プラトンのレビュー一覧
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哲学の入門書として「ソクラテスの弁明」と同じ程優しく読めると言われるプラトンの著作。
「徳は教えられうるか」というテーマで対話がすすめられています。
そして、魂の不死や想起についても触れられています。
「人間は、自分が知っているものも知らないものもこれを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」
というソクラテスの言葉が非常に不思議に思われます。 -
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「徳は教えられるか」を主に話しているが、一番面白かったのは、想起説。
ソクラテス:ぼくは徳とはそもそもなんであるかということを、君と一緒に考察し、探究するつもりだ。
メノン:なにであるかわかっていないとしたら、どうやってそれを探究するおつもりですか?もし、探り当てたとしても、それだということがどうしてあなたにわかるのでしょうか?もともとあなたはそれを知らないはずなのに。
ソクラテス:つまり、「人間は、自分の知っているものも知らないものもこれを探究することはできない。というのは、まず、知っているものを探究するのはありえないだろう。なぜなら、知っているのだ。ゆえに、その人には探究の必要がまったくない。また、知らないものを探究するということもありえないだろう。なぜなら、その場合は何を探究すべきか、ということも知らないはずだから」ということかね?
メノン:よくできていると思いませんか?よくないか指摘できますか?
ソクラテス:できる。というのは、僕は神々の事柄について知恵を持った男や女の人たち(たとえば、ピンタゴラス)から次のことを聞いた。すなわち、「人間の魂は不死なるものであって、ときには生涯を終えたりする――これがふつう『死』と呼ばれている――ときにはふたたび生まれてきたりするけれど、滅びてしまうことはけっしてない」。
このように、魂はいっさいのありとあらゆるものを見てきている魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてない。よって、徳というものが何であるのか、それがそうであるということは、わかるはずだ。ある一つのことを想い起したこと――このことを人間は「学ぶ」と呼んでいる――その想起がきっかけになり、他のすべてのものを発見することもありえる。つまり、探究するとか学ぶということは想起することにほかならない。
イデア論の根はこれかなーと思います。
たとえば、「生きる意味とはなにか」と探す。
でも、なぜ生きる意味があると思うのか?
それは、全くわからないものなのに。仮にわかったとしても、なぜそれが真であると思うのか?
ソクラテスは、ここで「魂」を出してくる(ここで面白いのが、ソクラテスはすべてのことを疑ったのに、「魂」の存在を疑わなかったこと)。
「人間の魂は不死であり、生々流転する。魂はありとあらゆるものを見てきている。したがって、魂がすでに学んでしまっていないようなものは無い。」
人間の魂。では、一番初めの人間には、誰の魂が入ったのか?
その魂は、どこで、ありとあらゆるものを見たのか?どこからきたのか?
疑問。魂なんていうものを信じていいのか!
さて、多くの哲学者は普遍的なものを探してきた。いまだに見つかっていない。
でも、なぜ、「普遍的なものが存在する」と思うのか?
わからないものなのに。もしその「普遍的なもの」が見つかったとして、どのようにそれが真だとわかるのか?理論?科学?
なぜ、それが理論的・科学的にわかるのか?
魂が知っているから、それを見つけたら思い出すんだ。
って考えると、なるほどなー。
(まっちー) -
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ネタバレ徳とは何か、どういう性質で人に教えられるものかどうかを探ります。
今回ソクラテスと対話するメノンは傲慢なところがなく好感が持てる青年です。
この話の中では、魂が既に学んだことを「想起する」という考え方が出てきます。
ソクラテスは言います。
「知らないものは発見することもできなければ探求すべきでもないと思うよりも、我々はよりすぐれた者になり、より勇気づけられて、怠け心が少なくなるだろうということ、この点についてはもし僕に出来るなら、言葉の上でも実際の上でも大いに強硬に主張したいのだ」
正しいか正しくないかはともかく、想起説を信じる方が実践において有益であるというこの考え方は好きです。
また、知だけでなく「正しい思惑」も人を正しい行為に導くものであると言う。
ソクラテスらは徳は知では無さそうだという結論を出しているから(これはプラトンの意見のようですが)、この「正しい思惑」が徳と密接な関係がありそうです。
そしてこれは神の恵みによってもたらされるのだろうと推測しています。
個人的には徳が何であるかより何であると信じるかが大事だと思うので、判断を神にゆだねるというか、神の意志を反映するような自分の直感や良心にまかせるのが良いのかなと思う。 -
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上巻の終盤で放たれた超弩級の思想(哲人統治、イデア論など)に引き続き、下巻も読みどころ満載である。有名な《善のイデア》や《洞窟の比喩》は、下巻の割と早い段階で語られる。下巻の中盤では、国家の諸形態の分析がなされる。名誉支配制国家、寡頭制国家、民主制国家、独裁制国家のそれぞれの特徴を論じたこの部分は、ある意味、最大の読みどころかもしれない。特に、「民主制国家が堕落したらどんな現象がみられるようになるか」「民主制から独裁制への移行はどのようにして達成されるか」を論じた部分は圧巻。下巻の最後は、正義の報酬として有名な《エルの物語》で締めくくられる。ここは哲学というより物語(神話)として興味深い。
・《哲人王》による《善のイデア》を希求する政治(≒ユートピア思想)
・エリート層による大衆の統制(≒民主主義の否定)
・エリート層における私有財産の禁止(≒共産主義)
・エリート層における妻女と子供の共有(≒優生学的思想)
…など、私には容認しがたい極論も多いのだが、「衆愚政治へと堕落した民主主義への批判」や「僭主独裁政治への批判」など、現代人必読の警告と思われる箇所も多い。その主張の是非はともかく、形而上学的にも政治学的にも西洋思想の原点となった著作である。 -
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ネタバレ政治家は何をしたらいいの?といういまとあまり変わらない話を延々としている。
国家は民衆に「快」と「善」とのどちらを示すべきか?それともどちらかがどちらと合一なのか?それともどちらかがどちらの下にあるのか?それとも上にあるのか?ということだ。
