三浦綾子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
これほどまでに激しく、生々しい感情を揺さぶられた小説は、かつてなかったかもしれない。物語を貫くのは、人間が抱える「邪悪さ」だ。
まず、母・夏枝の姿に戦慄する。自分の欲望を優先し、何も知らない養女・陽子を復讐の道具にするその姿。美しく成長する陽子に女として嫉妬し、彼女の想い人を誘惑し、最悪の形で出自を暴露して嘲笑う。何より恐ろしいのは、彼女が常に「自分は被害者だ」と言い聞かせ、自らの醜悪さを一切反省しないことだ。まさに、「吐き気を催す邪悪」がそこにある。
一方、夫・啓造もまた救いようがない。彼は「隣人愛」という高潔な言葉を盾に、陽子を復讐の道具として家庭に招き入れた。理性的に自らの卑怯さを自覚していながら、それを止めることができない。難破船での宣教師の自己犠牲という、人生観を一変させるような出来事に遭遇してもなお、日常の渦に引き込まれ、何も変わることができなかった。理性は、感情と日常の前になんと無力なことか。
この夫婦の「邪悪」の板挟みになったのが、純真無垢な陽子だった。 彼女は、外部からのどんな悪意にも屈しなかった。彼女は他人からどんなひどいことをされても、自分が潔白であるという信念さえあれば、自分は胸を張って正々堂々と生きていけると思っていた。しかし、自分の父が人殺しだと知り、自分は潔白だという信念、精神的支柱が崩れ去った。血のつながった家族がいない(と思っている)彼女は、精神的支柱が無くなったことで、生きていくことができなくなった。
彼女は死を前に、自分の存在という罪をはっきりと赦してくれる権威ある存在を欲した。行為に対する罪は人が許す。しかし、存在という罪はだれが赦せるのか。そもそも存在自体が罪であることがあり得ようか。殺人犯の血を引いていることは、殺人の可能性を持っていることだと彼女は考えた。悪をなす可能性があること自体が罪なのだとしたら、誰しも罪を背負っているのではないか。それが原罪なのだろうか。存在への罪は、赦す主体が存在しない。だから、神というすべてを赦すことのできる超越者が必要なのだろう。 -
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これほどまでに激しく、生々しい感情を揺さぶられた小説は、かつてなかったかもしれない。物語を貫くのは、人間が抱える「邪悪さ」だ。
まず、母・夏枝の姿に戦慄する。自分の欲望を優先し、何も知らない養女・陽子を復讐の道具にするその姿。美しく成長する陽子に女として嫉妬し、彼女の想い人を誘惑し、最悪の形で出自を暴露して嘲笑う。何より恐ろしいのは、彼女が常に「自分は被害者だ」と言い聞かせ、自らの醜悪さを一切反省しないことだ。まさに、「吐き気を催す邪悪」がそこにある。
一方、夫・啓造もまた救いようがない。彼は「隣人愛」という高潔な言葉を盾に、陽子を復讐の道具として家庭に招き入れた。理性的に自らの卑怯さを自覚していながら、それを止めることができない。難破船での宣教師の自己犠牲という、人生観を一変させるような出来事に遭遇してもなお、日常の渦に引き込まれ、何も変わることができなかった。理性は、感情と日常の前になんと無力なことか。
この夫婦の「邪悪」の板挟みになったのが、純真無垢な陽子だった。 彼女は、外部からのどんな悪意にも屈しなかった。彼女は他人からどんなひどいことをされても、自分が潔白であるという信念さえあれば、自分は胸を張って正々堂々と生きていけると思っていた。しかし、自分の父が人殺しだと知り、自分は潔白だという信念、精神的支柱が崩れ去った。血のつながった家族がいない(と思っている)彼女は、精神的支柱が無くなったことで、生きていくことができなくなった。
彼女は死を前に、自分の存在という罪をはっきりと赦してくれる権威ある存在を欲した。行為に対する罪は人が許す。しかし、存在という罪はだれが赦せるのか。そもそも存在自体が罪であることがあり得ようか。殺人犯の血を引いていることは、殺人の可能性を持っていることだと彼女は考えた。悪をなす可能性があること自体が罪なのだとしたら、誰しも罪を背負っているのではないか。それが原罪なのだろうか。存在への罪は、赦す主体が存在しない。だから、神というすべてを赦すことのできる超越者が必要なのだろう。 -
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ネタバレとんでもない小説を知ってしまった!
