あらすじ
原題「シンポシオン」とは「一緒に飲む」というほどの意味。一堂に会した人々が酒盃を重ねつつ興にまかせて次々とエロス(愛)讃美の演説を試みる。談論風発、最後にソクラテスが立ってエロスは肉体の美から精神の美、更に美そのものへの渇望すなわちフィロソフィア(知恵の愛)にまで高まると説く。プラトン対話篇中の最大傑作。
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本当に2500年も前に書かれたの?と、古代ギリシャ時代からの本はいつも時間の感覚が分からなくなる。
饗宴、って普段使わない言葉だけれど、酒食の場を設けて客をもてなすこと、とネットで調べたら出てきた。
古代ギリシャでは「共に飲む」、シュンポシオンという言葉らしい。
その通り、本書は、日中に、皆で集まってお酒を飲み、何かを食べながら、愛の神について、それがどんなに尊敬すべきものなのかについて、順番に意見を述べ合うお話。ただ一方的に自論を言うのではなく、前の人が言ったことを踏まえて、補足したり自分なりの表現を持ち出したりして、まさに議論し合っている。最後のトリはソクラテス、と思いきや、すっかり酔っぱらった知人が最後に現れて、でもしっかり論を投じる。…
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193P
プラトン
(Platon 前427~前347)ソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアのフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。
饗宴 (光文社古典新訳文庫)
by プラトン、中澤 務
このように、自分を愛してくれる人に身をゆだねるのは恥ずべきことだと定められた地域に、そんな定めがあるのは、それを定めた人々の悪しき性格が原因です。悪しき性格とは、すなわち、支配する人々の貪欲と、支配される人々の臆病のことです。これに対して、そのようなことは美しいことだと端的に定められている地域に、そんな定めがあるのは、そう定めた人々の精神の無能さが原因なのです。
ゼウスは、人間を哀れに思い、別の方法を思いついた。ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。じつは、それまで人間は、後ろのほうに生殖器を持っていた。そして、性交渉によって子どもを作っていたのではなく、まるで蟬のように、地面に直接、子どもを生みつけていたのだ。そこで、ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。そして、それを使って、男性と女性の間で行われる性交渉によって、子どもを作るようにしたのだ。なぜなら、そのようにすれば、男性と女性が出会ったときに、体を絡み合わせれば子どもが生まれて、種を存続させることができる。また、男性同士の場合でも、少なくとも性的な満足は得ることができるから、ほかのことを考える余裕ができて、自分の仕事をしたり、仕事以外の生活の心配をすることができるようになるからだ。
男性のうちでも、両性をあわせ持っていた性――すなわち、太古の昔に〈アンドロギュノス〉と呼ばれていた性――の片割れである男性は、女好きだ。そして、浮気性の男の多くは、この種族から生まれる。女性についても同様であり、男好きで浮気性の女が、この種族から生まれる。
女性のうちでも、太古の女性の片割れである女性は、男性に心を惹かれることがあまりなく、女性に心をよせる。女性同性愛者は、この種族から生まれるのだ。
太古の男性の片割れである男性は、男性を追い求める。このような男性は、太古の男性の片割れであるがゆえに、少年のころは成人男性に愛情を感じ、男性と一緒に寝て、その腕に抱かれることを好む。そのような者は、少年や青年の中で最も優れている。なぜなら、生まれつき最も男性的なのだから。
さて、少年を愛する人であれ、それ以外のどんな人であれ、自分の半身に出会うときには、驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る。彼らは、いってみれば、いっときたりとも互いのもとから離れようとはしない。彼らは、生涯を共に生きていく人たちだ。しかし、彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。しかし、彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ。