プラトンは最終的に、「政治家は民衆の料理人や給仕ではなく、医者でなければならない。」とする。ということは善を与えるべきであるとする。これが哲人王であるということなのだろう。
このような発想は、てっきりアリストテレスのものだと思っていたが(彼はどうすれば善く生きられるか、何が目的なのか、という思考であるから。)、ソクラテスの時代からあったのかと思った。
プラトンの考え方から云えば、大衆迎合主義は批判さるべきである。
ただこれは非常に危険な考え方だ。一つ間違えれば、「これが正しい。」という名の下に専制支配が行われる危険性さえある。ただ、憲法典で「民主国家を志向する」と歌い上げればそれが目的になるし、大衆迎合主義はそれを批判することさえある。逆に専制国家であれば、大衆迎合主義は民主国家を志向することもあるだろう。「自由か、それとも目的か。」は、常に堂々巡りをしているのであり、それは古代ギリシアから語りつくされているのかもしれないが・・。 -
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最強の敵、カルリクレス登場!(笑)というコピーがぴったりの対話篇。というか『ゴルギアス』という書名で本当にいいのか!(笑)
著名な弁論術家ゴルギアスのもとに「弁論術」とは何かという議論をふっかけにいったソクラテス。法廷や政治の場において人々を説得する技術だというゴルギアスに対し、説得する以上、全ての事柄が「正」だと知っているのか、それを教えることが可能で実践している者がいるのかと矛盾を追及し、早々に戦意喪失に追い込む。
第2ラウンドは代わりに登場したゴルギアスの弟子ポロス。ソクラテスは「弁論術」は技術ではなく、料理と同様に経験であり、その本質は「善」ではなく「快」で民衆への迎合だと喝破する。対するポロスは「弁論術」を使えば人は欲しいままに権力を行使することも可能だと反論し、さらに不正を行っても栄達できた者は幸せだとするのに対し、ソクラテスは人に不正を行うよりも不正を受ける方が幸せだといってポロスを驚かせる。そして、不正を行えば「醜」=「悪」だという論理を、例によってソクラテス自身が設定した条件文による択一という詭弁調!で導いたソクラテスは、そのような方法論である「弁論術」も政治や法廷では「正」という真の目的のためには役に立たず、不正を行った償いの刑を受けるために用いろと迫り、ポロスをさらに驚かせる。
そしてメインイベントの第3ラウンドで最も白熱した議論が展開される。このカルリクレスの態度は、これまでソクラテスの詭弁気味な言い負かし勝利に抑圧され続けてきた「プラトン」読者にとって、喝采ものといってよい。(笑)いわく、ソクラテスよ、もっと大人になれ!ゴルギアスが遠慮していることに気がつかないのか!法律によって抑制されているが、自然状態となれば不正だろうが弱肉強食は当然だろ!哲学なんていうものは大人が行うものではない、これ以上、馬鹿話を続けていると、法廷に引きずりだされ死刑になることだってあり得るぞ!、と。
だが、ここからのソクラテスの言説は光っている。先の弁論術は知識ではなく迎合であり、国民を正義や徳を導かないとの観点から、かつてアテナイの偉大な政治家とされた人々も、最後は自分が指導した国民により排斥されたことから、「政治家」としては無能であり、自分ソクラテスこそが真の政治を行っているとする。そして、仮の宿である身体から離れた魂がよき審判を得て救われるには、正しい行いや不正も裁かれ済みの状態になっている必要があるとし、仮に自分が死刑になっても魂は救われるとした格調高い道徳観・死生観を展開するのである。迂闊にも感動しました。(笑)
後のソクラテスの末路を暗示するとともに、ソクラテスに仮託したプラトン自身の政治へのかかわり方への決意表明としてとても面白かった。
もう一度、『ソクラテスの弁明』を読み返したくなりました。
それにしても「犬に誓って」って一体何に誓っているんだ?(笑) -
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恋している男よりも恋していない男に抱かれろ!と少年(!)に説くリュシアスの衝撃的な言説に見事に喰いついたソクラテスが、パイドロスと真夏のお花畑の木陰で物語るという図式です。(笑)神に憑依された(!)ソクラテスは詩的な調べで「恋」(エロース)についてのいくつかの見解を披露してパイドロスを翻弄する。(笑)結論、「恋は狂気」。
だが実はプラトンはこの話を発端に、詭弁に走りがちな弁論術を批判し、ディアレクティケーを駆使して真実そのものを把握し議論せよという結論を導きたかったのだ。
そういえばいつもよりもソクラテスの詭弁的言説も少ないような・・・。(笑)
ムゥサの後裔たる蝉の鳴くもとで語られる、不死なる魂転生の人生観(?)と、善悪?2者を象徴する2頭馬車の行き先をめぐる対決の物語は本書の大いなる見どころだ。
文字の発明が、口伝の基本たる記憶力の妨げとなるという見解には眼から鱗が落ちました。そういえばワープロ機能のおかげで漢字、書けなくなったな。(笑)
話の成り行きがぽんぽん変わるので、うっかりすると論旨を見失いがちなり、自分も翻弄されたクチです。(笑) -
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哲学に生き、死んだ人。哲学・思想と行為を一致させた人。自らの命を度外視して正しさを主張した。
哲学の基本書。プラトンの著作はたいてい対話形式で書かれているが、この著作に限っては、途中メレトスとのやりとりがあるものの、主としてソクラテスの一方的な独白形式で話が進む稀な作品。確かに弁明という性質上、形式的には必然かもしれないが、ソクラテス自身が聞き惚れそうになったと言うほどの (流されないようにと陪審員へ注意を促すのが真意だろうが)メレトス側の弁論が一切書かれていないのは、双方の主張を取り上げて吟味するプラトンの一連の作品からすると読者にとってあまりに一方的で異例な事のように思われる。例えば饗宴においてソクラテス以外の人々がエロースに関して延々と自説を述べたように、ソクラテスに関係ないから割愛するということはありえないわけだし。『ソクラテスの弁明』は「ソクラテスの」ということがまず面白い。
無知の知を語るようになった経緯、当時のソクラテスがアテナイにおいてどういう扱いであったのか、また彼自身がどうやって生きてきたのかを知ることが出来る。社会的・処世的・通俗的正しさではなく、論理的に、正しさにおいて正しい選択をする、自己の哲学に生きた哲学者の滑稽とも不器用とも勇敢ともとれる最後を目撃することができる。政治的謀略において告訴されたこの裁判でも、彼はついぞ自身を曲げることなく、避けることのできた死刑が確定する。これは生き様です。 -
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パイドロス
著:プラトン
訳:藤澤 令夫
出版社:岩波書店
岩波文庫 青601-5
ちょっと、とっつきが悪い書でした。
「積読こそが完全な読書術である」で本書のおすすめがあったので購入しました。
