、「知識と好意と率直さ」由来の行いだと考えられるようにでてくる。
ちょっと横道にそれてしまいますが、「心配」ってなんだろうか、と考えていると、ソクラテスの返答って的を射ているなあと思いました。心配していることが興味や好奇心に見えるときは、その心配はおそらくこじれているし、憐みにまで感じられるときは、もっとこじれた心配なのではないでしょうか。興味や好奇心、憐みの情で見られたいとはなかなか思いませんからね。たぶん心配って、好意の段階でストップするべきなんです。
閑話休題。
引用していきます。
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カリクレス:(前略)ソクラテスさん。あなたは真実を追求するという。ですがね、これが真実なのですよ。つまり、贅沢をして、放埓に(欲望のままに)ふるまい、そして何ものにも束縛されないこと。[それを実現するための]しっかりとした後ろ盾を持つなら、それこそが徳であり、しあわせなのです。それ以外のあの飾りもの、つまり人間たちが自然に反して取りきめたことなんて、無意味で、なんの価値もないのです。(p188)
ソクラテス:(前略)さて、そんな愚か者たちにあっては、欲望で満ちた魂の部分は、放埓でしまりがない。それを見てとった彼(機知にとんだとあるイタリア人)は、その部分を穴のあいた大甕になぞらえた。いついなっても満たされることがないからね。(中略)そのような<秘儀を受けぬ者(=愚か者)>たちが、最もあわれなのだとね。だって、彼らは、穴のあいた大甕に、せっせと水を運び続けているのだから。しかも、同じように穴だらけの容器、すなわち、ざるを使ってね。(p190-191)
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→ソクラテスは、人間は節度を持ち、自分で自分に打ち勝って、自分のなかの快楽や欲望を支配することが大切だと説きます。それに対してカリクレスが上記引用のように、欲望のまま、思うままにふるまい、生きることこそがしあわせなのだ、とその考え方をストレートに表現したのですが、これは現代の経済偏重な考え方に鋭く通じていると思います(「神の見えざる手」を仮定して、人は自由にふるまえ、欲望のままに行動するんだ、と現代資本主義社会は経済学によってそう肯定されました。これによって、カリクレスのような考え方が再浮上した、みたいな現代だったりするかもしれません)。そしてソクラテスは、そんな考え方は、穴のあいた大甕と同じで、いくら注ぎ続けても満たされることはないのだと、たとえ話で論駁しています。
次にいきます。
__________
どうしようもなくろくでなしの人間は、権力者たちのなかから生まれてくるものなのだよ。もちろん、そのような権力者たちのなかに、すぐれた人物があらわれたとしても、なんらおかしくはないし、もしあらわれたら賞賛に値する。だって、とても難しいことではないか、カリクレスくん。だから賞賛に値するのだよ。なにしろ、不正をおこなえるだけの強大な力を持ちながら、生涯を通じて正しく生きるというのだから。(p316)
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→政治家は、その政治家的生において、だれかかから不正をされることや、自分が不正をしたときに罰せられてしまうことを最大の悪と考え、弁論術の力で、そうした悪から逃れようとするのです。自分の身を守ることが第一とするのが政治家的生なのでした(p390-391「解説」より抽出)。だから、上記の引用のように、政治家的生≒権力者からどうしようもないろくでなしの人間が生まれてくる、と言っているのです。
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それでは、政治家は何をなすべきなのでしょうか。ソクラテスの考えでは、政治家の使命とは、国と市民たちの世話をして、できるだけよいものにすることです。ですが、政治家はこの理念を実現できているのでしょうか。(p392-393「解説」より)
