宮本輝のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
自分を自分以上のものに見せようともしないし、自分以下のものにも見せようとしない、自然で素直でおっとりと話す、おそらく目立つ美人と言うわけでもないのだろうが、男女問わず人を惹きつける魅力のある、50歳の主婦・志乃子。
そう言う「善き人」は「善き人」を引き寄せるのだろう。沙知代も早苗も、夫・琢巳も魅力的な人達だ。そうして縁や出会いによって、それぞれの人生がまた新たな扉を開いていく。一見穏やかながら、50を過ぎてからまた人生が動き出す志乃子や沙知代には、希望のようなものをもらえるし、心地の良い作品だった。
『自分以上のものに見せようとしない。自分以下のものにも見せようとはしない。』
『自分を、自分以上のものに見せようとはせず、自分以下のものに見せようともしないというのは至難の業だ。人間はすぐにうぬぼれる。絶えず嫉妬する。他人の幸福や成功をねたんだり、そねんだりする。自分を周りからいい人だと思われようとする。』
それからもう一つ、志乃子が言っていた言葉で、印象に残った言葉があった。それは、家出をした娘に対して言った「私は、こんなことをしてやろうかってふと思ったことを、実際に行動に起こしてしまう人間が嫌いなの。それがいいことなら、すばらしい意志と行動力よ。でも、良くないことなら、その衝動を抑えるのが教養というものよ。」この言葉は、その通りだなあ、と思った。
そして、この作品の中のもう一つの軸である手文庫とその中にあった手記の持ち主・横尾文之助と家族の決死の38度線越え。文之助もまた非常に魅力的な人物だった。
何より、あとがきまで読んで驚くのが、この文之助一家の話は事実に基づいたものだと言うことだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ雅人は異族として瀬戸家に紛れていただけだった。弟のきよしはずっと一緒に住んできた兄のことを全く理解できていなかった、本当の家族にはなれなかったことを知った。雅人にとって本当の家族はせつだけだったのだ。雅人にとって星宿海はいなくなってしまった母の思い出。母から聞かされた昔話と先生から聞いた黄河の源流の風景の妄想が生み出した、雅人と母が作った場所。
それぞれの道を辿って「星宿海」に辿り着いたことで、千春も雅人も家族になったんじゃないかなあ
宮本輝の小説からは、町工場の油臭さと泥の匂いがする。
お母さんが身体を売るところを見るのは辛くなかったのかな。あの親子が一緒にいるときはいつも屈託がなく幸せそうだった、というのが印象的。人の居場所を奪うのは大概人の目だったりする。
千春と雅人が関係を持つとき、雅人がまるで大きな赤ちゃんであったというのはなんでだろう。雅人はずっと大人になれなかったのか?それとも千春に母を重ね合わせていた?行為から娼婦としての母を千春に重ね合わせていたのか?わからん… -
Posted by ブクログ
昭和中頃、道頓堀川に間近い喫茶店リバーの店主武内と、そこに住み込みで働く邦彦を中心に、彼らに関係する様々な人々との間で起きた、様々な出来事が筆述された群像劇。
読んでいて自然に胸に浮かんだのは、濁世という言葉。道頓堀川の描写に使われる濁りが、人間世界にも入り混じっている感覚。
けれど汚濁ではなく、雑多な事象の重なりによる濁りで、それはどの場所にも、どの時代にもある一側面のよう。
事故で一本の脚を失った犬・小太郎が、この時期の、この地域の人々が、ぎこちなくしか人生を集めなかったことを象徴しているのだと思う。
大学生邦彦の青春譚であると同時に、中年店主武内の回想録でもある。けれど回想は、思い出の中に留まらず武内の現在にも残響として生き続けていた。
話があちこちの人々、あちこちの事件に飛ぶ中、ビリヤードの話が冒頭から末尾までを貫く背骨になっていて、最終場面で武内の涙で以て締め括られる。
皆が皆不器用なりに懸命に明日を求める姿に、前向きな気持ちになれた。 -
Posted by ブクログ
