プラトンのレビュー一覧
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ネタバレソクラテス とすると、有益であるという点にかけては、正しい思わくは、知識に何ら劣らないわけなのだ。
メノン しかし、ソクラテス、これだけの差はあるでしょう。つまり、知識をもっている者はつねに成功するけれども、正しい思わくをもつ者のほうは、うまくいくときと、そうでないときがあるという点です。
ソクラテス どうして?つねに正しい思わくをもっている者は、いやしくもその思うところが正しいあいだは、つねにうまくいくのではないかね。
メノン そうでなければならないようですね。すると、どうも私には不思議になるのですが、ソクラテス、もしそうなら、いったいぜんたいなぜ知識は、正しい思わくよりもずっと高く評価されるのでしょう?またこの二つが、それぞれ別のものとして区別される理由はどこにあるのでしょう?
ソクラテス どうしてそれが君に不思議に思えるかわかるかね。それとも、ぼくが言ってあげようか?
メノン ぜひ教えて下さい。
ソクラテス それはね、君がダイダロスのつくった彫像に注意したことがないからだよ。もっとも、君たちに国にはもともとないもかもしれないが。
メノン いったい何を考えて、そんなことを言われるのですか?
ソクラテス あの彫像もやはり、しっかりと縛りつけておかないと、逃げて走り去ってしまうが、縛っておけば、じっとしているということさ。
メノン それで?
ソクラテス ダイダロスの作品を所有していても、それが縛りつけられていないならば、ちょうどすぐ逃亡する召使と同じことで、あまりたいした値打ちはない。じっとしていないのだからね。しかし、縛り付けられている場合は、たいした値打ちものだ。なにしろ、たいへん立派な作品だから。―ところで、何のつもりでこういうことを言うかというと、ぼくは正しい思わくのことを考えているのだ。つまり、正しい思わくというものも、やはり、われわれの中にとどまっているあいだは価値があり、あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから、それほどたいした価値があるとは言えない―ひとがそうした思わくを原因(根拠)の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ、親愛なるメノン、先にわれわれが同意したように、早期にほかならないのだ。そして、こうして縛りつけられると、それまで思わくだったものは、まず第一に知識となり、さらには、永続的なものとなる。こうした点こそ、知識が正しい思わくよりも高く評価されているゆえんであり、知識は、縛りつけられているという点において、正しい思わくとは異なるわけなのだ。
メノン ほんとうに、ソクラテス、何かそういった事情にあるもののようですね。 -
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イデアに対する理解が足りなかったので、愛に導く神エロースに関する議論はイメージし易く、その理解を深めてくれる。
ディオティマとソクラテスの対話には引き込まれたが、その他のエロース賛美はダラダラ進んでいく。このダラダラの中にこそプラトンのソフィストや喜劇・悲劇作家等を描く巧みな表現がふんだんに詰まっているわけだが。
我々は不死を得るために愛によって子どもを作るし、創作するし、教育する。つまり我々は自分という存在を後世に残したいと強く望んでいるのだろう。このレビューも一種のそれに該当すると言ってもいいかも知れない。
「美そのもの」を求めて人生を歩む必要性を強く感じる。この美の段階の議論は現代にも当てはめられるもので面白いので非常に読み応えがある。
ただ、岩波の訳は少し読みにくい... -
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疲れるがすごい(まだ半分) 紀元前でこれか〜すごいわ。ギリシャ哲学と名前はよく聞くけれど、その一端に触れたのは始めて。理論として現在でも通用する、というか人間社会の本質を射抜いていることに驚嘆。
正直理解しきれないところ、屁理屈こねてるなーと思うところはたくさんあるけれど、電気もガスも当然無い、社会システムが未発達であったはずの時代において、これだけの事が考え抜かれていることに感嘆。
正義とは何か、という問から国家のあり方に入っていき、個人が自分のすべきことを徹底して行う社会、人物を共有する社会を理想としているけれど、これは社会主義につながる理解でいいんだろうか。 -
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ネタバレ哲学というものはやはり難しい…
