ブックライブでは、JavaScriptがOFFになっているとご利用いただけない機能があります。JavaScriptを有効にしてご利用ください。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで100万冊以上配信中!
来店pt
閲覧履歴
My本棚
カート
フォロー
クーポン
Myページ
3pt
原題「シンポシオン」とは「一緒に飲む」というほどの意味。一堂に会した人々が酒盃を重ねつつ興にまかせて次々とエロス(愛)讃美の演説を試みる。談論風発、最後にソクラテスが立ってエロスは肉体の美から精神の美、更に美そのものへの渇望すなわちフィロソフィア(知恵の愛)にまで高まると説く。プラトン対話篇中の最大傑作。
ブラウザ試し読み
アプリ試し読みはこちら
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
Posted by ブクログ
難解かと思っていたが、賢人たちのドタバタ劇が繰り広げられ、プラトンの言わんとすることを楽しみながら汲み取ることができた。
193P プラトン (Platon 前427~前347)ソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた...続きを読む時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアのフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。 饗宴 (光文社古典新訳文庫) by プラトン、中澤 務 このように、自分を愛してくれる人に身をゆだねるのは恥ずべきことだと定められた地域に、そんな定めがあるのは、それを定めた人々の悪しき性格が原因です。悪しき性格とは、すなわち、支配する人々の貪欲と、支配される人々の臆病のことです。これに対して、そのようなことは美しいことだと端的に定められている地域に、そんな定めがあるのは、そう定めた人々の精神の無能さが原因なのです。 ゼウスは、人間を哀れに思い、別の方法を思いついた。ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。じつは、それまで人間は、後ろのほうに生殖器を持っていた。そして、性交渉によって子どもを作っていたのではなく、まるで蟬のように、地面に直接、子どもを生みつけていたのだ。そこで、ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。そして、それを使って、男性と女性の間で行われる性交渉によって、子どもを作るようにしたのだ。なぜなら、そのようにすれば、男性と女性が出会ったときに、体を絡み合わせれば子どもが生まれて、種を存続させることができる。また、男性同士の場合でも、少なくとも性的な満足は得ることができるから、ほかのことを考える余裕ができて、自分の仕事をしたり、仕事以外の生活の心配をすることができるようになるからだ。 男性のうちでも、両性をあわせ持っていた性――すなわち、太古の昔に〈アンドロギュノス〉と呼ばれていた性――の片割れである男性は、女好きだ。そして、浮気性の男の多くは、この種族から生まれる。女性についても同様であり、男好きで浮気性の女が、この種族から生まれる。 女性のうちでも、太古の女性の片割れである女性は、男性に心を惹かれることがあまりなく、女性に心をよせる。女性同性愛者は、この種族から生まれるのだ。 太古の男性の片割れである男性は、男性を追い求める。このような男性は、太古の男性の片割れであるがゆえに、少年のころは成人男性に愛情を感じ、男性と一緒に寝て、その腕に抱かれることを好む。そのような者は、少年や青年の中で最も優れている。なぜなら、生まれつき最も男性的なのだから。 さて、少年を愛する人であれ、それ以外のどんな人であれ、自分の半身に出会うときには、驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る。彼らは、いってみれば、いっときたりとも互いのもとから離れようとはしない。彼らは、生涯を共に生きていく人たちだ。しかし、彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。