1507円
614p
再読
2026/08/20
ちょっとよく分かりづらい
岩波文庫再読祭りやってるけど、やっぱりプラトン良いよな。建築もそうだけど、古典ギリシア時代に作られたものが好き。パルテノン神殿とかイソップ物語とか。静かなる偉大さがある。偉大なものを作ってやろうという力みをあまり感じさせないのに、人間が考えたり作ったりする際の基本形が古典ギリシアにはあるんだよね。
プラトン
(Platon 前427~前347)はソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり...続きを読む 、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアのフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。
藤沢 令夫
(ふじさわ のりお、1925年6月14日[1] - 2004年2月28日[1])は、日本の哲学者・西洋古典学者。専攻はギリシア哲学。京都大学名誉教授。京都国立博物館館長を歴任。1993年紫綬褒章。1998年叙勲二等授瑞宝章。2004年没時叙正四位。1925年、母の実家である長野県松本市で生まれた[1][2]。国鉄官僚の父の転任にともなって各地を転々とした[1]。旧制広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学し、上級生だった頃に西洋絵画集を購入。ラファエロの大作『アテナイの学堂』のプラトンとアリストテレスの部分を切り取り、部屋に飾った。北村透谷の「ホメロス在りし時、プラトン在りし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり」という美文とあいまって、三高受験に向け勉学の気休めにしていたのが、哲学への憧憬の始まりだったと回想している[3]。1941年、第三高等学校に入学[1]。ボート部の活動と読書に勤しんだ[1]。京都帝国大学文学部に入学したが、学徒動員で中国大陸に出征[1]。復員を経て1947年に復学した[1]。戦後の虚無感を抱える中で田中美知太郎を師にギリシア哲学に出会い、研究の道に進んだ[1]。梅原猛と橋本峰雄とは同級生で、この頃より親交があった。1951年京都大学文学部哲学科を卒業。1958年、九州大学文学部助教授に就いた。1963年に京都大学文学部助教授に転じ、1969年に教授昇格。1989年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は京都国立博物館館長を務めた。主要な著作は『藤澤令夫著作集』(全7巻)にまとめられている。また西洋古典学者として、1986年から1998年まで日本西洋古典学会委員長(第5代、松平千秋の後任)を務め[1]、京都大学学術出版会『西洋古典叢書』の発足にも寄与し、没時まで編集委員を務めた。2004年に京都で死去。
「 「だからまた、およそどんな医者でも、彼が医者であるかぎりにおいては、医者の利益になることを考えてそれを命じるのではなく、病人の利益になる事柄を考えて命令するのではないかね? なぜなら、すでに同意されたところによれば、厳密な意味での医者というものは、金 けを仕事にする者ではなくて、身体を支配する者のことなのだから。 どうだね、そういうことが同意されたのではないか?」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「それにまた、お人好しの本尊のソクラテスよ、正しい人間はいつの場合にも不正な人間にひけをとるものだということを、次のようなことから考えてみるがよい。まず第一に、正しい人間と不正な人間とが互いに契約して、共同で何かの事業をするとしたら、その共同関係を解くにあたって、正しい者のほうが不正な者よりもたくさんの けにあずかるというようなことは、けっして見られないだろう。正しい人のほうが、きまって損をするのだ。つぎに、国との関係の場合も同様である。国に献金しなければならないときには、財産の程度は同じでも、正しい人のほうはたくさん献金し、不正な人は少なくすませる。分配金にあずかるときには、不正な人がしこたま取りこんで、正しい人の分け前は何も残らない。 両者のそれぞれが何かの役職につく場合にしても、正しい人のほうは、たとえほかには何ひとつ損害をこうむることがないとしても、自分の家のことがなおざりにされて前より悪い状態になることだけは、間違いない。他方、正しい人間であるがゆえに、公の仕事から私腹を肥すことはまったくないのだ。そのうえ、正義に反して身内の者や知人たちに奉仕してやる気がまるでないから、彼らのあいだで嫌われ者となる。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「ところが、いったん国民すべての財産をまき上げ、おまけにその身柄そのものまでを奴隷にして隷属させるような者が現われると、その人はいま言ったような不名誉な名では呼ばれないで、幸せな人、祝福された人と呼ばれるのである。その国民自身がそう呼ぶだけではない。よその国の者も、彼がそういう完全な不正をなしとげたことを聞き知るならば、口をそろえてそう言うのだ。