柴田元幸のレビュー一覧
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面白かった。
彼の今までの作品はグロテスクで奇想な展開が多かったのだけれど、本作にはあまりそういう展開はでてこない。
所々出てはくるのだけれど、あまりメインの話に有機的には絡んではこない。
ただ、そんなグロテスクで奇想な展開は、今までに彼が発表してきた作品に登場したエピソードに似た内容が多いので、彼の一つの集大成的な意味合いもあるかも知れない。
まぁ、そんな展開を期待していた人にとってはちょっと肩透かしを食らわされたように感じるかも知れない。
実は僕も最初はそんな肩透かしを食らった一人だったのだが、読み進めていくうちに「おいおい、エリックさん。グロテスクで奇想な展開がなくても凄く面白い作品が書けるじゃないか!」なんて偉そうに思ってしまった。
とある男の数奇な半生を描いているのだけれど、その彼が持っている考え方や、恋愛に対する脆弱な感受性、モラルに対する潔癖感、人としての強さ弱さ、などなど「わかるわかる、あるある」と思いながら、実はあまり感情移入は出来ずに、それでも気持ちよくこの男を俯瞰しながら読み進める、といったちょっと変わった読書体験ができた。 -
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ネタバレ大変に面白かったです。大満足です。
まず、「翻訳夜話2」ということで、第二弾の本ですよ、って事だと思うのですが、「翻訳夜話(1)」は、未読です。そっちを読まずに「2」から読むのって、ある意味アカンやんか、、、と思うのですが、すみませんコッチから読んじゃいました。また機会がありましたら、「(1)」の方も、読みますです。楽しみです。
で、本書の内容をザックリと言いますと、村上春樹さんと柴田元幸さんが、それぞれに
①翻訳というものはなんぞや?を語る。
②「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という物語を語る。
③J・D・サリンジャーという人物について語る。
という本、だと思います。
翻訳論、キャッチャー~論、サリンジャー論、その三つを一気に読んじゃえてラッキーだね、という、お得要素の強い本だなあ、って思いましたね。
主に村上さんがガハハと語って、柴田さんが相槌&話の促しに徹する、みたいな組み合わせ?だと思いましたが、二人の息が合ってる感じがバンバンしまして、エエ感じに話が転がってるね、ってのはヒシヒシと感じましたね。
お二人の相性が最悪だったら、全然オモロない感じになってたんちゃう?と思うと、二人で論を進めることの、二人の相性の良さって、大事だなあ、って思いますね。村上さんと柴田さんは、人間的に相性が良いんだろうなあ、とかね、思った次第ですね。
ちなみに、自分は、サリンジャーについては、全然詳しくないと思います。まず、サリンジャーの作品は、絃移転では「キャッチャー~」しか読んだことがないです。それも
①大学生時代?か、大学生卒業してすぐ、ぐらいの時に、野崎孝訳の「ライ麦畑で捕まえて」を読んでみようとするが「あかん。意味わからん」で、読み終えることできず。
②三十代半ばくらいで、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでみようとする。一応読み終えるも、「うーん。面白くないなあ」という感想を抱く。
③四十歳過ぎて、再び「キャッチャー~」の再読にチャレンジし、「うーん、やっぱ、そんなに面白くないなあ~」という感想を抱く。
というサリンジャー遍歴ですので、とてもこう、熱心なサリンジャー読者、とは言えない。全く言えない。
なのですが、この作品は大変楽しく読むことができた、というのはね、やっぱ俺は、村上春樹が好きなんだなあ~、というね、そこを理解できた、というね、ま、そんな感じなのですよね。