プラトンの書は、ソクラテスの教えを記載し、発展させたと理解していて、ソクラテスが開祖、プラトンが2代目、アリストテレスは、3代目という位置づけかとおもいます。やがて、アリストテレスは、アレキサンダーの師となり、ギリシャ哲学は、彼の力で当時の全世界に広がっていくことになるのです。
プラトンが建てた学校が、アカデメイアであり、アリストテレスが建てたのは、リュケイオンです。
それぞれ、アカデミー、教育機関、ライシアム、講堂という言葉の語源になっています。
パイドロス、とは、ソクラテスの知り合いの名前で、会話形式で話が進んでいきます。プラトンの対話編という形式で書かれています。
古代ギリシアは、民主政だったので、議論の上で、政策を決定する流れで、対話を重視したのかなと思います。シナリオの台本のような、ようでないような書き方です。専制国家では、横並びで会話をする書物が公開されないし、第一そういった発想がなかったと思います。
本書に流れているのは、愛、狂気、対話(ダイアログ)と、修辞法(レトリック)です
パピルスなのか、陶器なのか、どういう形かはさてあれ、ギリシアには、文字があり、書があったればこそです
東洋には、百家争鳴あり、西洋には、ギリシア哲学あり、言葉は内にも、外にも、鋭い刃物であり、発したものを傷つける。蘇秦や張儀、ソクラテスは自ら発した言葉に倒れた。
気になったのは、次です。
・君は、君を恋する者の言うことに従うより、ぼくの言うことに従うことほうが、優れた人間になるはずである
なぜならば、恋している人たちは、1つには相手の機嫌を損ねるのをおそれ、
1つには、自分自身も欲望ために心の眼が曇らされているので、
恋人の言うこと為すことが、それがたとえ最善の事柄に反したものであっても、ほめそやすからだ。
・我が言の葉の底意をさとれ
・狂気には、2つの種類がある
その1つは、人間的な病いによって生じるもの
もう1つは、神に憑かれて、規則にはまった慣習的な事柄をすっかり変えてしまうことによって生じるもの
・神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである
・魂は全体として、魂なきものの全体を配慮し、時によりところによって姿を変えながら、宇宙をくまなく巡り歩く
・考察の課題。すなわち、どのようにすれば上手に話をしたり、上手に文を作ったりすることができるのか、どのようにすれば、その反対になるのか、これを考察しなければならない
・言論の技術について書かれた書物をみても、じつにたくさんの事柄がその中には記されているように思えます。
まず、最初に序論が語らなければならない
次は、陳述、加えて、証拠
三番目には、証明
四番目には、蓋然性
それから、保証、続保証というものをあげていたかと思う
それから反駁、続反駁、を、告発のときも、弁明のときも行わなければならない
・話の最後にあたって、話された事柄について、聴衆にそのひとつひとつを要約して思い出させる
・弁論術を身に着けようとするものは、魂にどれだけの種類の型があるのかを、かならず知らなければならない
・技術によって、語ろうとするものは、ほかならぬこの、真実らしくみえるところのものに専心しなければならぬ
よしんば、実際に行われたことであっても、もしそれが真実と思えないような仕方で行われたとしたならば、
それをありのままに述べてはならない場合もしばしばあるのであって、
真実らしく見えるような事柄に置き換えなければならない
・神テウトと、王様タモスとの会話
王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう
私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから
テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害を
与え、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別のものなのだ
彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものは彫り付けられたしるしによって
外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである
人びとは、生み出した、文字によって、豊かになるどころは堕落していくということである。
目次
凡例
パイドロス
解説
訳者註
ISBN:9784003360156
判型:文庫
ページ数:210ページ
定価:850円(本体)
1967年01月16日第1刷発行
2010年12月09日第57刷改版発行
2024年03月05日第70刷発行 -
Posted by ブクログ
1573円
617p
再読
2026/08/20
ちょっとよく分かりづらい
プラトン
(Platon 前427~前347)はソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアのフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。
藤沢 令夫
(ふじさわ のりお、1925年6月14日[1] - 2004年2月28日[1])は、日本の哲学者・西洋古典学者。専攻はギリシア哲学。京都大学名誉教授。京都国立博物館館長を歴任。1993年紫綬褒章。1998年叙勲二等授瑞宝章。2004年没時叙正四位。1925年、母の実家である長野県松本市で生まれた[1][2]。国鉄官僚の父の転任にともなって各地を転々とした[1]。旧制広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学し、上級生だった頃に西洋絵画集を購入。ラファエロの大作『アテナイの学堂』のプラトンとアリストテレスの部分を切り取り、部屋に飾った。北村透谷の「ホメロス在りし時、プラトン在りし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり」という美文とあいまって、三高受験に向け勉学の気休めにしていたのが、哲学への憧憬の始まりだったと回想している[3]。1941年、第三高等学校に入学[1]。ボート部の活動と読書に勤しんだ[1]。京都帝国大学文学部に入学したが、学徒動員で中国大陸に出征[1]。復員を経て1947年に復学した[1]。戦後の虚無感を抱える中で田中美知太郎を師にギリシア哲学に出会い、研究の道に進んだ[1]。梅原猛と橋本峰雄とは同級生で、この頃より親交があった。1951年京都大学文学部哲学科を卒業。1958年、九州大学文学部助教授に就いた。1963年に京都大学文学部助教授に転じ、1969年に教授昇格。1989年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は京都国立博物館館長を務めた。主要な著作は『藤澤令夫著作集』(全7巻)にまとめられている。また西洋古典学者として、1986年から1998年まで日本西洋古典学会委員長(第5代、松平千秋の後任)を務め[1]、京都大学学術出版会『西洋古典叢書』の発足にも寄与し、没時まで編集委員を務めた。2004年に京都で死去。
