柴田元幸のレビュー一覧
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最近の自分的外文ブームにうってつけの本新書。しかも春樹・柴田共著となると、もう読むしかないってことで。期待に違わぬ内容で、翻訳のイロハの部分とか、ちょっと垣間見れた気になっちゃいました。他の著作でも触れられていたと思うけど、”翻訳には耐用年数あり”っていうのには全面的に賛成。新しい訳で読めば良かった!って思ったことも結構あり、最近では専ら一番新しい訳にこだわってたりもする。そう考える中でふと思ったのが、外文は100年経ったものでも新しい訳で生まれ変われるんだから、日本の古典的文学作品も、50年とか経ってるものは誰かが書き直せば良いのに、ってこと。夏目、森、芥川など諸々。新しい言葉に置き換えられたら楽しめたって人、多分結構いると思うけど。ってか、そう思うなら自分でやれば良いのか。
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Posted by ブクログ
ネタバレ壮大なタイトル詐欺。
竜巻のせいで魔法の国に飛ばされたドロシーと、カカシ、ブリキ男、ライオンの愉快な仲間たちで送るファンタジック・ヒーローズ・ジャーニー。
非常に面白かった。不朽の名作である訳が分かった。愉快で変わった仲間たちとの冒険譚でありながら、『青い鳥』のような寓意性も持っている。また様々な困難を全員の協力で打開していくところが非常に素晴らしい。ストーリーは『桃太郎』に似たところがあるが、『桃太郎』よりも困難に工夫が見られる。
あらすじ
カンザス州に住む少女ドロシーは愛犬トトと一緒に迫り来る竜巻に備え地下室に逃げ込もうとした。だがトトがベッドの下に逃げ込んだせいで、家ごと竜巻に飛ばされ一緒に暮らしていたおばさんたちと離ればなれになってしまう。ドロシーたちの家が落下したのは、魔法の存在する不思議な世界の東の国の魔女の家の上だった。
偶然、東の国の魔女を退治したドロシーを、北の国の魔女は歓迎する。カンザスに戻りたいなら偉大な魔法使いであるオズの魔法使いに会いに行けば良い、とアドバイスを受け、ドロシーは東の魔女の銀の靴を鹵獲し、トトと共にエメラルドの街に向かう。途中、脳みそがないことを気に病んでいるカカシ、生身の肉体を失い心臓を取り戻したいブリキ男、百獣の王としての勇気が欲しいライオンと出会い、共にオズの魔法使いに願いを叶えて貰うため、一緒に旅をし始める。艱難辛苦を乗り越え、エメラルドの街についたドロシーたち。オズと謁見することはできた。だが、オズは欲しいものの代償として西の悪い魔女を退治してくることを要求する。ドロシーたちは西の国へ、悪い魔女退治に向かう。だが途中で空飛ぶ猿に襲われ、仲間はバラバラになりドロシーとトト、ライオンは魔女に捕らえられてしまう。魔女に奴隷にされたドロシーだったが、偶然魔女の弱点である水で攻撃することに成功し、魔女を退治する。西の国を魔女から解放したドロシーは、仲間を再び集めエメラルドの街に戻る。だがオズと再び謁見し、判明したのがオズが偉大な魔法使いでもなんでもないただの人間だということだった。詐欺師のオズはなんとかカカシたちを騙すが、ドロシーの願いだけは叶えきれず、一人気球で魔法の国から脱出する。
悲しみにくれるドロシーは、南の国の魔女ならば何か知っているかもしれない、とアドバイスを受け南の国へ向かう。他の面々は皆、手に入れたと思い込んだ大切なものの力を発揮しつつ、ドロシーをサポートする。南の国に着いたドロシーに、魔女は銀の靴を使えばすぐに帰れることを教える。