で、この作品を読んで「こらちょっと、その他のサリンジャー作品を読んでみたくなりましたよ!」とはね、正直ね、あまり、なりませんでしたね。ちゃんちゃん、なんですけどね。村上春樹はやっぱ好き、という思いは、ガンガン固まりましたけどね。
でも、なんだろう。サリンジャー、って人が、傑出した人物なんだろうなあ、ってことは、ヒシヒシと感じました。
個人的に感じたイメージで言いますと、
小説家としてのサリンジャー
ミュージシャンとしてのカート・コベイン(ロックバンド、ニルヴァーナのフロントマン)
この二人は、似ているなあ、って事を感じた次第です。
途轍もないムーブメントを生み出したこと。
人間的に、とても複雑な人物である。明け透けに言うならば、色々と問題のあるメンドクサイ人物、だと思われること。(途轍もない才能と、途轍もないとっつきにくさを併せ持つ)。
途轍もないムーブメントを生み出したことが、結局は本人を、一般的な幸福(と思われる状態)にはしなかったと思われること(サリンジャーは極端なまでの隠遁生活に入り他人とのコミュニケーションを拒絶し、カートは自殺してしまった)。
そんな事を、読んで思った次第です。
でもやっぱ、アレだ。色々と話をしつつも、村上さんが、サリンジャーが生み出した小説に対して、間違いなく愛情と敬意を持っている、ってことはシミジミと感じましたし、そこがなあ、、、好きなんだよなあ、、、ってね、思いましたね。村上さんが、村上さん自身が好きだ!と思うものに対しての思いのたけを語る文章を読むことが好き。つまるところ、そういうことなんですよね。 -
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オズの魔法使い、柴田元幸さんの新訳。
オズの魔法使いは、絵本的なイメージがあり、メルヘンチックな幼児向けな話がしていたけど、きちんと小説を読んでみたら、思っていたよりも複雑な話だった。
小学校中学年以上向けというのもうなづける。
寓話的な話であることが印象的。
夢に向かっていたアメリカで書かれた話。
コンプレックスだらけの弱者たちが協力し助け合うことで未知の世界を開拓し、成功する。
皆が足りないと思っている能力は、実は皆の中にある。
経験と自信を得ることで、自分の力に気づき、堂々と振る舞えるようになる。
カラフルな色の表現。(これは映画版でも大きな効果)
カンザスは「なにもかも灰色」
エムおばさんは棒みたいにやせていて絶対に笑わなかった。
希望のもてない現実の中で、ドロシーは笑顔が絶えない。
トトも「灰色ではなく黒色」目が輝いている
エメラルドの街
物語後半で分かるが
メガネをかけることでエメラルド色になっている。
街までの道は黄色のレンガ
ドロシーの服装
青と白のギンガムチェックのワンピース
青はマンチキン、白は魔法使い
かかしがドロシーから経緯を聞いて言う言葉
「わたしにはわかりませんね。どうしてあなたがこのきれいな国をはなれて、そのカンザスっていう、乾いた灰色の場所に帰りたいのか。」
そして、スーパーアイテムは
金の帽子、銀の靴
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『ひょっとしたら、一見ごく取るに足らない要素 ― 聞き間違えた一言、誤った想定、無理もない計算違い ― こそ実は、物事の連鎖における何より強力な環なのかもしれないのだ』―『学芸員いま一度』
旅先の鄙びた古本屋で目に留まる一冊の古書。物語がそのように始まると、ついウンベルト・エーコの小説を思い浮かべてしまう。だがしかし、この物語はエーコが好んで描いた劇中劇のような形式に素直に嵌まることはない。スコットランドでかつて観測されたという「黒曜石雲」にまつわる記録は十分に摩訶不思議な物語を展開しそうだというのに。