それというのもほかではない、人々が不正を非難するのは、不正を人に加えることでなく自分が不正を受けることがこわいからこそ、それを非難するのだからである。 このように、ソクラテス、不正がひとたび充分な仕方で実現するときは、それは正義よりも強力で、自由で、権勢をもつものなのだ。そしてわたしが最初から言っていたように、〈正しいこと〉とは、強い者の利益になることにほかならず、これに反して〈不正なこと〉こそは、自分自身の利益になり得になるものである」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「さあ、よき友よ、どうかわれわれにも説き明かす気になってくれたまえ。とにかくこれだけの人数がいるのだから、どんなことであれ、われわれに親切をつくしておいて、君の損になるようなことはけっしてあるまい。 ぼくのほうは、ちゃんと自分の考えを表明しておく。すなわち、ぼくは君の言ったことを信じない。不正のほうが正義よりも得になるなどとは、けっして思わない。たとえ不正が放任されていて、何でもしたい放題であるような場合でも、なおかつそうなのだ、とね。 いや、よき友よ、いかにも君の言うとおりに、ここにひとりの不正な人間がいるとして、その男は、人目をごまかしてであれ、公然と戦ってであれ、とにかく不正な所業を為しうるだけの能力をもっているとしようか。しかしそれでもその男が、ぼくを説得して不正が正義よりも得になると信じさせることは、けっしてできはしないだろう。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「ぼくはね、親愛なるトラシュマコス、まさにこういう理由によってこそ、ついさっき、みずからすすんで支配者の地位につき、他人の災厄に関与して立て直してやろうと望む者は一人もいない、みんなそのための報酬を要求する、と言っていたのだよ。ほかでもない、自分の技術に従って立派に仕事をしようとする者ならば、けっして自分自身のために最善になることを行なうことはないし、また人に命令する場合にも、その技術本来の任務に忠実である限りは同様であって、逆に、被支配者のために最善になることをこそ、行なったり命じたりするのだから。 思うに、支配者の地位につくことを承知しようとする者に報酬が与えられなければならないということは、こうした事情によるのだろう。その報酬が金銭にせよ、名誉にせよ、あるいは、拒む者に対しては罰であるにせよね」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「ということはつまり、トラシュマコス、〈不正〉はお互いのあいだに不和と憎しみと戦いをつくり出し、〈正義〉は協調と友愛をつくり出すものだからだ。そうだろう?」 「そうだとしておこう」と彼は言った、「あんたに逆らわないためにね」 「いや、どうもありがとう、よき友よ。では、次の点に答えてくれたまえ。 もし〈不正〉とは、そのように、自分が宿るところには必ず憎しみをつくり出すというはたらきをもつものであるならば、〈不正〉は、自由人たちの内に生じる場合でも、奴隷たちの内に生じる場合でも、人々を互いに憎み合わせ、争わせ、ひいては共同に何かをすることを不可能にさせるのではないだろうか?」 「たしかに」 「人数が二人の場合は? やはり〈不正〉が宿れば、その二人は仲違いをし、憎み合い、正しい人々に対すると同じく、お互いに対しても敵となるのではないだろうか?」 「そうなるだろう」と彼。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「ではどうだろう 葡萄の蔓を刈り取ることは、短剣を用いてもできるし、ナイフを用いてもできるし、そのほかいろいろ多くの道具を用いてもできるだろうね?」 「むろん」 「しかし思うに、何を用いても、とくにその目的のために作られた刈込み用の鎌ほどには、うまくできないだろう」 「たしかに」 「それならわれわれは、その仕事を、刈込み鎌の〈はたらき〉であると考えるべきではないだろうか?」 「たしかに、そう考えるべきだろう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「それでは、さあ」とグラウコンは言った、「こんどは私の言うことも聞いて、あなたも同じ考え*かどうかをしらべてください。どうもトラシュマコスは、まるであなたに魅入られた蛇のように、あまりにも早く降参してしまったようですからね。だが、私にとっては、〈正〉〈不正〉のそれぞれについていまなされた論証は、まだけっして心から満足できるものではありません。なぜなら、私が聞きたいのは、〈正〉〈不正〉のそれぞれが何であるか、また、それぞれが魂の内にあるときに、純粋にそれ自体としてどのような力をもつものなのか、ということなのであって、報酬その他、そこから結果として生じるいろいろの事柄は、いっさい排除しておきたいからなのです。 そこで、ご異存がなければ、こうしましょう。つまり、トラシュマコスの説を私がもう一度復活させて、次の諸点を私の口から語ることにするのです。