『オズの魔法使い』というタイトルだが、オズの魔法使い自体は何の力も持たない詐欺師である。これは冷静に考えてみればすごいセンスであり、『ドラゴンボール』というタイトルなのにドラゴンボールに神龍が宿っていないようなものである。だが「ドラゴンボールは願いを叶えてくれない、願いは自分で叶えなければ駄目だ」、といった寓意的メッセージの提示で物語が終了する訳でもない。オズがただの人間だと知ったドロシーは、自分の足で更なる可能性に賭け旅に出るのだ。この行動力の提示が素晴らしい。口先だけではなく、登場人物が行動してみせる点に好感が持てる。メインのキャラクターである、ドロシー、カカシ、ブリキ男、ライオン、トトは桃太郎と犬、猿、雉のような関係だが、上下関係がない。桃太郎は黍団子で動物たちを雇うが、ドロシーは共通の目的地を持っているため、一緒に旅をしているのだ。古くからある『桃太郎』に比べ、旅の動機がかなり現代的である。現代作品では『ONE PIECE』に近い形でつるんでいる。またそれぞれのキャラクターが求めるものは「帰郷」、「知能」、「感情」、「勇気」と別々であり、隣の芝が青く見えるだけで、大したものではないと諭し合うこともあるが、互いに願いを尊重し、協力して旅をする。作中では空飛ぶ猿が存在し、『アベンジャーズ』では敵に洗脳されたホークアイたちをニックが空飛ぶ猿に喩える。これは暗にアベンジャーズたちが『オズの魔法使い』の主要メンバー、ドロシーたちと同じように、異なる目的を持ちつつも協力し合う仲間であることを暗示しているのだろう。そういう意味ではいがみ合いが少ない分、ドロシーたちはヒーローたちよりも互いを尊重していると言える。各キャラクターに関しては、心優しく面倒見の良いドロシー、知恵がない分頑張って頭を使うカカシ、心がない分命に気を使うブリキ男、勇気がなくても仲間のためやる時はやるライオンなど、魅力的なキャラクターが揃っている。皆、自分に何かが欠けていると知りつつも、欠けた何かを補うために真剣に行動している。その克己心が少年漫画的であり、非常に魅力的だ。
ストーリーはエメラルドの街が終着点ではない、という意外性を持っているものの、ブリキ男の婚約者の伏線が回収されなかったのが残念だった。だが冒険自体は工夫あり協力ありで非常に魅力的である。現代でも通用する冒険譚としてのクオリティを保っていた。
世界観は街並みの色合いが素晴らしい。エメラルドの街で有名な作品だが、それ以外の場面も非常に独創的かつ幻想的で魅力的である。
テーマは前述の通り『青い鳥』に似た寓意である。幸せは近くにある、というテーマが『青い鳥』ならば、望むものは既に持っている、というテーマは『オズの魔法使い』だ。だが厳密に言えば既に持っているという言い方には語弊がある。主要キャラクターは皆、欲しいものがあるが持っていないことを自覚している。自覚しているが故に、持っていないという欠点を補おうとする。補おうとする努力こそが、欲しいものを得ることに繋がる。主要キャラクターは皆、この境地に至っているため、皆既に欲しいものを持っているようにみえるのだ。重要なのは「ないからこそ気をつける」という精神である。
文章は情景描写が素晴らしい。
台詞はキャラクターの言い回しが良い。
総合的に見て非常に素晴らしい小説だった。楽しい冒険譚として、非常に引き込まれる魅力を持っている。
キャラクター:☆☆☆☆☆
ストーリー :☆☆☆☆
世界観 :☆☆☆☆☆
テーマ :☆☆☆☆☆
文章 :☆☆☆☆
台詞 :☆☆☆☆ -
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特に翻訳に興味があるわけではない、と言うか、むしろ翻訳の文章は頭に入ってこないので苦手な世界だが、その舞台裏はとても面白い。興味がないけどそのマニアックぶりが面白いという点では「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を連想する。やはり村上春樹が面白いのだ。
翻訳のあれこれを語ると読者や作家活動にも関係してきてその広がりも面白いところ。
ここでは2つの短編を二人が翻訳して掲載し、比べるという面白い試みもしている。例えば登場人物の職業について書かれていない場合、翻訳者が肉体労働者と思うか知的労働者と思うかで訳文がかわってくる。淡々としたものにするか熱いものにするか、主人公は「僕」なのか「私」なのか、過去形か現代形か、受け身にするかどうか、段落をかえるのは原文と同じにするかしないか(日本の小説は外国の小説よりは段落を替えるケースが多いので、原文どおりにすると日本人は読みにくく感じる。)などいろんな選択があるんですね。
