柴田元幸のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレある小説家クインがポール・オースターという探偵に間違えられた電話が来て、演じ切ることを決意する。幼少期から言葉を与えずに監禁された子供と、そうすることで神の言語が現れるとした父親に関する事件だ。数年前に父親から殺害予告じみた手紙がきて、もうすぐ精神病院から父親が帰ってくるから監視及び警告してくれという依頼だ。クインはそれに則り数週間スティルマンをつけることにする。最初にスティルマンをみつけ駅でつけていた時に、スディルマンは2人に分裂していた。クインは直感的に古びたように見える方のスディルマンを選ぶ。そこから奇妙な歩き方をし、ガラクタをひろうスディルマンを、赤いノートにしるしながらつける。ストーキングというものは相手と一体になることだ。しかし一切怪しさがなく、2週間が経った時とうとう接触してみることにした。最初にはベンチで、次は喫茶店、最後に大岩の上?(うろ覚え)。話しかける度にスティルマンはクインのことを忘れていた。最後の時には息子を名乗ってみたら信じ込み、格言と謝罪と愛を与えてくれた。
ここから話が急カーブ。スティルマンを1晩のうちに見失ってしまった。それをヴァージニア(依頼人の嫁)に伝えることを渋り、本来のオースターという探偵を探すことにする。同姓同名の人物がいたので尋ねてみると、自分の本を読んでいる作家だった。ここで劣等感を感じ、さらにはヴァージニアからのでうわを無視してしまい転落し絶望。何とか気を取り戻して、ヴァージニア夫妻の家を衣食住を犠牲にしながら2ヶ月見張り続けた。ある日金が尽きてそれも終わり、オースターに依頼金の譲渡を取り消す用取り測ろうと電話をしたところ、スティルマンの自殺を告げられる。自室呆然としつつもなんとか我が家に帰ると、そこは取り払われ、新しい女が住んでいて、今は亡き息子と嫁の写真諸共すてられていた。最後にヴァージニア夫妻の家を尋ねるも又もぬけの殻。そこで、スティルマンをつけていた時にや事件記録として最初から使っていた赤いノートに思考を書きながら、終わる。オースターの友人がこの赤いノートを発見し、このガラスの街という本を書いた。
ものすごい急展開。ポール・オースターの本は前半と後半で内容がうってかわり驚く。神の言語やスティルマンの不気味さは後半には消えていて、1度の間違いや怠慢自己欺瞞が招く悲劇や、オースターによく見られる父性愛がでてきた。これを味わいたいので良し。たださすがに前半後半どちらも不完全燃焼感がある。1連の物語を読むと言うよりも、文章や断片的な情景を楽しんだ方が良さそう。探偵小説は全てに意味があるからいい、だとか、言語についての言及や、神の言語だとか、放浪だとか、なにより老人と中年男性の親愛だ -
Posted by ブクログ
ネタバレいかにも面白そうな出だし、どんどん読み進めたのだけれど、最後まで読んで読み終えて何の感動もなかったな。それがちょっと残念。
現在から始まりスコットランドのスラム生まれ(とはいえ事故で両親を亡くすまでは幸せな生い立ち)の語り手が不思議な運命に導かれて世界中を旅する、まあある意味サクセスストーリーではあるのだけれど。
重要な要素のひとつに異母兄弟。ひとりではなくて複数の人間のやらかし。この異母兄弟に抱く幻想?は男性特有のものだよなと思った。まあ、この話に出てくる異母兄弟はみんな良い人だけれどね。
最後に精神病患者とのあいだに子供が出来たのでは?と恐怖する語り手、いやそれあんたのスケベ心が悪いんだから。バチ当たったな。
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Posted by ブクログ
ネタバレ自然児ハックが逃亡奴隷ジムと逃避行を共にするバディもの、そして様々な人々に出会って成長していくロードノベル。
そうまとめてしまうと、いやー読んでる途中はそんな感じじゃなかったぞ、端折りすぎでしょって自分で突っ込まざるを得ない。
「ハックルベリー・フィンの冒けん」を今回初めて読んでみて、好きな箇所はミシシッピ川を筏で下るハックとジムが二人っきりのシーンに集約されている。