俺たちにはわかる。この言葉を聞いて、その申し出を断る者や、別の望みを申し出る者など一人もいないだろう。むしろ、自分の聞いた言葉こそ、まさに自分が望み続けてきたことだと思うだろう。すなわちそれは、愛する人と一緒になって一つに溶け合い、二つではなく一つの存在になるということだ。なぜなら、これこそが俺たち人間の太古の姿であり、俺たち人間は一つの全体であったのだから。そして、この全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそ〈エロス〉なのだ。
エロスがひときわ美しいわけをお話ししましょう。第一に、パイドロスよ、エロスは神々の中でも、ひときわ若いのです。この主張に大きな証拠を与えてくれるのは、エロスご自身です。なぜなら、エロスは老年から逃げ去る神なのですから。誰の目にも明らかなように、老年というものは足早なものです。事実それは、必要以上に足早に、わたしたちのもとを訪れます。しかし、このような老年を、エロスは生まれつき嫌い、距離をおいて近づきません。そして、エロスはいつも若者と共にあり、エロスご自身も若いのです。古き格言は、うまいことを言うものです――似たものは、いつでも、似たものの近くにあると。
わたしは、パイドロスの言葉の多くに同意しますが、エロスがクロノスとイアペトス( 61) よりも古いという点には同意しません。むしろ、わたしはこう主張しましょう。エロスは神々の中でもひときわ若く、そして永遠に若いのです。ヘシオドスとパルメニデスは、神々の間に起こった太古の事件について述べていますが、彼らの言うことが正しいなら、その事件は、エロスではなくアナンケ( 62) によって生じたのです。神々は互いに去勢し合い、縛り合い、またそれ以外にも、たくさんの暴力的事件が引き起こされました( 63)。もしそのとき、神々の中にエロスがいたとしたら、神々の間には、いまと同じように友愛と平和があったことでしょう。しかし、それはエロスが神々の王となってからの話なのです。
かくして、ポロスとペニアの息子として、エロスは次のような性格を持つことになった。第一に、エロスはいつも貧乏だ。繊細で美しいなどとは、とてもいえるものではない。(たいていの者は、そう信じているようであるが。)それどころか、エロスは硬くひからび、裸足で家もない。寝床もなく、いつも地べたに横たわり、戸口や道端で空を見上げて寝ているのだ。エロスは、母の性質を受け継いでいる。それゆえ、彼はいつも欠乏と隣りあわせで生きているのだ。
まず、エロスですが、この言葉は、主として異性間あるいは同性間の性的な愛を意味します。さらに、人間以外のものに向けられた欲求を意味することもありますが、その場合も、性的な愛から連想されるような、激しい欲望を意味するのが普通です。本作でも、エロスという言葉は、もっぱら性的な愛を意味しています。それを逸脱する例外的な使いかたをしているのは、エリュクシマコスくらいでしょう。
本作でのエロスを語るうえで欠かせないのが、 パイデラスティア(少年愛) と呼ばれる古代の性風習です。これは、成人した男性と成人前の少年が性的な関係を結ぶものであり、古代ギリシャ・ローマ世界に広く普及していた風習です。この風習は、同性愛に対して否定的な感情が抱かれることの多いヨーロッパ世界では、タブー視されてきたものであり、栄光ある古代ギリシャ文化の汚点と見なす人もいました。
第一に、パイデラスティアは、すでに述べたように、成人男性の間の性的関係を表わすものではなく、成人男性と少年との間に成り立つ関係を表わすものでした。成人男性の相手となる少年は、パイス(あるいはパイディカ) と呼ばれ、通常は一二~一八歳くらいの少年です。身体的特徴でいえば、頰に産毛が生えだすころから、あご髭が生えだすころまでが適齢期とされていました。
第二に、成人男性と少年の間の関係は、現代の同性愛におけるような、対等なものではありませんでした。両者の関係は規則に厳しく縛られ、成人男性のほうが主導的な役割を果たし、少年のほうは徹底して従属的・受動的であることを求められました。この関係は、成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)少年は、成人男性に奉仕する役割を果たさなければならず、快楽を求めることは禁じられていました。また、売春的な行為も、恥ずべき行為として厳しく禁じられていました。
現代における性倫理は、一般的には、男性と女性の間の対等な尊重関係にもとづいて成立する愛情を理想としており、そのようなものが自然で正常な愛だと考えられています。そして、同性愛は、このような正常な状態に対する、いわば異常で不自然な状態と見なされる傾向にあるように思われます。
