プラトンのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『パイドロス』に刺激を受けてこれも読む。同じくプラトンがソクラテスのことを書いた書。後半は解説。
ソクラテスは70歳になった頃、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を崇め、若者を堕落させた」といった罪状で告発され死刑を求刑される。
わかりづらいところもあるけど、わたしが感銘を受けたのは以下のような部分。
p64「善き人が悪しき人によって害を加えられるというのは、思うに、神の掟に適わないのですから。」
p104 「善き人には生きていても死んでしまっても、悪しきことは何一つないし、その人のことは、神々によって配慮されないことはないのだと。」
後半の解説で、以下を読み、はっとした。
p151 天災や偶然や事故、あるいは、悪意や不注意によって財産や名誉や身体が損なわれることは、いくらでもある。しかし、それによって、なにかを被った人自身、つまり「魂」のあり方が損なわれ悪くなるということは、けっしてない。反対に、不正な仕方で他人を害する者こそは、自ら魂のあり方を歪め壊しているのであり、加害者こそが自身を害しているのである。
これはまさに夫がいつも言っていること!
卑近な例でいえば、悪口を言われたからといってその人が貶められることは決してない。悪口を言う人が自分自身を害しているだけなのだ。悪口を言われた人は何も気にする必要がないということになる。
この考え方ができればあなたは無敵だ。何も怖いものはない。
ソクラテスの死は、今のわたしたちにとっては哲学の成立を意味する。
p165「私たち21世紀の読者には、死を前にしたこの予言には、ソクラテスやプラトンの意図を超えて、さらに長い時間での生起が込められていることが分かる。ナザレのイエスが十字架に掛けられたことにより「キリスト教」が成立し、彼の教えが全世界に広まったように、ソクラテスの裁判と刑死が「哲学」の意味を開示し、その営みを継承する人々によって西洋の哲学が成立して、今や日本をふくむ全世界で人々は哲学に従事しようとしているのである。」
かの有名な「無知の知」について記されている。
p31「『この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思い込んでいるが、実際はそうではない』と。
そこで私は、その人が自分では知恵があると思っているが実際はそうではない、ということを当人に示そうと努めました。このことから、私はその人に憎まれ、また、そこに居合わせた多くの人たちにも憎まれたのです。
私は帰りながら、自分を相手にこう推論しました。
『私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で』と。
このことから、私は、その人よりももっと知恵があると思われている別の人のところにも行きましたが、まったく同じ状態だと思われたのです。そしてそこでも、その当人と他の多くの人々に憎まれてしまったのです。」
ただし、「無知の知」は日本で流布する言葉であり、ソクラテスはそのような表現はしていないという。
p129 「ここで大切なのは、ソクラテスが『知らないと思っている』という慎重な言い方をしていて、日本で流布する『無知の知』(無知を知っている)といった表現は用いていない点である」
そしてこのように考えるがゆえに、彼は死も恐れないという。
p59「死を恐れるということは、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。人々はかえって、最大の悪だとよく知っているつもりで恐れているのです。実際、これが、あの恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている状態でなくて、何でしょう。」 -
Posted by ブクログ
ネタバレこの『弁明』に記されている裁判では、かの世界的に有名な偏屈哲学ジジイを極刑に処すべきか否か、二度にわたって聴衆による投票が行われます。
ソクラテスが罪に問われた背景としては、皆さまもご存じのとおり、「無知の知」という盾を構え、「問答法」という武器を振りかざして、そこら辺にいる知識人にレスバを仕掛けて一方的に論破しまくっていたことも理由ではありますが、それだけではありません。
当時暴政を行っていた偉い人たちの師であったことや、まともに神を信じずに、ダイモニオンとかいうよく分からない存在からの天の声を聞いて、危険な思想を若者たちに吹き込んでいたため、「異端」扱いされていたというのも大きかったようです。
