プラトンのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
プラトン対話篇の中でまず最初に読んだら良いのは迷わず『ソクラテスの弁明』である。しかし、「プラトンとの対話」を、あるいは「プラトンの対話」を味わいたい読者に勧めたいのはメノン、それも渡辺邦夫訳のメノンである。本書は他書には見られない、プラトンに初めて出会う読者にとってあらゆる障壁を取り除く工夫がなされ、生き生きとした対話の様子を再現していることから、まず勧めたいと思う本なのである。
メノンは奴隷の少年が幾何学を習っていないにもかかわらず平方根を用いて問題を解くに至る様子を克明に記録した対話篇である。これは対話を通して少年が自らの内に宿している真理を見出していく様子を描き、真理が一人ひとりの人それぞれに内在していることを問いかけるのだが、この対話篇で有名な想起説が提示されるのである。メノンとソクラテスの対話の内に次々と問いかけられる、徳とは何か、知るとはどういうことか、知識とは何かと、その問いが深まっていく中で、プラトンが問いかけようとする徳の姿が明らかになっていくのである。
本書をまず勧めたいと思うことの一つに訳語の選択がある。従来「臆見」あるいは「思いなし」と訳されてきたドクサという言葉がある。本書の翻訳では「意見」といったニュアンスを含んだ「考え」という訳語が選ばれており、その理由が詳しく訳注で述べられ、かつ本文と等しい分量の充実した解説によって議論の全体の中でその訳語を選ぶ理由が知らされるのである。そしてその道行を通して読者は現在のプラトン研究の最前線へとも招かれる何とも贅沢な本なのである。
評者にとって印象的であったのはソクラテスの命題としても有名な「徳は知である」という言葉の「知」がフロネーシスであったことである。メノンという対話篇がゆたかなプラトン認識論の源泉である中、この「知」という言葉がフロネーシスであったことに非常に驚いた。たとえプラトンがこの対話篇で体系的な思考を目指していないとしてもアリストテレスが実践知として取り上げるそれとの結びつきを気づかせてくれる翻訳なのである。
古典は様々に翻訳される。一つの訳語を選べば従来の訳語と齟齬をきたすといったことは散見されることであり、アリストテレス研究に至っては日本語でも英語でも二つの言葉を巡って訳語が反転することすらある。しかしそういった中での読み解きを通して、古典の伝えようとするメッセージを読み解くこともまた哲学的営みに結び付いている。本書は古典を読むということの、古典を翻訳することの難しさと面白さを共に感じさせ、プラトンがメノンの中で読者に提示する対話そのものを生き生きと再現しているのである。繰り返し手に取りたくなる一冊である。 -
Posted by ブクログ
プラトンの『ソクラテスの弁明』にはいくつもの翻訳がある。評者が最初に読んだのは中公クラシックス版の田中美知太郎訳であったが、クリトンとゴルギアスとともに強烈な印象を残したのを覚えている。ただ、いま読み返してみると手放しに誰にでも勧めることができるわけではないなと思う部分が多少ある。すでに他の著作で哲学に対する関心が呼び起こされた読者にとってはどうしても読みたくなる本であろうから、その心配は杞憂であるかもしれない。しかし、光文社古典新訳文庫の納富信留訳の『ソクラテスの弁明』は哲学入門として誰にでも勧めたくなる一冊である。
哲学の始まりは『ソクラテスの弁明』にあるといわれる。哲学という営みを決定づけたのが、プラトンにとってのソクラテスの死という出来事にあるという意味でのことである。そのまさにソクラテスの死という出来事をプラトンがどのように受け留めたのかをありありと感じさせてくれるのが納富訳なのである。納富訳は、しつこく吟味をして、時に挑発さえするソクラテスの姿を生き生きと再現してくれる。それは500人の聴衆を前に饒舌に語り、空しくも虚空に響きわたるソクラテスの弁明を、そしてそれを聞いていたメレトスが押し黙っているその沈黙をも響かせるものである。