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「さて、不正な人間をこのように想定したうえで、その横にこんどは正しい人間を 単純で、気だかくて、アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われることではなく、善き人であることを望む*』ような人間を 議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは、この〈思われる〉を取り去らなければなりません。なぜなら、もしも正しい人間だと思われようものなら、その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると、彼が正しい人であるのは〈正義〉そのもののためなのか、それともそういった褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剝ぎとって裸にし、ただ〈正義〉だけを残してやって、先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち、何ひとつ不正をはたらかないのに、不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は、悪評や、悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって、その〈正義〉のほどが完全に吟味されることになるでしょう。そして彼をして、死のそのときまで、堅固不変におのれの道を行かしめましょう 生涯を通じて不正な人間だと思われながら、しかし実際には正しい人間として。このようにして正しい人も不正な人も、それぞれその極に 一方は正義の極に、他方は不正の極に まで至ったならば、そのときこそわれわれは、はたして二人のうち、どちらがより幸せであるかを判定することができるでしょう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「ですからあなたとしては、ただ〈正義〉は〈不正〉にまさるということを言葉のうえで論証するだけでなく、一方が善であり他方が悪であるのは、それぞれがそれ自体として、それ自身の力だけで、どのようなはたらきをその所有者に及ぼせばこそなのかを、よく示していただかなければなりません。そして、先ほどグラウコンが命じていましたように、評判に関する事柄は取り去っていただかねばなりません。あなたが両者のそれぞれから、それぞれの実際と一致した評判を取り去って、実際と違った評判を与えないかぎり、われわれとしては、こう言わざるをえないでしょうからね。 つまり、あなたが讃えているのは、〈正しいこと〉そのものではなくて、その評判であり、あなたがとがめるのは、不正な人間であることではなくて、不正な人間だと思われることなのだ。それでは結局、不正な人間でありながらその正体を気づかれぬようにせよ、とすすめていることにほかならないし、ひいてはまた、〈正しいこと〉とは他人の善、強者の利益であるが、〈不正なこと〉とは自分にとって為になり得になることであり、弱い者にとっては不利益になることだ*という、トラシュマコスの説に同意する結果にもなる、と。」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「さてそれで、どういうことになるだろうか? それらの成員のひとりひとりは、それぞれ自分の仕事をみんなの共用のために提供しなければならないのだろうか? たとえば農夫は、一人で四人分の食料を供給し、四倍の時間と労力をその食料供給のために費して、それを他の人々と分け合わなければならないのか。 それとも、他の人々のことはかまわずに、それだけの食料の四分の一を四分の一の時間で、自分ひとりだけのために作り、残りの四分の三の時間は、家を作ったり、衣服をこしらえたり、履物を用意したりすることに使って、他の人々と交わる面倒をはぶき、自分は自分のために自分のことだけをなすべきだろうか?」 アデイマントスは答えた、 「いや、それはソクラテス、おそらくは前のやり方のほうが、後のよりも容易でしょう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「それならわれわれは、人間の場合についても、自信をもってこう言ってよいだろうね 身内の者や知っている者に対して穏和な人間となるためには、その人は、生まれつき知を愛し、学びを愛する人間でなければならないと?」 「ええ、そう規定することにしましょう」と彼は言った。 「こうしてわれわれにとって、国家のすぐれて立派な守護者となるべき者は、その自然本来の素質において、知を愛し、気概があり、敏速で、強い人間であるべきだということになる」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「言葉(話)には二種類あって、ひとつは真実のもの、もうひとつは作りごとの言葉(話)なのではないかね」 「ええ」 「教育はその両方の種類の言葉(話)で行なわなければならないが、作りごとの言葉(話)による教育のほうを、先にすべきではないか」 「それはどういうことでしょう?」