水野和夫のレビュー一覧
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高校生の娘が、ある日「模試の国語の問題文が面白かった」と言って見せてくれたのが、大澤真幸の文章だった。人が未来のために、あるいは他人のために努力するのはなぜか、というテーマの文章だった。それではと、大澤真幸の本を買ってみたのであった。
しかし、読んでみて気付いたのだが、僕は経済にとんと興味がなく、内容にはなかなか夢中になれなかった(買う前に気付け)。
それでも、グッとくる部分はあった。
あるパラグラフのタイトルが、「桐島なき世界をいかに生きるか」だったのだ。
もちろん、桐島とは、映画「桐島、部活やめるってよ」の、桐島である。
運動神経抜群で、勝ち組の代表だった桐島が、突如僕たちの世界から -
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「中心」が「辺境」を侵食・拡大していくことで成長を続け、資本を永続的にドライブさせていく、それが資本主義社会。「辺境」つまり投資先が無くなってしまったから、利子率が低下しゼロに近づいている。そのせいで、金余りが起きバブルの生成と消滅が起きやすくなっている、という筆者の主張。そこまでは同意できる。構造としてはそうなんだろう、たぶん。
しかし、利子率がゼロ=資本主義の終焉は強引。9.11や3.11まで資本主義の行きつく先にしてしまうのは論理が飛躍しすぎ。読んでいて、史的唯物論と同様の強引さと違和感を感じる。社会科学系の論文にありがちなこの手の結論ありきの文章展開は辟易する。
確かに筆者の言う、 -
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資本主義の来歴と、それが現在陥っている問題、そして資本主義の後にやってくる時代の展望について、エコノミストの水野和夫と社会学者の大澤真幸が語っています。
おおむね大澤がみずからの立場を示しながら水野の考えをたずねるというかたちで議論が進められており、とくに後半ではそうした傾向を強く感じました。ただし資本主義の形成について語りあっているところでは、「蒐集」というキーワードを用いて資本主義の形成から現代の状況までをつらぬく本質を見ようとする水野に対して、大澤が資本主義の形成が世界史において逆説的な性格をもっていることを強調するなど、意見の対立が見られます。ただし、両者ともみずからの立場を提示する -
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水野和夫、山口二郎の対談集。今までを語ることはそれなりに可能だが、これからを予想する、指し示すことはとても困難なことだと思う。しかしこれからの10年と章立てるなら、山口にもなにか提起してほしかった。「自由、寛容、博愛などの価値観を学校教育やメディアで意識的に強調していかなければならない」と指摘するだけでは寂しかった。水野が資本主義の終焉で提唱していた「より遠くへ、より速く、より合理的に」を捨て「より近く、よりゆっくり、より寛容に」という思考に切り替えると主張し、「私にはその具体像を描くことができません」と認めることに好感が持てた。また水野が主張する法人税、所得税の引き上げによる財政の均衡化、自
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資本が過剰に累積した日本では、これ以上の潜在成長率の底上げは困難で、永劫の成長を目的とする株式会社という仕組みがすでに立ち行かなくなっている、とするのが著者の視点と理解しました。
一方、グローバルな競争にさらされている日本企業は海外の市場での売り上げが既に過半を超えている会社が相当数あることから、縮小していく国内事業に割り当てる資源を、海外事業により一層振り向けることとなる、という視点もあります。
こうした企業は、持ち株会社をより資本市場の厚い国(米国、英国、香港など)に移し、日本国内事業を子会社化して事業の縮小を図っていくのではないでしょうか?
著者の前著「資本主義の終焉と歴史の危機」も -
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歴史的な観点から資本主義の終焉を語るエコノミストの水野和夫と、気鋭の政治哲学者である萱野稔人の対談が収録されています。
水野の本では、彼の資本主義の見方が簡潔に説明されている『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)だけしか読んでいなかったのですが、本書でもそれとおなじ見解が語られています。ただし、萱野が国家と資本主義の関係という問題設定を持ち込むことで、上の本では抽象的にしか語られていなかった、ポスト資本主義に向けた日本の課題が、現代の日本が国家として直面している課題にいっそう具体的に結び付けられるかたちで説明されており、水野の立場についてもうすこしくわしく知ることができたように感じてい