名著!
本質を抜き出し、力強い文章でまとめる能力が凄まじい。
特に「第2部ヘブライの信仰」に、脳味噌ブッ飛ばされる。
はじめに
ヨーロッパ思想の本質とは、
ギリシアの思想
ヘブライの信仰
の深化発展、反逆、化合変容である。
ギリシア思想の本質とは、
人間の自由と平等の自覚→デモクラシー
理性主義→法と理念が支配する秩序の世界
ヘブライの信仰の本質とは、
唯一神・万物の創造主→アニミズムの否定・自然科学
神の似姿として人間を創造→かけがえのなさ・愛をうけうる者
神の優しさ→復讐でなく、赦し
第一部 ギリシアの思想
エジプトやメソポタミアに比べて、後進の民族。
地中海世界をギリシア語文化圏にする。
自由と平等による民主制がプライド。
「コスモス」という語。
秩序。宇宙を支配しているのは、混沌とした偶然ではなく、法則であるという見方。
ギリシア神殿。
あらゆる贅物を削ぎ落とした単純な論理性のあらわす秩序の美。
ギリシア彫刻。
普遍的・理想的な美を追求。すべて同じ表情。
不完全な個々の人間を表現しない。存在の資格において劣っているという感覚。
ギリシア哲学においても、個体は、本当の意味では問題になっていない。
個体は普遍概念の網にかからない。そういう意味で、理性の力を超えている。
↑
この言葉をむしろ、ポジティブに感じる。個体の野獣性。
ギリシア人の神。
そうありたいと願ってやまない、人間の理想化。
永遠化された人間。人間の本質への賛歌。
英雄社会をそのままオリンポスの山頂に投影したのが神々の社会。神々のあいだにも権力闘争・恋愛・不倫・だましあいがある。
ホメロスの叙事詩。
英雄たちの背後には、つねに神がいて、操りの糸を引いている。ギリシア人にとっては神々は実在した。←日本人もキツネに化かされていた。
作家は本質を抜き出し、理念を明晰に表現する。
ディオニソス宗教への嫌悪。
しかし、暗い信仰は根深く、広く行われ続けた。
↑
アポロン的(秩序)とディオニソス的(混乱)の拮抗から、ドラマ(悲劇)が生まれる、と後にニーチェが指摘。
ギリシア悲劇。アテナイで上演。
「オイディプス王」etc.
人間は存在の有限性という壁にはねかえされて輝きを発し、燃え上がる。
ソクラテス以前の哲学。
パルメニデス。
「あるはある。ないはない」
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強く思索のインスピレーションを受ける。
現代でも有用な議題。
ソクラテス→プラトン→アリストテレスの師弟系譜。
プラトン「国家」
労働階級・防衛者階級・そして善のイデアを認識する哲人王たる、支配階級。
めっちゃ能力主義。
アリストテレスの政治観。
共同体の構成員=市民=参政権。
「中間の国制」つまり、分厚い中間層が大事。
本当にこの通りなら、政治観には共感しかない。
アリストテレスの倫理観。
魂(プシュケー)=人間の生の全体的な活動。
最上位に理性活動、以下、感覚機能、運動機能、栄養生殖機能の階層構造。
理性こそが、人間たらしめている。
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生殖機能が軽んじられてるの、アホらしい。
このあたりを、後にフロイトがひっくり返すことになるのだろう。
ギリシア思想全体の印象。
ウザいほど、理性主義!
成長・能力・競争主義!