イエスキリストの「汝の敵を愛せよ」という言葉をテーマに登場人物は皆がそれぞれに許してほしい、許したいと思っているような罪を抱えている。妬んだり僻んだりして生きていく中で、人は人を許すことができるのか。
陽子は唯一純粋無垢な人物として育つのだが、原罪として自分の血が汚れていることが自分で許せない。汚れた感情が内にあるのだと。
そんな陽子がどうなっていくのかは続・氷点ではっきりするのかな?
正木の自殺理由は私も全く同じことを考えてしまうな。
この世で何者でもない自分の生きる価値とはなんなんだろうと嫌になるときもあるけど、それでも前を向いて生きていたい。
本ではアイヌ差別についても触れていて私自身が不勉強で調べてみた。
明治以降の同化政策によって生まれた偏見と記載されていて令和になっても差別は続いているようで、情けなく感じた。
小説自体は昭和時代に書かれているものだけれど、非常に読みやすい。
それぞれの登場人物の心情が分かりやすいのは、話し言葉のあとにカッコ書きで心情も合わせて書かれているからだと思う。こんな風に書かれている本はあまり見ないなと感じた。
エンタメなんだけれどもテーマは重く、著者が読者へ問題提起しているような思いが、本に込められていて素晴らしかったです! -
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ネタバレとんでもない小説を知ってしまった!
イエスキリストの「汝の敵を愛せよ」という言葉をテーマに登場人物は皆がそれぞれに許してほしい、許したいと思っているような罪を抱えている。妬んだり僻んだりして生きていく中で、人は人を許すことができるのか。
陽子は唯一純粋無垢な人物として育つのだが、原罪として自分の血が汚れていることが自分で許せない。汚れた感情が内にあるのだと。
そんな陽子がどうなっていくのかは続・氷点ではっきりするのかな?
正木の自殺理由は私も全く同じことを考えてしまうな。
この世で何者でもない自分の生きる価値とはなんなんだろうと嫌になるときもあるけど、それでも前を向いて生きていたい。
本ではアイヌ差別についても触れていて私自身が不勉強で調べてみた。
明治以降の同化政策によって生まれた偏見と記載されていて令和になっても差別は続いているようで、情けなく感じた。
小説自体は昭和時代に書かれているものだけれど、非常に読みやすい。
それぞれの登場人物の心情が分かりやすいのは、話し言葉のあとにカッコ書きで心情も合わせて書かれているからだと思う。こんな風に書かれている本はあまり見ないなと感じた。
エンタメなんだけれどもテーマは重く、著者が読者へ問題提起しているような思いが、本に込められていて素晴らしかったです! -
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キリストの神様を信じることで
運命に心を乱す事なく愛を持って
生きていける
難病で寝たきりの綾子さんを
見ず知らずでも
信仰で繋がった人が
たくさん見舞う
病人を見舞おうと
キリスト教の教えにあるのか?
前川正さんを始め
元婚約者や三浦光世さん
みんな驚くほど献身的でよい人
あんなに人のために差し出されるか?