それに翻訳者の物語への思入れもあって、タッチがかわってくる。海外ドラマの吹き替えで、声の調子でキャラクターが出てしまうのに似てますね。
アンダーラインを引きたくなるところが満載すぎて例示に困るので30ページごとに開いてみる。
『リズムがない文章というのは読めないんです。~だから翻訳するときには、何はともあれ原文のリズムをうまく日本語に移し換えるということを意識します。』
筆者が文章スタイルを意図的にぶち壊そうとしている『日本語にするともう収集不可能になってしまう。だから適当に止めちゃったんですよ。』『作者の意図がどうであれ、日本語にしたら読む人は違和感を感じると思ったら、翻訳者は自分の判断で変えていいんじゃないかと、僕は考えています。』
『とにかくもう何でもいいから、寝食を忘れて一生懸命いろんなものを翻訳して、何度も何度も読み直して、何度も何度も書き直して、人に読んでもらってまた書き直すということを続けていれば、スタイルというのは自然に出てきます。』
『「僕」のほうが「私」より色がありますよね。で、なるべく色なし、人間性なしでいきたかったので、本当は、だから何も書かないのがいちばんいいのだけど、さすがにそうもいかないので仕方なく「私」にした』
『僕は絶対言葉に出さない。というのは、音声的なリアリティーと文章的な、活字的なリアリティーってまったく違うものだから、音はあまり意味ないんですよね。』 -
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読んだばかりのJ.D.Salinger の「Catcher in the Rye」について、訳者である村上春樹と、それを教材に東大で講義をしている柴田元幸が徹底的に語り合っている。
この小説は「社会に反抗する無垢な少年の物語」という評価が通り相場らしいが、村上も柴田もそれに関してはとても否定的である。以前は、若者はこの小説を読まないことには話が始まらないというところがあったそうだ。ところが二人の対談を読んでいると、とてもそんな単純な物語ではないことに気付かされた。
二人は「トム・ソーヤー」や「ハックルベリー・フィン」を引用しながら、ヨーロッパにある成長物語はアメリカにはない。反成長物語ばかりだという。この2つもそうだし、「ギャッツビー」もそうだし「老人と海」もそうだという。他のアメリカ文学もそうなのか後に検証してみたい。
ホールデンの言葉遣いについて柴田が村上に言っている。
「『何々しちまう』という語尾なんか50年代を意識したのか。最初は違和感があったが、読んでいるうちにすんなりはまった。」
実際私も非常に違和感を持ったが、村上はこれを意図的にそうしたという。「ホールデン語」みたいなのが必要だったという解説を読んで納得した。
タイトルについては、野崎孝の既訳は「ライ麦畑でつかまえて」だが、村上訳では原文のまま「キャッチャー・イン・ザ・ライ」とした。そのままでは全然意味が伝わらないかもしれないが、ある程度情報があればそれでも機能するだろうと、このタイトルにしたそうだ。例えば映画でも「プライベート・ライアン」なんかそうで、private に「兵卒」の意味があることなんか、一般の日本人はあまり知らない。でも誰も文句言わない。ということだそうだ。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」本体には、契約上訳者の解説を付けることができなかったそうだ。そこで本書にその解説を載せている。これを読むことができて本書の理解が深まったと思う。
また、最後に柴田が「キャッチャー」をアメリカ文学の中に位置付けるという意味で書いたという「Call me Holden」もホールデンに語らせた解説みたいで、とても面白い。 -
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癌宣告され、終の住処にブルックリンに帰ったネイサンが、甥っ子のトムと再会し物語が進む。
ネイサンが愚行書(愚行が英語でフォリーズという意味)を人生の最後に仕上げるのが目的なのだが、年の差の離れたトムとの会話に男はいつまでも阿呆なんだなと笑えるところが多い。
