三嶋輝夫の作品一覧
「三嶋輝夫」の「ゴルギアス」「アルキビアデス クレイトポン」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「三嶋輝夫」の「ゴルギアス」「アルキビアデス クレイトポン」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
古典は様々に訳される。たとえ同じ作品の翻訳だとしても、全く違った印象を抱くということさえあるのではないだろうか。プラトンのゴルギアスはまさにそのような著作の一つである。最初に読んだ藤沢令夫訳では、完膚(かんぷ)なきまでに論破されしどろもどろになるポロスとカリクレスの姿が、次に読んだ加来彰俊訳では、実にアイロニカルに問い詰めるちょっと嫌味な感じのするソクラテスの姿が印象に残る。そして今回の三嶋輝夫訳では、それぞれの登場人物が対等な立場から一つひとつの言葉の内実を確かめていく様子が印象に残った。
自堕落という言葉がある。従来、「放埒」と訳されてきたアコラシアを新版アリストテレス全集のニコマコス倫理学で神崎繁訳は「自堕落」と訳したのである。アンソニー・ケニーの英訳ではself-indulgentと訳されており、自堕落という訳語は読者の心にぐさっと刺さるものであり、翻訳の妙と言えよう。アリストテレスのニコマコス倫理学においてアコラシアは節制の徳と対置され、アコラストスな人は倫理的な考察の対象外とされている。アコラシアの言葉の意味そのものは、コラコス(しつけ、懲らしめ)に否定辞のアがついたもので、「不躾」や失礼な人をも想起させ、やりたい放題な人のことを指している。その内実は理性的な反省や葛藤なしに欲望に従う人のことであり、時に獣的な非理性的存在者としてさえ扱われている。自堕落も放埒も、私たちの欲望との向き合い方を内と外から考えさせる訳語であると言えよう。
なぜ自堕落に言及したかといえば、ゴルギアスに登場するカリクレスがその典型に思われるからである。アリストテレスが考察の対象から外して放っておくべきとさえ見做している節のある種類の人々と粘り強く関わろうとするソクラテスの、あるいはそれを描き出すプラトンの強い意志をそこに感じるのである。そのことに気づいたときは、一見すべての人へと開かれた人間主義でありながら理性的動物の一線を引いて倫理的考察の対象外とするアリストテレスに比して、どこまでも理想を追い求めるプラトンの姿に気づき、感動を禁じ得なかった。
ゴルギアス篇は問いかけの多い対話篇である。カリクレスをして「人々が思っていながら口に出さないことをよくぞ言ってくれた」とソクラテスに言わしめたその言葉は、あるいは私たちが抱いているものかもしれない。不正に僭主となったアルケラオスを幸福だと見なすポロスのことを果たして読者である私たちは一笑に付すことができるのだろうか。いくつかの翻訳を読み比べて立ち上がる語り手たちの姿の、どこに私たち自身を見出すのか、容易にソクラテスに同調して安住させてはくれないところにプラトンの創造性が表れているのではないだろうか。
三嶋輝夫訳は、それまでの翻訳の成果を参照しながらも堅実な文体で中立的に訳そうとしていることが印象的である。細部に亘って対話篇を味わわせてくれる訳文はそれぞれの登場人物のアンビバレントな議論の道行きを伺わせてくれるものである。ゴルギアスを精読しようと思う読者はぜひとも手に入れておきたい一冊である。
Posted by ブクログ
哲学はあまり馴染みがないというか、性に合わないと思って避けて来たが、プラトンとかソクラテスとか名前だけ知っててもなぁと言うことで、とっつきやすそうだし読んでみた。
古代ギリシアだとキリスト教の影響がないからとっつきやすいのもあるかもしれない。
結局人間って古今東西変わらんのだなぁ、というのが一番の感想である。
弁論術に至っては、昔からいたんだな「はい論破」タイプ、という感想である。わかるよ、ウザいよね。論破になってないんだもんな。大体自己満足。
きっとソクラテスの周りにもそういうタイプが量産されていたんだろう。知らんけど。
デルフォイの神殿の柱に「汝自身を知れ」と書いてあったのは聞いた記憶があるけど、「度を過ごすことなかれ」とも書かれていたとは知らなかった。度を過ごさないのは大事だと思う。特に権力を握っている人間は、最初は良くても慣れて行くうちに度を過ごすようになるので。というのも、古代ギリシアから変わらないことであったらしい。
最後に、一番響いたところを引用する。
【第20講 国のかたち、人のかたち】
民衆の指導者となった者が、何でもよく言うことを聞く群衆をしっかりと掌握したうえで、同胞の血を流すことを差し控えることなく、よくやる手口で不正な罪を着せては法廷に引き出して殺し、こうしてひとりの人間の生命を消し去り、その汚れた口と舌で同族の血を味わい、さらに人を追放したり死刑にしたりしながら、負債の切り捨てや土地の再分配のことをほのめかすとするならば、このような人間は、その次には、敵対者たちによって殺されるか、それとも僭主となって人間から狼に変身するか、このどちらかの途を選ばなければならない運命にあるのではないだろうか?