しかし、古代ギリシャ人の愛は、そもそもそのような近代的な価値観の枠組の外にあるといえます。彼らの性的な愛は、そもそも対等な関係を前提してはいません。むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。彼らにとっては、このような関係性こそが重要だったのであり、対象が女性であるか男性であるかは二次的な問題だったといえるように思います。
プラトンは、アリストファネスを徹底的にコミカルに描き出そうとしていますが、われわれは、このような姿をアリストファネスの現実の姿とは考えないほうがよいかもしれません。本作では、アリストファネスは、アガトンのサークルの気心の知れたメンバーとして描かれています。しかし、じっさいには、アリストファネスは保守的な人物であり、その喜劇作品の中で彼らを辛らつに批判しているのです。『雲』という作品の中では、ソクラテスが胡散臭いソフィストとして登場し、若者を道徳的に堕落させる人物として描かれています。また、『女だけの祭』では、アガトンの同性愛の習慣が揶揄され、批判されています。
それでは、エロスとは何者なのかと問うソクラテスに、ディオティマは、エロスとは 精霊 だと答えます。ダイモンとは、神々に関係するさまざまなものや現象を意味しますが、ディオティマがここで言っているのは、神と人間の間にある超自然的な霊的存在のことです。ディオティマによれば、ダイモンとは、神々と人間の間をつなぎ、全宇宙を一体化させるものです。そして、占いや予言をはじめとする宗教的行為も、すべてこのダイモンを媒介として行われるのです。
このような説明に、われわれは違和感をおぼえるかもしれません。なぜなら、男性が宿している子、すなわち精子は、じっさいに生まれる子どもとは別のものだからです。しかし、われわれは、古代ギリシャの医学的な考えかたでは、精子と胎児は、われわれが考える以上に連続的であったことに注意する必要があります。すなわち、当時の一般的な考えかたでは、精子の中には胎児のもとのようなものが内在していて、女性の側から供給される同様の胎児のもとと結合して、胎児が形成されると考えられていたのです。ですから、当時の人たちにとっては、男性も子を宿しているのだという主張は、必ずしも奇妙なものではなかったと考えられるのです。
ご注意いただきたいのは、プラトンが二つの善の役割を区別しているからといって、必ずしも、その間に価値の上下を想定してはいないということです。一見すると、美しいものが、よいものを手に入れるための手段とか道具のように見なされていると感じられるかもしれません。しかし、じっさいの恋愛の場面において、男性が愛する女性のことを、子どもを手に入れるための手段とは捉えないように、美という善もそれ自体が一つの独立した善なのです。「よいもの」と「美しいもの」は、エロスのはたらきの中でその役割を異にする、同等の善なのだと考えることができます。
以上の図式は、心の場合でも、同様に成立します。ディオティマによれば、心の中に宿している子とは、知恵をはじめとするさまざまな徳です。そのような徳を心に宿す者は、しかるべき年齢になると、子を生むことを欲するようになります。身体の場合と同様に、その欲求は、美しいものを求める思いとなり、彼は美しいものを探し求めるようになります。すると彼は、美しい体、そして美しい心の持ち主に心を奪われます。彼は、美しい者にさまざまな話をしてやり、その者を教え導こうとしますが、やがて、子を生み、そして一緒に育てていこうとするのです( 14)。
愛情は、相手が美しいか否かには関係がないという反論があるかもしれません。しかし、ここで「美しい」「醜い」と言われているのは、世間一般の評価ではなく、愛する者の側からみた主観的な評価であるように思われます。つまり、ある男性が、ある女性に対して魅力を感じて惹かれるとき、そこに成立する肯定的な評価が「美しい」ということであり、逆に、嫌悪を感じたら、その否定的な評価が「醜い」ということになるわけです。この場合、「愛している」と「相手を美しいと思っている」は、ほとんど同じ意味であることになります。
比較のポイントは、外面の姿と内面の姿の違いにあります。ソクラテスの外面の姿は、美少年好きと無知です。彼は、いつも美少年につきまとっていますし、また、自分はなにも知らないと言っています。しかし、それは仮の姿だと彼は言うのです。じっさいには、ソクラテスは、相手の外面的な美しさや裕福さなどは軽蔑していて、気にも留めていません。また、ソクラテスが無知であるということも、アルキビアデスにとっては、事実ではありません。アルキビアデスがそう考えたのは、彼がソクラテスの内面に神々しい価値を見出したからです。それは、肉体的美しさのような世俗的価値を軽蔑する、節度をはじめとする徳でした。そのような神々しい徳の持ち主、そして美しい言葉で自分を魅惑する人物が、なにも知らないはずがないと、アルキビアデスは考えたのでしょう。