だけれどもこれぐらいだと、
とっつきやすくはなるのかな…
ただやはりそれでも独自の表現はあるけど
確かに、徳は残念なことに
教えることはできない代物でしょう。
結局のところ教えられても
それを自分で会得しなければ意味ないわけで
それをしない人には意味がないのです。
それは悪人を善人に変えることが難しいのと
一緒なのかもしれませんね。
この中にはあ、と思えることが多いと思います。
先入観がいかに危険か、
それはこの貴重な知の源を
処刑により消し去った
ある人物の発言がまさにそれでしょう。
ただ哲学ですので… -
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ネタバレパイデラスティア、美の梯子
本文もさることながら、解説が詳しく書かれているのが本書の良い点である。歴史的背景と文化的背景がわかりやすく、理解の助けとなった。なかでも、パイデラスティア(少年愛)について誤解を与えぬよう配慮しながらの記述に多く学んだところがあった。
古代ギリシャ人の性は、現代における性とは異なる側面をもっているため、現代的な価値観を通して評価するのは危険である。古代ギリシャ人の愛は近代的な価値観の枠組みの外にある。彼らの性的な愛は対等な関係を前提としておらず、不均等な優劣の中で成立する。それは少年愛に限らず、女性との関係においても動揺で、彼らにとっての性は能動—受動という関係によって把握される。そうした関係性が重要であり、性別は二次的なものとなる。
アンドロギュノスの話をしたアリストファネスに興味が湧く。おもしろいし、なぜか納得できる。男男、男女、女女の組み合わせ。 -
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プラトン著作の中から『リュシス』と『恋がたき』の2編を所収。(但し『恋がたき』は偽書の可能性があるとのこと)
『リュシス』は「友」とはどういう人か、さらに「愛する」とはどういうことかを問うた対話篇で、『恋がたき』は「哲学」とは何か、さらにどんな「知」を愛することなのかを問うた対話篇である。
根本としてどちらも「愛すること」「愛するとは」をテーマとした対話篇であるが、非常に短い短編となっていて、プラトンの対話篇に親しむにはとっつきやすい作品であるといえる。
それぞれの対話の構造的解釈は本書の「解説」に詳しい。
『リュシス』では美少年2人を相手に(しかも、ソクラテスの知人が対話の一方である美少年リュシスに恋をしている!)、『恋がたき』では哲学オタクの文系少年と体育会系少年を相手に、例によってソクラテスは議論をふっかけているのであるが、議論のテーマや対話相手(美少年!)にも関わらず、期待に反して(?)艶やかな場面は一切ない。(笑)
むしろ、ソクラテスのいつもの議論主導にもかかわらず、『リュシス』では「友とは、友のために、敵のゆえに友の友である」とか「本当の友とは、何かある友のために友であるのではないことになる」とかのようにややこしい議論に発展していき(笑)、結局は似た者同士もお互いに足りないところを補う者同士も友ではないという結論になってしまい、「友」とは何かわからなかった・・・という結末を迎えることになってしまって、読んでいるこちらも頭がくらくらと混乱したままの放置プレイ状態であった。
大体、病人が医者が友で愛するというのと、父が息子を愛するというのと、同一比較できる対象でないし・・・。逐次、話の論点がすり替わっていくので、議論経過でも頭がくらくらとした・・・。(笑)
また、『恋がたき』では、哲学が好き!と言っていた文系少年は実は一通りの知識があり専門知識に精通していなくても世の名声は得られるよね!との考えの持ち主であることが判明、哲学魂に火が点いたソクラテスの「哲学ってえのはなあ」という質問攻撃でぼこぼこにして自称・哲学オタクの文系少年を恥じ入らせるという話で、最後はスカっ!とくるものの、いつもの我田引水的な議論の誘導にまたもや頭がくらくらしてしまった。(笑)
反対に、善い人間と悪い人間の区別がつかないような人間は自分自身も知らないということ、つまり節度がない人間であり正義を全うできない人間で、その「知」を得るのが哲学するということで知識を得るのに2等賞に甘んじてはダメ!というくだりは、自分自身にも身につまされる思いがして、哲学オタク少年とともに恥じ入りそうになってしまった・・・。
両篇ともに議論の結末としては中途半端さがあるものの、議論だけをみるならテーマがテーマなだけに割と真面目な議論だったのではなないかな。
いつもの通り議論の展開の仕方に疑問点は相当湧くものの(笑)、プラトンの思想のとっかかりとプラトンそのものに親しむには格好の短さで、そうした議論のわかりにくさの故か「解説」の方は充実しているので、これからプラトンを手にとりたい方にもぴったりの一書かもしれない。