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→政治家が、自信の欲望を満たし、国を肥え太らせる、そのように奉仕するような政治家をソクラテスは非難します。また、見るべきところとしては、「国と市民たちの世話をして」だけではなく、そのあとに続く「できるだけよいものにする」が大切なのでした。前者だけならば、それも追従的な奉仕です。後者の、国も市民もよいものにしていく、というところが、それが良い政治なのかそうじゃないのかを見極めるポイントになります。
最後は、気になった部分をいくつか箇条書き的に記します。
p255前後。
「不正をする側が悪いのか、不正をされる側が悪いのか」と「哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人になっている」の別々の話題がひとつになる。自分で自分を守れないっていうのは、不正をされてしまうということにあたるのだ、となります。そして「自分のことも守れない」のところでは不正をされる側のほうが悪いのだという論調になっている。これは、僕のような人からすると、あまりにあんまりだなあという感想を持つ箇所です。
ソクラテスの言う「本当に悪いこと」は、不正をして、さらに罰せられないほうでした。つまりは、差別をしたり馬鹿にしたり殴りつけたりするほうがまず不正にあたるのだし、それが罰せられないでいる人こそがもっとも悪い。悪い、というのはもっとも不幸せな状態である、という意味でした。
あと、意外だったのが、ソクラテスは、音楽や創作を程度の低いものとみなしている感じですね。これは古代ギリシャ時代の価値観として強かったのかなあとも思いました。音楽なんかは「快」に関わるものだから価値が低いとされてしまいます(そう考えると、現代でもそういうところはありますね)。彼は節度の人ですから。自分自身の秩序が保たれていると節度が生まれ、節度があると他人にも適切にふるまうことができ、それゆえに、正しく、敬虔で、勇気があることになる、とソクラテスは考えます。そして、そういった人は、あらゆることをよくなすことができるので、しあわせな人間だとなるのでした。
というところです。
二千年以上前の古代アテネの状況を踏まえたプラトンが、本書『ゴルギアス』という布石を打ってくれたわけで、現在でもこういった弁論の問題ってあるなかで、二千年以上前のアテネの状況との違いはその布石があるかないかだと思うんです。だったら、大いに『ゴルギアス』は活かされるとよい本ではないでしょうか。
光文社古典新訳文庫版は文章が読みやすいし、注釈をその都度参照できて、わざわざ巻末まで辿らないといけないタイプではなく、親切なつくりなので、気軽な感覚で古典に親しみやすいです。おすすめです。 -
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2023/10/23朝日カルチャーセンター横浜の講義終了
通して「弁論術」そして「ソフィスト」とは何か(『ソフィストとは誰か?』納富.2015.ちくま学芸文庫を併読)の考察が深められたように思う。
対話相手の3者(ゴルギアスとそれに師事する二人)で、三様の結末と前者を受けての対話が連続する様、様々なテーマが折り重なりながらも「弁論術」の真偽を見極めんとし、政治、哲学、生き方を問いかける様が印象に残った。
結論的部分では、政治に密接にかかわる弁論術が、哲学的に意義のあるもの(良い弁論術!?)として立ち現れてくる可能性(『ポリテイア』等へ引き継がれるテーマ)が語られいた。
その場合、弁論術が想定する聞き手=大衆・民衆(デモス)との関係は、弁論術そのものの性質を左右する本質的なものではないだろうか?
