プラトンのレビュー一覧
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ソクラテスは、知者として高名なプロタゴラスに対して最大限の敬意を払い、持ち上げると見せて、彼の演説の中の、一見些細なことにも思える問題点を指摘する。はじめは余裕で応じていたプロタゴラスも、ソクラテスから次々と繰り出される質問に次第に追い詰められ、最後は自分の発言の誤りを認めざるを得なくなる。そんなプロタゴラスの様子と、ソクラテスの鮮やかなやり口に、昔見た米国のテレビドラマ「刑事コロンボ」が想い起こされた。プラトンの著作の中でも、読み物としての面白さが特に際立つ作品となっている。
「徳は生まれつき備わっているものではなく、教えられて身につくものである」というプロタゴラスの主張には、納得できる部分もあるように思う。だが「徳は知識である」というソクラテスの主張についてはどうか。作中のプロタゴラス同様、違和感を抱かざるをえない。だが知識でないなら、なぜ教えることができるのだろうか。
一方、プロタゴラスの主張に反対していたソクラテスも、プロタゴラスとの問答の末に、徳は知識であり、したがって教えられるものであることを証明する結果となってしまう。二人とも自己矛盾に陥った格好だ。
ソクラテスが言うように、議論のどこかに誤りがあるのか。あるとしたら、それはどこなのか。答えは読者に委ねられる。哲学するきっかけを読者に与えるという点でも、本書は優れた哲学入門書といえる。 -
Posted by ブクログ
もう二度とレジメにしたくないですねー笑
話が結構込み入っていてややこしい。
知識とは何かを問いながら、「~ではない」というかたちで反駁していく(結局こたえはみつからないのだけれど)。
ヘラクレイトスやプロタゴラスの言葉ーー「万物は流転する」「人それぞれ」ーーというかたちの相対主義をいかに乗り越え、共通のものとして知を立てることができるのか、ということがプラトンの課題。
あまりここでは「イデア」という発想が全面にはでてこないので、そのぶんだけややこしいのかもしれない。
そしてもうひとつのモチーフは、《産婆術》。
ソクラテスは、相手を窮地に陥れバカにするのだ、
という批判に応えるために、
ソクラテスは、若い男の子がみずから孕んだ概念のお産を助けてやるのだ、
というのを実践的に見せている。
確かに、こう言えばうまくいくんじゃない?とフォローしながら若い子と話していくのは楽しい。
うんうん唸りながら最後に「ああ、そうか!」という笑顔を見るのは好きです。 -
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ソクラテス先生若者と恋と弁論について議論の巻。
恋についてと弁論について、
二つのテーマを扱っているように見えるが、
藤沢令夫先生のあとがきによると、
哲学という一つのテーマで一貫しているらしい。
恋は狂気と同じではあるが、
偉大なものは狂気から生れるとしているが、
弁論は正しくないことも
もっともらしく見せるための方法。
ついでに文章はどんな相手にも
同じ答えしか言うことの出来ない
欠陥品とソクラテス先生は手厳しい。
ソクラテス自身は著作が全く残っていないため、
本当にそういう考えの持ち主だったんだろうけど、
プラトンは師の思想を継承して哲学するために
師が否定した文章という方法を
用いることをどう思っていたんだろう。 -
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ネタバレギリシアの哲学者ソクラテスの弟子プラトンによる、愛と知をめぐる対話。学生時代に熱心に読んでいたが、ひさびさに通読。
少年愛という習慣があったギリシアで、対話のしめくくりは、ソクラテスに横恋慕する弟子の登場でしめくくられる。文学性が高いとされるが、そのあたりはよくわからない。
ただ、ディオティマとの対話を引き出して、ソクラテスが「エロスとは美や善そのもの」と信奉する若者を論破していく下りは、知の遊びとしておもしろい展開。AはB
である。しかし、AはBとは反対のCでもある。という矛盾した対立項をおさめるために、親の話に例えるとは。
愛情とはなにかについて、あらためて考えさせる一冊。もちろん抽象的にすぎないきらいはあるが。愛情があったればこそ、ソクラテスは悪法にも暴君にも従ったのであろう。しかし、それは悲しき諦念でもある。 -
Posted by ブクログ
善く生きることとは
「無知の知」や「悪法も法なり」で有名なソクラテス。
彼自身は著作を遺していないのでプラトンによる記録である。
君がもし、国家で起こりうる不正や違法な行為を止めたいと考えるなら......
公人ではなく、私人であるべき。
私にはこの言葉がわからない。
確かにそうだと思う反面、そうではないという気持ちもある。
もちろん現代とはまったく異なる政治体系の中、また異なる文化の中、いかに県人であっても古代ギリシアの価値をそのままもってきても上手くはいかない。
だからこそ考えてしまう。
今ならば、彼の言葉は異なるのか、あるいは今も変わらないのか。
初めて「倫理」(担当教員は哲学が専門だったのでたいそう面白かった)の授業で深く踏み込んだとき、毒杯をあおいだソクラテスをなんとバカなことをしでかしたものだと思ったが、言われてみれば確かにそうだと頷ける。
それが心からの納得ではないにしても、国家と国法が語る言葉は間違ってはいない。
これは今の日本にも十分に当てはまる。
以下がその一部である。
・もし国民が我々の法律や国家の内情を見て気に入らないと判断したのなら、財産をもってどこへでもいける自由を保障している。
その上でなお、この国にとどまるものがあれば、それは即ち我々の命令に従うという同意を表明したことになる。
・従うことを同意しておきながら従わず、しかも何か間違った点があるとしてもそれを説得しようともしていない(ことは不正である)。
善い生き方。
非常に難しい。
凡人なる我らには、善きことを考え、それを誠実に実行することよりも、日々の些細な出来事に忙殺されてしまう。
それについて責めることはできないだろう。
しかし、一日のうち、ほんの数秒だけ、これは正しいの?
