坂口安吾のレビュー一覧
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購入済み
恥ずかしがりながらも
作者坂口安吾に限らず太宰治にも見られるように、皮肉っぽく斜めに構えた物言い 表現が洒落ている と思われていた時代である。にも関わらずこの作品は恥ずかしがりながらも、臨床医という職業に殉じた「肝臓先生」を手放しで褒め称えている。この作者の作品としては珍しく感涙ものであった。
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Posted by ブクログ
2025/10/30
p.23
その雑念を抑えるために、タクミの心になりきろうとオレは思った。親方が教えてくれたタクミの心構えの用いどころはこの時だと思った。
そこでオレはエナコを見つめた。大蛇が足にかみついてもこの目を放しはしないぞと我とわが胸に云いきかせながら。
オレの目はエナコの顔から放れなかったが、一心不乱ではなかった。なぜなら、オレは驚愕と怒りを抑えた代りに、嘲りが宿ってしまったのを、いかんともすることができなかったから。
その嘲りをエナコに向けるのは不当であると気がついていたが、オレの目をエナコに向けてそこから放すことができなければ、目に宿る嘲りもエナコの顔に向けるほかにどう仕様もない。
エナコはオレの視線に気がついた。次第にエナコの顔色が変った。オレはシマッタと思ったが、エナコの目に憎しみの火がもえたつのを見て、オレもにわかに憎しみにもえた。オレとエナコは全てを忘れ、ただ憎しみをこめて睨み合った。 -
Posted by ブクログ
大好きなんですよ、坂口安吾の「夜長姫と耳男」
けれどもレビューは書いてない、と言うか書けなかったですね。
もう「雰囲気があるんですよ」とか「世界観が」とか陳腐な言葉しか出てこない、何故好きなのかもよく分からないし。
この作品に関しては、作者の意図とか教科書的な答え合わせなんかどうでも良いと考えていました。
ところが「乙女の本棚」シリーズに収録されているらしい。ということで、夜汽車さんのイラストを眺めながら人生何度目かの再チャレンジ。
うーん、ファム・ファタルですね。
ファムファタルが何か分かっているのか?と問い詰められると、「だって夜長姫が好きなんじゃー」と開き直るしかなくなるのですが、面白いのでみなさん是非お読みください。 -
Posted by ブクログ
表題作の「堕落論」他、「続堕落論」と二つの間に挟まれていた「天皇小論」を読んだ。かなり好きな思想で、個人的には、「続堕落論」よりも「堕落」することについて妥協のない無印の「堕落論」の方が好き。
全体の趣旨は結構単純で、基本的には、戦前の国家主義的なイデオロギー批判だと読んでいいのだと思って読んだ。人間の本質は、倫理的でないこと、堕落した生活や生き方をすることにあって、放っておく限り人は堕落する。だから、世界の歴史は、人間を堕落させないための「カラクリ」を生み出してきたのだという。それは、天皇制であったり、武士道であったり、形は違っているが、その本質は同じで、理想的な生き方、倫理観を示すことによって、人を堕落させずに従わせようとするものである。こうしたものの存在が、第二次大戦における未曾有の被害を生み、日本を敗戦に向かわせたのだというのが、坂口安吾の歴史認識である。
では、そういった国を破滅に向かわせた「カラクリ」から逃れるためには、どうしたらよいのか? それが「堕落」である。
だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(p86)
「堕落」というのは、何か理想的な状態があって、その理想的な状態から堕ちることである。であるからにして、「堕落」は普通、悪いことだと考えられる。けれども、安吾はそのような「堕落」観を否定する。
敗戦後国民の道義頽廃せりというのだが、然らば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は然らずと思う。(p89)
戦後の社会が教えてくれたのは、かつて「健全」であったことの方がよっぽど「不健全」だったという事実で、そのような意味での悪しき「健全」から逃れる方法が、個人の「堕落」なのである。だからこそ、「堕落」は常に、「不健全」になりうるイデオロギーからの「堕落」であり、「制度の母体(p101)」として新しい「カラクリ」を作り続けるものでなくてはならない。このあたりの主張は、無印の「堕落論」よりも「続堕落論」の方が分かりやすくなっている。その分、無印の「堕落論」が持っていた「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」という「堕落」の徹底ぶりが、やや妥協されているように感じたところで、個人的には、徹底的に堕ちきる無印の方が好きである。
それにしても一番面白かったのは、わざわざ言わなくてもいい「私は二十の美女を好む」だと思う。
その当然堕ちるべき地獄の遍歴に淪落自体が美でありうる時に初めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。(p79〜80)
いや、そうなのかもしれないが、わざわざ言う必要あるかと思う。安吾は、イデオロギーが生み出す「美」を否定する一方で、「美」に惹かれてしまう人間の性のようなものは否定しない。ところどころにそれは現れて、自分自身が「二十の美女を好む」ことを一々言うところとかは、すごく好きである。しかし、一方で怖いとも思う。
私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。(p100〜101)
巷では、時代が不幸になると安吾は読まれるようになるそうだ。どんな理不尽な状況やルールの下に置かれても、それが当たり前になると、その理不尽さはいつの間にか慣らされて、その理不尽の中で楽しみを感じるようになる。これは、理不尽なルールに満ちた中学校で、楽しそうに過ごす中学生たちを見ていると、身に沁みて感じることである。
「堕落論」は、いかに「堕落」することが、人間にとって困難な振る舞いであるかを、よく教えてくれていると思う。 -
Posted by ブクログ
坂口安吾が書いた懸賞付き推理小説。一癖も二癖もある登場人物たちが絡み合い、混沌としたなか、一人また一人と殺人が行われていく。かなり多くの人物が登場しますが、ある意味類型的でそれなりに区別はつきます。
ですがまともに読んでいては、全てを把握するのは難しいでしょうから、人物相関図的なものは必要でしょう。
アガサ・クリスティーの某作品と同じという話もあります。確かに素材は同じです。ですが、その味付けは全く別物です。肉じゃがとカレーのようなものです。犯人当てという点では、この不連続殺人事件の方がテクニカルで、動機や殺人の流れも理屈に合っているようにも思います。
犯人当てに傾いた分、途中の物語としての面白さはどうしてもクリスティーの作品の方が抜けていますが、それでもこの不連続殺人事件のラストシーンは素晴らしいです。
むしろ途中の混迷極まる雑多な展開で、いったい何を見せられているのかと半ば呆れる感覚だったのが、その揺り戻しで大きな感動を呼んでいるとさえ思えます。すごい作品です。 -
Posted by ブクログ
『今昔奈良物語』の『桜の森の満開の下』のパロディー短編を読んだときにわからない部分があったので、今回読んでみました。挿絵とレイアウトのおかげでとても読みやすくなって、文豪作品の敷居がぐっと低くなりました。
鈴鹿峠にある桜の森の花の下では花の季節になると、旅人は気が変になってしまう。この山に住む山賊は情容赦なく着物をはぎ人の命を絶つが、やはりこの花の下に来ると怖くなってしまうのだ。山賊がいつものように街道で男の着物と一緒に妻をさらう。山賊にはすでに7人の妻がおり、その女は他の妻たちを次々と殺すよう山賊に言う…
現代では絶対に出版できない内容。とても残酷なのですが、この山賊がそうであるように、この女から目が離せません。冒頭から描かれる花の美しさが、妻の無邪気な残酷さを打ち消しています。
なんででしょう。なぜだか感動する。文豪おそるべし。