『脚注14)したがって「普通」の人間とリリパット人との身長の比は、約十二対一ということになる。容積・体重で較べれば一七二八対一。ちなみに「ガリバー旅行記」刊行の一七二六年に書いたある手紙で、スウィフトはイングランドとアイルランドの富の格差を十二対一と見積もっている。イングランドによるアイルランド抑圧、というテーマは「ガリバー旅行記」全篇を通じて見隠れしており、ここにもその気配を見てもいいかもしれない』―『第1部・リリパット国渡航記』
昔、岩波文庫版で読んだ記憶が微かに残っているけれど、子供向けに構成された物語に比べてひどく読み難い(日本語が、という意味ではないです)本だなと思った覚えがある。小学生の頃には「ほら男爵の冒険」とか「十五少年漂流記」とか「ロビンソン・クルーソー」とか、子供向けに書き直された本は随分楽しんだが、後年「ガリバー旅行記」で味わった違和感のせいか、この類の本をきちんと読んだことはないなあ、と妙なことを考える。そう言えば「ガリバー旅行記」を読み直そうと思ったのは沼正三の「家畜人ヤプー」を読んでのことだったけど(なので、ませた思春期の頃の話)、こちらも強烈に読み難かった印象だけが残っている。
そんな本を柴田さんが翻訳? 米国文学じゃないのに? と思いつつ、本棚に並ぶ本書を眺めてちょっと驚いたのだった。
まずは当然のことながら、とても読み易い(日本語が、という意味です)。そしてそれにも増して、少し多めの脚注が大変ためになる。というか、300年前の日本が鎖国をしていた頃の英吉利人の常識や考えなんて判る訳ないので(但し解説にある通り文章自体は明快)、こういう翻訳者の囁きのようなものは必須なのだな。変な話だけれど、この脚注の頻度の適度な事といい、語り口といい柴田さんの個性が出ていて、ツアーガイドを伴って見知らぬ場所を旅するような感覚を味わえるのも本書のよいところ。そして最後の解説は長旅を終えた後に読むと沁みること間違いなし。
『詐欺は窃盗より重い罪と見られており、死刑にならないことはめったにありません。しかるべく手を尽くし、目を光らせ、常識をはたらかせれば、財産を泥棒から守ることはできるかもしれないが、たちの悪い狡猾さを敵に回したら、正直さなど何の防御にもならない、と彼らは言うのです。売り買いや信用取引が日々為されることは必要だが、その際、詐欺が許容され、黙認されて罰則もなければ、正直な商人はかならずや破滅し、悪党が得をすることになってしまう、と。私は一度、主人から仕事で預けられた大金を持ち逃げした罪人を、帝に向かって弁護しようとしたことがあります。情状酌量になるかと、要するに信頼を裏切っただけではありませんか、と申し上げてみたところ、何より重い罪を擁護するとは何事か、と帝は甚だしく憤慨なさいました』―『第1部・リリパット国渡航記』
ともすると、アイロニーというか反語的というか、如何にも著者ジョナサン・スウィフトの厭世的な視点での物言いが印象に残りがちで、こちらもそれに釣られてつい自分自身のことを棚に上げて人間の嫌な本性のことをあげつらいそうになるけれど、意外にも(正に意外にも)スウィフトは人間嫌いではなかったとか、実は聖職の座に執着していたとか、その辺りの事情を判った上で抱く印象というのも案外と悪くはない。同時代人にとってどんな風に受け止められていたのかがほんの少し気になるけれど、300年近く前に書かれた本であるのに「解説」にある通り、少しも古臭さを感じることが無い。むしろ描かれた人間の本質が余りに変わらないというか、現代にもほぼそのまま当てはまるのを実感して、著者の慧眼に感じ入るばかりだ。人類は啓蒙思想だの社会契約論だのと立派なことを言いながら、産業革命(この著作はそれ以前の作)経て多くの人が豊かさを享受するようになっても、何百年も精神面ではちっとも進歩らしい進歩はしてこなかったのだなあと、どうしても思わずにはいられないだが、そういう業を背負ったものとして物事の善悪を判断するというのはどういうことか改めて考えておかなければいけないね。
全くの余談だけれど、昔バイナリーデータを扱っていた頃、IBM系(観測データに多いタイプだった)とIntel系(データの処理ではこちら)で二分割したデータサイズ(例えば16ビットデータなら1バイトずつ)の前後の順が逆になっているっていうのを知ってちょっと衝撃(マジかよ、よくこれで間違いが起きないもんだな(起きてるのかも知れんけど)、という衝撃)を覚えたのだった。それをエンディアンの違いと言って区別し、IBM系を「ビッグ・エンディアン」Intel系を「リトル・エンディアン」と呼ぶんだけど、それがリリパット国の人々がゆで卵を「頭から割る(リトル・エンディアン)」か「お尻から割る(ビッグ・エンディアン)」で争ったという故事から取られているというのを知って更にびっくりした覚えがある。なので例えばMatlabのバイナリー読み書きのオプションは「b」と「l」なのだなと判ってみると面白いのだ。因みに本書では「尻(割派)」と「頭」とに訳出されている。