プラトンのレビュー一覧
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プラトンはなぜ「ソクラテスの弁明」を書いたのか?
ソクラテスの無実を訴えたいのだとすると、普通にソクラテスの無実を訴えればよい。つまりいかに嫌疑が誤っていたか、裁判員がなぜ判断を誤ったかについて書けばいい。
プラトンの選択は異なる。訳者によると「ソクラテスが裁判で実際に語った内容の記録ではなく、また、その言葉の忠実な再現でもない。ソクラテスの裁判とは何だったのか、ソクラテスの生と死とは何だったのかの真実を、「哲学」として弁明するプラトンの創作」だという。
プラトンはソクラテスの弁明によってというより、その死から哲学的な刺激を受けたのだ。ソクラテスが無罪放免になっていたら、プラトンはこの本を書いていなかったかもしれない。生・成功・無罪放免は、死・失敗・死刑と比べれば哲学的な深みが皆無だからだ。プラトンはソクラテスの発言自体以上に、死に対して哲学的に欲情し、哲学のオカズにしたのである。
なんか私はこの姿勢に関心してしまった。多分ソクラテス界隈では許されていた態度なのだと思う。どんなことも主観やしがらみから切り離して哲学することが、哲学者として求められた態度だっただろう。だからソクラテス本人はプラトンの哲学的欲情を知っても怒らなかっただろうし、逆の立場だったら今度はソクラテスが「プラトンの弁明」を書いただろう。しかしソクラテスが殺されたのは、ソクラテスにもこういう不謹慎さがあったかなと思った。
この本を存在させ、ソクラテスの死を以降2000年に渡り哲学的オカズにし続けたという意味で、プラトンは歴史に残る変態である。
弁明の有効性自体は「お前何余計なこと言っとんじゃい」というところもあれば、かなり強い議論を展開していたところもあったが、普通の感覚からすれば原告の主張の有効性が完全に棄却されたのだから、ソクラテスは無罪になったはずだ。有罪になった理由は何だったのだろう。この主題は多分古今東西、色んな人の創作意欲を掻き立てたはずなので、今後読んでみたい。 -
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ネタバレ3人のソフィストたちによって告発されたソクラテス。
弁論に長けたソフィストたちを対話によってその矛盾を突き、自身や社会、あるいはこの世の全てを知らないと思うソクラテスの営みこそ彼自身が裁判にかけられることとなった理由である。
もちろん、「弁明」とはその裁判におけるソクラテスの主張のことであり、ソクラテスは当然これらの容疑について善きものであると捉え、憎まれていることこそが真実を語っている理由であるとしている。
古典的名著である作品は多くの分析がなされ、その重要点についてあらゆる箇所で論じらている。私は自身が印象に残った点を取り上げたい。
ソクラテスがいかに論じることでその矛盾をついたのか
ソクラテスは裁判の告発者の1人であるメレトスが、
「ソクラテスこそが若者を堕落させた」、その容疑として告発を行ったという旨の主張に対して、このように弁明、論駁するのである。
以下引用、
「馬の場合でもこういうことがあると思うだろうか。馬をより善くしているのがすべての人間なのに駄目にしているのは一人だけだ、ということか。それとも、まったく逆で、馬をより善くできるのは一人か、あるいはごく少数の者、つまり馬の調教師だけであり、他方で、多くの人々は馬と一緒に過ごして取り扱っていてもそれを駄目にしてしまうのではないか。」
ソクラテスの死生観は決して主題ではないが、魂の善い悪いという思考の軸に基づいた死生観は合理的であり、「私は何も知らないと思っている」(俗にいう「無知の知」、著者はこの表現を否定)からこそ生まれる希望的観測が興味深い。
以下引用、
"死が善いものだという大いなるに希望があることを考えてみましょう。死んでいる状態とは、次の2つのどちらかなのです。無のような状態で、死んでいるものはなんについても何一つ感覚を持っていないか、あるいは、言い伝えにあるように、魂がこの場所から別の場所へ向かう移動や移住であるか、このどちらかなのです"
