あらすじ
著者の二十歳代前半から療養生活、自殺未遂、光世氏との結婚までを記した自伝的小説。
小学校の教師をしていた綾子は、敗戦を迎え、それまで教えてきたことが間違いだったのではとの思いにさいなまれ、虚無感を覚える。教師を辞め、結婚を決意するが、結納が届くその日に倒れ、その後、肺結核を発病する。長い療養生活の中で婚約解消、自殺未遂などを経験するが、同じ結核患者でクリスチャンの幼なじみ前川正の献身的な支えを得て、生きる希望を見いだしていく。その後、脊椎カリエスを患った綾子は、受洗する。そんな折、前川正が危険な大手術を受けることになり……。
「三浦綾子電子全集」付録として、夫・三浦光世氏による「創作秘話」を収録!
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Posted by ブクログ
40年以上前に塩狩峠を読み、今回この本を読みました。
作者が結核と脊椎カリエスを患ったのは知っていましたが、この様な闘病生活を送ったことは初めて知りました。キリスト教の方たちが皆、この様な素晴らしい人たちなのか、三浦さんの人柄でこの様な方々が集まるのか分かりませんが、前川さんがお亡くなりになった所では号泣しました。
この経験や入信があったからこその塩狩峠や三浦文学だったんですね。納得です。
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この本に書かれた時代「人と会い、なんとか食べていく中でも、考え、本を読み、誠実に話し、そして死んでいく」世界は、まだ私のような高齢者には、自分の子供の頃の人々の暮らしと、同じであると感じられる。でも、今の人達には、もう分からないのかもしれない。いつの時代も、こうして世代での変化は続いていくのだろう。本には痕跡が残るだけだが、いつまでも価値はあるのだと信じたい。人々の人生があったのだと、読んで頂ければ。
Posted by ブクログ
もともと気になっていた三浦さんだが「母」きっかけで一気に自伝まで。戦中の教員としての経歴から教科書墨塗りをへて、キリスト教に出会ったという大まかな経歴は知ってはいたが、現代の私たちには想像のできない闘病の凄まじさ。その中で、自身は妖婦だと書かれているが、友人がひっきりなしに見舞いに来る三浦さん、きっと話も人柄も魅力的だったのだろうなあ。そんな自暴自棄で、そして傍目に自由奔放な彼女が求道者としてキリスト教と向き合い、洗礼を受け、前川正との別れを経て三浦光世と出会うまでを描いている。
Posted by ブクログ
偶々出くわした小説が興味深く、「同じ作者による他の作品」と幾つかの作品を紐解く中で出会った作品である。なかなかに興味深く拝読した小説である。
「小説」というモノは、作者が自由自在に想像の翼を羽ばたかせて綴るモノであろう。作者本人の経験や見聞、人生と然程関連が無くても何らの支障もない。それでも、場合によっては作者本人の人生が色濃く反映される小説というモノも登場する。
三浦綾子作品に関しては、丁寧に取材をして様々な人達の話しを参考にしながら綴られている作品が見受けられると感じられる他方、御自身の人生の中での経験や、考えて来た事柄等が色濃く反映されていると想像させる面も大きいように感じる。小説家として登場した当初から、活躍を続ける中、晩年近くに発表されている作品に至る迄、一貫して「取材成果」と「御自身の人生の中での経験や考察」とを巧みに織り交ぜるような感じで作品を綴り続けたのではないかと、一読者としては思う。
本作『道ありき(青春編)』は三浦綾子の「自伝」と言われている。戦前に勤めていた小学校教員の仕事を辞めた戦後間もなくの頃、病を得てしまって療養生活に入ることとなる。長く療養生活を続けるという中で、幾つかの出会いや別れが在って、やがて結婚に至ったという経過は知られている。本作もそうした、少し知られた経過の物語である。
が、それでも作者自身の「自伝」というよりも、「小説家として少し知られるようになった主人公の“堀田綾子”が来し方を回顧する物語」というような、「純粋な小説」という感覚で読んだ。そういうように「読まされた」と言い換える方が妥当かもしれない。
小説によく在るような感じで「堀田綾子は…」というような叙述が早目な段階に出て来るのでも何でもなく、「私」という第一人称での語り、「御自身の心の移ろい」を一部に旧い記録等も少し引っ繰り返しながら綴っている。眼前の他の人から「綾ちゃん」、「綾子さん」、「堀田さん」という程度に呼ばれている描写が出て来ることから、綴られている物語、読み進めている物語の主人公が「堀田綾子」と知れる訳である。本作の最終盤で結婚し、「三浦綾子」となるのである。
20歳代から30歳代の通算13年間程を療養に費やしたというのは、凄く特異かもしれない人生のようにも思う。その中の概ね半分程度は、症状の関係で自由に身体を動かせない羽目で、御手洗を使う、食事を摂るという動作にさえ不便していたのだという。そういう中、不自由さを呪うというようなことに終始する、または不運であると何もかも諦めるということではなく、出逢った人達との交流の中に様々な可能性を拓こうとするような様子に心動かされる。更に、周辺で「誰が何と言おうと…」という感じで「堀田綾子」を支えようとする人達の様子にも驚かされる。
本作の物語は、昭和20年代、昭和30年代を背景としている。当然ながら、その様々な状況は現在とは大きく異なる。それでも、苦難を嘆く、呪うに終始しない生き様、苦難の中に在る人を何とか支えようとする人の様というのは、時代や場所を超えて心揺さぶるモノが在ると思った。