Posted by ブクログ
プラトン著作の中から『リュシス』と『恋がたき』の2編を所収。(但し『恋がたき』は偽書の可能性があるとのこと)
『リュシス』は「友」とはどういう人か、さらに「愛する」とはどういうことかを問うた対話篇で、『恋がたき』は「哲学」とは何か、さらにどんな「知」を愛することなのかを問うた対話篇である。
根本としてどちらも「愛すること」「愛するとは」をテーマとした対話篇であるが、非常に短い短編となっていて、プラトンの対話篇に親しむにはとっつきやすい作品であるといえる。
それぞれの対話の構造的解釈は本書の「解説」に詳しい。
『リュシス』では美少年2人を相手に(しかも、ソクラテスの知人が対話の一方である美少年リュシスに恋をしている!)、『恋がたき』では哲学オタクの文系少年と体育会系少年を相手に、例によってソクラテスは議論をふっかけているのであるが、議論のテーマや対話相手(美少年!)にも関わらず、期待に反して(?)艶やかな場面は一切ない。(笑)
むしろ、ソクラテスのいつもの議論主導にもかかわらず、『リュシス』では「友とは、友のために、敵のゆえに友の友である」とか「本当の友とは、何かある友のために友であるのではないことになる」とかのようにややこしい議論に発展していき(笑)、結局は似た者同士もお互いに足りないところを補う者同士も友ではないという結論になってしまい、「友」とは何かわからなかった・・・という結末を迎えることになってしまって、読んでいるこちらも頭がくらくらと混乱したままの放置プレイ状態であった。
大体、病人が医者が友で愛するというのと、父が息子を愛するというのと、同一比較できる対象でないし・・・。逐次、話の論点がすり替わっていくので、議論経過でも頭がくらくらとした・・・。(笑)
また、『恋がたき』では、哲学が好き!と言っていた文系少年は実は一通りの知識があり専門知識に精通していなくても世の名声は得られるよね!との考えの持ち主であることが判明、哲学魂に火が点いたソクラテスの「哲学ってえのはなあ」という質問攻撃でぼこぼこにして自称・哲学オタクの文系少年を恥じ入らせるという話で、最後はスカっ!とくるものの、いつもの我田引水的な議論の誘導にまたもや頭がくらくらしてしまった。(笑)
反対に、善い人間と悪い人間の区別がつかないような人間は自分自身も知らないということ、つまり節度がない人間であり正義を全うできない人間で、その「知」を得るのが哲学するということで知識を得るのに2等賞に甘んじてはダメ!というくだりは、自分自身にも身につまされる思いがして、哲学オタク少年とともに恥じ入りそうになってしまった・・・。
両篇ともに議論の結末としては中途半端さがあるものの、議論だけをみるならテーマがテーマなだけに割と真面目な議論だったのではなないかな。
いつもの通り議論の展開の仕方に疑問点は相当湧くものの(笑)、プラトンの思想のとっかかりとプラトンそのものに親しむには格好の短さで、そうした議論のわかりにくさの故か「解説」の方は充実しているので、これからプラトンを手にとりたい方にもぴったりの一書かもしれない。
但し、すぐに結論に飛びつきやすい人、求めやすい人には・・・!?(笑)