"もし夢さえ見ないような深い眠りに就いているそんな夜を選び出して、自分の人生で過ごしてきた夜や昼と比べてみて、この夜よりも善く快い昼と夜を自分の人生においていくつ過ごしてきたかを考えて言わなければならないとしたら、どうでしょう"
また弁明の最終盤、判決後のコメントにおいては自らの息子(実際の息子を指すものか、あるいは弟子たち(プラトンら)を指しているかは不明、著者解説より)たちが金銭やその他のものに執着をしたり、自らを大層な人物だと勘違いしていた時には、ソクラテス自身がアテナイの市民、皆さんに論駁をしていたと同様に仕返しをしてほしいと願っている。
これは私たちが哲学という営みと付き合い続けている以上、私たちに課せられ、同時に私たちが吟味されるということではないだろうか。(著者解説にも同様の記述あり。)
肉体のうちに秘められた魂に私たち自身も反省をして、見つめ直すことで自らや現代の社会がどう映るだろうか。その営みを体験できるのは、ソクラテスではなく私たち自身である。
ただし、いささか疑問点も残る。無知であることを自覚する、無知であると思っているとするソクラテス。何もしらないということはすなわち善いことであるのだろうか。仮にソクラテスが何も知らなかったとするならば、神という存在をなぜ認識できたのだろうか。なぜ「弁明」においていわば客観的に自らが恨まれていることは真実を語っているかであると述べることができるであろうか。知らないということを知ろうとするための営みは、一見ソクラテスの主張を顧みれば反比例のグラフを描くのではなかろうか。何かを知ろうとする営みが増えれば増えるほど、知らないという認識度や解像度が増していく。しかし、知らないという認識を増やすということは知らないことを知ることの蓄積でもある。「知らない」というスタンスは何かを生み出すのだろうか。
現代日本に生きる我々は強く、そして根底に当たり前のように資本主義経済のもとで生活をしている。我々が当たり前のように受ける義務教育も資本主義を否定するものなど当然ない。私も決して資本主義を否定するつもりはない。しかし、ソクラテスの主張はいわば資本主義を否定するものではなかろうか。
自らの息子たちが、大層な人物であったり、私利私欲にまみれ自らの財産を求めるようになった際には、自身が行ったように論駁を行なってもらいたい、と願ったソクラテス。
我々が当たり前に生きる社会でこれを否定、論駁することは難しいだろう。民主主義と資本主義は相容れるものであろうか。
またソクラテスの主張は、のちにマズローが提唱した欲求階層説との矛盾を孕む。どちらが正しいといった議論を図りたいのではなく、その差異を示したい。近年、自己承認欲求といった言葉ばかりが若者を指す言葉として一人歩きしているようにも思えるが、この階層は生理的欲求、安全と安定の欲求、所属と愛の欲求、自尊と承認の欲求、自己実現の欲求と続いていく。ソクラテスが選んだ選択はこれに反しているのではなかろうか。
そして、私はソクラテスとメレトスのやり取りにもはや感銘を受けるほどである。それは真っ当な議論が成立しているからである。国会における答弁は今に始まった事ではないが、問いに対して正面から回答しているのだろうか。国会だけではない、我々自身もである。都合が悪い時、議論において劣勢になった際に、関係のない過去のことを掘り下げる、議論をすり替える、またとにかく論破こそが議論における勝利であるといった風潮。議論というようなものは自身を磨く行為でもあるはずである。ディベートといったものは、どちらを説得できるのかといったビジネス的要素もあるが、他人を人格否定したり、根底を覆して議論から逸脱を図った上で勝利を目指すものではないはずである。
我々はなぜソクラテスを最初の哲学者として扱うのか。受け身ではなく、能動的に捉えてはいけないだろうか。 -
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わかったようなわからんような…「エロス」神についてソクラテスがいろんな人に語らせて、最後おいしいとこ持っていくみたいな感じ。
でもソクラテスのような「知」を愛する哲人には簡単にはなれないんだよ、っていう。
本書の裏表紙の紹介文では「なぜ男は女を求め、女は男を求めるのか?」とあるけど、実際には当時のギリシャの「少年愛」が主題。解説ではそれは男女の恋愛にも通じる、とはあったけど。この点を含めて訳者による解説は充実。訳も読みやすい。