しかし、彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ。 俺たちにはわかる。この言葉を聞いて、その申し出を断る者や、別の望みを申し出る者など一人もいないだろう。むしろ、自分の聞いた言葉こそ、まさに自分が望み続けてきたことだと思うだろう。すなわちそれは、愛する人と一緒になって一つに溶け合い、二つではなく一つの存在になるということだ。なぜなら、これこそが俺たち人間の太古の姿であり、俺たち人間は一つの全体であったのだから。そして、この全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそ〈エロス〉なのだ。 エロスがひときわ美しいわけをお話ししましょう。第一に、パイドロスよ、エロスは神々の中でも、ひときわ若いのです。この主張に大きな証拠を与えてくれるのは、エロスご自身です。なぜなら、エロスは老年から逃げ去る神なのですから。誰の目にも明らかなように、老年というものは足早なものです。事実それは、必要以上に足早に、わたしたちのもとを訪れます。しかし、このような老年を、エロスは生まれつき嫌い、距離をおいて近づきません。そして、エロスはいつも若者と共にあり、エロスご自身も若いのです。古き格言は、うまいことを言うものです――似たものは、いつでも、似たものの近くにあると。 わたしは、パイドロスの言葉の多くに同意しますが、エロスがクロノスとイアペトス( 61) よりも古いという点には同意しません。むしろ、わたしはこう主張しましょう。エロスは神々の中でもひときわ若く、そして永遠に若いのです。ヘシオドスとパルメニデスは、神々の間に起こった太古の事件について述べていますが、彼らの言うことが正しいなら、その事件は、エロスではなくアナンケ( 62) によって生じたのです。神々は互いに去勢し合い、縛り合い、またそれ以外にも、たくさんの暴力的事件が引き起こされました( 63)。もしそのとき、神々の中にエロスがいたとしたら、神々の間には、いまと同じように友愛と平和があったことでしょう。しかし、それはエロスが神々の王となってからの話なのです。 かくして、ポロスとペニアの息子として、エロスは次のような性格を持つことになった。第一に、エロスはいつも貧乏だ。繊細で美しいなどとは、とてもいえるものではない。(たいていの者は、そう信じているようであるが。)それどころか、エロスは硬くひからび、裸足で家もない。寝床もなく、いつも地べたに横たわり、戸口や道端で空を見上げて寝ているのだ。エロスは、母の性質を受け継いでいる。それゆえ、彼はいつも欠乏と隣りあわせで生きているのだ。 まず、エロスですが、この言葉は、主として異性間あるいは同性間の性的な愛を意味します。さらに、人間以外のものに向けられた欲求を意味することもありますが、その場合も、性的な愛から連想されるような、激しい欲望を意味するのが普通です。本作でも、エロスという言葉は、もっぱら性的な愛を意味しています。それを逸脱する例外的な使いかたをしているのは、エリュクシマコスくらいでしょう。 本作でのエロスを語るうえで欠かせないのが、 パイデラスティア(少年愛) と呼ばれる古代の性風習です。これは、成人した男性と成人前の少年が性的な関係を結ぶものであり、古代ギリシャ・ローマ世界に広く普及していた風習です。この風習は、同性愛に対して否定的な感情が抱かれることの多いヨーロッパ世界では、タブー視されてきたものであり、栄光ある古代ギリシャ文化の汚点と見なす人もいました。 第一に、パイデラスティアは、すでに述べたように、成人男性の間の性的関係を表わすものではなく、成人男性と少年との間に成り立つ関係を表わすものでした。成人男性の相手となる少年は、パイス(あるいはパイディカ) と呼ばれ、通常は一二~一八歳くらいの少年です。身体的特徴でいえば、頰に産毛が生えだすころから、あご髭が生えだすころまでが適齢期とされていました。 第二に、成人男性と少年の間の関係は、現代の同性愛におけるような、対等なものではありませんでした。両者の関係は規則に厳しく縛られ、成人男性のほうが主導的な役割を果たし、少年のほうは徹底して従属的・受動的であることを求められました。この関係は、成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)少年は、成人男性に奉仕する役割を果たさなければならず、快楽を求めることは禁じられていました。