と彼は言った、「よくわかりませんが」 「君にはわからないかね」とぼくは答えた、「われわれは子供たちに、最初は物語を話して聞かせるではないか。これは全体としていえば、作りごとであるといえよう。真実もたしかに含まれてはいるがね。そしてわれわれは子供たちに対して、体育よりも先に物語を用いるのだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「大きな物語をとってみれば」とぼくは言った、「われわれはその中に小さな物語をも見ることになるだろう。なぜなら、物語というものはそれが大きくても小さくても、その型は同じであるべきだし、同じ効力をもっていなければならないから。そう思わないかね?」 「そう思います」と彼は言った、「しかし大きな物語と言われるのがどのような物語のことなのか、いっこうに思い当りませんが」 「ヘシオドスとホメロスがわれわれに語った物語*、そしてその他の詩人たちが語った物語のことだ」とぼくは言った、「というのは、彼らは人間たちのために、作りごとの物語を組み立てては語っていたのだし、いまも語りつづけているといえるからね」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「ではそれらは、取り除かなければならないのだね?」 「ええ」 「そして、いま挙げたようなのとは反対の特徴をもつ名前を使って、語ったり詩作したりしなければならないのだね?」 「ええ、明らかに」 「そうするとまた、名のある立派な人物たちが悲しんだり嘆いたりするくだりも、われわれは削除すべきだろうか?」 「そうしなければなりません」と彼は言った、「さっきのを削除したからにはですね」 「ひとつ、考えてみてくれたまえ」とぼくは言った、「ほんとうにわれわれがそれを削除するのが正しいことかどうかを。 立派な人物というものは、自分の友である立派な人物にとって死ぬことが恐ろしいことだとは、けっして考えないだろうとわれわれは主張する」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「さらにまたわれわれは、真実ということを大切にしなければならない。というのも、もし先ほどのわれわれの議論が正しくて、偽りというものはほんとうに神々には無用であり、人間にとってだけ、いわば薬として役立つものであるならば、明らかに、そのようなものは医者たちにまかせるべきであって、素人が手を触れてはならないものなのだ」 「ええ、明らかに」と彼は言った。 「したがって、もし偽りを言うことが誰かに許されるとすれば、国の支配者たちだけが、国民なり敵たちのために、それが国家に有益である場合、偽りを言うべきであろう。他の者たちは誰も、そのようなことに手出しをしてはならないのだ。いや、素人の者にとっては、そうした支配者たちに向かって偽りを言うということは、病人が医者に向かって、あるいは体育の訓練を受ける者がその指導者に向かって、自分の身体の状態について真実を語らないという場合や、あるいは、船員が船長に向かって船や船員たちのことについて、自分や他の船員仲間の誰かがどうしているか、そのほんとうのことを語らないという場合とくらべられるような、これらと同等もしくはそれ以上の罪であると、われわれは主張すべきだろう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「とすれば、ましてや何か言うに値する仕事を本業としてもちながら、それと同時に、たくさんのものを真似して〈真似〉の達者な人となるというようなことは、とうていできないだろう。げんに、〈真似〉のあり方としては互いに近い関係にあると思われている二つの領域のものですら、同じ人間がその両方にわたってうまく〈真似〉を行なうということは、できないだろうからね。たとえば、喜劇と悲劇を創作する場合などがそうだ*。それとも、君はついさっき、この二つを〈真似〉によって成立するものとは呼ばなかったかね?」 「そう呼びました。そして同一の作家で両方うまくできる者はいないと言われるのも、たしかにほんとうのことです」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
いまプラトン『国家』を読んでるわけだけど、「ルールの穴を突いて上手に儲けるほうが正しい」という意見に対する反論から始まるので、人類は少なくとも数千年前からそういう問題意識を持ちながらもどうしようできてないことがわかる
プラトンの「国家」を読み直しているんだけど、民主制下の人間がなぜだめかの記述がいまのSNSに当てはまりすぎて泣けてくる。「こうして彼の生活には、秩序もなければ必然性もない。しかし彼はこのような生活を、快く、自由で、幸福な生活と呼んで、一生涯この生き方を守り続けるのだ。」
国家 プラトン
今から2000年以上前に理想的な政治形態を考察した書。民主主義の限界を指摘したところは凄いが哲人統治の薦めは頷けない。
プラトン『国家』に「愚か者ほど自信たっぷりに大声で話す」という言葉があるとされているが、これは東西古今を問わない真理であって、どの文明にも同様の表現は見られるだろう。シェイクスピア『ヘンリー五世』にある
The empty vessel makes the greatest sound.