昭和50年代中盤に発表された宮本輝氏の短編集。全部で7編の短編が収録されています。本書の書名となっている「星々の悲しみ」だけでなく、全7編全てが人の「死」を意識させる内容になっています。そのためか、どの短編も少し重く、暗い空気感を感じました。それが苦手な読者にとっては、ちょっと読み進めるのが辛くなることも十分あり得ると思います。しかし、普段の生活では感じることのない人の「生と死」を様々なシチュエーションで描いたこの短編集は、さすが宮本輝氏とも言えるかもしれません。決して爽快な読後感を得られるわけではないですが、人の「死」に関わる悲しさとか、切なさとかを読書を通じて感じたいという人にはバッチリはまる短編集ではないでしょうか。
-
Posted by ブクログ
引き続き読者の師よりお借りした本からの1冊。
本作の舞台はバンコク。バンコクは1782年、ラーマ1世による遷都以来、タイの政治・経済・教育・文化の中心として、現代では「東南アジアのハブ」と称されるほど先進的な国際都市。その一方、運河を利用した交通、そして仏教文化の厳かな雰囲気の中に、古今の歴史と文化の融合、調和が感じられる。
そんな先進的な都市としての発展にもかかわらず、実際にそこで生活する一般的な人たちの生活環境はそれほど整っていないような格差イメージを持つ。それはタイ王国の政権的な問題が絡んでいるからかもしれない。
現在のタイは、ラーマ1世から続くラッタナコーシン王朝。1932年の立憲革命により、王は象徴的な存在として憲法に定められ、中央集権的な絶対王制から立憲君主制へと移行した。また、1939年にはシャム国から「タイ王国」と改称し現在に至っているが、今でもタイの政治は混乱のさなかにある。
大規模な街頭デモが繰り返され、国際空港すら群衆によって占拠されたこともあった。そして軍事クーデタが2回も起きている。2014年からは軍部による支配が続いており、2019年5月にようやく、民選内閣に変わったことは記憶に新しいが、その内閣も軍部の影響力下にある。
それ故に、私にとってはあまり画期的な先進している国というイメージがない。
前置きが長くなったが、本作は今から約40年前の80年代後半の話しで、主人公・藤倉恵子と野口謙が『仏像の背中』の出版の影で起こった事実を追いかける話し。
恵子は、王家の血を引き、内務省高官のサンスーン・イアムサマーツに見染められ、3年前からタイのサンスーンの別宅で住んでいる。ある日、サンスーンと待ち合わせていたホテルで、恵子は、野口謙、ホテルで働くボーイ・テアンと出会う。
事の発端は、恵子を隠し撮りしていたアメリカ人・ロバート・ギルビーの残したフィルムに残っていた映像である。
はじめての著者の作品だったので、これが宮本輝っぽいのか、そうでないのかもわからない。ただ、小説家の文章という正統派的な展開と文体。そして、人間の怠惰な部分、駆け引き、嘘など人間臭いところがたくさん描写されているが(いや、醜い人間臭さを感じずに物語が展開していく)、変な後味はなく、強烈な記憶も残らなかった。
ただ、本作は40年も前に書かれているのに時代遅れ的な感覚はない。これはタイの政治、経済的な情勢が変わっていないという私の思い込みもあろうが、作者の力量が大きいこともあろう。
展開は推測できるものであったが、強烈な後味もなかったので、もう少し他の作品も読んでみたくなった。
最後に、思わぬ別の知識が加わり、お得感があったことを残しておきたい。
ジェームス・ハリスン・ウィルソン・トンプソン。タイシルクで有名なジム・トンプソン氏は1906年にアメリカ東部のデラウェア州で生まれる。プリンストン大学卒業後、ペンシルバニア大学で建築を専攻し、1930年代にはニューヨークで建築家として活躍。1941年に志願してアメリカ軍に入隊。 その後、現在のアメリカ中央情報局(CIA)の前身、戦略情報局(OSS)に転属。ヨーロッパで任務につき、ドイツ降伏後にアジアに赴任する。戦後は、アメリカ大使館軍事顧問としてバンコク駐在。やがて、仲間とのホテル経営に携わったのち、タイ・シルク・カンパニーを立ち上げる。1967年3月26日にマレーシアの別荘で行方不明となる。
ジム・トンプソンのタイシルク会社立ち上げから失踪にいたるジム・トンプソン事件なるものがあることをこの作品で知った。
そして、本作のタイトルである「愉楽の園」はヒエロニームス・ボッシュの描いた「愉楽の園」とは全く関係がなかった。