また、売春的な行為も、恥ずべき行為として厳しく禁じられていました。 現代における性倫理は、一般的には、男性と女性の間の対等な尊重関係にもとづいて成立する愛情を理想としており、そのようなものが自然で正常な愛だと考えられています。そして、同性愛は、このような正常な状態に対する、いわば異常で不自然な状態と見なされる傾向にあるように思われます。 しかし、古代ギリシャ人の愛は、そもそもそのような近代的な価値観の枠組の外にあるといえます。彼らの性的な愛は、そもそも対等な関係を前提してはいません。むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。彼らにとっては、このような関係性こそが重要だったのであり、対象が女性であるか男性であるかは二次的な問題だったといえるように思います。 プラトンは、アリストファネスを徹底的にコミカルに描き出そうとしていますが、われわれは、このような姿をアリストファネスの現実の姿とは考えないほうがよいかもしれません。本作では、アリストファネスは、アガトンのサークルの気心の知れたメンバーとして描かれています。しかし、じっさいには、アリストファネスは保守的な人物であり、その喜劇作品の中で彼らを辛らつに批判しているのです。『雲』という作品の中では、ソクラテスが胡散臭いソフィストとして登場し、若者を道徳的に堕落させる人物として描かれています。また、『女だけの祭』では、アガトンの同性愛の習慣が揶揄され、批判されています。 それでは、エロスとは何者なのかと問うソクラテスに、ディオティマは、エロスとは 精霊 だと答えます。ダイモンとは、神々に関係するさまざまなものや現象を意味しますが、ディオティマがここで言っているのは、神と人間の間にある超自然的な霊的存在のことです。ディオティマによれば、ダイモンとは、神々と人間の間をつなぎ、全宇宙を一体化させるものです。そして、占いや予言をはじめとする宗教的行為も、すべてこのダイモンを媒介として行われるのです。 このような説明に、われわれは違和感をおぼえるかもしれません。なぜなら、男性が宿している子、すなわち精子は、じっさいに生まれる子どもとは別のものだからです。しかし、われわれは、古代ギリシャの医学的な考えかたでは、精子と胎児は、われわれが考える以上に連続的であったことに注意する必要があります。すなわち、当時の一般的な考えかたでは、精子の中には胎児のもとのようなものが内在していて、女性の側から供給される同様の胎児のもとと結合して、胎児が形成されると考えられていたのです。ですから、当時の人たちにとっては、男性も子を宿しているのだという主張は、必ずしも奇妙なものではなかったと考えられるのです。 ご注意いただきたいのは、プラトンが二つの善の役割を区別しているからといって、必ずしも、その間に価値の上下を想定してはいないということです。一見すると、美しいものが、よいものを手に入れるための手段とか道具のように見なされていると感じられるかもしれません。しかし、じっさいの恋愛の場面において、男性が愛する女性のことを、子どもを手に入れるための手段とは捉えないように、美という善もそれ自体が一つの独立した善なのです。「よいもの」と「美しいもの」は、エロスのはたらきの中でその役割を異にする、同等の善なのだと考えることができます。 以上の図式は、心の場合でも、同様に成立します。ディオティマによれば、心の中に宿している子とは、知恵をはじめとするさまざまな徳です。そのような徳を心に宿す者は、しかるべき年齢になると、子を生むことを欲するようになります。身体の場合と同様に、その欲求は、美しいものを求める思いとなり、彼は美しいものを探し求めるようになります。すると彼は、美しい体、そして美しい心の持ち主に心を奪われます。彼は、美しい者にさまざまな話をしてやり、その者を教え導こうとしますが、やがて、子を生み、そして一緒に育てていこうとするのです( 14)。 愛情は、相手が美しいか否かには関係がないという反論があるかもしれません。しかし、ここで「美しい」「醜い」と言われているのは、世間一般の評価ではなく、愛する者の側からみた主観的な評価であるように思われます。