本書には古典新訳文庫ではお馴染みの訳注が付されている。とはいえアリストテレスの翻訳のように言葉のニュアンスや語義の説明というよりも、本文には述べられていない背景についてのものであり、疑問の余地のない明瞭な訳文と相まって弁明という作品そのものに没頭させてくれるものである。訳注の内容は、最新の研究や解釈の広さを示すもので、巻末の解説とともにプラトン研究の現在を知らせてくれるものである。本文の分量に匹敵する解説は「ソクラテスの弁明」の内容を丁寧に紐解き、議論の要所を明示し、ソクラテスとプラトンにとって哲学が如何なるものであるかを明らかにしている。そして最後に付されたプラトン著作の執筆年代と梗概はプラトンに初めて触れる人にとっても、そうでない人にとっても、頼りになる見取り図を与えてくれるものである。
プラトンがなぜ「ソクラテスの弁明」を書いたのかをも伺わせる本書は、哲学入門としても、手堅いプラトン入門としても、広く勧めたい一冊である。 -
Posted by ブクログ
中世哲学研究でよく語られるデミウルゴスによる創造神話を、あるいは納富信留氏の『プラトン 理想国の現在』を読んでポリテイアに匹敵する壮大な哲学論を期待してティマイオスを読もうとする読者は、ひょっとしたら肩透かしを食らってしまうかもしれない。むしろそこで語られるのはポリテイアで語られたような壮大な哲学理論ではなく、プラトンやアリストテレスが共通して持っていたであろう目的論的世界観に基づく人間論であるからである。それもいま私たちが人間論という言葉で受け留めるものではなく、人間という存在が如何なる特色を持っているのかという探求を通した、いわば生理学に近いそれであるからである。
とはいえ本書の解説でも触れられているように中世ヨーロッパでプラトンの著作として知られていたのは圧倒的にティマイオスであり、私たちが今親しんでいるプラトン著作の全体像を享受しうるようになったのはそれより時代が下ってからのことである。ラファエロの有名な絵画「アテナイの学堂」の中心にはプラトンとアリストテレスが立っており、プラトンはティマイオスを片手に天上を指し、アリストテレスはエティカ(倫理学)を片手に手を広げている。この絵でもティマイオスがプラトン思想を代表しているように、プラトン著作全体が広く受け入れられるようになるにはステファヌス版の刊行、あるいはフィチーノのラテン語訳の普及を待たなければならなかったのである。
先に納富信留氏のプラトン論に言及したように、ティマイオスはポリテイアと密接に結びつき、その冒頭はポリテイアの要約から始まっている。出だしでポリテイアの内容に沿ってあるべき人間の生き方を確かめたのちに語られていく人間論は、私たちの日頃親しみのある言葉遣いを容易に飛び越えていく。解説で印象的に指摘されているように、アナンケー(必然)という言葉はテュケー(偶然)をさえ含み込む。必然という言葉に法則的なそれを読み込んでいる私たちの言葉を揺さぶり、私たちの言語観をさえ揺さぶる力をこの著作は備えているのである。一見奇異な四元素や多面体に託された性質も、その内容を仔細に検討していくと、むしろ彼らが知っていた自然科学は私たちが想像するよりもはるかに柔軟で、本質的であったのではないだろうかと思われる節があり、中には解剖などの知見を含んでいると思われる記述さえ見いだされるのである。
ティマイオスは今まで熱心な読者にとっての必読書として留まってきたように思う。しかし本書の刊行によってプラトンその人と中世哲学の理解に欠かせない重要文献として私たちの共通の書となる端緒がようやく与えられたのではないだろうか。本書の刊行を心から喜びたい。 -
Posted by ブクログ
古典は様々に訳される。たとえ同じ作品の翻訳だとしても、全く違った印象を抱くということさえあるのではないだろうか。プラトンのゴルギアスはまさにそのような著作の一つである。最初に読んだ藤沢令夫訳では、完膚(かんぷ)なきまでに論破されしどろもどろになるポロスとカリクレスの姿が、次に読んだ加来彰俊訳では、実にアイロニカルに問い詰めるちょっと嫌味な感じのするソクラテスの姿が印象に残る。そして今回の三嶋輝夫訳では、それぞれの登場人物が対等な立場から一つひとつの言葉の内実を確かめていく様子が印象に残った。
