柴田元幸のレビュー一覧
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柴田元幸と高橋源一郎が小説について対談している一冊。
柴田元幸の名に惹かれてこの本を買ったワタシのような人間からすると、喋りたくて仕方がない高橋が柴田という最高の聞き手を迎えて思う存分喋っているという印象。もう少し柴田に語らせて欲しいところだ。翻訳という行為を視覚化すると「ここに壁があってそこに一人しか乗れない踏み台がある。壁の向こうの庭で何か面白いことが起きていて、一人が登って下の子どもたちに向かって壁の向こうで何が起きているかを報告する」というイメージだ、という柴田の名言も飛び出しているのだから、もっと引き出してくれたらさらに面白い対談になったと思う。とは言え、対談の中身はなかなか濃い。日本文学礼賛し過ぎでは、と思うところもなくはないが、この二人がそう仰るのならそれもアリ。
後半で、二人がそれぞれ選んだ海外小説30冊と日本の小説30冊を紹介しているのも嬉しい。読みたい本が増えてしまったのは悩ましいが。 -
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ネタバレこころ震わすような、とか涙滂沱、大興奮、という激しい読後感はポール・オースターにはないのだが、不意にある登場人物や場面がまざまざと浮かび上がって来て自分でもびっくりすることがある。
もちろん、読んでいる最中は夢中になる。あちらの世界からこちらに戻ってくるのにちょっと時間がかかったりもする。
『インヴィジブル』の各章はアダムが見たもの、アダムが見ようとしたもの、アダムが見たかったもの、アダムに見えなかったもの、が書かれている。
でも、書かれたものが真実とは誰が言える?
ボルンは少年を殺したのか、殺さなかったのか。
セシルは島を去ったのかとどまったのか。
見えたものが真実ではないし、見えないから存在しないのではない。自分自身も含めて、不可視なものに取り囲まれて、
そのくせ人は自分の見たいものしか見ない。
最後のページが終わっても、読み終えて何日か過ぎても、何かがどこかが引っ掛かる、オースター、すごいです。 -
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ジュンク堂でやっていたフェアから掘り出す。
そういえば、この間も『翻訳するということ』という本を読んだばかり。
村上春樹は、フィーリングの合う作家を「選び出して」その文章を翻訳することから学ぶという話をしていた。
良い文章を真似て書くといいと聞いたことがあるし、言葉にすれば暗唱にも繋がるのかもしれないけど、独特の呼吸や言いまわしというのを身に付ける第一歩ってそこなんかな。
ただ、村上春樹の翻訳は村上春樹だな、という声を聞く。
私は小説は何作も触れたけど、翻訳はまだ読んだことがない、というか多分よほどのことがなければ、今後も読まないと思う。
でも、村上春樹が勧める本は読む。
先日は『ゴールドフィンチ』四巻一気読みしました。良かった。
それはよく言われるけど、意図してはない、とのこと。
日本の美文に触れて学べという話題で、二人とも難色を示していたのだけど、読んでいて、自分の中に在る語彙がベースになるんだから、そりゃあその人が出て来るよなぁと思った。
もちろん、作品に合わせて言葉を選ぶだろうけど、それだって自分という世界にないものから取ってくるという訳ではない。
そうすると、学生がやっている和訳は、確かに直訳で画一的なのも面白いけど、ある程度のまとまりを持った文章を、各自がどんな風に読み解くか、というのは面白い試みなんじゃないかと思う。
ちなみに、この新書には「ものすごい」ことに、レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの短編を、村上春樹と柴田元幸訳バージョンでそれぞれ味わうことが出来る。
正直すごいし、面白すぎる!