そのころ、アルキビアデスは、ソクラテスはじつは美少年の美しさなどは軽蔑しているのだということを知りませんでした。だから、彼の中に神々しい徳と知恵を見出したアルキビアデスは、自分自身を誘惑の材料にして、彼からそれを分けてもらおうとしたのです。そのために、アルキビアデスは、伝統的なパイデラスティアの作法に従おうとしました。すなわち、自分の美しい身体を彼に与え、それと引き換えに、ソクラテスに自分を教育してもらえると期待したわけです。
しかし、プラトンの描き出すアルキビアデスは、これとはまったく異なっています。アルキビアデスは、決して邪悪な人間ではありません。それどころか彼は、純粋で自分の気持ちに正直な人間的な人物であり、そして、そのような人間的な限界ゆえに失敗し、挫折していくのです。 このようなプラトンの描きかたを見れば、彼が単純にアルキビアデスを非難しようとしているのではないことは明らかです。むしろ、プラトンは、人間アルキビアデスがたどる運命を描くことによって、この現実の世界で、ソクラテスのエロスの道に従い、美の梯子を昇っていくということが、いかに困難で難しいことかを描こうとしているようにみえます。
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大学時代に読んで以来30年ぶりくらいに読んで見た。正直なところ、議論の主題が愛と美と言う私からするとかなりどうでもよい物なのでそこは置いておくとしても、ソクラテスの屁理屈満載の弁舌にはなんの魅力も感じない。しかしながら、プラトンの筆による文章はやはり引き付けられるものがある。ニーチェがルサンチマンと言っている「古代は美が最善のものであった」という話はここから来ているのかと改めて納得した。同性愛を最上の愛としているのはちょっと時代にそぐわないような気がするが、人間の本性はむしろそうなのだろうか?
Posted by ブクログ
エロスについて、ソクラテスらが語る饗宴(飲み会)。
この饗宴で主題となるエロス(愛)とは、基本的には少年愛のことですが、語るにつれて男女の愛さらには愛智(フィロソフィア、哲学)に及んでいきます。
エロスについて演説するのは、ファイドロス、パゥサニヤス、エリュキシマコス、アリストファネス、アガトン、そしてソクラテスの6人です。
始めの5人は、言ってしまえばソクラテスの前座なのですが、それでも興味深いものがあります。
中でも特筆すべきなのは、アリストファネスの人間球体説でしょう。
その昔、人間は男女の合一した存在でした。背中合わせの2つの顔、4本の手と4本の脚。しかし、神々を冒涜したために、ゼウスは人間を2つに割ってしまいます。
以来、男女はその半身に憧れて、抱擁し、子を作ろうとするようになりました。
これは、訳者によれば出典不明の譬え話なのですが、荒唐無稽な筋にもかかわらず何か納得させるものがあります。
こうした演説の最後にソクラテスが登場します。
ソクラテスは、エロスの対象の分析から始め、人間の欲求やその対象である不滅、美、智、善そのもの(イデア)へと話を広げ、その中に少年愛から愛智(フィロソフィア)までが位置づけられていきます。
この箇所は語りの展開が見事ですし、主題が一気にソクラテス=プラトン的になるので、私はぐいぐい読ませられてしまいました。
最後のアルキビヤデスの話は何というかアレだし哲学関係ない気もするのですが、愛智者ソクラテスが肉欲に対する自制心に満ちているというのは少し示唆的です。
全体としては、本文は100ページちょっとですし、予備知識もいらない(ギリシャ神話とホメロスの雰囲気を知っているとベターな程度)ので、古典の中では読みやすいと思います。
ギリシャ哲学は、ギリシャ語カタカナ音訳が耳慣れなくて敬遠しがちだったのですが、昨年から古典ギリシャ語を少しずつ勉強したところ、親しみをもって読むことができました。
Posted by ブクログ
欲望というものを如何に考えるか、という対話篇で、
いくつかの主張が各論者によってなされる。
ソクラテスのものは美そのものを観取するのだ、というイデア論の先駆け的な主張。
最後に、アルキビアデスの乱入が描かれたのは、
アルキビアデスとソクラテスの関係性を書き換え、ソクラテスの立ち居振る舞いをポジティヴに描きだそうとした、というようなプラトンの政治的意図があるか。
Posted by ブクログ
ソクラテス先生 飲み会で友人達と愛について語り合うの巻。
ソクラテス四大福音書の一つらしい。
他の三つと違って友人の家で飲み会をし、
愛について語り合うという何とも楽しい内容だが、
大正時代に訳された原稿を50年前に書き直した物なので、
難しい言葉が多く、読むのはなかなかしんどい。
「愛とは不死のための欲求である」