綾子さんを愛した前川さんは幸せそうだったな
わたしたちの神様は備えてくださる神さまなんです
わたしたちの目には悪いと思う事も
結局は良かれと思って準備してくださる
必要なことは与えられる
与えられないのは不必要だという証拠
御心のままに
人生に疲れたら読み返したい
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Posted by ブクログ
ネタバレ十勝岳の山津波の後、硫黄に汚染された大地を耕し、復興を目指す拓一や村長。それに対し、無駄な努力で負債を増やし、街のものにその損害を負わせていると反対する深城を始めとする反復興派は、村長に無実の言いがかりをつけて反対運動をしている。そんな中耕作を庇って反復興派に殴られて拓一は不具となる。正しい者が不幸に遭い、悪を行う者が蔓延る世界に疑問を持つ耕作だが、母の聖書のヨブ記を読み、また拓一の揺らがぬ姿勢を見て、因果応報は現実ではなくて人の願いに過ぎず、現実は善因善果とは限らないことを悟っていく。それでも最後は拓一の稲が実り、深雪楼に売られていた福子は深城の娘の節子が救い出して汽車に乗せ、きっとこれから拓一と結婚していくだろう…というところで小説は終わる。最後の、福子と節子を乗せた汽車から、福子の救出に成功した印の白いハンカチが振られるシーンは劇的だった。
復興派と反復興派の対立は、中道左派と極右の対立そのものな感じがして、今の外国人政策や日本ファーストの論調と近かった。というかその流言蜚語も含めて、今も昔もやってること同じじゃんと思った。
村長の家の前を遠足で通る時に、泥棒村長と叫んだ生徒たちへの耕作の対応がとてもよかった。そう言わせているのは親たち大人たちであり、純真な子どもたちに罪はないと考えて、そう叫ばせてしまった先生が悪いと頭を下げて、村長の娘に生徒たちが自分から謝罪できるような心持ちに持っていけるのがすごい。貧しくて弁当に芋しか持ってこられない生徒のプライドを立てながら、彼が堂々と他の子たちの中に入っていけるように働きかけていくところとか、教師として優しさと機転と声がけの達人だと思う。 -
Posted by ブクログ
上巻最後のすぐ続きから始まり、物語は戦争一色へと一気に姿を変えていく。
無慈悲に竜太に襲いかかる悪夢のような現実に、映画「私は貝になりたい」を観ているときのような、逃げ場のない不吉さと息苦しさを思い出した。
けれど、嫌だな、嫌だなと思いながらも、不思議と頁をめくる手は止まらず、むしろ上巻以上に走り抜けるように読み進めた。
散々と言うほどの理不尽に苛まれ、こんなことがあっていいのかと思うような現状があるのに、どういう訳かそこに完全なる絶望がないからかもしれない。
作中、坂部先生が竜太に「竜太、人間が人間として生きるというのは、実に大変なことだなあ」と言うシーンがある。
無実でありながら、正しくありながら、捕らえられ拷問され、誰もがなぜと非難したくなる場面で紡がれたこの一言に、私は「ああ、そうか」と妙に納得させられた。
坂部先生は上巻から一貫して“この世界“では特異な存在だった。けれど彼は、何か特別なことをしていた訳ではない。壊れていたのはむしろ世界の方で、坂部先生はただ、人間が人間として生きていただけだったのだ。
「人間が人間らしく生きる」というのは、この作品のテーマのひとつだと思う。同時に「戦争は人間を人間でなくす」というメッセージも同じくらい強く訴えられている。
その中に隠れるように(けれど本質としてずっと存在している)、「潜在的な人の善と悪」、そして「救い」がある。
人は脆い。脆く、愚かで、弱く恐ろしい。
確かな悪(罪)がそこに存在していて、ともすれば何が原動力なのかと問いかけたくなるような善もまた存在している。
そのような不完全さがあるから、その不完全さに気づいた竜太は、自分が、人が、いかに確たるものを何も持たずに、闇の中を生きているかを思ったのだ。
そして話はそこで終わらず、確かな光があることも示されている。竜太や山田曹長が人ならざるものの存在を覚え、祈りを求めるところに、この物語の救いがある。人の救いがある。
三浦綾子の小説は、氷点に然り、塩狩峠に然り、他に道はなかったのかと思うような最後が多い。本作でのバットエンドも正直覚悟していた。最悪、曹長も竜太も無惨な死を遂げることになるかもしれないと。