また一方で、ソクラテス的対話(「不知」の地点に立つソクラテスの問いかけ)の対象である市民一人一人も、同時に大衆・民衆(デモス)でもありうるのではないか、その対話を「ありそうな(エイコス)」言説を用いずに遂行は可能なのだろうか、という考えも浮かんできた。 -
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ネタバレアンドロギュノスの話の原典が気になって購入してみた。
小難しい哲学書なのかもしれない…と少し身構えていたのだが、平易な文章で非常に読みやすく、登場人物それぞれの語り口も個性的で、文学作品として楽しむことができた。巻末の丁寧な解説のおかげで時代背景や文化の理解もしやすい。
「子孫を残すこと(体に宿す子を産む)・知恵や思想を遺すこと(心に宿す子を生む)、これらは不死性への欲求であり、エロスとは美しいものを永遠のものにしようとする欲求である。」という主張は、クリエイターである自分にとってかなり腑に落ちる考え方だ。
私は美のイデアに触れることができるのだろうか。私は美しいものを永遠に残すことができるのだろうか。
紀元前に書かれた本なのに、現代の私の心に深く問いかけてくる。読み終わったあとに、なんだか壮大な物思いに耽ってしまった。 -
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プラトンの本に対する書評などおこがましいので、書評ではなく純粋な読書感想を思いつくままに述べたいと思います。本書は1000年後も読み継がれている名著だと思います。
*日本語訳が読みやすいです。難しく、かつ微妙なニュアンスの表現をうまく日本語にされていて、本当に読みやすかったです。また巻末の解説が極めて有用でした。あの解説がなかったら理解度はかなり低くなっていたと思います。
*本書は「国家」という題名ですが、まず正義とは何かという命題からはいります。そしてそれを深掘りする過程において、理想の国家像を描き始めるということですが、テーマはかなり広く感じられます。ただ読み終わって改めて思い返すと、すべてが関連していたのだなということがうっすらわかってくるという感じでしょうか。本書は全編通じて対話形式になっていて、私自身ソクラテスの言っていることがよくわからないな、と思う個所があると、ちょうど対話の相手が「よくわかりませんが」と受け答えをしてくれて、ソクラテスが具体的な事例で説明してくれる(例:動物に当てはめたり具体的な職業で説明したり)というケースが何度もありました。
*上巻の最後では美を事例に、美の実在(イデア)と美をまとっているものの違いを理解できるかどうかが哲学者(愛知者)とそうでないものの違いである、と指摘されていますが、美に限らずあらゆる場面において本質は何かを理解できる力がいかに重要であるか、改めて痛感しました。
*最近読み始めた禅の思想とはまっこうから対立している面もあります。たとえば本書では「同一のものが同時に静止しまた動いているということはありえない」と述べられていますが、禅の思想では「ありうる」となります(「禅と日本文化」鈴木大拙、などを参照のこと)。ただしそもそも対立していると感じること自体がプラトン的であり、禅の思想では対立していないとみなされるのかもしれません。いずれにせよ、どちらが正しいということではなく、比較するのはおもしろいと思います。 -
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声のうるさくなったこの現在が煩わしくて、時にことばにすることが億劫でもう説明することが心底どうでもよいと思うことがある。
そんな中にあって、もう遠く離れた場所の時間も違う人間だというのに、おなじような感覚に出会うと、一周回って、あぁ、人間の歩みはこうも遅く進んでいくものなんだと思えてくる。ほんとうに生まれたての子どものように、少しずつ試し、失敗して反省しながら滅びまでの道を歩いていくことしかできない。それはどこか悲しく、どうにもならならい痛みを抱えて生きていくことだけど、この命の明滅を繰り返してひとつの線になっていくのだと思うと、それはそれで自分の魂の不滅というものが実感できる。自分の居場所が空けば、この席をまたきっと同じような人間が埋めてくれる。そうして魂は明滅を繰り返して続いていく。
一体そのとき魂が何をみて、何を感じ、何を考えるか、そのとき自分はもう死んでこの世からいなくなってるからわからない。だからこそ、今の人生がたまらなく愛おしく、そして同時に今の人生の端にある死を狂おしく願う。命が尽きるその時まで自分の魂を善いものにしたい。命が続く限り考えていたい。
ソクラテスにとっての生死とはそれくらい重要で、同じくらい無頓着などうでもいいことばだったと毒杯をあおいだ彼の迷いのなさが今ならはっきりわかる。またこの自分も同じところにたどり着ける。魂はまた生まれ変わる。 -