「エロス神」と聞くと「ギリシャ神話劇場 神々と人々の日々」をつい思い出しちゃう…。自分は到底哲人の「て」にもなれませんわ。 -
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ネタバレ「アルキビアデス」は、うぬぼれ屋のアルキビアデスの「国家の支配者になりたい」という野望のためにという触れ込みでソクラテスの話が始まる。その野望が実際どういうことなのか、何を目指すのかについてのアルキビアデスの無知を対話によって明らかにし、「魂の配慮」へと意識を向けさせるという流れだ。「クレイトポン」はとても短く、ソクラテスは徳を育てることの重要性について目覚めさせる事はできるが、実際に徳をどのように養えばいいのか教えてくれない、というクレイトポンの非難のみで終わってしまう。
「アルキビアデス」「クレイトポン」は、プラトンの真作かどうかは議論があるらしい。学術的には大議論で結論はついてない(というか、つけられない?)そうだけど、読んでみると確かにソクラテスの性格とか話の運び方に何となく違和感を感じないこともないし、完成度はあまり高くない。なんか深みがないというか…他の著作に比べて完成度が高くないからと言って偽作扱いするのは良くないと解説にはあったが、完成度の落差って無視できないように思う。内容というより、偽作疑惑ばかりが気になってしまう2篇だった。 -
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アガトンのコンテスト優勝を祝う宴席の場で、出席者がそれぞれ愛の神エロス(解説によればキューピッド)を賛美するお話。
構成が凝っていて、出席者アリストデモスが宴会の様子をアポロドロスに話し、アポロドロスは、その話を聞かせろ、とせがむグラウコンに一度話をしたので、お安い御用と今からもう一度その話を読者に対してする、という設定(でプラトンが創作している)。プラトンが哲学者になる前のお話だから口頭伝承の形にしてしたのだろうか。
いろんな説が出る中、最も有名なのは、古代、人類は男・女・アンドロギュノスの三種類があって、神の怒りを買って真っ二つにされた、失われた片割れを求めて人類は愛し合う、というもの。元の組合せ次第で愛する相手が同性だったり異性だったりする、という点をうまく説明できる点、昔から人気があるようで、高校生の時に社会の先生がこの話をしていた。
出色は、(ソクラテスが聞いた話として語る)ディオティマの話。異性間の愛を、現代の進化論(端的にはリチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子)の萌芽を感じるような論調で語っていて、現代人にはもっとも腹落ちする内容ではないだろうか。
ほぼ直観から導き出される話だからこそ、訳者は(従来の貴婦人ではなく)巫女として設定したようだ。
当代人気政治家のアルキビアデスがソクラテスを口説いて失敗する、という話は塩野七生の「ギリシア人の物語2」でも登場するが、本作のラストでフルに読めたのは興味深かった。
主要登場人物
アポロドロス ソクラテスの弟子で、この物語の語り手。
アリストデモス ソクラテスの弟子で、饗宴の様子をアポロドロスに伝えた人。
ソクラテス アテネの哲学者。五三歳。
アガトン アテネの悲劇詩人。饗宴の主催者。三〇歳くらい。
パイドロス 弁論術に関心を寄せるアテネの若者。二〇代後半。
パウサニアス アガトンの恋人。おそらくソクラテスと同世代。
エリュクシマコス アテネの医師。パイドロスの恋人。三〇代前半。
アリストファネス アテネの喜劇詩人。三〇代なかば。
ディオティマ ソクラテスにエロスの道を伝授したマンティネイアの女性。
アルキビアデス アテネの政治家。三〇代なかば。 -
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ネタバレ「ティマイオス」は前に現代書館のやつで読んで正直全然頭に入ってこず、読み直す気力もわかない…と言う感じだったのだけど、これはちゃんと話の内容が分かって嬉しかった。