そう考えることで何かは変わっていく。
今はソクラテスのような偉大なる賢人はいない。
googleは「善く生きる」事については教えてくれないのだ。
だからこそ自らの中に眠る賢人を呼び起こす他ない。
その賢人は自分という凡人とともに歩み、助けてくれるはずだ。
その賢人こそ、「わたし」。
自分自身である。 -
Posted by ブクログ
エマニュエル・レヴィナスさんが「これは読んでおくべき」と推奨された3冊の哲学書の一冊である。
後の二冊はヘーゲルさんの『精神現象学』とハイデッカーさんの『存在と時間』
恋する者のはなしから始まって、狂気や神的なものの効用、ものの考え方、書くということの優劣、語るべき言葉を持つことの困難さやそのことを目指すことの尊さまで余すことなく見事に書かれた書物なのだろうと思う。
思うと書いているのはわたしにはまだわからないからで、その大事さを感じることができるといいなぁという期待というか望みというかそんなものをもてるだけだからである。
いずれまた読み返してみなければと、思っているうちに死んでしまうのかもしれない。
Mahalo -
Posted by ブクログ
メノン:徳は人に教えることのできるものなのでしょうか?
ソクラテス:その前に、そもそも徳とは何かを考えてみよう。
メノン:はい、わかりました!で、結局のところ、徳は教えられうるのでしょうか?
ソクラテス:(唖然)
・プラトンの遊び心が感じられる小品。それはともかくとして、ソクラテスは、結局メノンの天然ぶりに押されてしまい、徳とは何かを定義することなく、徳は教えられうるかについて検討する羽目になる。
・仮に徳が知識だとしたら、徳は教えられうるものであるし、徳の教師だっているはずだ。しかし、実際には徳の教師など存在しない。したがって、徳は教えられうるものでもなければ知識でもない。徳は、教えられることのできるものではないが、他方、生まれつき備わっているものでもない。
・それでは、いったい徳はどのようにして身につけることができるのか。ここでソクラテスは、唐突に「徳は神の恵みによって備えることができる」と結論づけて、一方的に対話を打ち切って立ち去っていく。
・まるでキツネにつままれたような読後感を味わったのだが、訳者解説がその後味の悪さを和らげるのに一役買っている。本書は、主題が多岐にわたる他のソクラテスの対話篇と比べて、主題(=徳について)が終始一貫しているため、論旨を追いかけやすいのではないかと思う。 -
Posted by ブクログ
『いけない、いけない、あの人は放っておいた方がいい、それがあの人の癖なんだから。所かまわずどこかへ、人通りを避けて立ち続けることがよくあるのだ。が、いずれまもなく来るだろうと思う。だから邪魔をせずに、放っておいてくれたまえ。』(アリストデモス)
『実際人は次のようなことを熟思するべきである。明らさまに愛するのはひそかに愛するものよりも美しく、しかももっとも高貴にもっとも優秀なものを―たとい彼が他のものよりは面貌が醜いにせよ―愛するのは特に美しいといわれていることを、さらにまた、万人が恋する者に与うる異常なる―しかも何か醜悪な行いのあった者にはけっして与えられぬごとき―鼓舞を、かつ恋愛における成功は誉とせられるが、その不成功は恥辱とせられる、慣習はさらにまたその勝利者となるためならば異常事を行うあらゆる自由を愛者に与え、しかもそれに対して賞讃を受けることすら許している。』(パゥサニヤス)
「お前達の願うのは多分こんなことではないのか、でき得る限り最大限度に一体となって活き、夜も昼も互いに離れずいたいというような。それが本当にお前達の念願なら、俺は喜んでお前たちを一緒に鎔かし、一体に鍛接してやろうと思う、そうすればお前たちは二人が一人となって、生きている限りは、ただ一人の人間として生を共にし、死んだら、後世の冥府でも二人でなしに一人として生き、死においてもなお結びついていることができるだろう。さあ考えて御覧、これがお前達の希望なのか、またこうなればお前達は満足するのか、」と。(ヘファイストス)
『ソクラテス(と彼は答える)、僕は貴方に反対することができません。あなたの仰っしゃる通りでしょう。』
『いや、むしろ真理に対しては(とソクラテスはいう)、親愛なるアガトンよ、君は反対するができないのだよ。ソクラテスに反対するのは何もむずかしいことではないのだから。』
「さてもし愛が常にそういうものへ向かっているとすれば(と彼女は続けた)、これを追求するに当って愛の名に値するほどの熱心と熾烈な努力をする示す人はどういう途を進みまたどういう行動を採るのでしょうか。それはいったいどういう風な活動なんでしょう?答えられますか。」(ディオティマ)
「生がここまで到達してこそ、親愛なるソクラテスよ(とマンティネィヤの女友達はいった)、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生甲斐があるのです、いやしくもどこかで生甲斐があるものならば。」(ディオティマ)
「そんなに自若として彼は味方と敵とに目を配っていた、それでいやしくもこの男に手を触れる者があったら、彼はきわめて手強く防戦するだろうということは、誰にでも―非常に遠方からでも―明らかに看取されるほどであった。」(アルキビヤデス)