「 「君が言ったような、戦争に関係する仕事のことだよ」とぼくは答えた、「それにまた、あらゆる学問を学ぶにあたって、よりよく理解して受け入れるようになるという点でも、幾何を学んだことがあるかないかによって、まるっきり違ってくるということを、われわれは知っているはずだ」 「たしかに、まるっきり違います」と彼は言った。 「それではこれを、青年たちに課する第二の学科と定めることにしよう」 「そうしましょう」と彼は答えた。」
—『国家 下 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「ではどうだろう、三番目の学科としては、天文学をそれと定めることにしようか? それとも、君は不賛成かね?」 「私としては、それでよいと思います」と彼は答えた、「というのは、月や年の移り変りにおけるさまざまの時期(季節)を正確に感知するということは、農耕や航海に必要であるだけでなく、軍隊統率のためにも、それに劣らず大切なことですからね」 「君も愉快な男だね」とぼくは言った、「何だか大衆に気がねして、役にも立たない学問を押しつけようとしていると思われはしないかと、びくびくしているように見えるではないか。しかしほんとうに重大な点、容易には信じがたい点は、こうした学問のなかで各人の魂のある器官が浄められ、ふたたび火をともされるということだ。この器官は、ほかのさまざまの営みのために破壊され、盲目にされているものであって、これを健全に保つことは、何万の肉眼を保全するよりも大切なことなのだ。ただこの器官によってのみ、真理は見られるのだからね。だから、こうした考えを君と共にする人々ならば、君の言うことをどこまでも立派な発言と思ってくれるだろうが、しかしこの点をまったく何も感知したことのない人々は、当然のことながら、君の言うことに何の意味も認めないだろう。なぜならそういう人々は、ほかにこうした学問から語るに足るほどの利益が得られるとは見ないからだ。 そういうわけで、君はいまただちに、自分がどちらの種類の人々を相手に話し合ったらよいのか、よく考えてみることだ。それとも、君の相手はどちらの人々でもなくて、何よりも君自身のために議論をするのであり、ただ誰か他の人がそこから何か自分の為になることを引き出すことができたとしても、けっしてその人に対して、けちけちと物惜しみしたりしないだろうと、こういうことなのかね*?」」
—『国家 下 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「た、「支配者たちはこれまで述べたようなすべての理由によって、支配される者たちを、国のなかでいま言ったような状態に置いているのだ。他方、自分たち自身と自分の子供たちをどういう状態にするかといえば、まず若者たちのほうはこれを贅沢に甘やかして、身体的にも精神的にも苦労をいやがる人間にし、また快楽に対しても苦痛に対しても抵抗力のない、柔弱な怠け者にしてしまうのではないかね」」
—『国家 下 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「そうとも」とぼくは言った、「医者が身体を浄めるのとは正反対のね。というのは、医者は身体のなかから最悪のものを取り除いて最善のものを残すのだが、彼はちょうどその反対のことをするわけだから」 「じっさい」と彼は言った、「支配しつづけようとするなら、どうしてもそうしなければならないようですからね」」
—『国家 下 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「いったい絵画とは、ひとつひとつの対象についてどちらを目ざすものなのだろうか? 実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか? つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか?」 「見かけを真似る描写です」と彼は答えた。 「してみると、真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになるし、またそれがすべてのものを作り上げることができるというのも、どうやら、そこに理由があるようだ。つまり、それぞれの対象のほんのわずかの部分にしか、それも見かけの影像にしか、触れなくてもよいからなのだ。 たとえば画家は とわれわれは言おう 靴作りや大工やその他の職人を絵にかいてくれるだろうが、彼はこれらのどの職人の技術についても、けっして知ってはいないのだ。だがそれにもかかわらず、上手な画家ならば、子供や考えのない大人を相手に、大工の絵をかいて遠くから見せ、欺いてほんとうの大工だと思わせることだろう」 「ええ、たしかに」 「しかし、友よ、思うにすべてこのような人々については、次の点をよく考えなければならない。すなわち、誰かがある人について、われわれにこう告げたとする 自分はありとあらゆる職人の技術を心得ている人、またほかの事柄についても一人一人が知っているかぎりのすべてのことを知り、およそどんなことについても誰よりも正確に知っている人、そういう人に出会った、と。このような場合には、われわれはその人にこう答えなければならないのだ 『君はお人よしの人間だ。どうやら、どこかのいかさま師・物真似師に出会ってまんまとだまされたあげく、その男が全知の人だと思いこんでしまったらしいね。ほかでもない、君自身が知識と無知と真似とをしらべて区別することができないからだ』」 「まったくおっしゃるとおりです」と彼は言った。」
—『国家 下 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 『国家』 は、たんに分量的にみても、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『エウテュプロン』『ゴルギアス』『メノン』 『 宴』『パイドン』といった、それぞれ力のこめられた諸著作を全部合わせた量(バーネット版のテクストで三九六ページ)をさらに上まわる一大長 (四〇九ページ)であり、その内容の豊富さ、思想の迫力、筆致の生彩と相まって、まずプラトンの主著中の主著と呼んでさしつかえないであろう。 慣習に従ってプラトンの著作を年代的に前期・中期・後期に大別すると、『国家』は中期の著作群に属する。以下の論述の便宜のためにも、今日までの諸研究の成果にもとづいて、個々の対話 の書かれたおおよその順序と、そのなかにおける『国家』の位置をここで示しておくと、次のとおりである。前期の諸著作相互の間の前後関係は確定できないが、『ゴルギアス』『メノン』以後の諸対話 については、ほぼこのとおりの順序を想定して間違いないであろう (『 宴』と『パイドン』は、以前は、純粋に文体論的な観点から前期対話 と呼ばれていたが、最近の学界では、思想内容の観点から中期対話 と呼ばれるのが慣習となっている。同様に『パルメニデス』『テアイテトス』も、内容的な観点からしばしば後期著作に入れられることがある)。」