むろん多くの死と悲しみはあったが、この二人が生き続ける未来が描かれたことが、読者にとっての何よりの救いだろう。
また暗く苦しみのあるこの物語を、止めることなく希望を持って読み切ることができたのは、主人公竜太の清らかで真っ直ぐな性格と、彼に与えられる幾人かの人格的な師や上司、金俊明、そして家族と妻芳子の存在にある。
竜太の半生を通して、その一人一人が彼を介し、私たちに多くのことを語っている。
物語の最後の最後に、「尾を引いているようだ」と年老いた竜太が歯切れ悪く口にする。綺麗さっぱりハッピーエンドじゃないところがやはり三浦綾子だなぁと思う。
この物語が書かれたのは1994年のことだが、それから30年以上たった今、彼女が警鐘したものが確かに現実のものとなって現れているように感じる。
あとがきで「昭和時代が終わっても、なお終わらぬものに目を外すことなく、生きつづけるものでありたいと願いつつ」と書かれている。
平成が終わり、令和が始まり、またあの時代が思い起こされるようになった現代で、この銃口に書かれたかつての現実から、そして三浦綾子が感じた"今なお終わらぬもの"から、私たちは目を外すことなく生きているだろうか。
私はむしろ、終わらぬものどころか、何があったかすら正しく認識していなかったように思う。
かつての日本がどうであったか、今どこに向かっているのか、終わらぬものとして何があるのか。
それを正しく知り、三浦綾子のように目を外すことなく生きていきたいと思う。
歴史が繰り返されることのないようにと、ただ神に祈りつつ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ上富良野で祖父母と暮らす耕作と兄拓一を主人公に、一生懸命に働いても豊かにならない小作農の暮らしや、貧乏ゆえに家族と離れて働いたり売られたりする女性たちを描く。最後には山津波で耕作は祖父母と姉妹と教え子を失い、その一帯の人々のほとんどが犠牲になるという救いのない話には見えるけれど、それを正しく生きる者に与えられた神の試練として描こうとしていると思われる、が、今のところはともかく救われないところで終わっているので、続編でその伏線が回収されるのではないかと思われる。中学に一番で入れるだけの成績を持ちながら結局家族のために進学を諦めた耕作は、自分は自分のことしか考えていないとよく反省しているけれど、他の人の利他的なところを素直に偉いと認めて、偉いなあと言えるのは偉いと思う。耕作の良き先生ぶりが良くて、導入で生徒を笑わせられたら、そこで生徒は心を開いてくれる、って授業作りで大事なところだと思う。それで綴り方を嫌がる生徒たちに、詩なら書けそうだと思わせて詩を書かせ、楽しく短評を書いているシーンがとてもよかった。そこで心を通わせた坂森五郎君が先生を訪ねてきたために山津波で亡くなるのとか、悲惨すぎるけど…
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Posted by ブクログ
ネタバレ三浦光世と結婚した筆者は、小さな家で二人の生活を始める。お互いの声が聞こえる小さな家で二人で暮らすことのささやかで大きな幸せが伝わってきた。掲示板を立てて宣教をしたり、クリスチャンの心ある棟梁に頼んで家を建てたり、雑貨屋を始めたり。そして千万円の懸賞小説に応募して見事に一位入選を果たす。
うまく行っている時ほど、得意になったりせずに謙虚に神に祈らなければならない、とか、聖書の言葉は自分ごとに落とし込んで実践していかなければならない、とか私の戒めにしたい言葉もたくさんあった。と同時に、夫三浦さんの揺るぎない信仰が、まさに聖書の中の嵐の中に漕ぎ出すキリストのようですごい。親孝行の金は神が与えてくださる、とか、この小説が神様の用に立つなら書くことができるように祈る、とか、ふと閃いた「なんでも祈り求めることはすでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう」たいうマルコ伝の言葉から入選を信じて疑わない、とか。近くにライバル店になりそうな雑貨屋ができたときも、子どももいるその店に客を流してあげるように妻に言う。バスで最初に並んでいても乗る時は最後で乗り切れなかったりする、というこの三浦さんを、世の人はお人よしというかもしれないけれど、信仰や愛を実践できる人として本当に尊敬する。