『ついでに〝読書〟もひいてみました。すると!! なにっ こ…これによるとわたしのしているのは読書とはいえないってこと!?(中略)こ…これがウワサの"新解さんの謎"か!!』―『〝読書〟の定義/新明解国語辞典・新解さんの謎』
好きな作家の書評集を何冊か持っている。川上弘美の「大好きな本」とか、堀江敏幸の「本の音」とか、蜂飼耳の「朝毎読」とか。そういう本は、読んでいなかった本への誘いを期待することももちろんあるけれど、大概は作家が本から感じたことがどんな言葉になっているのかに興味があって読んでいる気がする。回りくどいけれど、要は書評として読んでいる訳じゃないってことです。
もちろん、ある本を読んでみるかどうか、書評に当たってみることにためらいはないけれど、自分自身はどちらかというと読んで去来する思考の断片みたいなものを書き残しておきたくて感想文を書いているので、こういう文章もレビューとしては意味はないと思う。それが証拠に自分自身の書いたものを読んでも内容をさっぱり思い出せないものも多数。でも覚えるためや教養のために読んでいる訳ではなく、本を読んで脳がぐるぐるする感じが楽しいから読んでいるのだ。そんな本を読むことに対して時々、ただし漠然と、思うこと(開き直り?)。それがこの「吉野朔美は本が大好き」に溢れている。
読んだ本についてよりも、何を読むか、何故読むか、どうしても読みたい・手に入れたい本への思い(そう言えば昔、ミシェル・レリスの「夜なき夜、昼なき昼」が読みたくて古本屋巡りをしたことを思い出した。今検索したら2013年版ってのも出ていてびっくり)などが限られた紙面の中で効果的にコマ割りされて語られているのが、よい。それに改めて考えてみると、紙面やサイトの書評ってほとんどが「新刊」の書評なのに対して、吉野朔美が取り上げる本は完全に個人の趣味。そうそうオースターってそんな感じだよねぇ、なんて感想を抱ける書評っていうのもそのスタンスがあってこそ。
吉野朔美の漫画は守備範囲ではなかったけれど、こういうスタイルの時の絵は何となく70~80年代的馴染みがあって、落ち着く。読み終えてしまうのが惜しいと思ってしまう本です。それにしても「吉野朔美劇場」全ての既刊本を収録した上に、未収録のもの、更に、掲載誌のあとがきコメントも全て併せて出版するとは太っ腹。まさに最初に登場する「ザ・龍之介」(ああ、これも学生の頃、急に生協の本棚に平積みされたのを見て驚いたっけ)みたいな感じ。ついでに言うと、最後に掲載図書索引があるのは便利だけど、本文の方には肝心の頁番号がほとんど振られていないって、原画のイメージを尊重してのことなのだろうけど、なんか天邪鬼的で、よいです。