—『国家 下 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
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Posted by ブクログ
1507円
614p
再読
2026/08/20
ちょっとよく分かりづらい
岩波文庫再読祭りやってるけど、やっぱりプラトン良いよな。建築もそうだけど、古典ギリシア時代に作られたものが好き。パルテノン神殿とかイソップ物語とか。静かなる偉大さがある。偉大なものを作ってやろうという力みをあまり感じさせないのに、人間が考えたり作ったりする際の基本形が古典ギリシアにはあるんだよね。
プラトン
(Platon 前427~前347)はソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアのフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。
藤沢 令夫
(ふじさわ のりお、1925年6月14日[1] - 2004年2月28日[1])は、日本の哲学者・西洋古典学者。専攻はギリシア哲学。京都大学名誉教授。京都国立博物館館長を歴任。1993年紫綬褒章。1998年叙勲二等授瑞宝章。2004年没時叙正四位。1925年、母の実家である長野県松本市で生まれた[1][2]。国鉄官僚の父の転任にともなって各地を転々とした[1]。旧制広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学し、上級生だった頃に西洋絵画集を購入。ラファエロの大作『アテナイの学堂』のプラトンとアリストテレスの部分を切り取り、部屋に飾った。北村透谷の「ホメロス在りし時、プラトン在りし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり」という美文とあいまって、三高受験に向け勉学の気休めにしていたのが、哲学への憧憬の始まりだったと回想している[3]。1941年、第三高等学校に入学[1]。ボート部の活動と読書に勤しんだ[1]。京都帝国大学文学部に入学したが、学徒動員で中国大陸に出征[1]。復員を経て1947年に復学した[1]。戦後の虚無感を抱える中で田中美知太郎を師にギリシア哲学に出会い、研究の道に進んだ[1]。梅原猛と橋本峰雄とは同級生で、この頃より親交があった。1951年京都大学文学部哲学科を卒業。1958年、九州大学文学部助教授に就いた。1963年に京都大学文学部助教授に転じ、1969年に教授昇格。1989年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は京都国立博物館館長を務めた。主要な著作は『藤澤令夫著作集』(全7巻)にまとめられている。また西洋古典学者として、1986年から1998年まで日本西洋古典学会委員長(第5代、松平千秋の後任)を務め[1]、京都大学学術出版会『西洋古典叢書』の発足にも寄与し、没時まで編集委員を務めた。2004年に京都で死去。
「 「だからまた、およそどんな医者でも、彼が医者であるかぎりにおいては、医者の利益になることを考えてそれを命じるのではなく、病人の利益になる事柄を考えて命令するのではないかね? なぜなら、すでに同意されたところによれば、厳密な意味での医者というものは、金 けを仕事にする者ではなくて、身体を支配する者のことなのだから。 どうだね、そういうことが同意されたのではないか?」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「それにまた、お人好しの本尊のソクラテスよ、正しい人間はいつの場合にも不正な人間にひけをとるものだということを、次のようなことから考えてみるがよい。まず第一に、正しい人間と不正な人間とが互いに契約して、共同で何かの事業をするとしたら、その共同関係を解くにあたって、正しい者のほうが不正な者よりもたくさんの けにあずかるというようなことは、けっして見られないだろう。正しい人のほうが、きまって損をするのだ。つぎに、国との関係の場合も同様である。国に献金しなければならないときには、財産の程度は同じでも、正しい人のほうはたくさん献金し、不正な人は少なくすませる。分配金にあずかるときには、不正な人がしこたま取りこんで、正しい人の分け前は何も残らない。 両者のそれぞれが何かの役職につく場合にしても、正しい人のほうは、たとえほかには何ひとつ損害をこうむることがないとしても、自分の家のことがなおざりにされて前より悪い状態になることだけは、間違いない。他方、正しい人間であるがゆえに、公の仕事から私腹を肥すことはまったくないのだ。そのうえ、正義に反して身内の者や知人たちに奉仕してやる気がまるでないから、彼らのあいだで嫌われ者となる。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「ところが、いったん国民すべての財産をまき上げ、おまけにその身柄そのものまでを奴隷にして隷属させるような者が現われると、その人はいま言ったような不名誉な名では呼ばれないで、幸せな人、祝福された人と呼ばれるのである。その国民自身がそう呼ぶだけではない。よその国の者も、彼がそういう完全な不正をなしとげたことを聞き知るならば、口をそろえてそう言うのだ。それというのもほかではない、人々が不正を非難するのは、不正を人に加えることでなく自分が不正を受けることがこわいからこそ、それを非難するのだからである。 このように、ソクラテス、不正がひとたび充分な仕方で実現するときは、それは正義よりも強力で、自由で、権勢をもつものなのだ。そしてわたしが最初から言っていたように、〈正しいこと〉とは、強い者の利益になることにほかならず、これに反して〈不正なこと〉こそは、自分自身の利益になり得になるものである」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「さあ、よき友よ、どうかわれわれにも説き明かす気になってくれたまえ。とにかくこれだけの人数がいるのだから、どんなことであれ、われわれに親切をつくしておいて、君の損になるようなことはけっしてあるまい。 ぼくのほうは、ちゃんと自分の考えを表明しておく。すなわち、ぼくは君の言ったことを信じない。不正のほうが正義よりも得になるなどとは、けっして思わない。たとえ不正が放任されていて、何でもしたい放題であるような場合でも、なおかつそうなのだ、とね。 いや、よき友よ、いかにも君の言うとおりに、ここにひとりの不正な人間がいるとして、その男は、人目をごまかしてであれ、公然と戦ってであれ、とにかく不正な所業を為しうるだけの能力をもっているとしようか。しかしそれでもその男が、ぼくを説得して不正が正義よりも得になると信じさせることは、けっしてできはしないだろう。