安部公房のレビュー一覧
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彼女は、いまでも安部公房を読んでいるのだろうか。彼女とは、僕の大好きな俳優の松岡茉優さんのこと。高校生当時の彼女の有名なエピソードから、僕は安部公房に興味を持ち、読み始めた。この本で3冊目。『砂の女』『カンガルーノート』に続き、ようやく3冊目を読み終えた。
安部公房の物語は、読み始めると、あっという間に読み切ってしまう。今日も18時頃から読み始め、19時半に夕食を摂り、その後21時過ぎに再開して23時には読み終えてしまった。先に読んだ2冊も、こんなペースだった。読書の話題を共有する職場の同僚に話したら「読むの速いっすね」と返された。そんな自覚はないけれど、想像力を刺激され、集中力が高まる物語、 -
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安部公房さんの作品に久々に再会しました。砂の女、箱男をかなり前に読んだ記憶があります。いずれも設定が突拍子もなく一気に興味を惹かれる。この作品も最初から現実とは思えないものの、即イメージできる情景描写がおかしな場面を想像できた。
解説が福岡伸一さんでした。生物と無生物のあいだ は難しいけど、理解できる説明でわかりやすかった。今回の解説の中でも「内側の内側は外側になる」は、細胞の動きの説明でクリアに理解できた。
話の内容に戻る。明らかに動力がなくて戸建の少し上くらいの高さを飛んでる人から電話がくるとは、起きてることもその先もなかなか予想出来ず、先が気になった。更に別の角度には撃ち落とそうと -
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ネタバレ夢なのか現実なのか境目の見当たらない長編。これが安部公房の遺作と言われているのですね。その前提でストーリーを思い返すと、いろんな解釈ができそうです。
あらすじはメチャクチャで、意味があるのか無いのかもよくわからない。
膝に蟻走感。膝からカイワレ大根→近所の医者に行ったら自走ベッドに乗せられて硫黄泉へ→大黒屋で烏賊釣り船から襲撃を受ける→物欲ショップで看護婦現る→キャベツ畑で親子喧嘩→どこかの病院で鯛焼きを注文しつつ入院老人の安楽死幇助→ビールを飲んでピンク・フロイドのエコーズを聴く→廃駅で死体で発見される。
ベッドから動けずにいる末期患者が、まどろんだ意識の中で健康や自由への渇望と憧れを -
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人はみな他人の顔を求めるものだと思う。 SNSで友人を作るのが当たり前になっている現代は、出版された時代と比べてもかなり「自分とは別の顔」が普及した世の中になっている。
のみならず、コスプレやメタバース、ゲームのアバターなど「自分以外の自分」で自己表現ができる機会は多い。
化粧や整形の普及もあって、顔がもたらすアイコン的特性自体も強くなったかなとも思う。
本書の主人公は、他人の感情などまるで見ていない。妻・同僚の感情や思いやりに無頓着で、被害者意識で利己的な屁理屈と哲学をこねながら延々と同じ場所をぐるぐる回っている。結果として仮面と自己の同一性は歪み、現実との通気口となるはずの仮面は現実逃避 -
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電子頭脳を持つ予言機械、今で言う人工知能のような機械にある男の未来を予言させたことに端を発し、事態はあれよあれよと急展開を迎える。
SF的な要素があるかと思えば、唐突にミステリーな要素が垣間見えたり、SF小説と言われているが、不思議な作風だった。この作品が日本で初の本格SF小説だそう。
そして、1959年に出版されたとは思えないほどに近未来的で、今の時代に出版されても古さを感じさせないのではないかと思う。
「砂の女」や「箱男」のような哲学的な作品を書くかと思えば、この作品のようにSF要素のある未来を予想したかのような作品を書いたり、阿部公房の作風の幅の広さに驚いた。この作品のほうが先の2作品よ -
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安部公房の短編集は読むのにすごくエネルギーがいる。長編小説であれば最初から最後までトップスピードというわけにはいかないので「遊び」がある。遊びとは、安部公房の世界から我々の住む、あるいは理解し得る世界へ戻って来れる瞬間のことである。しかし短編小説では向こうの世界に入ったっきり、物語が終わるまで帰ってくることができない。読者が通訳だとして、通訳の話す時間を与えるために適宜話すのを止めてくれるスピーカーが長編小説、自分の言いたいことを最初から最後まで一気に自分の言語で話してしまうスピーカーが短編小説といったところである。後者の場合、通訳である読者である我々はとにかくスピーカーが話すことを全神経を集
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これまで読んだ安部公房の中では、
私にとっては難解で、
意味を理解するというよりは、
円環的で、主客が狂っていく、
いつもの蟻地獄のような安部公房世界を味わうことに努めた。
難解な理由の一つは、
会話が、描写が、
何を言っているのかわからないのだ。
限りなくリアリティがあるような変哲もない団地の景色も、
その変哲もなさが詳細に語られるほどに、
なんの特徴もなくて超現実的になる。
根室婦人の言葉は終始何を言っているのかひとつも分からず、
夢なのか幻なのか、
主人公同様に区別がつかずに混乱してくる。
しかしそれらは読書から離れて現実に戻った時に、
今この私が私であるという自己感覚に、
大きな疑