あらすじ
現在にとって未来とは何か? 文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か? 万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下、つぎつぎと意外な方向へ展開してゆき、やがて機械は人類の苛酷な未来を語りだすのであった……。薔薇色の未来を盲信して現在に安住しているものを痛烈に告発し、衝撃へと投げやる異色のSF長編。(解説・磯田光一)
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最初から飛ばしています。ミステリっぽく始まりますがだんだん「これ何の話…?」的展開。とにかくスピード感があって止められません。
諸々の突飛な話が繋がった時は何とも言えない「腑に落ちた〜」感が。
万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことが発端となり、とんでもない事が次々に明るみになっていきます。
いやいやまさか…な事が行われているのですが、安部公房の筆致に、思わず私も乏しい想像力をフル稼働させられてしまいました。
あとがきの日付は1959年、ウィキペディアによると「日本で最初の本格長編SF」とのこと。
予言機械にしたって、コレ60年以上前の作品!
第四間氷期が終わろうとする時。そこに、それこそ天地がひっくり返るような未来を描いた安部公房。これはホントに衝撃。
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こちらはブクロクに登録していない一冊です。
平成13年まではエクセルに書籍を整理(現在も)していました。そちらまでこちらに移すことは出来ず。
コンピュータが予測した全世界が水没した未来の世界で、呼吸のできない水上に出て自死をする私たちの子孫の描写の美しさと切なさに涙した若い自分を忘れたくはないです。
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学生時代に読んだ本を再読。
父に薦められて読み、SF好きになり、読書習慣が付くことになった思い出深い本である。
予言機械、水棲生物の存在は常識から大きく外れている。
その異常さ、不気味さに起因しているのだろうか、読み進めるにつれて主人公の世界自体が現実から剥離していく様な感覚に陥る。
未来の残酷さを受け入れるか否かが、この本の主題となっているが、楽観主義の私は本編の未来はまだ良いように感じた。
現実では、今まさに起きている戦争ですぐ近くの国が核を撃つかもしれない。
それを起点とし、人類が滅ぶ事もあり得る。
そんな未来が無いと言い切れるだろうか。
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久し振りの安部公房。いつも意味不明という感想で終わりがちの安部公房であるが、比較的わかりやすい主題で惹き込まれる。未来予知装置により、陸地がなくなることを知った陸棲人が水棲人を産み出す物語。予測装置を作り出した博士は予測装置による未来を信じられないことを理由に予測装置自体に殺されてしまう。
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未来とは天国か地獄か。科学技術によって人間を取り巻く環境は大きく変化し、その新しい自然によって人間自体も大きく変容してゆく。未来の価値を図る尺度は現在の側にはなく、善悪の彼岸すら大きく捩れてゆく。これはある種のSFが未来を通して現在の人間社会を描くという試みを、未来予知機械をSFと見立ててそれによる変化をメタ的に捉えて描いている。SFミステリーのような導入から最期は幻想小説にまで変化してゆくジャンルレスな作品。