一人称の主人公の語りは、古書の周りを回りながら自らの来し方を辿り、如何にして自身をメキシコの古書店に赴かせしめたかを説明する。その物語がやがて古書に書き残された物語と交差し、荒唐無稽とも思われる古い記録の謎が解き明かされる為の必要不可欠な過程なのだと思わせるかのように、語りの接ぎ穂は常に古書へと戻ってゆく。過去の一つひとつのエピソードは、主人公の抱える心の重荷の秘密に迫りながら、何も解決されぬままその重さを増すばかり。どこかで古書との繋がりが明かされるのではないか、それを切っ掛けに何かが解決されるのではないかと思いながら読み進めるのだが、古書の謎の解明は遅々として進まない。次のエピソードこそとの期待感だけが膨らみ続ける。
しかし、読み手の期待はゆっくりと少しずつ裏切られる。そして控え目な語り手こそが、実は波乱万丈の物語の主人公であったのだと結論せざるを得なくなる。作家エリック・マコーマックの巧みな誘導の術中にすっかりと陥ったのだ。解明されるべきことは解明されたとはいえ、主人公の軛が解かれた訳ではなく、ただ物事の連鎖というものが、偶然とも見える人知を超えた因果によって織りなされていくものだということを知るのみ。不思議な感慨が残る。
翻訳の柴田元幸によれば、マコーマックは幻想小説を主にものにする作家とのことで、確かに本編全般にその雰囲気はある。一方で、エピローグに至るまでの長い長い問わず語りの自叙伝は、歩んできた道程で遭遇した不思議な出来事を、淡々と受け止める人生論のようでもある。人生というものには、はっきりとした自覚できる序章もなければ、集大成を伴って迎える大団円もない、と主人公が、つまりは作家が、捉えているようであることが、どことなく不気味に響く幕切れの言葉からも読み取れるようでもある。
『といっても、誰かに意見を求める気はない。いつも思うのだが、自分一人の胸にとどめておいた方がいい事柄もこの世にはあるのだ』―『エピローグ』
何気ない心情の吐露が誰かにとっての因果を生み出すとも限らないのだから。
ところで黒曜石は英語で「Obsidian」という。その言葉の響きが草野心平のとある詩を想起する。マコーマックが描き出した不思議な黒曜石雲の心象風景は、その草野心平の詩と不思議と呼応するように見える。
『
黒燿石(オブシディアン)ノ微塵ノヨウニ。
キシム氷ノ黒イ。
海。
黙(モダ)スハ岩礁。
時間ノ中ニ頭ヲ抱ヘ。
満満ミチル無数ノ零ノ。
黒ガラス。
天。
』―『風景』
スコットランド、エアシャー(Ayrshire)から望む荒涼とした波立つ大西洋の風景と草野心平が見た海景の繋がり。それを詩人が「黒曜石の微塵」と例え、更に天の模様と対比させる。偶然の繋がりが、ここにもまた。 -
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ある人の人生から誰かが去り、新たな誰かが現れ、そしてまた去っていく。誰にとっても人生は出会いと別れのつづら折りであり、本人を含めそこに登場し退場していく人物の大半が、名もなき人間たちだ。
2005年に発刊された、2000年のブルックリンを舞台に始まるこの小説は、その舞台設定から予想されるゴールに確かに到達してしまうが、それでも、あるいはだからこそ、名もなき人間たちの、ジェットコースターめいた涙と笑いの日々を描く朗らかで彩度の高い作品となっている。人生の終着点を探すつもりで生まれ故郷のブルックリンに戻ってきた60歳目前の男・ネイサン。彼がふとしたことで再会する、失意の中にいる甥にして元・秀才文学研究者、トム。強烈な個性と訳アリの過去を持つ、トムが勤める古書店のオーナー・ハリー。トムが毎朝あこがれを持って見つめるBPM(ビューティフル・パーフェクト・マザー)ことナンシー。一つの出会いが新たな一つの出会いを呼び寄せ、時折そこから抜け落ち消えていく人たちもありながら、いつしかネイサンを起点に、鎖のように人の輪が繋がっていく。あたたかな居場所を生み出す出会いは偶然か、運命か。少なくとも、一歩を踏み出すことでしかつかめないものではあり、人生の終末に備えるつもりでありながら、終末までは「生きなくては」「何かしなくては」と腰を上げたネイサンだからこそたどれた道筋だと思う。