二人の違いを見るのも面白いけど、二人が同じところに傍点を打ってたりすると、ドキドキする。
「読み」を深めなければならないとか、慣れに任せ過ぎずにテキストに立ち返る必要性とか、翻訳から離れている人間も学びのある一冊でした。
ジュンク堂のフェア組んでくれた方のおかげです。
ところで。
登録した際に見えた、「2」の字。
マジか。読むしかないですね。
「でもなおかついちばん大事なのは、この文章の骨の髄みたいなのを自分が摑んでいるという確信ですよね。今のところまだそれをうまく訳せないとしても、それは大した問題ではないと思うんです。努力すればいつかできることなんだから。でも、本当の意味をつかんでいるという確信がなければ、どれだけ語学力があっても、どれだけ文章がうまくても、どれだけ努力しても、ほとんどどこにもいかないんじゃないかな。」
……厳しいっす。
「一つは、テキストがいちばん大事であるということ。テキストのみを読みこむことによって、その作家像とかいろんなものを自分の想像力のなかで再構築していく。もう一つは実際的な調査を行なって、この作家はこういう人で、こういう人生を送って、というようなバックグラウンドを頭に入れて、それでその作品のトーンを考証的に割り出していく。両方の方法があるし、僕はべつにどっちでもいいと思うんですよ。どっちがより正しいとは言えないと思う。」
「たいていの人は技術的な問題であるにもかかわらず、なぜか人格の問題として捉えちゃってね、翻訳って。間違いをすっと認めるということがたいていの人にはなかなかできなくて」
この二つは、自分の今の仕事に関わる部分があって、ストンと落ちた。
指摘が、技術的なことか人格的なことか、というのは、なるほどむしろ「そう思っていいのか!」と思わされたなー。
最後に、翻訳の賞味期限について。
特に引用はしないけど、ここ、難しい。
原典の時間は変わらない訳で。
でも、これもテキストに沿って考えれば2018年の読み方ができる訳で。
(もちろん、時間設定上、偽ってはいけないけれど、語彙の選択上ね)
池澤夏樹の現代語訳シリーズなんて、まさにそういう意味の味わいを目指したものなんじゃないかと思う。
面白いのは、一方で名訳は普遍性を持ち得るということでもある。 -
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浮浪者ハックの冒けん物語です。
『トム・ソーヤの冒険』で、トムとハックはカネもちになり、ダグラス未ぼう人がハックを息子として引き取ることになります。ハックは“はじめは学校がイヤだったけど、そのうちにガマンできるように”なり、“未ぼう人のやりかたにもすこしずつなれてきて”、“あたらしいくらしもすこしは好きになって”(p34)きます。
私はハックの自由な生活に憧れていたので、これを読んで、ハックも普通の生活に馴染んでいってしまうのかと、悲しくなりました。けれど、その後色々とあり、ハックはジムと一緒にいかだの旅に出ることになります。ハックは何か事件があってもなんとかいかだに戻ってきて、“いかだの上は、すごく自由で、気ラクで、いごこちがいいのだ。(p211)”と感じます。私の憧れていた、自由なハックが戻ってきて嬉しかったです。
物語の後半で、都合よくトムも登場してきます。トムは、ジムを救うため、“いろんなこんなん、ぜんぶこっちがつくらなきゃなんないんだから。(p432)”と言い、簡単なことをわざわざ難しくしています。それは、“冒けんしたかったから(p522)”でした。
解説で、ヘミングウェイのようにこの茶番劇は読まなくていいという意見まであると書かれています。けれど、私はこの茶番劇が大好きです。トムはどんなことを考えてどんなことをするのだろう、とわくわくしながらおもしろく読みました。トムのような考え方をしていれば、色んなことが楽しくなりそうです。
ハックは浮浪者で、ジムは黒人で、身分としては高くないのかもしれません。でも、二人とも物語全体を通して人柄の良さが表れていて、大好きになりました。 -
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ネタバレ海外文学を読み始めてまだ日が浅いけれど、このお二人がとてつもない量の仕事をしていることは嫌でもわかる(各々5人くらいいるんではないかと疑ってる)。それほどまでに英米文学の棚には彼らの名が連なっている。柴田氏の訳文は海外文学初心者の私でもスーッと脳に染み込むようで心地よく、みんなにオススメしたい。