但し、すぐに結論に飛びつきやすい人、求めやすい人には・・・!?(笑) -
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最近金のことを考えてたら、日課であった知的探求が完全にストップしてしまっていた。価値観は人それぞれかもしれないが、いつも内面に疑問を抱き続ける2か月ほどだったので、うまく脱却できまたプラトンに戻ってこれたことに、なんだか感謝の思いにまで至る。
解説に助けられながら、「饗宴」読み終わった。エロスについての対話。人間の欲望、愛、性。人生に欠かすことができない要点ともいえるエロス。結論としてはまだ不確かなところがあるが、肉体の欲望➡心の欲望➡関係からの欲望➡知的欲望と、エロスも段階的により価値があるものへと高められていく、という感じのところが印象的だった。「知」を幸福に至る最高の方法として置くが、性もそれと無関係ではなく、ある意味の秩序として地続きであるように語られているところが面白い。
17.11.13 -
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ネタバレ若いときにこんな古典をあまり読んでなくて今回初プラトン。何年か前に買って積んでいたのをやっと1冊解消。
二千四、五百年前の異郷という時代・地理的距離もどのくらいのものか、日常生活の感覚の何がどう違うのか同じなのかつかめない。
弁論の評価とはいえ恋の口説き文句(しかも時代状況から少年愛、いまから見るとBL的前提だ)という卑近な話題から始まるあたりに親しみが持てる。そして論理的に推論し常識・直感に反した主張に至ったのをいったん高く評価しかけるもソクラテスがはたと考え「恋ってそんなにくだらないことなくない?神様の賜物じゃん?真理を求めるのと同じ崇高な精神じゃん?」と異論を高らかに詠い上げる。かじり読みや耳学問とはいえ近現代思想の華麗にねじれた、まさにプラトンなどへの批判を含むような話をいくつか見聞きしてきた者の目から見ると、ひねくれてるような純朴すぎるような。しかしなんかおもしろいなという気もする。定評ある古典の一つのようだがいまひとつ消化不足感。繰り返し読まないと良さが汲めないのかもしれない。
語る言葉に対して書いた言葉を低めるくだりが終わりごろにあるが(デリダなどが批判した話か?)、訳者の藤沢は他ならぬ著者プラトンが幾多の書物を書き綴る苦労を知ったうえでの自戒だと指摘していてああそういう理解もあるなと思った。 -
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プラトンということで。
「知る」ということがどういうことなのかを巡って数学者とソクラテスが考える。知るということがどういうことなのか、考えてみたくて読んでみることに。
プラトンのいわゆる主要な対話篇と異なり、その思想体系を突き詰めた対話篇では決してない。しかし、それはひとえに、「知る」ということを考え続けていたからに他ならない。「知る」という行為が純粋に実践であると同時に、きわめて形而上学的な事態である。たぶん書いていたプラトンそのひともかなり難航したに違いない。
人間は流転すると言えば流転しているし、止まっていると言えば止まっている。ただのことばなのである。そんな風に存在はできてしまっている。なんとまあ不可思議な存在であるか。おそらく、あえて対話テーマを絞らないで、プラトンは考えてみたかったのだろう。風呂敷を拡げ考えては立ち止まり、別の風呂敷を拡げてはまた考え、どこか煮え切らない感じに対話が進んでいく。
プロタゴラスの原則は、万物の尺度は人間であるということである。ソクラテスはほんとうのことが知りたいから、はたしてすべての尺度であるのか考える。たしかに、痛みをはじめとする感覚というものをひとは誰かと共有することはできない。感覚とはどこまでも個人的なものだ。だが、その個人的な現象である感覚を、ひとはどういうわけか知っている。なぜだかことばにしたり、それでひとと話すことができる。真に個人的なものであるなら、どうして語ることができるのか。ここに、万物の尺度たる人間という原則がゆらぐ。あくまでプロタゴラスの原則は感覚に関することであって、知ることに関しては別なのである。感覚することと知ることは別の事態なのである。
では、「正しく考えた」ことが「知る」ことになるのか。そして、「知識」とは「正しく考えた結果として言語化されたもの」なのか。所有と所持の考え方を用いているが、時間的に考えれば、「知る」という行為自体どこまでも現在の行為であって、「正しさ・誤り」というのは知った後のことなのだ。知るということが先行しない限り、正しさどうこうも起こりようがないはずだ。