ハックが成り行きとはいえ、『善良なミス・ワトソンの持ち物である、ジム』の逃亡に手を貸していることに対する『良心の咎め』に苦しんだ末、「よしわかった、ならおれは地ごくに行こう」と吹っ切れるシーンは間違いなく最高だ。心が揺さぶられる。
ハックは法律に罰せられることを恐れているわけではないし、敬虔な信徒でももちろんない。
彼の苦しみは、人の大事な財産である奴隷を盗むことが“良心”に反する故のものだ。倫理的にはジムを逃すことはありえない。そんな身体に染みついた善悪についての倫理観を振り切って、地獄に堕ちても自分の自然な感情に従おうと覚悟を決めるハックには、「自由」という言葉がやはりふさわしい。
変な例えだが、大自然のキャンプで焚き火を囲んでいると立場や上下関係を捨てて深く交流できる、といったような心情にも通じている気がする。
もちろん都会に戻れば、絆は消えずともギクシャクしたしがらみが頭をもたげるわけだが。
それはハックとて免れない。
ジムを捕らえた家に入り込んで暮らしながら、鎖に繋がれたジムの解放を目指して画策する終盤では、この家にももちろん多くの黒人奴隷がいてハックの世話もしているにもかかわらずハックの意識は彼らに向かうわけではない。
奴隷制を当然として、奴隷の黒人は頭が悪いという前提で過ごしている。
そして「ジムは黒人だけど心は白人だ」と考える。
ハックは反奴隷主義な訳ではない。友人である奴隷を盗む悪事を働こうとしているのだ。
世間から離れて二人っきりで過ごしているときに感じる関係性はここにはない。
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マーク・トウェインが本書で描きたかったことは、人が集団となることでいかに愚かしくなるか、何も考えられなくなるかなのかもしれない。
南部に住む白人たちを描く筆は、風刺的な笑いも含みながら、手厳しく鋭い。
数代に渡る宿怨で対立しており、互いに襲撃し合う一族のエピソード
(ハックは家主を本物の紳士で、素晴らしい家族だと称えるが、この家族の息子は何代も続く宿怨の理由も分からず撃ち合いに加わって死んでしまう。)
旅の道連れとなったペテン師二人組に騙される町の人々と、結局はリンチにあうペテン師たちのエピソード
(これは勧善懲悪ではない。騙す方も、ころっと騙されてから怒る方もどっちも醜悪だ。本書のあちこちでリンチしろと人々が激昂するシーンがあるが、実行されたのはこのときのみ。報復の恐れがない、典型的な弱いものが更に弱いものを叩くパターン。)
再会したトム・ソーヤが主導する「解放大作戦ごっこ」にハックとジムが付き合う最終章エピソード
(黒人奴隷が白人の旦那さまに(まるで)唯々諾々と従っている様子のカリカチュアのように、ハックがトム・ソーヤの言いなりに従う様は、趣味の悪い冗談としか読めない。どこまでも現実的なハックは、トムから想像力が足りない、学がないと呆れられながら、冷めた感じに“ごっこ”に付き合い続ける。)
心踊る冒険譚とはいえないし、ご都合主義なラストには呆気にとられる物語だが、果たしてハックは旅を通じて変化したのだろうか。
書かれてはいなくても、きっとそうだと思う。
もはやトムと一緒に子供時代にとどまることはできないだろう。大人の振る舞いを身につけて社会の一員として群れることもできない。
少しずつ孤独を知って、人は成熟していかざるをえないのだと思う。
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“黒人奴隷ジムの目から「ハックルベリー・フィン」を語り、痛烈な笑いと皮肉で全世界に衝撃を与えた怪物的話題作”という「ジェイムズ」を読むための予習として本書を読んだ。
ジェイムズも楽しみだ。
第16章
“俺はひどく落ち込んだ気分で筏に乗り込んだ。自分が間違ったことをしたのがよくわかったからだ。俺は思い知った。俺なんかが正しいことをやれるようになろうと頑張ったってムダなんだ。小さい頃に正しく始めなかったやつは見込みナシなんだ。いざっていうときに.やるべきことをやらせる支えがないから、あっさりめげちまう。
それから俺は少し考えた。
ちょっとまて、と俺は自分に言った。もし正しいことをやってジムを引き渡したら、おまえ、今よりもっといい気分になってると思うか?
いいや、やっぱりひどい気分だと思う。それだったら、正しいことをやれるようになってなんの足しになる?