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非常にショッキングな作品だ。予言機械が映し出す過酷なまでの未来、その未来を前提として、海底開発協会のメンバーは行動する。「現在」では罰せられるべき犯罪を犯してまで。しかし、勝見がそれらを糾弾すると、彼らは未来の論理を使ってそれらの行為を正当化していき、次第に勝見の方が言葉を失っていく。自分の子供を、水棲人という「片輪の奴隷」にされたにもかかわらず。この作品は、私のよく見る悪夢を想起させる。内容は忘れるのだが、冷や汗がたらたら出てくる悪夢だ。目の前で起こっていることに対して、何か叫ぼうとしても、声が出ない、届かない。出来事を眺めるしかできない無力の状態になってしまう。勝見も頼木達の論理に完璧に打ちのめされて、言葉が出ない。妻の胎児を中絶させられ、自分自身もこれから殺されるというのに、叫ぼうにも、それが声となって空気を震えさせることができないのだ。
私は、未来にどうしても耐えられない。そこで、まず勝見と同じく、「予言機械」の正当性を考えてしまう。誤差のない予測(シミュレーション)なんて、ナンセンスだし、予言を知った場合の行動をn次予言値としてカバーしているかのように見えるが、2次予言にしたって、誰が・いつ・どこで・どのような状況で、1次予言を知ったかによって変わるべきで、それを刻々と計算していると、時間が足りないはずだ。しかも、作品中に出てくる二次予言値も相当妙な存在である。単なる予言で人格などない、と言いつつ、勝見を殺す段になって「私だってつらい」と感情を滲ませるのだ。また、勝見がいくら予言を鵜呑みにしては危険だと叫んでも、海底開発協会のメンバーは取り合おうとしない。その正しさは絶対的で、それからの論理だと、勝見は未来に対応できない人間として裁かれる運命にあるらしい。しかし、そのような未来を受け入れられないのは私も同じで、だからこそ「予言」の正当性を疑わざるを得ない。予言機械が語る未来の過酷さを思うと、なおさらに。
しかし、「予言」を「預言」と読み替えると分かるような気がする。ちょうど、ノアが神から洪水の預言を聞いたように。勝見もまた、自ら作った予言機械から預言を授かったのだ。しかし、傲慢で残酷なノア(少なくとも安部にとっては)と違い、断絶に耐えられない勝見はその預言を信じることができなかった。故に、未来の論理によって裁かれ、代わりに弟子達・海底開発協会がノアにならざるを得なかったのだろう。海の主人となるべき水棲人類の父親となる、ノアに。勝見が責めを受けるとすれば、未来予測という神の領域に足を踏み入れたにもかかわらず、神の言葉を信じられなかったという一点に尽きる。しかしながら、そのことこそが、予言がタブーであることを暗示していると思う。
さらに、物語の後半で、予言機械によって未来が映し出されていく。ただし、それが「実際」に起こることなのかどうかは、一切語られることはない。ただ映されるのみだが、その未来像はとてもリアルに迫ってくる。洪水、水棲人社会の到来、水棲人社会の日常、「風の音楽」にあこがれる水棲人、などの物語。それらに対して、私たちはもはや判断することはできない。ただ眺めるしかないのだ。でも、本当にこの「ブループリント」は正しいのだろうか?
いや、もう予言だの水棲人社会だの言うのはよそう。たとえ、近い将来、水棲人を眺める望遠鏡のように水没していく運命にあっても、我々は「現在」を生きるしかないのだから。
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まさか未来予言機の開発話がこんな展開をするとは…目が離せず、一気に読んでしまった。
古典文学を読んでいると、当時の感覚では当たり前でも今の感覚では「倫理的にどうなんだ」と思う現象が多々ある。きっと未来人から見た我々にもそういう点がいろいろあるだろう。
人間の価値観は絶えず変動しているが、絶対的に現在が最善というのは間違っているのではないか?