つまり、ある男性が、ある女性に対して魅力を感じて惹かれるとき、そこに成立する肯定的な評価が「美しい」ということであり、逆に、嫌悪を感じたら、その否定的な評価が「醜い」ということになるわけです。この場合、「愛している」と「相手を美しいと思っている」は、ほとんど同じ意味であることになります。 比較のポイントは、外面の姿と内面の姿の違いにあります。ソクラテスの外面の姿は、美少年好きと無知です。彼は、いつも美少年につきまとっていますし、また、自分はなにも知らないと言っています。しかし、それは仮の姿だと彼は言うのです。じっさいには、ソクラテスは、相手の外面的な美しさや裕福さなどは軽蔑していて、気にも留めていません。また、ソクラテスが無知であるということも、アルキビアデスにとっては、事実ではありません。アルキビアデスがそう考えたのは、彼がソクラテスの内面に神々しい価値を見出したからです。それは、肉体的美しさのような世俗的価値を軽蔑する、節度をはじめとする徳でした。そのような神々しい徳の持ち主、そして美しい言葉で自分を魅惑する人物が、なにも知らないはずがないと、アルキビアデスは考えたのでしょう。 そのころ、アルキビアデスは、ソクラテスはじつは美少年の美しさなどは軽蔑しているのだということを知りませんでした。だから、彼の中に神々しい徳と知恵を見出したアルキビアデスは、自分自身を誘惑の材料にして、彼からそれを分けてもらおうとしたのです。そのために、アルキビアデスは、伝統的なパイデラスティアの作法に従おうとしました。すなわち、自分の美しい身体を彼に与え、それと引き換えに、ソクラテスに自分を教育してもらえると期待したわけです。 しかし、プラトンの描き出すアルキビアデスは、これとはまったく異なっています。アルキビアデスは、決して邪悪な人間ではありません。それどころか彼は、純粋で自分の気持ちに正直な人間的な人物であり、そして、そのような人間的な限界ゆえに失敗し、挫折していくのです。 このようなプラトンの描きかたを見れば、彼が単純にアルキビアデスを非難しようとしているのではないことは明らかです。むしろ、プラトンは、人間アルキビアデスがたどる運命を描くことによって、この現実の世界で、ソクラテスのエロスの道に従い、美の梯子を昇っていくということが、いかに困難で難しいことかを描こうとしているようにみえます。
エロスについて、ソクラテスらが語る饗宴(飲み会)。 この饗宴で主題となるエロス(愛)とは、基本的には少年愛のことですが、語るにつれて男女の愛さらには愛智(フィロソフィア、哲学)に及んでいきます。 エロスについて演説するのは、ファイドロス、パゥサニヤス、エリュキシマコス、アリストファネス、アガトン、...続きを読むそしてソクラテスの6人です。 始めの5人は、言ってしまえばソクラテスの前座なのですが、それでも興味深いものがあります。 中でも特筆すべきなのは、アリストファネスの人間球体説でしょう。 その昔、人間は男女の合一した存在でした。背中合わせの2つの顔、4本の手と4本の脚。しかし、神々を冒涜したために、ゼウスは人間を2つに割ってしまいます。 以来、男女はその半身に憧れて、抱擁し、子を作ろうとするようになりました。 これは、訳者によれば出典不明の譬え話なのですが、荒唐無稽な筋にもかかわらず何か納得させるものがあります。 こうした演説の最後にソクラテスが登場します。 ソクラテスは、エロスの対象の分析から始め、人間の欲求やその対象である不滅、美、智、善そのもの(イデア)へと話を広げ、その中に少年愛から愛智(フィロソフィア)までが位置づけられていきます。 この箇所は語りの展開が見事ですし、主題が一気にソクラテス=プラトン的になるので、私はぐいぐい読ませられてしまいました。 最後のアルキビヤデスの話は何というかアレだし哲学関係ない気もするのですが、愛智者ソクラテスが肉欲に対する自制心に満ちているというのは少し示唆的です。 全体としては、本文は100ページちょっとですし、予備知識もいらない(ギリシャ神話とホメロスの雰囲気を知っているとベターな程度)ので、古典の中では読みやすいと思います。 ギリシャ哲学は、ギリシャ語カタカナ音訳が耳慣れなくて敬遠しがちだったのですが、昨年から古典ギリシャ語を少しずつ勉強したところ、親しみをもって読むことができました。
ただお酒を飲みながら何かを話し合う日々が欲しい。素敵だなぁ。 難しいところは、NHKの100de名著を見るとわかりやすかった!