それが、人類の知的活動の基盤になったことは、認めつつも、むしろ、秩序によって否定されながらも底流しているはずの、個体の中にある野獣性・混沌・カオスのほうに共鳴する。
第二部 ヘブライの信仰
聖書の本質は、書かれている内容でなく、その解釈なのだと思った。
歴史的事実や、民話や、誰かの作り話を集めて、それらを統合し、解釈しながら、信仰が形作られていく。
創世記
紀元前6〜5世紀に編集された。
イスラエル人が、自分たちを呑み込もうとする他文化に対して、自分たちを確認し解放するため、独自の神と人間を思想的に彫琢した。民族信仰。
「他者と共にあることを本質とする神」
他者を求め、ロボットでなく、神を拒否しうる者=罪を犯しうる者、自由を持つ者を創造した。
それはいいとして、だとしたら、この神は、かなり嫌なヤツだと思う。モラハラDV親父。
一人ぼっちで、寂しがりやなオッサンが、子供を作ったけど、意味不明な命令や、暴力で支配しているみたいな感じ。
なぜ、このような性格の神が創作されたか?が、気になる。これは、モラハラDV親父が人間社会を牛耳ってきたことのあらわれなのだろうか。
「他者を求め、呼びかける」ことが、愛だとされているが、愛の起源は、間違いなく繁殖行為であり、セックスだろ!と言いたくなるのは、進化論を知った現代人の後知恵なのか。
ちなみに、この神は、人間の呼びかけに応えない事で有名だ。
その後、預言者たちによる、神概念の読み替えによって、民族信仰から少し射程の広い信仰になる。
つまり、解釈変更が信仰を変えていく。
そして、ついにイエスが登場し、超アバンギャルドな解釈変更で、信仰をまったく変えてしまう。
これに、本当に衝撃を受けた。
自分を捨てること、他者に向かうこと、がイエスの教えの本質。
貧乏人・病人・障害者など、汚れているとされ、律法で触れてはならないとされていた人々に寄り添う。律法無視。
取り引きでなく、ただひたすらに与える。見返りを求めない。
能力主義や成果主義を否定し、公平・公正の概念を刷新する。
「法の奴隷・言葉の自動機械・損得マシーン」という、宮台真司の言う現代人が陥っている病を、イエスはことごとく否定している。
というより、宮台真司の思考の元が、イエスなのだろう。
つまりイエスは、法より大切なものに、損得なしで向き合え。言葉より、心に従え。と言っている。
(茨木のり子「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」を思い出す)
そして、自分を捨てろと言っている。
金も、地位も、名誉も、才能も、何もかも捨てて、惨めな姿をさらけ出し、助けを求める者として、弱さそのものとして、無防備に他者の前に立った時に、はじめて、人は人に触れることができる。可能性がそこにある。
あらゆる力を捨てなければならない。扉をこじ開けるのではなく、おのずから扉が開くのを待ち続けなければならない。
英雄という概念について考える。英雄的行動とは、じぶんの命よりも、他者の命を優先する行動のことだ。
そして、他者とは、家族や恋人や友人ではなく、見ず知らずの通りすがりの人だ。
自分が好きな人を助けるのは、自己愛である。
偶然に出会った、関わり合いになったら厄介を背負い込むような、苦しんでいる人に寄り添い、一緒に苦しみを背負うのが、愛である。
イエスの教えが、心に刺さる。
圧倒的である。比肩するものがない。キリスト教が世界中に広がり、影響を与えた理由がわかる。
「人間たちの罪を、キリストが十字架に磔にされ死ぬことで贖ってくれた」という超重要なイメージが、どこからくるのか?まったくわからなかったが、その理屈を理解して、衝撃を受けた。
まず大前提として、古来から、生け贄を捧げるという信仰様式がスタンダードとしてある。神の怒りへの贖いである。
旧約聖書において、神はアブラハムに、大事な息子イサクを生け贄に捧げよと命令し、直前に中止命令を出した。あまりにも残酷で意味不明な命令だが、アブラハムを試そうとしたのだろう。神も我が子がかわいいことはわかっている。
その神が、大事な息子イエスを見殺しにしてまで、罪深い人間たちと和解した。
つまり、「神は、かわいい息子を殺してまで、人間たちと仲直りしてくれた」
そして、「イエスは、人間たちのために、自分の命を生け贄として、神に捧げた」
自己愛でなく、他者愛。
神とイエスは、大事な息子の命や、自分の命よりも、他者としての人間全体との和解を選んだ。
この構造を信じて、感謝することが「信仰によって救われる」ことなのだ。
これには、仰天した。
この驚きの構造も、パウロによる旧約の読み替え、新解釈から成っている。
信仰としてのキリスト教には、まるで興味ないが、社会運動家としてのイエスの思想には、激しく胸を打たれる。
一方で、その弱さの肯定を、ルサンチマンとして批判したニーチェ的な思想も気になる。