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説得を真髄とする古代ギリシャの技術である弁論術について、それを実践し広めるゴルギアス一派とソクラテスによる論駁の一冊。
ある分野において専門家よりも大衆を信用させることのできる弁論術が何事にも優って善であるとされる点から、彼らの熾烈な討論が始まります。
相手を信じ込ませるその技術に対して、それが持つ善の力を信じているゴルギアス一派と使用する人間によって異なると疑っているソクラテスは最初から対立しています。
今まさに目の前で言い合っているような彼らの息遣いが感じられる訳と筆致によって、夢中になって読み進めることができました。
弁論術の心得があると私生活でも仕事でも間違いなく役に立ちますが、他者への扇動や洗脳に悪用できることも理解しました。
使い方を誤ると戦争も起こすことができる凄まじい力を持つ技術、ペンは剣よりも強しです。 -
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「徳は教えられるか」、それ以前に「徳とはそもそも何か」という問いに導かれて、
それらの問いに答えることはできるのか、そのような問いにどうすれば多少なりとも答えられるか、という方法の問題にも話題がおよぶ。
想起説、仮設の方法、行動における正しい思わく、など、色々な話題が出て来て面白かった。
また、岩波版の先行訳と比べると、ソクラテスのモノローグとして対話篇を読むのではなく、ソクラテスが相手に合わせて話題や議論の進行に彩をつけている部分にまで注意をはらう近年の研究成果をふまえて、解説や訳文が作られている。
そのため、先行訳とは読んだ時の印象が思った以上に変わったことに驚いた。 -
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人と人とをつなげる方法として、文書や資本などの技法が発展していない時代、
顔の見える範囲で言葉をかわすことは、今とは比べ物にならないほど大きな役割を果たしていた。
その言葉をうまく使って人々を説得し、自分が望むように人々を動かす力である弁論術が、
劇中のソクラテスたちの会話の素材として取り上げられる。
弁論術は説得によって何を目的として求めるのか。
その目的を選ばせる価値観はどのようなものか。
その価値観をいだくような人の生き方はどのようなものか。
弁論術から始まり政治や人の生き方にまで話が及ぶ本書は、プラトンの中編著作の中では手頃なものだと思う。
(ただし、劇中のソクラテスの議論や主張には同意しにくい方に入ると思うが)
訳文は、対話相手だけでなくソクラテスもどこか感情的になっている節を感じ、
先行する岩波や中公の翻訳に比べて、対話が少しいきいきとしているような印象を受けた。
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エロスについて、ソクラテスらが語る饗宴(飲み会)。
この饗宴で主題となるエロス(愛)とは、基本的には少年愛のことですが、語るにつれて男女の愛さらには愛智(フィロソフィア、哲学)に及んでいきます。
エロスについて演説するのは、ファイドロス、パゥサニヤス、エリュキシマコス、アリストファネス、アガトン、そしてソクラテスの6人です。
始めの5人は、言ってしまえばソクラテスの前座なのですが、それでも興味深いものがあります。
中でも特筆すべきなのは、アリストファネスの人間球体説でしょう。
その昔、人間は男女の合一した存在でした。背中合わせの2つの顔、4本の手と4本の脚。しかし、神々を冒涜したために、ゼウスは人間を2つに割ってしまいます。
以来、男女はその半身に憧れて、抱擁し、子を作ろうとするようになりました。
これは、訳者によれば出典不明の譬え話なのですが、荒唐無稽な筋にもかかわらず何か納得させるものがあります。
こうした演説の最後にソクラテスが登場します。
ソクラテスは、エロスの対象の分析から始め、人間の欲求やその対象である不滅、美、智、善そのもの(イデア)へと話を広げ、その中に少年愛から愛智(フィロソフィア)までが位置づけられていきます。
この箇所は語りの展開が見事ですし、主題が一気にソクラテス=プラトン的になるので、私はぐいぐい読ませられてしまいました。
最後のアルキビヤデスの話は何というかアレだし哲学関係ない気もするのですが、愛智者ソクラテスが肉欲に対する自制心に満ちているというのは少し示唆的です。
全体としては、本文は100ページちょっとですし、予備知識もいらない(ギリシャ神話とホメロスの雰囲気を知っているとベターな程度)ので、古典の中では読みやすいと思います。
ギリシャ哲学は、ギリシャ語カタカナ音訳が耳慣れなくて敬遠しがちだったのですが、昨年から古典ギリシャ語を少しずつ勉強したところ、親しみをもって読むことができました。