というのがこの本で主張したいことなんだろうけど、
様々な人物に愛についての意見を語らせて、
最後にソクラテスが他者から聞いた話という形で、
結論を持ってくるという構成が見事。流石プラトン。
一つだけ毛色の違うこの本が、
四大福音書に一つに数えられているのも頷ける。
Posted by ブクログ
池田さんの影響。1971版。読めない漢字が多くて大変だった…
こんな風にギリシアのポリス市民は宴会をしていたのだと思うと、こんな素晴らしい宴会はないと思う。
倫理か何かの教科書だったか参考書に、この本について「同性愛か異性愛どちらがすばらしいかについて対話している」みたいなことが書いてあったが、全くのでたらめだ。そんな小さな一手段を書くためにプラトンは言葉にして書き起こしたのではない。
演説として数名の人物が愛(エロス)について述べたところはなんだか難解で小難しく思われたが、ソクラテスの発言(ターン)になると途端にすっとわかってしまった。池田さんが書いていたように、ソクラテスは哲学そのものだから何度でも蘇る。
ソクラテスの発言で終わったかのように思われるが、最後に乱入(?)してきたアルキビヤデスによってソクラテスについて語られる。善く生きる彼の為人があますとこなく語られる。彼は考えたことをきちんとその魂で体現していた。徳孤ならず、必ず隣あり。とても言い当てている。
Posted by ブクログ
プラトンの饗宴、これは愛についての対話だ。
あまりに多忙で感想を書く時間すらなかったこの1週間。
ようやく簡単な感想を書きます。
愛とは異性への愛だけだと思っていただけど、
プラトンのいうエロス(愛)は異性への愛はもちろん、家族愛、自然愛、
博愛などものすごく広義の愛をエロスと言っている。
エロスはそもそも神(全能)でもなく、無知な者でもなく、
中間の位置にあるダイモーンだといい、そして美を求めると説いている。
人間も実は、立ち位置としてはエロスと同じなのだ。人間は新しいことを常に欲求するし、
かといってすべてを放棄して何もしないということもしないからだ。
そしてプラトン自身の考える愛とは哲学(philosophy)の語源となったフィロソフィア、
つまり知への愛が愛の最終形だと説いている。
僕はプラトンのいう知への愛まで達していないのだけど、
少なくともまず女性と向き合い、女性を愛することができるのではないかと考えた
(注:今までの僕はかなり否定的でした。
そのうえであの婚活宣言をだした。
一番感動的だったシーンはソクラテスがアガトンの間違いを正していくシーン。
まるで推理探偵のように論理的に相手を論駁していくさまはものすごくかっこいい。
そして愛とは何かを自分が語るのではなく、
ディオティマという巫女が語ったとするところも説得力抜群だ。
自分が話したとするより、○○がこう語ったということを私が学んだということで、
すごく謙虚にもなっている。ソクラテスらしい対話の仕方なのかな。
饗宴は素晴らしい哲学書です。
これを皆さんにもぜひ読んでもらいたいです。
Posted by ブクログ
「研究発表会」「討論会」を意味する「シンポジウム」という言葉は、古代ギリシャの「饗宴」に由来し、「一緒に酒を飲む」ことを意味しました。古代ギリシャ人にとって、飲み会が研究集会であり、研究集会が飲み会だったのです。
ジョージ・スタイナー曰く「劇作家としてのプラトンは、多くの点でシェイクスピアと互角と言ってもよく、さらに倫理的知性の強度ということになれば、ひとりプラトンの(あるいは双璧としてのダンテを加えてもよいが)独壇場である」「その人物としての厚みと存在感は、フォルスタッフやハムレットやアンナ・カレーニナについてわれわれが経験するところに、それを凌駕するとは言えないまでも、およそ匹敵するのである」。「その人物」というのが、プラトンの師にして、キリスト教以前のヨーロッパ世界における最重要人物と目されるソクラテスそのひとのことなのであります。
Posted by ブクログ
イデアに対する理解が足りなかったので、愛に導く神エロースに関する議論はイメージし易く、その理解を深めてくれる。
ディオティマとソクラテスの対話には引き込まれたが、その他のエロース賛美はダラダラ進んでいく。このダラダラの中にこそプラトンのソフィストや喜劇・悲劇作家等を描く巧みな表現がふんだんに詰まっているわけだが。
我々は不死を得るために愛によって子どもを作るし、創作するし、教育する。つまり我々は自分という存在を後世に残したいと強く望んでいるのだろう。このレビューも一種のそれに該当すると言ってもいいかも知れない。
「美そのもの」を求めて人生を歩む必要性を強く感じる。この美の段階の議論は現代にも当てはめられるもので面白いので非常に読み応えがある。
ただ、岩波の訳は少し読みにくい...