カントはこういうことをどこまでも概念の操作で詰めようとしていった。ソクラテスという男は学者でもなんでもないから、そんな頭の痛いことはしない。どこまでもこの生きている存在から連続した事態として考えていく。臨床哲学とかいう謎の学問を掲げるひともいるが、学問自体が生きている不思議から生じていなければ一体なんだというのか。産婆術とは、未知なる存在に対する探究心のことだ。知りたいから対話する。知らないから対話できる。 -
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初期プラトンまとめ読みの2冊目。
ソフィストのゴルギアスを相手に、弁論術について、議論を挑むソクラテスという構図は、基本的に「プロタラゴス」と同じだし、ソクラテスの論法も基本的には同じかな。
ただし、プロタゴラスさんが結構、人間味のある常識人だったのに対して、ゴルギアスさんは、もっと職業的な弁論家で、タイトルに反して、ゴルギアスとの議論は、早々に終わる。
ここまでは、ある意味、「プロタゴラス」の議論の復習といったところ。で、このあと、2人の若者が、「それは、納得いかない」とソクラテスに議論を挑む。その2番目のカルリクレスとの議論が、ハイライト。
カルリクレスは現実主義で、ソクラテスの書生議論を馬鹿にする。そして、「権力こそ善、快楽こそ善」といった、ちょっとニーチェを思わせる議論をふっかける。
これを契機に、丁々発止の議論がなされるのだが、カルリクレスさんは途中で議論につかれてしまって、最後の方は、ソクラテスの一方的な演説になってしまう。
この辺の議論の内容や一方的な議論の進め方は、プラトンの主著「国家」を思わせるところ。「ゴルギアス」が初期プラトンと中期プラトンをつなぐ作品であるといわれる所以である。
で、いろいろ議論したあげくが、「あの世での審判」の話になってしまうところも、「国家」と一緒だ。。。。
が、「国家」と違うのは、そういうソクラテスの一方的な議論を周りの人は、かなり冷めた目で見ているというか、あまり説得されていない、というのが伝わってくるところ。
「国家」では、みんな「そうです。その通りです。ゼウスにちかって」みたいな相槌しかないからな。
「ソクラテスとは何だったのか」という疑問を考え続けたプラトンが、プラトンなりに描いたソクラテス像の集大成というところかな。
これ以降、プラトンの著作にでてくるソクラテスは、どんどん史実のソクラテスから離れて、プラトンの空想上のキャラクターになっていく、のかな。 -
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30年前くらいに読んだものの、再読。
そのきっかけは、
・対話という手法への関心
・「プラトン主義からの離脱」が個人の哲学的テーマ
ということなんだけど、もっとも直接的には、デリダの「プラトンのパルマケイアー」という論文で「パイドロス」を論じてあることを知って、関心をもったこと。
うーん、やっぱり、デリダの解釈、無理あるよ。まあ、脱構築って、正しい解釈ではなく、テクストの無数の読みを可能とすることなんだろうから、その無理矢理の手腕にただ驚嘆していればよいのだろうが。。。
内容自体への感想としては、面白いたとえ話しがいくつもあって、楽しかったというところ。イデア論としては、主著「国家」とともに成熟段階のものだけど、理論的な「国家」よりも、こちらのほうが感覚的で心にしみる。
が、この本、なんか字が小さいね。老眼になりつつあることを発見した。 -
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ネタバレソクラテスらによる、愛の中でも性的な愛を意味するエロスについての演説。平易な言葉で臨場感が伝わってくる本編訳に加え、舞台背景やなどについて約100項にわたる詳細な解説が理解に深みをもたせてくれる。とはいえ、考えが大きく変わることはなかった。
私は、人間を「よい」と認識するのは肉体と精神の相互作用によるものであり肉体の美しさを軽視すべきでないと考えている。
本書に、あらゆる体における美しさは同一、とあるが論理の飛躍としか思えない。
真理を語ろうとするから、美しい体は瓜2つとなるのは必然だろう。黄金比のそれだろうから。そして、真理だから、それを愛するべき、となる。此処が決定的に間違っている。誰もが黄金比の体に恋い焦がれる訳ではないし、かといってそれは、体なら何でも良い、では決してないだろう。
真理に向かうことは真実を見失うように思う。
解説に違和感を覚えた箇所もある。エロスが求める「美しいもの」「よいもの」を「善」と解説されるのだが、「善」とすると道徳という名の臭みがついてしまわないだろうか。