によって世間に広まったらしい。
プラトンの『国家』を二巻まで読む。生々しさゆえに、いま読んでもクリティカルだなと。二巻の前半部分のホッブスやニーチェ的な議論がとくにおもしろかった。〈正義〉は〈不正〉に勝るというよりも、〈不正〉が〈正義〉に勝る部分の話がギラつく。
トランプ=無敵の人の突き抜けた不正の魂の行方。
プラトン『国家』における民主制批判、「彼らはみな権威と束縛を嫌い、自由と平等を愛するあまり、子供や若者はおろか、犬や豚や牛までもが自らの自由と権利を主張しだす」みたいなことを言っていてだいぶおもしろいんですよね。
「究極の不正は、実際は正しい人でないにもかかわらず正しい人と思われること」 プラトン『国家』より
プラトン著の国家という本、本当やばい。。。一人称の「ぼく」で進んで行くので、村上春樹先生の小説みたいに読めまゃう。。国家が成立する前には、物語が必要になる。あなたが、子供に何を教えるよりも先に毎夜絵本を読み聞かせるように。ソクラテス先生、勉強になります。
プラトン『国家』によれば、独裁僭主は民主制から生じてくるものであり、独裁僭主のまわりにはまともな人間は1人も残らず、彼の取り巻きは暴力をふるう粗野で野蛮な連中ばかりだと述べられています。そして口では自分は民衆の味方であると騙り、実際に甘い政策を行ったりもすると言われています。
プラトン『国家』は全体としては長いけれど、第1巻は独立した対話篇としても読めますよね(実際、1巻と2巻以降は書いた時期も異なるという考証もある)
無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない。(プラトン/『国家』)
「 「したがって、われわれが最初に定めた原則 すなわち、われわれの国の守護者たちは、他のすべての職人仕事から解放されて、もっぱら、国家の自由をつくり出す職人としてきわめて厳格な腕をもった専門家でなければならず、およそこの仕事に寄与することのないような他のいっさいの営みに手を出してはならないという、この原則をわれわれが守り通そうとするならば、彼ら守護者たちは、ほかのことを何ひとつ仕事として行なってはならないのと同様に、〈真似すること〉も許されない、ということになるだろう。そしてもし真似するのであれば、彼らにふさわしいもの、すなわち勇気ある人々、節度ある人々、敬 な人々、自由精神の人々、そしてすべてこのような性格のものをこそ、早く子供のときから真似すべきであって、逆に賤しい性格の物事は、実際に行なってもならないし、それを真似るのが上手であるような人間であってもならないのだ。その他、およそ醜いことの何についても同様である。それはほかでもない、真似をしているうちに、彼らがそこから実際にその性格を自分の中に受け入れるということが、あってはならないからなのだ。それとも君は、気づいたことがないかね 真似というものは、若いときからあまりいつまでもつづけていると、身体や声の面でも、精神的な面でも、その人の習慣と本性の中にすっかり定着してしまうものだということに?」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「そして、最も美しいものは、最も恋ごころをそそるものだね?」 「もちろんです」 「とすれば、真に音楽・文芸に通じた人は、できるだけそのような調和をそなえた人たちをこそ、恋することだろう。逆に、この調和がないならば、彼はそのような者を恋しないだろう」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「そこで、そのような音楽・文芸の教養を身につけた者は、その気になったならば、その同じ道に沿って体育を追求してわがものとなし、やむをえない場合のほかは、医術をいっさい必要としないようになるのではないかね」 「たしかにそう思います」 「そして体育の内容をなすつらい鍛練そのものも、彼は体の強さを目的とするよりはむしろ、自分の素質のなかにある気概的な要素に目を向け、それを目覚めさせるためにこそ行なうだろう。その点は、他の一般の競技者たちがもっぱら体力を目的として、自分のために食事やつらい鍛練を取りしきるのとは違うわけだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「た、「ただもっぱら体育だけを事としてきた人たちは、しかるべき限度以上に粗暴な人間になる結果となるし、他方逆に、ただもっぱら音楽・文芸だけを事としてきた人たちは、彼らにとって望ましい以上に柔弱になってしまうということですね」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「 「しかし、もしそのまま他のことは何もせず、ムゥサの女神ともいっさいおつき合いしないでいるならば、どういう結果になるだろうか? かりにその人の魂の内に学びを好む性格がいくらかあったとしても、学びや探求を何ひとつ実際に味わいもせず、いかなる言論にも、その他の教養(ムゥサの技芸)にも関与しないのだから、せっかくのその好学の性格も、無力で聾盲になってしまうのではないか? 目覚めさせられることなく、養い育てられることもなく、またそれの感覚も純化されないままでいるのだからね」 「そのとおりです」と彼は答えた。 「こうして、思うにそのような人は、言論嫌いの人間になり、ムゥサの学芸に縁なき無教養の人間となる。そして、もはや言論による説得はいっさい用いないで、獣のように暴力と粗暴さをもってすべての目的を達成するようになり、無知と暗愚のうちに、よきリズムと品位を欠いた生活を送ることになるのだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著
「あらゆることにおいて女性は男性に、ずっとひけをとると言って差支えないでしょう。たしかに、いろいろの仕事にかけて、女が男よりもすぐれているという例は数多くあります。しかし全体として見れば、あなたの言われるとおりでしょう」 「そうとすれば、友よ、国を治める上での仕事で、女が女であるがゆえにとくに引き受けねばならず、また男が男であるがゆえにとくに引き受けなければならないような仕事は、何もないということになる。むしろ、どちらの種族にも同じように、自然本来の素質としてさまざまのものがばらまかれていて、したがって女は女、男は男で、どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり、ただすべてにつけて女は男よりも弱いというだけなのだ」」
—『国家 上 (岩波文庫)』プラトン, 藤沢 令夫著