Posted by ブクログ
フィックションだが、登場人物がリアルすぎて、しかも紀元前。本当の話のように…
この中で出てくる、ソクラテスの雄弁さと説得力ある講釈、その弟子プラトンも侮れない…
エロースとはをテーマに書かれる愛=人間⇨智慧。
Posted by ブクログ
愛について
恋について
最近読むのは
何か、
かたちを探しているからで
自分の中で答えを定義したいから
ヘドウィッグに涙して
思い出して読んだプラトンさんは
やっぱりプラトン
お酒の席での
こういう話は昔から
あるのね
と親近感。
Posted by ブクログ
説明 原題の「シンポシオン」とは「一緒に飲 む」というほどの意味。一堂に会した人々 がワインの杯を重ねつつ次々にエロス(愛)讃 美の演説を試みる。最後に立ったソクラテ スが、エロスは肉体の美から精神の美、さ らには美そのものへの渇望すなわちフィロ ソフィア(知恵の愛)にまで高まると説く。さ ながら1篇の戯曲を思わせるプラトン対話篇 中の白眉。
Posted by ブクログ
ギリシアの哲学者ソクラテスの弟子プラトンによる、愛と知をめぐる対話。学生時代に熱心に読んでいたが、ひさびさに通読。
少年愛という習慣があったギリシアで、対話のしめくくりは、ソクラテスに横恋慕する弟子の登場でしめくくられる。文学性が高いとされるが、そのあたりはよくわからない。
ただ、ディオティマとの対話を引き出して、ソクラテスが「エロスとは美や善そのもの」と信奉する若者を論破していく下りは、知の遊びとしておもしろい展開。AはB
である。しかし、AはBとは反対のCでもある。という矛盾した対立項をおさめるために、親の話に例えるとは。
愛情とはなにかについて、あらためて考えさせる一冊。もちろん抽象的にすぎないきらいはあるが。愛情があったればこそ、ソクラテスは悪法にも暴君にも従ったのであろう。しかし、それは悲しき諦念でもある。
Posted by ブクログ
再読。愛=エロスの本質を求めて男達が語り合い、愛の絶頂即ちイデアを求めて昇り詰めていく対話のエクスタシー。エロス、それは賢者と愚者の狭間であり神と人間の中間にいる神霊(ダイモーン)的存在。善きものの永久の所有を欲求するそれは肉体的不死/生殖へ向かい、それを心霊的生産へと向けることで徳へと至る精神を形成する。初読時には同性愛讃歌と思っていたが完全な誤読。とはいえ相変わらず恋愛体質で愛されボーイなソクラテスの口説き文句は絶好調。「こんなにオシャレをしたのは、美しい人の所へは美しくなって行こうと思ったからだよ」
Posted by ブクログ
良いこと書いてあるんだけど、なんだかんだで、少年愛がらみの記述に目がいってしまう、ついつい。普遍的な価値について語ろうとするギリシア人たちが、こと「その話題」のときだけは、特殊な文化的背景にもとづく性癖を擁護しまくりというのがね。それが、苦笑をとおりこして、可愛くみえてきた。
Posted by ブクログ
平易で楽しい哲学書。ただの読み物としても面白い。
内容は酒をのみながらみんなでエロスの素晴らしさを語るものだ。性の問題で悩む若者、BL好き、セックスレスカップルはまずこれを読め!