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「ぼくはね、親愛なるトラシュマコス、まさにこういう理由によってこそ、ついさっき、みずからすすんで支配者の地位につき、他人の災厄に関与して立て直してやろうと望む者は一人もいない、みんなそのための報酬を要求する、と言っていたのだよ。ほかでもない、自分の技術に従って立派に仕事をしようとする者ならば、けっして自分自身のために最善になることを行なうことはないし、また人に命令する場合にも、その技術本来の任務に忠実である限りは同様であって、逆に、被支配者のために最善になることをこそ、行なったり命じたりするのだから。 思うに、支配者の地位につくことを承知しようとする者に報酬が与えられなければならないということは、こうした事情によるのだろう。その報酬が金銭にせよ、名誉にせよ、あるいは、拒む者に対しては罰であるにせよね」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「ということはつまり、トラシュマコス、〈不正〉はお互いのあいだに不和と憎しみと戦いをつくり出し、〈正義〉は協調と友愛をつくり出すものだからだ。そうだろう?」 「そうだとしておこう」と彼は言った、「あんたに逆らわないためにね」 「いや、どうもありがとう、よき友よ。では、次の点に答えてくれたまえ。 もし〈不正〉とは、そのように、自分が宿るところには必ず憎しみをつくり出すというはたらきをもつものであるならば、〈不正〉は、自由人たちの内に生じる場合でも、奴隷たちの内に生じる場合でも、人々を互いに憎み合わせ、争わせ、ひいては共同に何かをすることを不可能にさせるのではないだろうか?」 「たしかに」 「人数が二人の場合は? やはり〈不正〉が宿れば、その二人は仲違いをし、憎み合い、正しい人々に対すると同じく、お互いに対しても敵となるのではないだろうか?」 「そうなるだろう」と彼。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「ではどうだろう 葡萄の蔓を刈り取ることは、短剣を用いてもできるし、ナイフを用いてもできるし、そのほかいろいろ多くの道具を用いてもできるだろうね?」 「むろん」 「しかし思うに、何を用いても、とくにその目的のために作られた刈込み用の鎌ほどには、うまくできないだろう」 「たしかに」 「それならわれわれは、その仕事を、刈込み鎌の〈はたらき〉であると考えるべきではないだろうか?」 「たしかに、そう考えるべきだろう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「それでは、さあ」とグラウコンは言った、「こんどは私の言うことも聞いて、あなたも同じ考え*かどうかをしらべてください。どうもトラシュマコスは、まるであなたに魅入られた蛇のように、あまりにも早く降参してしまったようですからね。だが、私にとっては、〈正〉〈不正〉のそれぞれについていまなされた論証は、まだけっして心から満足できるものではありません。なぜなら、私が聞きたいのは、〈正〉〈不正〉のそれぞれが何であるか、また、それぞれが魂の内にあるときに、純粋にそれ自体としてどのような力をもつものなのか、ということなのであって、報酬その他、そこから結果として生じるいろいろの事柄は、いっさい排除しておきたいからなのです。 そこで、ご異存がなければ、こうしましょう。つまり、トラシュマコスの説を私がもう一度復活させて、次の諸点を私の口から語ることにするのです。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「さて、不正な人間をこのように想定したうえで、その横にこんどは正しい人間を 単純で、気だかくて、アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われることではなく、善き人であることを望む*』ような人間を 議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは、この〈思われる〉を取り去らなければなりません。なぜなら、もしも正しい人間だと思われようものなら、その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると、彼が正しい人であるのは〈正義〉そのもののためなのか、それともそういった褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剝ぎとって裸にし、ただ〈正義〉だけを残してやって、先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち、何ひとつ不正をはたらかないのに、不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は、悪評や、悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって、その〈正義〉のほどが完全に吟味されることになるでしょう。そして彼をして、死のそのときまで、堅固不変におのれの道を行かしめましょう 生涯を通じて不正な人間だと思われながら、しかし実際には正しい人間として。このようにして正しい人も不正な人も、それぞれその極に 一方は正義の極に、他方は不正の極に まで至ったならば、そのときこそわれわれは、はたして二人のうち、どちらがより幸せであるかを判定することができるでしょう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「ですからあなたとしては、ただ〈正義〉は〈不正〉にまさるということを言葉のうえで論証するだけでなく、一方が善であり他方が悪であるのは、それぞれがそれ自体として、それ自身の力だけで、どのようなはたらきをその所有者に及ぼせばこそなのかを、よく示していただかなければなりません。そして、先ほどグラウコンが命じていましたように、評判に関する事柄は取り去っていただかねばなりません。あなたが両者のそれぞれから、それぞれの実際と一致した評判を取り去って、実際と違った評判を与えないかぎり、われわれとしては、こう言わざるをえないでしょうからね。 つまり、あなたが讃えているのは、〈正しいこと〉そのものではなくて、その評判であり、あなたがとがめるのは、不正な人間であることではなくて、不正な人間だと思われることなのだ。それでは結局、不正な人間でありながらその正体を気づかれぬようにせよ、とすすめていることにほかならないし、ひいてはまた、〈正しいこと〉とは他人の善、強者の利益であるが、〈不正なこと〉とは自分にとって為になり得になることであり、弱い者にとっては不利益になることだ*という、トラシュマコスの説に同意する結果にもなる、と。