それでも良かれ悪かれ、私たち「現代人」は現代の価値観の中で現代を生きるしか道はないのだが。
最後に安部公房は、現代人に未来の価値観を評価する資格はないと言った。
現代人の偏見で未来を観測して、頓珍漢だと絶望するくらいなら、未来予測なんてない方が良いのかもしれない。
未来人がぴちぴちの全身タイツだって、ヤバい見た目の生物に進化していたって、黙って受け入れるしかない。彼らが未来に生きる「現代人」である限り。
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希望でも絶望でもない未来。
安部公房は一貫してしっかりとした論拠をもって現代社会への警鐘や逃避をテーマにしてきましたが、SF作品への挑戦は自然な流れのように思えます。
他の作品同様に、鋭い視点と論理的な指摘、そしてたっぷりのユーモア。紛れもない安部文学であり、大いに楽しませて頂きました。
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大学時代に途中までしか読めていなかったので再読。面白い。未来について色々考えさせられる。現在の価値基準で未来を評価することなんて、できっこないんですねきっと。意外な展開にきっと引き込まれるはずなのでおすすめです。
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安部公房にしては読みやすいなあ、というのが最初の印象。
電子計算機に大量のデータを与えただけで未来を予言できるというのは、カオス理論を考えると、前時代的という感は否めない。未来も過去もシュミレーションできてしまうというのも、そんなに単純じゃないだろっていう気はする。でも安易なタイムマシンものにはなってないし、死体の神経組織に電極を差し込んでデータを取得し、生きている状態をシュミレーションするというのは、怪しくてなかなかいい。
未来予測のサンプルに選んだ男が殺され、死体を予測機械にかけるとその口は<胎児堕胎>について語り始める。男を殺したとされている情婦からデータを取ろうとするとその女も殺され、家に帰ると主人公の妻も何者かに病院に呼び出され堕胎されていることが明らかになる…。
裏表紙のあらすじを読む限りでは、ある男の未来を予言させようとすることによって何らかの因果律に干渉し、氷河期になるって話だと思ってたけど、こうやっていろいろと裏で行われている謀略が明らかになっていくというミステリ的手法が使われていたのか。期待してたのとは違うけど、これはこれで面白い。作者がこんなわかりやすい論理の作品を書くとは思ってなかったから意外だったけど。見えない組織に包囲されているという閉塞感なんてラドラムみたい。発表年度を考えると「ブルー・シティ」なんかにも当然影響を与えてるんだろうな。
胎児ブローカー→母胎外発生→水棲動物飼育→水面上昇による人類の後継者としての水棲人類の研究という流れは今でも十分刺激的だけど、発表当時はもっと凄かったろうな。主人公が現実の延長線上ではない未来を認めることができず、自分自身の第二次予言値の命令によって殺されてしまうのも安部公房的迷宮なのか。
やっぱこの時代、インテリにとって共産主義というのは理想だったのかな。現実にはコンピュータに関しては、資本主義というかアメリカの技術力は圧倒的だったわけだから、モスクワ1号なんてものが先に作られるとは考え難い。
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「豚に、豚みたいだと言っても、おこったりはしませんよ…」
安部公房のSFって言われてるけど安部公房の話だいたいSF的要素あるとおもう。サイエンス要素ないのに火星が舞台なだけでブラッドベリの火星年代記がSFなら、火星人と名乗る男が家におしかけてくる人間そっくりもSFじゃないのか?SF概念はむずかしい…
この作品、以前読んだ砂の女や人間そっくりに比べると取っ付きにくく感じ、特に途中の科学的な話の部分は自分には難しくあまり頭に入ってこなかったが後半からあとがきにかけてSFの醍醐味である固定概念を崩されるという感覚を味わうことができて最後まで読んで良かったと思えた。
今まで過去の人が現代の生活を知ったら妬むくらいに羨むと思っていた。過去は不便で倫理観も未発達で多くの人が貧困や病で苦しみ早くに亡くなってしまう、そんなふうに過去や過去の人を見下していたのかも知れないと気付かされた。あとがきに例えば室町時代の人が現代に来たら彼は現代を地獄だと思うだろうか、極楽だと思うだろうか?との問いかけがあった。小説の主人公が未来を担う水棲人間の子供を見て残酷だといい、それは人間のおごりだと諭されたように自分と断絶された未来または過去を良いか悪いか判断できるものではないのだと思った。
陸に憧れて初めて涙を流すという感情を知った水棲人間の少年の話がすき。アンデルセンの人魚姫を彷彿とさせる。全体を通して不気味、不穏なのにここだけ読者の心を慰めるような美しさを感じた。