Posted by ブクログ
『いけない、いけない、あの人は放っておいた方がいい、それがあの人の癖なんだから。所かまわずどこかへ、人通りを避けて立ち続けることがよくあるのだ。が、いずれまもなく来るだろうと思う。だから邪魔をせずに、放っておいてくれたまえ。』(アリストデモス)
『実際人は次のようなことを熟思するべきである。明らさまに愛するのはひそかに愛するものよりも美しく、しかももっとも高貴にもっとも優秀なものを―たとい彼が他のものよりは面貌が醜いにせよ―愛するのは特に美しいといわれていることを、さらにまた、万人が恋する者に与うる異常なる―しかも何か醜悪な行いのあった者にはけっして与えられぬごとき―鼓舞を、かつ恋愛における成功は誉とせられるが、その不成功は恥辱とせられる、慣習はさらにまたその勝利者となるためならば異常事を行うあらゆる自由を愛者に与え、しかもそれに対して賞讃を受けることすら許している。』(パゥサニヤス)
「お前達の願うのは多分こんなことではないのか、でき得る限り最大限度に一体となって活き、夜も昼も互いに離れずいたいというような。それが本当にお前達の念願なら、俺は喜んでお前たちを一緒に鎔かし、一体に鍛接してやろうと思う、そうすればお前たちは二人が一人となって、生きている限りは、ただ一人の人間として生を共にし、死んだら、後世の冥府でも二人でなしに一人として生き、死においてもなお結びついていることができるだろう。さあ考えて御覧、これがお前達の希望なのか、またこうなればお前達は満足するのか、」と。(ヘファイストス)
『ソクラテス(と彼は答える)、僕は貴方に反対することができません。あなたの仰っしゃる通りでしょう。』
『いや、むしろ真理に対しては(とソクラテスはいう)、親愛なるアガトンよ、君は反対するができないのだよ。ソクラテスに反対するのは何もむずかしいことではないのだから。』
「さてもし愛が常にそういうものへ向かっているとすれば(と彼女は続けた)、これを追求するに当って愛の名に値するほどの熱心と熾烈な努力をする示す人はどういう途を進みまたどういう行動を採るのでしょうか。それはいったいどういう風な活動なんでしょう?答えられますか。」(ディオティマ)
「生がここまで到達してこそ、親愛なるソクラテスよ(とマンティネィヤの女友達はいった)、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生甲斐があるのです、いやしくもどこかで生甲斐があるものならば。」(ディオティマ)
「そんなに自若として彼は味方と敵とに目を配っていた、それでいやしくもこの男に手を触れる者があったら、彼はきわめて手強く防戦するだろうということは、誰にでも―非常に遠方からでも―明らかに看取されるほどであった。」(アルキビヤデス)
Posted by ブクログ
・・・ソクラテスは、最後に立って、そのまえになされた演説者の華麗なエロス讃歌とは対照的に、いつもの対話の方法によって、まずエロスの本質そのものを想定し、そのうえで、巫女ディオティマから聞いたという「廉価井修業の奥義」を物語る。肉体的愛から精神愛へ、さらに美のイデアの感得へと究極してゆく、このソクラテスの話は、深い哲学的真実をひときわ美しく表現している・・・(扉紹介)
ディオティマによれば、『エロス(恋)とは、善きものが永遠に自分のものであることを目ざすもの』であるという。不死への欲求から人は肉体的に身ごもるが、それより上位に精神的に身ごもることがあると説いている。法律を産み出す、流麗な音楽を産み出す、荘厳な建築物を産み出す。これらは美徳を産み出している。つまりより偉大なエロスの結果である。
Posted by ブクログ
難しい…と思いながら読み終わってしまい、投稿まで時間が空いてしまった!
