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Posted by ブクログ
「たしかにそのとおりです、ソクラテス」
徳は教えられうるか? 徳とはなにか?ということについて考えてはいないから、良い議論ではないのだが……
徳は生まれ持っての性質というのが結論であったか?
「人は自分の知らないものをどうして探求できるのか」-想起によって。
想起説 「自分で自分の中に知識をふたたび把握し直すということは、想起するということにほかならないのではないだろうか?」
(世界にもともとあった真理を習得しただけで、思い出した、というのはね……)
魂の不死
ソクラテスによる形の定義……つねに色に随伴しているところのもの
色の定義を持ち出したら循環するだけよな。
少年奴隷とソクラテスの対話
実念論においては想起説を認めよう。
「メノン、どうやらアニュトスは怒ってしまったようだ」
実際に道を通ったことがなく、ちゃんとした知識を持っていなくても、正しい道へ行けた場合。p106
徳(アレテー)……卓越性、能力、すぐれていること
「徳は教えられうるか?」
これは、メリトクラシーの中での至上命題となるのは必至であった。
Posted by ブクログ
今までの読んだプラトンの作品に比べて、反論なく円滑に議論が進んでいくので分量も少なく読みやすい。
「徳とは教えられるのか」についての議論だが、そもそも「徳とは何か」に議論がすり替わる。
というのも、それがどうであるかはそれがどのような性質のものかを定義づけなければ語ることができない。これは日常的な会話にも言える。
例えば旅について語っても、「一人なのか複数なのか」、「どこにいくのか」、「目的は何か」と性質を限定して定義づけなければ、議論は想定違いの結論を生みかねない。
話がずれたが、本書では『パイドン』で語られていた想起説やイデア論について述べられており、合わせて読むとプラトン哲学をより深く理解できる。
個人的に最近「直感」が実在することに気づき、自分の奥底に眠るイデアがある特定の物事に触れると思い出されるかのような、まさしくプラトンの言う想起説で説明がついてしまう興味深い発見をした。最初は想起説なんて机上の空論だとたかをくくっていたが、そうでもないのかも知れない...。
Posted by ブクログ
哲学の入門書として「ソクラテスの弁明」と同じ程優しく読めると言われるプラトンの著作。
「徳は教えられうるか」というテーマで対話がすすめられています。
そして、魂の不死や想起についても触れられています。
「人間は、自分が知っているものも知らないものもこれを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」
というソクラテスの言葉が非常に不思議に思われます。
Posted by ブクログ
「徳は教えられるか」を主に話しているが、一番面白かったのは、想起説。
ソクラテス:ぼくは徳とはそもそもなんであるかということを、君と一緒に考察し、探究するつもりだ。
メノン:なにであるかわかっていないとしたら、どうやってそれを探究するおつもりですか?もし、探り当てたとしても、それだということがどうしてあなたにわかるのでしょうか?もともとあなたはそれを知らないはずなのに。
ソクラテス:つまり、「人間は、自分の知っているものも知らないものもこれを探究することはできない。というのは、まず、知っているものを探究するのはありえないだろう。なぜなら、知っているのだ。ゆえに、その人には探究の必要がまったくない。また、知らないものを探究するということもありえないだろう。なぜなら、その場合は何を探究すべきか、ということも知らないはずだから」ということかね?
メノン:よくできていると思いませんか?よくないか指摘できますか?
ソクラテス:できる。というのは、僕は神々の事柄について知恵を持った男や女の人たち(たとえば、ピンタゴラス)から次のことを聞いた。すなわち、「人間の魂は不死なるものであって、ときには生涯を終えたりする――これがふつう『死』と呼ばれている――ときにはふたたび生まれてきたりするけれど、滅びてしまうことはけっしてない」。
このように、魂はいっさいのありとあらゆるものを見てきている魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてない。よって、徳というものが何であるのか、それがそうであるということは、わかるはずだ。ある一つのことを想い起したこと――このことを人間は「学ぶ」と呼んでいる――その想起がきっかけになり、他のすべてのものを発見することもありえる。つまり、探究するとか学ぶということは想起することにほかならない。
イデア論の根はこれかなーと思います。
たとえば、「生きる意味とはなにか」と探す。
でも、なぜ生きる意味があると思うのか?
それは、全くわからないものなのに。仮にわかったとしても、なぜそれが真であると思うのか?
ソクラテスは、ここで「魂」を出してくる(ここで面白いのが、ソクラテスはすべてのことを疑ったのに、「魂」の存在を疑わなかったこと)。
「人間の魂は不死であり、生々流転する。魂はありとあらゆるものを見てきている。したがって、魂がすでに学んでしまっていないようなものは無い。」
人間の魂。では、一番初めの人間には、誰の魂が入ったのか?
その魂は、どこで、ありとあらゆるものを見たのか?どこからきたのか?
疑問。魂なんていうものを信じていいのか!
さて、多くの哲学者は普遍的なものを探してきた。いまだに見つかっていない。
でも、なぜ、「普遍的なものが存在する」と思うのか?
わからないものなのに。もしその「普遍的なもの」が見つかったとして、どのようにそれが真だとわかるのか?理論?科学?
なぜ、それが理論的・科学的にわかるのか?
魂が知っているから、それを見つけたら思い出すんだ。
って考えると、なるほどなー。
(まっちー)
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