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聞かされた最初も、予言機から色々聞かされていく過程でも、自分はずっと主人公と同じような気持ちだった。「ありえない!→いやそんなバカな、、」みたいな徐々に不安になっていく感じ。
この本を読んだことで、この本というより「未来を認めたくない自分」に対して恐怖を感じる体験をさせられました。
自分の理解力不足もあるとは思うが、正直ストーリー構成的に強引だったり説明つかないところがいくつもある気がしてる。ただ、50年以上前の作品だし、話の複雑さを考えれば許容範囲か
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最近のアニメ、映画でよくあるAIと人間の同期っぽい設定があって、この作品を昭和45年に書いている安部公房の想像力に脱帽。
今はAI技術の進化を見ているので、面白い想像だな位に感じるけど、この本が出た頃読者はどんなふうに感じていたんだろう。
集中して読めてない部分も多いので、再読したい。
昭和40年代の人の想像で表現している挿絵が何だか面白い。
Posted by ブクログ
電子頭脳を持つ予言機械、今で言う人工知能のような機械にある男の未来を予言させたことに端を発し、事態はあれよあれよと急展開を迎える。
SF的な要素があるかと思えば、唐突にミステリーな要素が垣間見えたり、SF小説と言われているが、不思議な作風だった。この作品が日本で初の本格SF小説だそう。
そして、1959年に出版されたとは思えないほどに近未来的で、今の時代に出版されても古さを感じさせないのではないかと思う。
「砂の女」や「箱男」のような哲学的な作品を書くかと思えば、この作品のようにSF要素のある未来を予想したかのような作品を書いたり、阿部公房の作風の幅の広さに驚いた。この作品のほうが先の2作品よりも前に刊行されているので、もともとはSF的な作家なのだろうか。
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好きな長篇。
サスペンス色が強く緊迫した雰囲気が、主人公と同調していく様で面白い。
作者の先見の明という点で有名な本作だが、やはりこの時代でこの作品を生み出した安部公房は怪物という他ない。当時描かれていた未来を、現代から答え合わせ様々な考証が出来る有意義な一冊。
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半世紀以上の時を経て、2020年代の我々こそ切実に読む物語ではないだろうか。
私が最初に読んだ2006年ごろ、世間はweb 2.0の頃で、深層学習や機械学習以前。作中の「予言機」はまだ荒唐無稽なものとして捉えていた。
しかしchatGPT等のLLM(大規模言語モデル)と呼ばれるAIが現実に存在する2024年の私には、「予言機」は切実さを感じる存在で、明らかに2006年よりも、このお話自体の内容が切実に迫ってくる(chatGPTは予言のための機械ではないが、予言機はchatGPTのように未来を「生成」し、作中人物と対話している)。
64年の歳月を経ている作品が、直近約20年を挟んで、こんなにも読み手側の要因で受け入れられ方が変わるものかと驚愕した。時代が追いついたとはこのこと。
そもそも本作は奇妙に2020年代にマッチする環境下で描かれたのかもしれない。
本作が書かれた1959年は、当然世界が西側と東側に分かれた冷戦の真っ只中で、おそらく日常のなかに戦争への不安があった。さらに、本作では環境激変への対応の結果として水棲人間が出てくる。つまり安部公房は地球規模の環境変化にも問題意識をもっていた。翻って2024年現在、ロシアはリアルタイムに戦争していて、日本を取り巻く国際政治も20年前よりも不穏さを増している(と思う)。毎夏の高温で環境変化は現実のものとなっている。安部公房の問題意識が現実のものとなっている。
最後に、安部公房の「あとがき」には、未来をどう受け止めるか、ということがテーマの一つと書いていて、さらに、「未来とは価値判断を超えた、断絶の向うに、「もの」のように現れるのだと思う。」としている。ドライな捉え方だと思うが、彼自身の想像力をもとに下したハードボイルドな結論であり、先輩の意見として一考すべきと思います。
Posted by ブクログ
現代日本の作家である安部公房(1924-1993)による本作は日本初のSF長編小説とされる、1959年。
自由とは、現在の同一性に閉じているのではなく、未来という差異へと開かれてある、ということ。未来とは、現在からの延長ではなく、現在との断絶である、ということ。則ち、自由とは、自己否定への可能性、自己(暫定的有意味)が非自己(根源的無意味)へと転じる可能性であり、そこには自己(暫定的有意味)の背面に穿たれた非自己(根源的無意味)の亀裂が予め前提されている、ということ。未来とは、自己(暫定的有意味)にとっての非自己(根源的無意味)を時間軸上に投影したものである、ということ。僕らがひとつの連続体とみなしているものが、実は任意の点において不連続であるディリクレ関数のごとき代物であるということ。