法廷に立ってひたすら弁明をするソクラテスは、裁判の冒頭で「70歳にもなって初めてこういう場に立つものだから、話し下手なのは許してほしい」と述べていて、意外と謙虚ですし、告発者(原告)のひとりであるメレトス君の話もしっかり聞いてあげた上で論理的に反駁しています。そのため、ソクラテスがただのネチっこい老害だというイメージをもってこの本を読んでみると、若干拍子抜けするかもしれません。
しかし、投票によって死刑が決まった瞬間、やっぱり悔しかったのか急にネチネチし始めるので笑ってしまいました。実際の口調は至極冷静なふうに書かれているものの、ソクラテスはだいたい以下のような内容の捨て台詞を吐いて、その判決を受け入れます。
彡(゚)(゚) は? ワイ死刑なん? あーもうええわ。ぽまいらほんまにワイを死刑にしたかったんやな。でも正直、ワイが取り乱したり泣きわめいたりせんかったのが気に食わんかっただけやろ?w ワイが淡々と論破してくるから悔しかったんやろ?w まぁええけどな。ワイに死刑票入れたやつ、あとでめっちゃ後悔すると思うで。てか死ぬの怖いとか、よう言うわ。死んだことないのにビビってるやつ乙wwww ワイは死ぬの別に怖くないし、むしろ気持ちええかもしれんやん? 夢も見んでグッスリ寝てる感じやろ? それ最高やん。あと言っとくけど、ワイ怒ってへんからな?w お前らが裁判しかけてきたから、しゃーなしでレスバしただけやしww ほな、じゃあな雑魚共www 生きるのと死ぬの、どっちがええかは神しか知らんっちゅうことでww
こんな面白い人物が3000年も前にすでに存在していたと知れるだけでも、この本を読む価値は十分にあります。
世界一有名な哲学者について聞こえの悪いことをたくさん書いてしまいましたが、ソクラテスの信念が現代社会にも通じる大切なものであることは間違いありません。
相手を質問攻めにして、無理やりにでも論破へ導く問答法はともかく、自分の無知を自覚することは大切です。少なくとも今の時代、ネットの掲示板やSNSに入り浸り、自分の知りもしない話題に首を突っ込み、一方的にまくし立て、相手が悔しがっている姿を想像して気持ちよくなっているような人たちにならないためには。
かくいう小生も、ちょっと本を読んだ程度で理解した気になり、読書感想文をにわかに投下して、このアカウントをフォローしてしまっている不運な皆様に強制的に見せつけているという点では、「無知の知」が足りていないのかもしれません。
結局、何も学んでいないのでありますが、せめて読んだ内容をアウトプットする場を設けることで、少しでも読んだ内容を自分の血肉にしたいという魂胆ですので、大目に見ていただければ幸いです。
ちなみに、ソクラテスは自ら著作をひとつも残していません。そのため、私たちが『ソクラテスの弁明』を読めるのは、弟子のプラトンが頑張って裁判の内容を面白おかしく文字起こししてくれたおかげです。ありがとう、プラトン。 -
Posted by ブクログ
ソクラテスがパイドロスに、初めに「恋」について、次に「弁論術」について語る。2つのテーマが並存しているようにみえるが、巻末の開設によると、実は「より深いところで「哲学(ピロソピアー)という単一の主題によって貫ぬかれていることを指し示している」。
わたしには恋の部分の方がわかりやすかった。弁論術については、わかった部分とわからない部分が半々くらい。
何といっても面白いのは、p132で、話すということについては十分論議が尽くされたとして、「ものを書く」というテーマに移る箇所だ。ソクラテスは「むかしの人たちから伝わる物語り」として、エジプトのナウクラティス地方の話をする。テウトという神が「この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」というと、タモスは「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。(略)ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう」。
いやもうこれ、何でも検索して頭使わなくなった今の人間を予言しているというか、そういう意味で私たちは退化していると言えるなと思った。 -
Posted by ブクログ
プラトン『国家』よりもこちらをおすすめしたい。ちょっと目線が高くなる最高の作品です。
ショートサマリ
弁論術の是非の議論を通して、「より善い生とは何か」を問うた作品。