しかし、100%自由に書ける小説と違い、翻訳というのは原作の上に成り立つ。そこにストレスはないのだろうか?翻訳者でもあり、世界中さまざまな言語に翻訳される著書を多数持つ村上春樹氏の翻訳に対する見解は意外なものだったー“多少誤訳があっても、多少事実関係が違ってても、べつにいいじゃない、とまでは言わないけど、もっと大事なものはありますよね。僕は細かい表現レベルのことよりは、もっと大きな物語レベルのものさえ伝わってくれればそれでいいやっていう部分はあります。作品自体に力があれば、多少の誤差は乗り越えていける。それよりは訳されたほうが嬉しいんです。”ー
人称をどう訳すか、he said she said〜みたいなくどい文章をどのように訳すか、過去形と現在形を織り交ぜてリズムを作り出す、などなど、訳文はあらゆる小さなこだわりの積み重ね。あらゆる翻訳は誤訳である、何らかのノイズは忍び込む。そのノイズをいかに取り除き、原文の文学的価値を損なわないようにする、繊細すぎるにもほどがある仕事だということがわかった。
今からでも翻訳家になりたいなー。そりゃ、ダジャレなんかも理解できないといけないくらい、英語そのものだけでなく現地の文化などへの理解も求められる大変なものだとは思うけど。柴田さんの、芸術方面に興味があるけど事務処理が得意っていうの、すごいわかる(わかるなんて言ったらおこがましいけど)。 -
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生活にストイックな点で、鴎外と村上春樹は似ている?
アメリカ文学は自己意識の文学だったけれど、グローバル化の進行で、日本文学とも意識の上での差がなくなった?
ごくわずかしかアメリカ文学に馴染みがないので、柴田さん、高橋さんというアメリカ文学の偉大な読み手を通してみると、また違う日本文学像が見えてくる。
日本の文学が、現在の「ニッポンの文学」にへんしつする結節点にいるのが中上健次なのだとか。
言葉が壊れているというのがその徴なのだそうだが…。
翻訳文のリズムとか、言葉の壊れ方などは、どういうことかわかりにくい。
できれば作品を引用してほしいところだ。
最後の方に、二人がそれぞれ選んだ海外小説30、現代日本の小説30が挙げられていた。
…外国文学をあまり読んでいないはずなのに、読んだことがある作品や名前だけでも知っている作品は海外小説の方が多かった。
いかに普段自分が読んでいる小説がテキトーなものばかりなのかが分かる(苦笑)。 -
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同時代に生きている作家か、自分が特別に好きな作家の本しか翻訳してこなかった村上春樹。
サリンジャーを訳すという考えは、当初なかったそうなのだ。
そうか。サリンジャーはすでに古典になりかかっているのか。(サリンジャーが亡くなったのは2010年)
何人かの人に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を訳さないんですか?と言われ、長く残る作品については複数の翻訳テキストがあってしかるべきとの持論もあり、野崎訳をも出版し続けることを条件に「キャッチャー~」を訳すことにしたのだそうだ。
時代の空気を伝える訳は、翻訳としての賞味期限が短くなってしまう。
しかし、時代の空気を無視して「ライ麦~」を訳すことはできないだろう。
そのバランスのとり具合が訳者のセンスであり、味なのだと思うし、だからこそ異なる翻訳者での作品の読み比べが楽しいのである。
村上春樹が訳した文章に誤謬がないか、そしてよりよい訳文がないかと柴田元幸と二人、2日間に渡ってみっちり物語を読み込み、討論をしたのだそうで、それを踏まえたうえでの今回の対談となっている。
言葉を訳すことと世界観を伝えること、サリンジャーについて、アメリカ文学について。
二人の話題は深くて広い。
「ライ麦~」を読んだことがない今の若者に向けて、当時の時代背景やサリンジャーの生き様、作品の解説を巻末に村上春樹が書いている。
それは本来、作品の後ろにつけるはずだったのだが、出版社とサリンジャーとの契約事項に「作品解説はつけない」というものがあったため、付けることができなかったのだ。
そういった諸々のことを含めて、副題が「サリンジャー戦記」となったのだな。きっと。