デミウルゴスによるイデアを模した宇宙の生成と、神々による宇宙を模した人間の生成を見て、そして三角形の組み合わせで作られる土・水・空気・火による物体の成り立ちの話をし、物体としての人間の体の構造をつぶさに見ていく。
ちょっと分かりづらいと感じたところでは註でざっくり内容をまとめてくれていたり、文章で分かりづらい三角形や多面体の話なども註に図を出してくれていたりしてとても親切。解説の「必然」の話もとても参考になった。「ティマイオス」二冊目でも買ってよかったと思える。また必要のある時に読み返していきたい。 -
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所詮私は私でしかなく、子は私とは別のものでしかない、というのはしごく簡単な疑問である。しかし、この疑問を解決するのは実に 簡単で、我々がそもそも我々自身と思っている物ですら、子供から老年までに構成要素から外見まですっかり変わってしまっているのであり、 それをして同一であるとみなしているのである。また、これは心の状態(欲求、快楽、苦痛)にも同じことが言える。そして、 我々は(動物も含めて)上記と同様に、神のように永遠に同一性を保つというやり方ではなく、老いて消え去りながら、自分にに似た別の新しいものを 残していくというやり方で永遠の自身を確立させるているのである。これについては、ヒュームが極めて似通ったことを述べている。 曰く、我々は得てして想像が、つまり観念から観念への移行が滑らかに容易く行われる時、それらを混同してしまいがちである。そして、 やがてその錯覚を、つまり変化し続ける対象が同一なものであるということを確定させるために、様々な知覚・印象の持続的存在としての魂とか 自己という物を作り上げるのである。 更に、我々は太陽などの一般的にも不変である思われるような物よりも、より変化しやすい物に対して整合性を持たせる場合には、 対象間に共通の目的意識を見出すことがある。ここで、人性論ではテセウスの船が例に挙げられているが、人間の身体は正にこの論理に当てはめることで 同一視することができるのである。
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ネタバレ素直な青年テアイテトスを相手に「知識とは何か」を問答する対話篇。この問いにテアイテトスとソクラテスは「知識とは知覚である」「知識とは真の考えである」「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」と3つの仮定を立てて検討するが、結局どれも否定されて終わるという久々にソクラテスらしい結末である。独自の親切丁寧な見出しに100ページ超の解説がついているが、それでも難解だった。テアイテトスくんが素直で前向きに議論についていく分、展開はスムーズなんだけど。特に最後の方の字母がどうとか、全体と全部の違いとかの辺りが解説を読んでも理解が怪しい。「ソフィスト」とテーマ的に繋がっているようなので、そちらも読んでみることにしたが理解できるか不安が募る。「パルメニデス」のときもそんなことを書いた気がするが…。
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ネタバレ「自分を恋するものより恋していない人に身を任せる方が良い」という一見常識に反するリュシアスの言説を聴くことを発端に、恋することについて、そして弁論術批判についてソクラテスがミュートス(神話)を交えながら滔々と語るという内容。魂がかつて見た美のイデアへの欲求(エロース)の芽生えとしての恋を語り、弁論術に本当に必要なのは哲学により物事の真の姿を問答することであると語ることでどちらの主題も哲学礼賛へとつながるようになっている。
一読した感じだと最後の方の弁論術批判の辺りがよくわからず、うーん?となってしまった。しかし解説はさすがのさすがで過不足なく要点と解釈がまとまっており、そうだったのか、なるほどと唸らされる。今までの著作の内容も盛り込み、充実した内容を余裕を持って語っている姿が分かるようになってきた…と思う。最初は面食らったミュートスもだんだん癖になってくるというか、壮大さとロマンを感じられるようになってきた気がする。この調子で後期の作品も読んでいきたい。