本書は、人間の自由というものの人間自身にとっての過酷さ、その耐えがたさを、未来予言という仕掛けを通して読み手の眼前に突きつけてくる。
「こうした日常的な連続感を、つい昨日までは、このうえもなく確実なものだと信じてきたものだ。しかし今はちがう。昨夜見たのが現実なら、この日常感はむしろ、いかにも現実らしい嘘だと言うべきではなかろうか。なにもかもが裏返しなのだ。/予言機械をもつことで、世界はますます連続的に、ちょうど鉱物の結晶のように静かで透明なものになると思いこんでいたのに、それはどうやら私の愚かさであったらしい。知るという言葉の正しい意味は、秩序や法則を見ることなどではなしに、むしろ混沌を見ることだったのだろうか……?」(p210)。
自己を起点として有意味で連続的で heimlich に構成されているかに思われた「世界」(暫定的有意味)が、実はどこにも起点をもたない無意味で非連続的で unheimlich に散逸しているだけの「もの」(根源的無意味)でしかあり得ない、ということ。
「真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向うに、「もの」のように現われるのだと思う」。「未来は、日常的連続感へ、有罪を宣告する。[略]。未来を了解するためには、現実に生きるだけでは不充分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があるということを、はっきり自覚しなければならないのである」。「おそらく、残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである。その残酷さの責任は、未来にあるのではなく、むしろ残酷を肯んじようとしない現在の側にあるのだろう」。以上「あとがき」(p338ー341)より。
虚構でしかない日常性の上で暫定的有意味の安逸を貪るだけで根源的無意味を直視できない者たちに対する、この作家の苛立ちを感じる。
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「「[略]、人間は、予言を知っておる場合と知らん場合とでは、おのずと、やることもちがうわけですな。すると、予言しても、それを発表してしまえば、ちがった結果になりゃしませんか?」[略]、「その場合には、最初の予言を知ったうえで行動したという条件で、もう一度予言をくりかえすわけですな。つまり、第二次の予言ですな……これがまた公表された場合は、第三次予言……というふうにやっていきまして、まあ無限大までもってゆく……これがいわゆる最大値予言になるわけで、現実はこれと第一次予言との中間の値をとる、というふうに考えればいいわけです」」(p25)。
再帰プログラムの不動点意味論を思い出した。
「社会を予言でしばることは、なんたって自由主義に反することですからな」(p205)。
「――人間の情緒が、多分に、皮膚や粘膜の感覚に依存していることは了解していただけるでしょうな? たとえば、「ぞっとする」「ざらざら」「ねばつく」「むずむずする」……こう、ちょっとならべただけでも、いわゆる体表面感覚が、いかにわれわれの気分や雰囲気の形容になっているかが分ります」(p304)。
メルロ・ポンティ『知覚の現象学』を思い出した。
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難解な作品が多い安部公房の中ではたいへん読みやすい一冊。
未来を予言できる機械が、やがて自分を追い込んでいってしまう。50年前に書かれたとは思えない現代的SFホラー。
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知らずに読んだけれど、日本で本格SFをやったハシリだとか。
奇妙な世界にいつのまにか巻き込まれていくストーリー展開は、これまで読んだ安部公房作品に通じるものがある。
当初は自分自身が開発した未来予言機の研究存続のためにやっていたことが、最終的には、人工生物とか、地球そのもののあり方が変わるかもしれない未来予想とかに繋がっていくのは予想外。
読みやすいけれども濃厚なSF描写と、自分の認識が揺らいで混乱させられる世界観で、脳がこねくり回された。この読み味はやっぱりすごいし、唯一無二だと思う。
演劇と小説を行き来する作家だけあり、舞台でやっても映えそうなセリフと、シュールさもよかった。
未来予言を突き詰めると、一個体の人間の再現までできるという描き方には恐怖しかなかった。
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未来に希望はあるのか、それとも絶望なのか?