ソクラテスの対話相手は、快楽を基準に生きること、そして権力を行使して人々を支配し、災厄から免れることが理想的な生だと主張した。
これに対してソクラテスは、快楽や力を追い求める人生は、魂を不秩序に陥らせるという観点で、醜い上に悪く、際限がないと否定した。
特に、不正に手を染めることは、魂を貶める最大の悪であるとした。
代わりに、人は、節制や勇気などの徳を発揮して、より善く生きることを目指すべきだと説く。たとえその結果として、他人から言われのない非難や攻撃を受けたとしても、善く生きることは魂をよりすぐれた、立派なものにすると結論づける。
概要
ソクラテスは、当時アテネを席巻していた弁論術へ疑問を呈し、弁論家として名高いゴルギアスと対話を始める。ゴルギアスは、弁論は説得を作り出す技術であると定義し、最善のものであると主張した。これに対してソクラテスは、弁論術は正不正に関わらず、人々を説得させる点を批判した。弁論術は、人々が真理を見極めることには寄与せず、ただ快楽を作り出すことが優先していると批判した。
(のちに、弁論術のような快楽重視の行為を「追従」と呼んだ。他にも、料理術や美容、ソフィストがこれにあたる。対になるのは、体育術や医術、立法術、司法術だ。)
このように、弁論術の倫理や真理探究の機能が欠如していることを理由に、醜く害悪なものであるとゴルギアスに認めさせた。
次にポロスは、弁論術は真理探究に関わらなくとも、人々を支配する力があり、それ自体に価値があると、ソクラテスに反論した。ソクラテスは、人間は目的達成を望むのであって、力を持つことは目標を達成するための手段に過ぎないと主張する。そのため、手段である力の価値は、取得したときに自動的に発生するのではなく、目的達成への寄与という観点で、発生の有無を見極められるべきだとした。
反論されたポロスは負けじと、力を持つことの有用性を説いた。それは、世の不正から免れることができるという点だ。しかしこれに対しても、ソクラテスは、不正をする方が不正をされるよりも哀れだと主張した。それは、不正をするほうが、醜く、悪いからである。また、不正に手を染め、罰せられなかった人は、魂をよりすぐれたものにする機会を逸しているのでさらに哀れであると主張した。ソクラテスは、何人も不正から身を守ることはできないが、だからといって不正に手を染めて魂を貶めるよりは、不正をしないで清く生きることを強く推奨した。ついには、ポロスも反論ができなくなる。
最後に、カリクレスがソクラテスの前に現れ、国を統治できる能力のある優れた人が、弱いものを支配し、自分の快楽の縦にすることは、自然の摂理に則っているので正しいと主張した。このようなことを不正として卑俗と見做すのは、弱者が作り出した慣習であり、従う必要はないという。優れた人々は、正義や節制といった古い慣習から常に自由であり、快楽を基準に生きるという。
ソクラテスは、快楽重視の生に疑問を投げかける。まず、快楽は際限がないことを指摘する。快楽を求める人生は、それはまるで穴の空いた樽に水をいれるようなものだ。しかし、カリクレスは、反対の人生は、そもそも快楽が少なく、虚しいものだと承知しない。次にソクラテスは、快楽を基準に人を測ると、思慮のある人とない人の分別がつかなくなると主張した。それは、両者とも喜び、苦しむという点では共通しており、快楽という観点では両者とも同じ水準であるという結論が導出されるからだ。カリクレスはこれに対して、快楽の中にも、善い快楽と悪い快楽があることを認めた。カリクレスは当初快楽こそ至高の目的としていたが、この議論によって善は快楽に勝ることを暗に認めてしまったのだ。
以上のようにソクラテスは、弁論術の是非の議論を発展させて、権力や安全、快楽を重視する生に疑問を投げかけた。そして、人の生きる目的は善にあると説いた。善く生きるには、節度を守って、友愛や勇気を持つ必要があると説いた。
感想
襟元を正されるような作品だと思った。これからも自分の生き方に迷ったときは、読み返すであろうバイブルだ。
本書の最大のよさは、極めて純度が高い普遍的でいて卑近な哲学を真正面に説いている所だと思う。
穿った視点もなければ、小難しい議論もない。まどろっこしい弁解や注もない。
ただただ真っ直ぐに、真摯に、道徳や倫理を説いている。全く逃げていないのだ。
何と比較しているかというと、近現代の哲学である。近現代の哲学は過去の蓄積をふまえて、批判に批判を重ね、議論を細分化した結果、小難しく、専門化された、穿った思想へと変質してしまっているきらいがある。