欲望というものを如何に考えるか、という対話篇で、 いくつかの主張が各論者によってなされる。 ソクラテスのものは美そのものを観取するのだ、というイデア論の先駆け的な主張。 最後に、アルキビアデスの乱入が描かれたのは、 アルキビアデスとソクラテスの関係性を書き換え、ソクラテスの立ち居振る舞いをポジティ...続きを読むヴに描きだそうとした、というようなプラトンの政治的意図があるか。
池田さんの影響。1971版。読めない漢字が多くて大変だった… こんな風にギリシアのポリス市民は宴会をしていたのだと思うと、こんな素晴らしい宴会はないと思う。 倫理か何かの教科書だったか参考書に、この本について「同性愛か異性愛どちらがすばらしいかについて対話している」みたいなことが書いてあったが、全く...続きを読むのでたらめだ。そんな小さな一手段を書くためにプラトンは言葉にして書き起こしたのではない。 演説として数名の人物が愛(エロス)について述べたところはなんだか難解で小難しく思われたが、ソクラテスの発言(ターン)になると途端にすっとわかってしまった。池田さんが書いていたように、ソクラテスは哲学そのものだから何度でも蘇る。 ソクラテスの発言で終わったかのように思われるが、最後に乱入(?)してきたアルキビヤデスによってソクラテスについて語られる。善く生きる彼の為人があますとこなく語られる。彼は考えたことをきちんとその魂で体現していた。徳孤ならず、必ず隣あり。とても言い当てている。
「研究発表会」「討論会」を意味する「シンポジウム」という言葉は、古代ギリシャの「饗宴」に由来し、「一緒に酒を飲む」ことを意味しました。古代ギリシャ人にとって、飲み会が研究集会であり、研究集会が飲み会だったのです。 ジョージ・スタイナー曰く「劇作家としてのプラトンは、多くの点でシェイクスピアと互角...続きを読むと言ってもよく、さらに倫理的知性の強度ということになれば、ひとりプラトンの(あるいは双璧としてのダンテを加えてもよいが)独壇場である」「その人物としての厚みと存在感は、フォルスタッフやハムレットやアンナ・カレーニナについてわれわれが経験するところに、それを凌駕するとは言えないまでも、およそ匹敵するのである」。「その人物」というのが、プラトンの師にして、キリスト教以前のヨーロッパ世界における最重要人物と目されるソクラテスそのひとのことなのであります。
イデアに対する理解が足りなかったので、愛に導く神エロースに関する議論はイメージし易く、その理解を深めてくれる。 ディオティマとソクラテスの対話には引き込まれたが、その他のエロース賛美はダラダラ進んでいく。このダラダラの中にこそプラトンのソフィストや喜劇・悲劇作家等を描く巧みな表現がふんだんに詰まっ...続きを読むているわけだが。 我々は不死を得るために愛によって子どもを作るし、創作するし、教育する。つまり我々は自分という存在を後世に残したいと強く望んでいるのだろう。このレビューも一種のそれに該当すると言ってもいいかも知れない。 「美そのもの」を求めて人生を歩む必要性を強く感じる。この美の段階の議論は現代にも当てはめられるもので面白いので非常に読み応えがある。 ただ、岩波の訳は少し読みにくい...
フィックションだが、登場人物がリアルすぎて、しかも紀元前。本当の話のように… この中で出てくる、ソクラテスの雄弁さと説得力ある講釈、その弟子プラトンも侮れない… エロースとはをテーマに書かれる愛=人間⇨智慧。
再読。愛=エロスの本質を求めて男達が語り合い、愛の絶頂即ちイデアを求めて昇り詰めていく対話のエクスタシー。エロス、それは賢者と愚者の狭間であり神と人間の中間にいる神霊(ダイモーン)的存在。善きものの永久の所有を欲求するそれは肉体的不死/生殖へ向かい、それを心霊的生産へと向けることで徳へと至る精神を形...続きを読む成する。初読時には同性愛讃歌と思っていたが完全な誤読。とはいえ相変わらず恋愛体質で愛されボーイなソクラテスの口説き文句は絶好調。「こんなにオシャレをしたのは、美しい人の所へは美しくなって行こうと思ったからだよ」
レビューをもっと見る
新刊やセール情報をお知らせします。
饗宴
新刊情報をお知らせします。
プラトン
久保勉
フォロー機能について
「岩波文庫」の最新刊一覧へ
「学術・語学」無料一覧へ
「学術・語学」ランキングの一覧へ
アルキビアデス クレイトポン
試し読み
饗宴 恋について
クリトン
国家 上
ゴルギアス
作者のこれもおすすめ一覧へ
一覧 >>
▲饗宴 ページトップヘ