未来を予言できるコンピューターを開発した主人公。
コンピューターにより未来を予見し、水棲人間をつくりだした人々。未来に向けての意見の相違で道が割れた人間たち。
奇しくも東日本大震災の大津波を経験したわたしたち、温暖化が進む世界。地上が海にのまれる日も近いのかもしれない。
だとしても、その先の未来に何を見て何を望むのか?
答えの出そうにない命題。
これが60年以上前に書かれた小説だという現実。
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文庫本は昭和45年発行。平成19年現在39刷。昭和33-34年、雑誌「世界」連載。連載が終わって61年経っているのに、古くならないどころか、益々新しく、現代を批評しているかの如くである。
安部公房はまともに読んだことがない。純文学とか、不条理文学とかだと思っていたから。ところが、今回は全体の半分はSFで、半分はミステリだった。もちろん、純文学らしく何言ってるんだかわかりにくい所もある。私はそれを「現代版黙示録」として読んだ。いや、半分本気です。満州から引き上げる途中、安部公房は時空の裂け目に落ちて、神に導かれてちらりと未来を見て帰ってきたのではないか?だから、電子計算機(AI)が未来を語り、死者の脳から殺人事件の顛末を語らせるという不可思議な、しかし23世紀ごろには現実になりそうな現象も描けるのではないか?
しかも、東野圭吾もあっと驚く、意外な犯人が出現する、というかそういう映画をたくさん観た現在ではほとんど予測はついたけど、エンタメミステリーも描かれる。
安部公房は、もしかしたら気温が41度を越すような日本の夏の風景を1-3秒で通り過ぎたのかもしれない。いや、もっと酷い未来を、例えば日本列島のほとんどが沈没しているような未来を神の目のようにチラリチラリと観て、還ってきたのかもしれない。小松左京が「日本沈没」を書くよりも10年以上前に、安部公房は黙示録的に日本の未来を描いた。大洪水のあとに暮らす我々の子孫。
未来予測機を開発した先生に、助手の瀬木は言う。
「(先生は)観念的に未来を予測することには、強い関心を寄せられたけど、現実の未来に対してはどうしても耐えることができなかった」
それは、地球温暖化やコロナ禍の下、やがて近づくカタストロフィに「耐えることができなかった」我々のことを予測する言葉なのかもしれない。
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安部公房のSFである。しかし、SFなのにミステリなのか、悶々とした追いつ追われつがあり、自分以外が薄気味悪く笑っていたり、気がついたら自分が死ぬ運命になっているあたりが安部公房だ。
予言をするコンピューター、水棲人間作りなど、SFの要素はしっかりある。それなのに、多くの部分で感じるのは、「燃えつきた地図」や「密会」にもあった、よくわからない人たちから情報を引き出そうとする話。その中で、未来にいるのか戦後間もない木造のアパートに居るのか、未来にそういうボロアパートがあるのかを錯覚する。
ディテイルは非常によく書き込まれており、荒いながらもコンピューターや、発生学(オーガナイザーの時代か?)をそれなりに納得させるように書いているのが興味深い。物質の密度勾配で腕が出来るか足が出来るか、なんていう話を書いているが、これ、1950年代だからね。
予言の話のモスクワ2号で、引き合いに出されているのはオーウェルの「1984年」なのかな。皮肉的に触れられているのも興味深い。
本作は全体に会話が主になっており、安部公房の独特の形容詞回しが苦手な人でも読みやすいだろう。最後の「コンピューターの夢」とでも言える部分以外は、情景も非常にわかりやすい。
「砂の女」「方舟さくら丸」で感じた、日本映画のネチネチした部分を文章化したような、安部公房らしい作品といえる。
なお、表紙は奥さんの安部真知の作品のものを読んだ。中には珍しく挿絵まで入っている。新潮文庫は知らない内につまらない表紙になっていて、非常に残念だ。このサムネイルの表紙なら、星をもう一つ減らしたい。