これ以上は考えるのをよそう。これからはとにかくとっさに思いついた方をやろうと決めた。”
第31章
“祈ろう、そうしたらもうこんな悪党じゃなくなって、もっと良い人間になれるかも、と思った。だから俺はひざまずいた。でも言葉が出てこなかった。どうしてだろう。きっと、神様から隠そうたって無理なんだ。それに俺自身からだって隠せやしない。
オモテとウラで違ったマネしてるからだ。オモテでは罪をやめますとか言っといて、奥のほうでは、最高に大きな罪にしがみついている。正しい行いをします、清らかな行いをします、ニガーの持ち主に手紙を書いて場所を知らせますって口では言おうとしてるけど、心の底では、そんなのウソだって俺には分かっている。神さまだって分かっている。ウソを祈ることなんかできない。俺はそのことを思い知った。
“きわどいところだった。
ふたつにひとつ、どっちかにキッパリ決めなくちゃいけない。俺は息を半分止めて、しばし考えた。それから、胸のうちで言った- 「よしわかった、なら俺は地獄に行こう」。
そして手紙をビリビリに破いた。”
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Posted by ブクログ
ネタバレ本作は、作家でありながら、翻訳にも精力的に取り組む村上春樹氏と、東大で長年教鞭をとり現在は名誉教授教授の柴田元幸氏の対談集。
対談は、一つは東大の生徒を前にしたもの。もう一つは翻訳会社のフォーラムにて。
更に、同じ文章を村上氏と柴田氏が翻訳したもの2篇、その原文、またこれらを踏まえて他の(当時の)若手翻訳家たちとの座談会を行った様子も、併せて収録されています。
なお本作は2000年の出版。もう25年も前の話なのですね。
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翻訳の世界。憧れがあります。カッコいいなあって。
でもgoogleで「翻訳 デビュー どうやって」とか「翻訳 英語 収入」とかで見てみると、余りいい話は出てきません。
翻訳学校に行って、卒業後はそこ経由でちいさいお仕事を貰いつつ、出版社らの依頼にきちんと従う、なのに仕事はあまり回ってこない、など。
新参者には厳しい世界であることを感じました(まあ、いい話・おいしい話などの情報の非対称性は、ネットが生き渡る現在はすぐに消散してしまうのでしょうが)。
そこにあってこのタイトル。夜話、ですよ。
昼は平気でうそをつく、というわけではありませんが、夜に話すというのは、やはり本音や打ち明け話ではないでしょうか。ましては宴会ではなく、少人数で語り合う。
きっと、忖度なし、隠し事なしの話が聞けるのだろうと期待が膨らみます。
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で、読んでみると、村上氏がえらく飛ばしているなあ、という印象笑
その翻訳のattitudeですが、これ本当に感覚的に申し上げると、フィーリングの村上氏と、基本メソッド+臨機応変の柴田氏、という印象を受けました。
翻訳をするにあたり、作家への思い入れや、感じるものがあるものを訳したいという村上氏。実際それを行ってお金を稼げているので素晴らしいことです。
他方、職業翻訳家はそうはいかないでしょうし、ある意味依頼が来ても断らない(断れない?)ことは多い気がします。
故にか、場を仕切る柴田氏は、そつなく村上氏をいなし、否定はせずにうまく対話や座談会を回していた気がします。
そういえば、村上作品を英語に訳す米国人翻訳者についても書いてありました。一人はハーバードの先生でかっちり訳す。もう一人は正体不明?の人で味のある訳し方をするとか。で、村上氏はどちらもそれでよい。作品の雰囲気を保ってくれれば細かいことには困らない、という話をしていらっしゃいました。
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さて二大巨頭の訳の競演ですが、”Collectors”(Raymond Carver)と”Auggie Wren’s Christmas Story(Paul Auster)”が選ばれています。
これがなかなか面白い。
スタイルとか味、という観点で行くと、私は断然村上氏の訳が好みです。
なんというか、まとまりというか、すごく型があるように感じて、味わい深い。
他方柴田氏の訳は、正しい翻訳だったり、適切な意訳だったり、二篇とも理解度は村上氏を上回ると感じました。ただ、良くも悪くもクセがない印象でありました。
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因みにAuggie Wren’s~ の翻訳で、ワインを二本ばかり、という訳がありました(偶然にも二人とも全く同じ訳)。
訳を読んだとき、二本ばかりの原語ってなんだろう?って思っていました。原文を見ると a couple of bottles of wineでありました。学校英語だと、a couple of で可算名詞を2つ、というのは習いましたが、訳すときは「ばかり」と付加しているんですね。こうするとぐっとこなれた感じが出ますよね。へー。
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ということで村上氏、柴田氏の対談集+α、でした。
翻訳を行う方々の本音が垣間見えて、面白い本でした。また二人の翻訳の違いがはっきり出てくるこうした訳文公開企画もなかなか面白いと感じました。
やや古いのですが、翻訳の現場がのぞける貴重な作品であると感じました。