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「さてそれで、どういうことになるだろうか? それらの成員のひとりひとりは、それぞれ自分の仕事をみんなの共用のために提供しなければならないのだろうか? たとえば農夫は、一人で四人分の食料を供給し、四倍の時間と労力をその食料供給のために費して、それを他の人々と分け合わなければならないのか。 それとも、他の人々のことはかまわずに、それだけの食料の四分の一を四分の一の時間で、自分ひとりだけのために作り、残りの四分の三の時間は、家を作ったり、衣服をこしらえたり、履物を用意したりすることに使って、他の人々と交わる面倒をはぶき、自分は自分のために自分のことだけをなすべきだろうか?」 アデイマントスは答えた、 「いや、それはソクラテス、おそらくは前のやり方のほうが、後のよりも容易でしょう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「それならわれわれは、人間の場合についても、自信をもってこう言ってよいだろうね 身内の者や知っている者に対して穏和な人間となるためには、その人は、生まれつき知を愛し、学びを愛する人間でなければならないと?」 「ええ、そう規定することにしましょう」と彼は言った。 「こうしてわれわれにとって、国家のすぐれて立派な守護者となるべき者は、その自然本来の素質において、知を愛し、気概があり、敏速で、強い人間であるべきだということになる」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「言葉(話)には二種類あって、ひとつは真実のもの、もうひとつは作りごとの言葉(話)なのではないかね」 「ええ」 「教育はその両方の種類の言葉(話)で行なわなければならないが、作りごとの言葉(話)による教育のほうを、先にすべきではないか」 「それはどういうことでしょう?」と彼は言った、「よくわかりませんが」 「君にはわからないかね」とぼくは答えた、「われわれは子供たちに、最初は物語を話して聞かせるではないか。これは全体としていえば、作りごとであるといえよう。真実もたしかに含まれてはいるがね。そしてわれわれは子供たちに対して、体育よりも先に物語を用いるのだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「大きな物語をとってみれば」とぼくは言った、「われわれはその中に小さな物語をも見ることになるだろう。なぜなら、物語というものはそれが大きくても小さくても、その型は同じであるべきだし、同じ効力をもっていなければならないから。そう思わないかね?」 「そう思います」と彼は言った、「しかし大きな物語と言われるのがどのような物語のことなのか、いっこうに思い当りませんが」 「ヘシオドスとホメロスがわれわれに語った物語*、そしてその他の詩人たちが語った物語のことだ」とぼくは言った、「というのは、彼らは人間たちのために、作りごとの物語を組み立てては語っていたのだし、いまも語りつづけているといえるからね」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「ではそれらは、取り除かなければならないのだね?」 「ええ」 「そして、いま挙げたようなのとは反対の特徴をもつ名前を使って、語ったり詩作したりしなければならないのだね?」 「ええ、明らかに」 「そうするとまた、名のある立派な人物たちが悲しんだり嘆いたりするくだりも、われわれは削除すべきだろうか?」 「そうしなければなりません」と彼は言った、「さっきのを削除したからにはですね」 「ひとつ、考えてみてくれたまえ」とぼくは言った、「ほんとうにわれわれがそれを削除するのが正しいことかどうかを。 立派な人物というものは、自分の友である立派な人物にとって死ぬことが恐ろしいことだとは、けっして考えないだろうとわれわれは主張する」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「さらにまたわれわれは、真実ということを大切にしなければならない。というのも、もし先ほどのわれわれの議論が正しくて、偽りというものはほんとうに神々には無用であり、人間にとってだけ、いわば薬として役立つものであるならば、明らかに、そのようなものは医者たちにまかせるべきであって、素人が手を触れてはならないものなのだ」 「ええ、明らかに」と彼は言った。 「したがって、もし偽りを言うことが誰かに許されるとすれば、国の支配者たちだけが、国民なり敵たちのために、それが国家に有益である場合、偽りを言うべきであろう。他の者たちは誰も、そのようなことに手出しをしてはならないのだ。いや、素人の者にとっては、そうした支配者たちに向かって偽りを言うということは、病人が医者に向かって、あるいは体育の訓練を受ける者がその指導者に向かって、自分の身体の状態について真実を語らないという場合や、あるいは、船員が船長に向かって船や船員たちのことについて、自分や他の船員仲間の誰かがどうしているか、そのほんとうのことを語らないという場合とくらべられるような、これらと同等もしくはそれ以上の罪であると、われわれは主張すべきだろう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「とすれば、ましてや何か言うに値する仕事を本業としてもちながら、それと同時に、たくさんのものを真似して〈真似〉の達者な人となるというようなことは、とうていできないだろう。げんに、〈真似〉のあり方としては互いに近い関係にあると思われている二つの領域のものですら、同じ人間がその両方にわたってうまく〈真似〉を行なうということは、できないだろうからね。たとえば、喜劇と悲劇を創作する場合などがそうだ*。それとも、君はついさっき、この二つを〈真似〉によって成立するものとは呼ばなかったかね?」 「そう呼びました。そして同一の作家で両方うまくできる者はいないと言われるのも、たしかにほんとうのことです」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
いまプラトン『国家』を読んでるわけだけど、「ルールの穴を突いて上手に儲けるほうが正しい」という意見に対する反論から始まるので、人類は少なくとも数千年前からそういう問題意識を持ちながらもどうしようできてないことがわかる
プラトンの「国家」を読み直しているんだけど、民主制下の人間がなぜだめかの記述がいまのSNSに当てはまりすぎて泣けてくる。「こうして彼の生活には、秩序もなければ必然性もない。しかし彼はこのような生活を、快く、自由で、幸福な生活と呼んで、一生涯この生き方を守り続けるのだ。」
国家 プラトン
今から2000年以上前に理想的な政治形態を考察した書。民主主義の限界を指摘したところは凄いが哲人統治の薦めは頷けない。
プラトン『国家』に「愚か者ほど自信たっぷりに大声で話す」という言葉があるとされているが、これは東西古今を問わない真理であって、どの文明にも同様の表現は見られるだろう。シェイクスピア『ヘンリー五世』にある
The empty vessel makes the greatest sound.