勿論、人間は知識を伝承して、それを元に発展させることで、歴史を動かしてきたのだから、その営為と生み出された成果物に対するリスペクトはある。しかし、肥大化した思想は日常生活とは乖離してしまっていると感じることもある。
一方で、プラトンは哲学誕生期(と言っていいのかわからないが)の哲学者である。そのため、取り扱われる主題も、過去の哲学への批判から発生した実生活から乖離したものではなく、私たちが人生を通じたら一回は考えるであろうようなことに収まっている。
手のひらサイズの卑近さと長い長い歴史をも貫く普遍性、とでも言うのかな。
そして、内容も語り口も、これがとにかくストレートなんだ。
ギリシャ哲学は理性を重視していただろうから、論理性はあるんだけれども、それでも今ほど厳密な議論は多くない。厳密じゃないからこそ、思想には熱を感じられるし、純度が高い感じがする。
平気で高尚で青臭くて理想めいたことを真正面からぶつけてくる。(のちにニーチェに独断論と言われて批判されているが笑)
理想主義で現実離れしていると批判されるかもしれないけど、最適解は現実と理想の往復によって苦しみながらも漸次的に作り出すものだと、私は考える。理想を、夢をみないんだったら、それはただの現実への適応であり、不正と不幸の甘受にしかつながらない。
『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』にかかれていた『資本論』の現代的意義について語った引用。(私は東大ではないのでご安心を笑)
理想を経ることの重要性が語られていて、プラトンを読む際にも役立つ視点だと思う。
もっとも、一九八八年以降のアンケートで『資本論』が上位に挙がるとは何と時代錯誤な、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、現在のような資本主義経済に翻弄されながら、「確かに問題は多いが、これがありうる経済組織の中では最善なのだ」と言じ続けるというのは、どこかカンディードのようではないだろうか。つまり、かつてヴォルテールが残酷に風刺した、この世は「ありうる世界の中では最善」だと言じさせられて一切の不幸と不正を甘受しようとした人物である(『カンディード』一七五九年)。「人間の経済行動の集積が、制御不能の自然現象のようになって人間自身を翻弄するのはおかしい。人々の公共的な決定によって経済も合理的かつ人道的に制御されるべきだ」という(少なくとも一見筋の通った)考えが浮かぶのは自然であろう。この世に資本主義がある限り、その最強の批判者マルクスもまた不滅なのである。
『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』 東京大学出版会『UP』編集部編 東京大学出版会 2016.3
青臭い若者(馬鹿者!)心が刺激されるような作品でした。
今はマルクスの資本論を読んでますが、本当に難し過ぎて棄権しようか迷っています笑
次は、ノーベル文学賞で名高い川端康成の『伊豆の踊り子』と『雪国』の書評です! -
Posted by ブクログ
ネタバレ『国家』は、ソクラテスと対話相手との哲学的問答により、『正義とは何か』を主題として論を進める対話篇であり、その過程において理想の国家像とイデア論に基づく認識論が考察される。そして、正義を実現するには、善のイデアを認識した哲人による統治が必要であるとの結論に至る。(哲人が単に優れているからではなく、善のイデアを認識しない限り、そもそも正義を正しく認識すること自体が不可能であるという認識論的前提から導かれる結論である。)
ここでいう哲人とは、有名な洞窟の比喩で表されるように、低い認識(洞窟に映る影を見ている状態)から真の認識(洞窟の外に出てイデアを認識する状態)へと段階的に向上し、最終的に善のイデアを観得することで、何が正義かの基準を真に理解した者である。
本書は、このイデア論に基づく認識論によって、正義と政治の絶対的基準を確定することを目的としており、現実政治の具体的な制度設計を提示するものではない。この基準の提示により、現実の政治制度や価値観を批判的に評価する視座が与えられると同時に、その成立条件の厳しさから、理想国家の実現や完全に正しい政治的判断の達成が現実において極めて困難であることが、理論の帰結として必然的に導かれる。
→次は同じ古代ギリシアの有名な悲劇である、ソポクレースのオイディプス王とアンティゴネーを読んでみようと思う。特に、アンティゴネーは神の法と人間の法の対立(=どちらも正義を主張)の話であるので、プラトンの正義と比較しながら読むと面白いのではないかと思う。