20代〜30代後半の人が読むならトムにむしろ共感出来る部分がたくさん出来て、個人的には好きになった。
若いころに夢を見て、立派な大人になれるもんだと疑わない時期があって、いつかいつかと先延ばしにしていくと気が付けば何にもない理想とはかけ離れた現実の自分がいる。
そんな自分にこんな人生も悪くないよなあって諦めるように言い聞かせてしまう人には、ネイサンのような人生の先輩が近くにいると変われるきっかけになるのかもしれないと感じた。
ポールオースターがそこら辺にいる有名人ではない一般人にも人生の物語があって、それを誰かに残したいと願っているような作品だと。 -
Posted by ブクログ
はじめに『ブルックリン・フォリーズ』を読んでポール・オースターにはまり、初期のニューヨーク三部作、『ムーン・パレス』、『偶然の音楽』と読んだ。
初期の作品から間を飛ばして後期の本作を読んだので作風の違いに驚きもあったが、歳を重ねたオースターの厚みを感じられる、心にずっしりとくる素晴らしい小説だった。
物語の前半は他の作品と比べて何だか入り込めなかった。今までの作品には魅力的なストーリーと絶妙なユーモアが入っていたのだが、本作は様々な人が抱えている人生の重たい荷物が淡々と描写されていく。
読んでいて辛いわけではないが、今までの遠くへ連れて行っていってくれるオースターではない。今まで読んだ作品のような破滅に突き進む主人公は居らず、過去を背負ながら「今、ここ」で生きていく人々が確かな存在感を伴って描かれている。
オースターの前期の作品から急に後期に飛んだので、ちょっとついて行けてなかったのかもしれない。それでも作家としてのテーマの繋がりはひしひしと感じるのが嬉しかったり、ニューヨークのブルックリンという都会が持っている孤独感にちょっと居心地良い気がしていたりする。
静かな小説ではあるが、地下に熱いものが流れているのは感じた。
そんな感じで前半はずっと淡々とそれぞれの人物の背景を描いてきたが、後半はそれぞれの人生が絡まり合いながら一つの物語に集約していく。初期のオースターは一人の男の人生を掘り下げてきたが、晩年は家族や友人といった人生の交差をより複雑に描いているのではないか。そういえば『ブルックリン・フォリーズ』もそうだった。それぞれの立場や目線が積み重ねていくことで、人が生きることをこれほど深く表現できるのかと驚く。
現代を生きる人々のドラマを、演出は極力抑えながら写実的なスケッチを何枚も重ねていく。ストーリーとしては地味ではあるが、個性的な登場人物の内面が驚くほど丁寧に書き分けられている。文体まで変わっているので別の人が書いたかのようだ。単純に文体を変えるのではなく、それぞれに真に迫る気持ちが込められている。
表には出さないが、誰しもが答えのない葛藤を抱えていて、それが切なくもあるが温かい気持ちになる。
決してワクワクするような物語ではないが、深い余韻が残る。ストーリーも重いテーマだが存在感としての重量を感じた。その重たさが本作の一番の魅力になっている。
アメリカで2010年に発行された本作は、多くの作品と同じように、経済危機によって国が崩壊していくように感じられた当時の空気感に対して書かれた物語なのだと思う。群像劇ではあるが舞台は狭いコミュニティにまとまっているし、それぞれの考え方の違いはもちろん、共通の時代性が見えてくる。
そんな閉塞感のある現代をよく表していて、国は違えどとても身近に感じた。今を生きる人なら登場人物の誰かに共感できるはず。読む人によって感想が全く変わる面白い小説でもあると思う。
明るい未来は期待できない時代に、手に触れられる物や肉体的な物事に向かっていくのは自然な流れなのかもしれない。
誰のものでもない家に、いつ無くなるのかわからない恐怖を心の隅に追いやりながら暮らす。この生活が永遠に続くとは誰も信じていない。しかし、その中で自分と向き合いながら何者かになろうとすることは、ニュースが報じる悲惨で可哀想な(プアな)印象とはまるで違って、とても人間らしくて温かいものがある。
ポール・オースターはそんな人々にいつも寄り添ってくれる。今読めて良かった!