ネイサンが始めたものとは、『人類愚行の書』プロジェクト。過去から現在にわたる、自分、知人、知人の知人、歴史上の人物等々の失態や恥ずべきドジなど『愚行(フォリーズ)』を記録し、編纂するという計画だった。名もなき人間たちの、伝記や公的記録には決して残らない小さな、けれどその瞬間には強烈なインパクトを残した人生の断片。そこに目を向けた時から、ネイサンはすでに人の輪の中に、未知の人々に繋がる鎖の一端に結び付けられていて、そこから物語は季節と共に場所や登場人物の顔ぶれを変えながら、進んでいく。
名もなき人間たちの、記録に残されるほどでもない人生たち。
笑い、泣き、困難に立ち向かい、挫折し、悲しみに沈み、それでも予想外なタイミングで喜びが舞い込むこともある。一言で言えば、「平凡だけど幸せだった」と表現できるであろう、あまたの人生。
記録に残されなくても、無数の中の一つに過ぎなくても、その一つ一つの生にどれだけの感情が、人の輪が繋がっていることか。
アップダウンの激しい、けれど最終的に明るく幸福な、テンポの良いこの作品を読み通したラストページ、ラストセンテンスに、そのことが万感の思いをもって胸に迫ってくる。 -
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翻訳本が苦手に感じるのは、
作品が面白ければ面白いほど、
ひとつずつの言葉の表現に直接触れてみたくなるから。
つまり、原著で読めるのならば原著のままで読みたいのだ。
物語の本質はひとつずつの言葉ではないところにあっても、
翻訳者の中を通ったものは、
すでに純正ではなく(劣化するという意味ではない)、
二重性が大前提になってしまう。
そこに、さらに読者としての私の解釈も入り込むと、
誰の、何に影響されたものなのか難しくなってくる気がするので、
だから翻訳本を苦手だと感じていた。
とはいえ、ポール・オースターが大好きで、
『オーギー・レーンのクリスマス・ストーリー』が読みたくて、
村上春樹と柴田元幸がそれぞれ訳しているだなんて、
興味深すぎると思い本書を手にした。
読み終えてみて、
翻訳という営みは、
精神分析という営みと本質的に大切な事柄を共有しているという大事な発見があったことが最大の収穫であり、
これからは翻訳本は苦手と言わずに済みそうだ。
あと、専門書でもそうなのだが、
どうしても言語的に理解しにくい翻訳があったら、
それは翻訳が下手くそなのだと思おう(笑)。 -
Posted by ブクログ
「一九六七年の春、私は彼と初めて握手した。そのころ私はコロンビア大学の二年生で、何も知らない、書物に飢えた、いつの日か自分を詩人と呼べるようになるんだという信念(あるいは思い込み)を抱えた若者だった。」という主人公アダムの書き出しで、オースター読者ならピンと来る。本作も、ここ最近のオースター小説のベースになっている内省的自叙伝の色合いが濃いのではないかと。(1967年、オースターはコロンビア大学の二年生) もうこの時点でオースター・ファンとしては期待値が一段階アップする。
語り手がアダムになったり、彼の友人のジムになったり、そして、ジムの語りの中でアダムの残した手紙を読んだり。こうしてアダム像が立体的に浮かび上がって…と書きたいところだが、そこはオースター。浮かび上がるどころか、アダム像はますますぼんやりと曖昧になっていく。事実と記憶、そして願望がない混ぜになり、アダムは少しずつ読者から遠ざかるような感覚にとらわれる。
そして、本書の題名が「インヴィジブル」であること、そして人はいるのに鏡には何も写っていない写真が装丁になっていることに思い至る。オースターに連れ出された我々読者が見たものは何だったのか。ふと気がつけば、読後に想像をかき立てるいつものオースター・マジックに罹っていた。