によって世間に広まったらしい。
プラトンの『国家』を二巻まで読む。生々しさゆえに、いま読んでもクリティカルだなと。二巻の前半部分のホッブスやニーチェ的な議論がとくにおもしろかった。〈正義〉は〈不正〉に勝るというよりも、〈不正〉が〈正義〉に勝る部分の話がギラつく。
トランプ=無敵の人の突き抜けた不正の魂の行方。
プラトン『国家』における民主制批判、「彼らはみな権威と束縛を嫌い、自由と平等を愛するあまり、子供や若者はおろか、犬や豚や牛までもが自らの自由と権利を主張しだす」みたいなことを言っていてだいぶおもしろいんですよね。
「究極の不正は、実際は正しい人でないにもかかわらず正しい人と思われること」 プラトン『国家』より
プラトン著の国家という本、本当やばい。。。一人称の「ぼく」で進んで行くので、村上春樹先生の小説みたいに読めまゃう。。国家が成立する前には、物語が必要になる。あなたが、子供に何を教えるよりも先に毎夜絵本を読み聞かせるように。ソクラテス先生、勉強になります。
プラトン『国家』によれば、独裁僭主は民主制から生じてくるものであり、独裁僭主のまわりにはまともな人間は1人も残らず、彼の取り巻きは暴力をふるう粗野で野蛮な連中ばかりだと述べられています。そして口では自分は民衆の味方であると騙り、実際に甘い政策を行ったりもすると言われています。
プラトン『国家』は全体としては長いけれど、第1巻は独立した対話篇としても読めますよね(実際、1巻と2巻以降は書いた時期も異なるという考証もある)
無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない。(プラトン/『国家』)
「 「したがって、われわれが最初に定めた原則 すなわち、われわれの国の守護者たちは、他のすべての職人仕事から解放されて、もっぱら、国家の自由をつくり出す職人としてきわめて厳格な腕をもった専門家でなければならず、およそこの仕事に寄与することのないような他のいっさいの営みに手を出してはならないという、この原則をわれわれが守り通そうとするならば、彼ら守護者たちは、ほかのことを何ひとつ仕事として行なってはならないのと同様に、〈真似すること〉も許されない、ということになるだろう。そしてもし真似するのであれば、彼らにふさわしいもの、すなわち勇気ある人々、節度ある人々、敬 な人々、自由精神の人々、そしてすべてこのような性格のものをこそ、早く子供のときから真似すべきであって、逆に賤しい性格の物事は、実際に行なってもならないし、それを真似るのが上手であるような人間であってもならないのだ。その他、およそ醜いことの何についても同様である。それはほかでもない、真似をしているうちに、彼らがそこから実際にその性格を自分の中に受け入れるということが、あってはならないからなのだ。それとも君は、気づいたことがないかね 真似というものは、若いときからあまりいつまでもつづけていると、身体や声の面でも、精神的な面でも、その人の習慣と本性の中にすっかり定着してしまうものだということに?」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「そして、最も美しいものは、最も恋ごころをそそるものだね?」 「もちろんです」 「とすれば、真に音楽・文芸に通じた人は、できるだけそのような調和をそなえた人たちをこそ、恋することだろう。逆に、この調和がないならば、彼はそのような者を恋しないだろう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「そこで、そのような音楽・文芸の教養を身につけた者は、その気になったならば、その同じ道に沿って体育を追求してわがものとなし、やむをえない場合のほかは、医術をいっさい必要としないようになるのではないかね」 「たしかにそう思います」 「そして体育の内容をなすつらい鍛練そのものも、彼は体の強さを目的とするよりはむしろ、自分の素質のなかにある気概的な要素に目を向け、それを目覚めさせるためにこそ行なうだろう。その点は、他の一般の競技者たちがもっぱら体力を目的として、自分のために食事やつらい鍛練を取りしきるのとは違うわけだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「た、「ただもっぱら体育だけを事としてきた人たちは、しかるべき限度以上に粗暴な人間になる結果となるし、他方逆に、ただもっぱら音楽・文芸だけを事としてきた人たちは、彼らにとって望ましい以上に柔弱になってしまうということですね」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「しかし、もしそのまま他のことは何もせず、ムゥサの女神ともいっさいおつき合いしないでいるならば、どういう結果になるだろうか? かりにその人の魂の内に学びを好む性格がいくらかあったとしても、学びや探求を何ひとつ実際に味わいもせず、いかなる言論にも、その他の教養(ムゥサの技芸)にも関与しないのだから、せっかくのその好学の性格も、無力で聾盲になってしまうのではないか? 目覚めさせられることなく、養い育てられることもなく、またそれの感覚も純化されないままでいるのだからね」 「そのとおりです」と彼は答えた。 「こうして、思うにそのような人は、言論嫌いの人間になり、ムゥサの学芸に縁なき無教養の人間となる。そして、もはや言論による説得はいっさい用いないで、獣のように暴力と粗暴さをもってすべての目的を達成するようになり、無知と暗愚のうちに、よきリズムと品位を欠いた生活を送ることになるのだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「あらゆることにおいて女性は男性に、ずっとひけをとると言って差支えないでしょう。たしかに、いろいろの仕事にかけて、女が男よりもすぐれているという例は数多くあります。しかし全体として見れば、あなたの言われるとおりでしょう」 「そうとすれば、友よ、国を治める上での仕事で、女が女であるがゆえにとくに引き受けねばならず、また男が男であるがゆえにとくに引き受けなければならないような仕事は、何もないということになる。むしろ、どちらの種族にも同じように、自然本来の素質としてさまざまのものがばらまかれていて、したがって女は女、男は男で、どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり、ただすべてにつけて女は男よりも弱いというだけなのだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著