自堕落という言葉がある。従来、「放埒」と訳されてきたアコラシアを新版アリストテレス全集のニコマコス倫理学で神崎繁訳は「自堕落」と訳したのである。アンソニー・ケニーの英訳ではself-indulgentと訳されており、自堕落という訳語は読者の心にぐさっと刺さるものであり、翻訳の妙と言えよう。アリストテレスのニコマコス倫理学においてアコラシアは節制の徳と対置され、アコラストスな人は倫理的な考察の対象外とされている。アコラシアの言葉の意味そのものは、コラコス(しつけ、懲らしめ)に否定辞のアがついたもので、「不躾」や失礼な人をも想起させ、やりたい放題な人のことを指している。その内実は理性的な反省や葛藤なしに欲望に従う人のことであり、時に獣的な非理性的存在者としてさえ扱われている。自堕落も放埒も、私たちの欲望との向き合い方を内と外から考えさせる訳語であると言えよう。
なぜ自堕落に言及したかといえば、ゴルギアスに登場するカリクレスがその典型に思われるからである。アリストテレスが考察の対象から外して放っておくべきとさえ見做している節のある種類の人々と粘り強く関わろうとするソクラテスの、あるいはそれを描き出すプラトンの強い意志をそこに感じるのである。そのことに気づいたときは、一見すべての人へと開かれた人間主義でありながら理性的動物の一線を引いて倫理的考察の対象外とするアリストテレスに比して、どこまでも理想を追い求めるプラトンの姿に気づき、感動を禁じ得なかった。
ゴルギアス篇は問いかけの多い対話篇である。カリクレスをして「人々が思っていながら口に出さないことをよくぞ言ってくれた」とソクラテスに言わしめたその言葉は、あるいは私たちが抱いているものかもしれない。不正に僭主となったアルケラオスを幸福だと見なすポロスのことを果たして読者である私たちは一笑に付すことができるのだろうか。いくつかの翻訳を読み比べて立ち上がる語り手たちの姿の、どこに私たち自身を見出すのか、容易にソクラテスに同調して安住させてはくれないところにプラトンの創造性が表れているのではないだろうか。
三嶋輝夫訳は、それまでの翻訳の成果を参照しながらも堅実な文体で中立的に訳そうとしていることが印象的である。細部に亘って対話篇を味わわせてくれる訳文はそれぞれの登場人物のアンビバレントな議論の道行きを伺わせてくれるものである。ゴルギアスを精読しようと思う読者はぜひとも手に入れておきたい一冊である。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ上巻とまとめての感想。流石、古典中の古典と言うに相応しい。解説にある様に、国家(ポリティアー)と言うよりは正義論と言うべきか。
ダイアローグで記載されるのでまだるっこしい所もあるが、これはプラトンの思考の過程を追っている様なものだと解釈している。トラシュマコスの正義批判も、必ずしも現実にあったこととは限らず、自分の思考を批判的に分析した上での自作自演的な言説なのかも。それとも、前半はプラトン自身の遍歴やアカデミア設立前で、沢山話し相手がいた時のものとか。いずれにせよ、後半はグラウコンたちも、おっしゃる通りです、しか言わないので、もうダイアローグでなくて良いのでは、と思ってしまうが。
プラトンは正義と善を一つのものと見なしたかったのであろう。だがソクラテスが冤罪で死刑となるような現実において、また不正に生きた方が現世的な利益が得られるような現実において、如何にそれらを一致させてゆくべきか、考えた末に哲人国家、と言う解にたどり着いたのかと思えた。
しかしながら、やはり現実世界においてそれらを一致させる事は難しい。プラトン自身、作中で最上の国家は理論的に不可能では無いが、難しいと言わざるを得なかったほどに。最終的には、現世的な利益を越えた魂の充実、そして霊魂の(イデアーの)不滅が報酬であり、それを求める以上は現世で不正を働いて得た一時の栄華等は儚いもの、と言う結論となった。これは本心だったのか、それとも善を現世に実現したいプラトンの切なる願いだったのか。
だから、こんな世であってはならない、哲学を追い求めるものが虐げられ、貧困に追いやられ、排除されることがあってはならない、と考え、それが、統治そのものが(彼の考える)善の具現化である、哲人国家のイメージに繋がったのか。もしかすると、現代からは時代背景を考慮しても異質と思えるような極端な教育論、財産共有、芸術論に至ったのは現実への反発もあったのだろうか。
自分は門外漢ながら、善と正義をそれぞれどの様に定義するか、は徳倫理学の一大テーマで有り続けているように思う。個人的には、冒頭にある様に正義とは個々の人があるべき相応しいものを受け取れること、と言うことだと思うのだが、結局、「あるべき」「相応しい」の判断にどうしても善悪の議論が入り込まざるを得ないのだな、と感じた。