難しいと感じる最大の理由は、「エロス」という神が一つの人物像(人ではないけど)なのか、それとも恋や愛という概念として語られるものなのかがなかなか掴めなかったことでした
ネットに上がっている要約に助けられながら振り返ります。笑
物語はソクラテス含む6人が、ギリシア神話のエロス神を称えるという形式で進んでいく。
エロス=恋(少年愛)に関して、6人が様々な意見を戦わせる。
・古さゆえにエロス神は「善さ」の源泉であり、徳と幸福をえるために最も強い力となる
・エロスには2種類あるが、世俗的な恋ではなく、理性的な男性に対してのみ向かう恋が称賛に値する
・少年の美だけではなく、徳も同時に目指し徳を通じて善さの実現へと向かうエロスこそが称えられるべき
・完全なものへの欲望と追及が恋
・エロスは最も美しく高貴で幸福な神であり、正義の徳、慎みの徳、勇気の徳、知恵の徳を備えている
5人の意見に対してソクラテスは、
・恋とは善きものと幸福を手に入れようとめがける欲望である
・愛には段階があり、肉体の美も恋の入り口として必要
エロスは美への追及の道だという論を展開する。
…
自分の持っていないものや自分に欠けているものを相手に求める、というのは納得する。自分の知らない世界を知っている人や、自分が思い付かないような考え方をする人って素敵だなと思う。
一方で、自分と似ているところや同じ感じ方をする人に惹かれるということもあるけど、ある程度の同質性の中にあっても結局はその中の違いに惹かれているということなのかしら
そもそもこの饗宴の中では、恋と愛との区別があるのかな?世俗的な恋(男女の恋)を貶し、少年愛を貴ぶ意見もあったけど、ここではどちらも恋は恋なのでしょうか
どんなにどのような恋が善いものであるかを考えても、心はなかなかコントロールできないものだけど、恋が自身の美への追求だという着地点は面白いなと思った。
個人的には、歴史的にも現代でも「恋」はどちらかというと破滅として描かれるイメージがあるんだけど、それはわたしの中での恋っていうのは一時的な感情だからであって、ここで語られる恋とはまた違うのかなあ〜
果てしない笑
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愛についての本。運命の人ってフレーズは、元々2人がくっついていたけど、切り離されて、片割れを探しているって話が由来らしいよ。
純粋な愛は男性同士の愛ってのは面白いね。性的な何かも含めてなんだろうけど、それより人として好きって感覚なのかな。人まで見て好きになれるのが一番いいよね。
ソクラテスとアガトンの一説で、エロースは美を求める美しい神という主張に対して、美を求めるってことは、美を持たない。→対象に対して欲求する愛を持っているなら、それは、欲求する段階ではそれを持っていないことになる。
なぜなら、持っていないものを求めることだから。かけている物を欲求する感じ。
人間もエロースも、知恵と無知の間にあるから、知恵を求めて行かなければならない。ここら辺からイデアに話が近くなるね。真を見つけにいく感じ。愛の話かと思いきやこれは人としての生き方の話なのか?
Posted by ブクログ
男女の恋愛ではなく、少年愛が主なテーマ。
ギリシャ時代、少年愛こそが崇高なもので、女性に興味を持ってるような男はまだまだ人間としてレベル低いやつ、というような考えだったよう。
フェミニストとしては、この時代で既に女性は男性に都合の良いように定義づけられてきたのか、、と悲しく思った。
ただ、愛というものは、最終的には1つの対象に対するものではなく、広い後世の世代に対しての教育意欲を掻き立てる=社会全体への貢献欲に繋がる、という点は、
自分自身の感覚や、アドラー心理学とも共通していて、やはり、人の欲求は最終的にそこに至るのだなと再確認できた。
Posted by ブクログ
エロスとは何か、
エロスを讃美するとはどういうことか、
次々にいろんな人が語る饗宴。
エロスを語るのに、
一緒に飲みながらという場面は、適切なのかもしれませんね。
愛と美に魅せられ、
酔い、
熱くなり、
ほめたたえる。
愛に溺れるのでもなく、
酒に溺れるのでもなく、
美そのものへと到る道を行くがごとく。
ソクラテスは、
自分がいかにエロスを知らなかったかを説き、
そしてさらにはエロスのなんたるかを語る。
この世界で、いま、エロスの神は賛美されているだろうか。
”なぜといって独力でもしくは他の誘導によって愛の奥義に到る正しい道とは次のようなものであるからです。それはすなわち地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇り行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの美しき肉体から二つのへ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになることを意味する。(p.134)”
Posted by ブクログ
副題の通り、エロスについて語られている本。
エロス=神聖なものなのか、戯れなのか。
エロスを突き詰めると知恵を愛することになる。
哲学の語源となったフィロソフィアはここから生まれたのではないか。
Posted by ブクログ
学生時代に読んだっきりの本書を再読。
さっと読むと普通に「ふむふむ」だったところも、今読むと「え、それは飛躍だろう」と思うことがちらほら。
二千数百年前の本を今読んでなんやかや考えることができるなんてすげえなあ、と、内容に関係ないところで感動する。やるなプラトン。