Posted by ブクログ
殺人事件を巡るミステリのような展開から話が変わってきてSFへ(笑)予言する機械や謎の脅迫電話、胎児誘拐事件、水棲人の研究など色々考えるな~(笑)異色なSFとしていい感じですね(笑)
Posted by ブクログ
安部公房は、家元が中学高校一貫校の寮生時代には劇作家として活躍していた。演劇同盟座付き作家N原は、彼に傾倒していた。劇団男優の家元は、江守徹から芝居のイロハを拝借した。
ところで花田清輝の書評でも書いたが、実に小説の世界(活字の世界)は、流行歌の世界(歌謡曲界隈)に比して繰り返し楽しむ機会に乏しいのは実に残念な事だ。本書も、安部氏の比較的初期作品であるが、彼の特色である人間の意識と感受性に、環境や他者の影響が色濃く出ている。今で言うところのAIにも似た予言機械が登場し、未来が人間に肯定的なものであるのか否定的なものであるのかは、不明である。が、それゆえに人間は未来を知りたがる(占いなどの信憑性が薄いものも含め)。未来は日常生活の連続の末にあり、予言機械は多分に、幸せな未来をより残酷な未来として予知するだろう。そして現代をコンピューター的観念過剰の思考が支配する時代と考えるならば、人間の内的思考を保持するためには個々の育んだ常識が大切であり、ここで支配的に言葉をかける予言機械を拒否し続けることこそ、著者が実は主張したかったことではなかろうか?
それにつけても、三島由紀夫か安部公房の何れかがノーベル文学賞を受賞すると思ったが。
Posted by ブクログ
予言機械が開発者の意図を越えた動きを始める…AIが現実になっている現代に読んでも、不自然なSFさは感じさせず、読む者を不安に陥れる安部公房の世界に引き摺り込まれる。
50年以上前に書かれた本とは思えない。
予言を知ったら取る行動を織り込む操作を無限回繰り返す最大値予言、という件は数学的にはイメージできるが、人間の行動をそのように処理できるとしたら興味深い。
Posted by ブクログ
ややこしい
自分と自分の対話
でもすごい練られてるなーと感じた。
結末が、なんかなーと思ったけど。
深く読み取ることが私にはできなかったけど、
現実では考えられない未来が
ふつうに感じる時が来るということは
コロナでの数年間の生活もそうだが
ありえるし
今と繋がらない未来は確かにあるとは思う
その中で生き抜いていくしかないけど
連続性のない未来をポンとみせられると
私は、そのために準備しようとかおもえるかなー?
ただでさえ、地震がくるっていっても
防災グッズも購入してないのに、、、
私も未来を妨げてしまうのだろうか。怖いなー
安倍公房さんの本は、なんか難しそうだし
怖そうだし、手に取ったことがなかった
書店で100周年という、ポップをみて
読んでおいた方がいい作家さんだとかんじ、
これともう一冊購入した。
もう一冊は未読だが
すぐに読む気になれない
面白いかといわれると、面白くない
でも、最後までどんどん読める
結局、読んでよかった本という感じ。
他の本を読んでから、
静かな心で次の作品を読もうと思う。
Posted by ブクログ
予言機械を発明した博士目線で進む物語。
ホラーチックなところもあり、驚かされることもあり、物語に引き込まれました。やや難解な部分もあるが、そこがまた自分自身、世の中に対して、改めて目を向けて考えに耽る、、、そんな時間が持てて良かったです。
Posted by ブクログ
未来を受け入られられるタイプの人間と受け入れられないタイプの人間がいた。
予言による混乱を避けるべき予言機械の正式な了解が避けられる中、世界が水没する未来を受け入れ水棲人の育成をする人達もいた。
本が出版されたのは高度経済成長期。資本主義•工業化•田園風景の都市化が起こり、世の中の仕組みも街並みも大きく変わっていった時期である。
今までの常識が覆されていく世の中であった。
そんな中でどう立ちまわるのか。未来に対して否定的なタイプと肯定的なタイプでの議論がなされていた事だろう。
2021年、新しい生活様式と言った言葉が流布する中現代に生きている人々に対しても、問題提起をされているように感じた。