それにしても、後半の国家形態の5類型の話は身につまされる。有名な「最悪の僭主政は(最良の)民主制から生じる」というテーマである。民主制自体が下から2番目の体制なのはプラトンの考える善の定義から仕方無いとしても、それが堕落して最悪の僭主政に繋がる、というのは改めて寒気を覚える。
今の世の中がこれとは違う、現代人の方が賢い、と言い切れる人はいるのだろうか。
自分としては、たとえ哲人であっても一人の人間の思想に寄りかかる体制は結果的に悪手だと思っているが、さりとて僭主政に繋がるのを食い止めるにはどうすれば良いか。
個人の意見はさておき、これについては「法律」を読んでみて改めて考えたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ本当に2500年も前に書かれたの?と、古代ギリシャ時代からの本はいつも時間の感覚が分からなくなる。
饗宴、って普段使わない言葉だけれど、酒食の場を設けて客をもてなすこと、とネットで調べたら出てきた。
古代ギリシャでは「共に飲む」、シュンポシオンという言葉らしい。
その通り、本書は、日中に、皆で集まってお酒を飲み、何かを食べながら、愛の神について、それがどんなに尊敬すべきものなのかについて、順番に意見を述べ合うお話。ただ一方的に自論を言うのではなく、前の人が言ったことを踏まえて、補足したり自分なりの表現を持ち出したりして、まさに議論し合っている。最後のトリはソクラテス、と思いきや、すっかり酔っぱらった知人が最後に現れて、でもしっかり論を投じる。… -
Posted by ブクログ
文学・哲学の両面において、門外漢でもこの本一冊で充分に楽しめた。ここまでリーダブルな古典作品も珍しい。
有名なアリストファネスのアンドロギュノスの話、ソクラテスとアガトンの対話あたりは特に面白く、解説書ではなく原典で読めてよかったと思える満足度。
プラトン対話篇の中でも特に複雑な枠構造が取られているのも興味深かった。
「ソクラテスが以前にディオティマから聞いた話を饗宴で語り、参加者のアリストデモスから十数年後にその様子を聞いたアポロドロスが、改めて友人(=読者)に向けてその内容を語る」といった具合だが、わざわざこんな回りくどい形式で物語を「創作」する理由がきちんとあるのが凄い。
前半の4人の配役とキャラ付けも見事で、読んでいて飽きないばかりか同時代のありがちな議論をいっぺんに追体験できる。
それと解説を読んでなるほどと思ったのは、最後のアルキビアデスの描き方。
単純にアルキビアデスを悪役として描くのではなく、彼自身がソクラテスの強すぎるカリスマ性にやられて自分自身でもどうしたらいいか分からなくなっている、今で言うクソデカ感情みたいなものを描写することで、それとなくソクラテスが彼を堕落させたという醜聞を否定している。
太宰治の『駆け込み訴え』におけるユダみたいで、人間像として説得力があり、しかも美しい。
総じて創作物として現代の作品に匹敵する面白さがあり、また哲学書としても、解説書に頼らずとも議論を追える明快さがある。
前に岩波文庫版の『ソクラテスの弁明・クリトン』を読んだ時にここまでの分かりやすさは感じなかったので、光文社版の新訳が良いのかもしれない。他のプラトン対話篇も、光文社でもう何冊か読んでみる気になった。 -
Posted by ブクログ
ソクラテスが「不敬神」の罪で裁判にかけられ、弁明をしていく。非常に読みやすく解説も丁寧なので古典という感覚を感じることなくスラスラ読めた。
「アテナイの皆さん、今まで述べてきたことが真実であり、皆さんにすこしも隠し立てせず、ためらうことなくお話ししています。しかしながら私は、まさにこのこと、つまり、真実を話すということで憎まれているのだということを、よく知っています。そして私が憎まれているのというまさにそのことが、私が真実を語っていることの証拠でもあり、そして、私への中傷とはまはにこういうもので、これが告発の原因であるという証拠でもあるのです。」p24
この一文が私は特に印象深い。
真実を語ることは自らを危険に晒すことにつながる。真実を語る「勇気」と言われるが、なんだそれは。そんな勇気を賞賛する世の中ではなく、当たり前になったらそれはそれでどうなんだろうと考えてしまった。