三浦綾子作品の多くは長く読み継がれて「古典」という存在感を放っていると思う。本作もそうした「古典」の一つに上げなければならないであろう。
Posted by ブクログ
10年以上、折に触れて読み返している。
内容は重たいが、深く悩んだ時や落ち込んだ時に読み返すと孤独が紛れる。閉塞感や低調なテンションの語り口が寄り添ってくれることもある。
誰かを愛するとは、誰かが自立して生きていけるようにすることだという言葉が印象的であった。
Posted by ブクログ
大病を患いながらも、まさに青春時代における精神的な潔癖さで、倫理観や人生観を悩み、さまざまな物事を拒絶したり受け入れていったりする様は、誠実かつ情熱的で、ご本人の人格を少しでも理解出来たと思います。
三浦綾子さんの小説を読むのであれば必読です。
Posted by ブクログ
妹の本棚で、「道ありき」が目に留まり読んだ。読み進めていくうちに、この一日をこの本に使う価値があると感じ、二周した。
虚無感で一人残されていることに嫌な感じを抱かなかった頃から神を信じクリスチャンになるまでのことが書かれている。
私は、洗礼を受けていない。けれども、信じているからクリスチャンである。ただ、最近は求めていた道ではない道を歩いており、毎日のように枕を濡らしている。だから、綾子の考えを理解しやすかった。一度、信仰を持てたからといってそれで終わりではない。神様は、私の信仰が育つように、人を与えてくださる。それは、友人であったり、恋人であったり、はたまた思いがけない人であるかもしれない。人を通して、イエス様の十字架の意味を知る。その人の信仰や愛を見て、与えられている愛がどれほど大きいのかを知る。思い返せば、必要な時に必要な人が与えられていた。人は弱い。弱いから、まずは神様から愛されるだけで大丈夫。完璧を目指さなくて大丈夫。今日、信仰があるのかだけでいい。今日、信じることを貫く信仰を持ちたい。
心に残った綾子と正の言葉
「綾ちゃんの今の生き方がいいとはぼくには思えませんね。今の綾ちゃんの生き方は、あまりに惨め過ぎますよ。自分をもっと大切にする生き方を見いださなくては…」
「結局は、人間は死んでいく虚しい存在なのに、またしても何かを信じようとするのは、愚かだと思った。しかし、わたしはあえて愚かになってもいいと思った。丘の上で、吾とわが身を打ちつけた前川正の、わたしへの愛だけは、信じなければならないと思った。もし信ずることができなければ、それは、わたしという人間の、ほんとうの終わりのような気がしたのである。」
「わたしはあの夜まで、自分自身が虚無的であったにせよ、それはそれなりにやはり人生に対してまじめだと思っていた。まじめだからこそ、絶望的になることができたのだと思っていた。だが、それは自分の間違いであることに気づいたのだ。気づかせてくれたのは、あの丘の上の前川正の姿であった。〜自らの足を石で打ちつけた彼の姿を思ったとき、真剣とはあのような姿のことを言うのだとわたしは気づいたのである。真剣とは、人のために生きる時にのみ使われる言葉でなければならないと、思ったのである。そう考えると、わたしは自分の生き方がどこか中心を外れた生き方のように思うようになった。」
「信頼されているということが、どんなに恐ろしいことかを、この教師は知らなかったのだ。」
「綾ちゃん、生きるということは、ぼくたち人間の権利ではなくて、義務なのですよ。義務というのは、読んでの字のとおり、ただしいつとめなのですよ。」
「ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだと思った。〜神に頼ることを決心するのですね。」
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この本を読んで救われました。
人生に苦しんでいる時に「読んでみて」と妻に差し出されすがるように読んだ。
読んでみて本当に良かったと思った。
妻に三浦さんに感謝。
Posted by ブクログ
今まで読んだ中でいちばんの作品です。
印象に残ったり頭に残る言葉が読む度に違ったり、毎回新しい発見があります。
この本をきっかけに三浦綾子さんを知ることになり、全ての作品のファンになりました。
Posted by ブクログ
解説より"著者は「旧約聖書」をはじめて読んだときの驚きを「度肝を抜かれた」と回想している"が、私こそこの本を読んで度肝を抜かれた。
何度鳥肌が立ち、何度涙し、何度感情を揺さぶられた事か。
このまるで映画のような人生を経験し、こうして書き記してくださった三浦綾子に、彼女が出会ってきた愛ある人たちに、そしてこの本に出会えたことに。思わず祈らずにはいられなかった。
Posted by ブクログ
むかし読んだ本を開いてみた。三浦綾子さんの半生記。
自分が傍線を引いた所に「あれっ」と思う。19歳の自分には未来の自分を見通す力があったのかもしれない。歳を重ねた今も同じ箇所に傍線を引く。ただ成長がないだけなのかもしれないけれど。「雲の上には太陽が輝いている」その言葉だけは新しく傍線を引いた。
忘れていた場所もあった。自殺未遂の高校生のくだり。自らも自殺しようとしたことがある三浦さんだからこそ、彼女の心も和らぎ、開かれたのだろう。婚約者だった西中一郎さんの包容力にもジーンときた。
24歳から37歳までギブスベットの上で青春を過ごした三浦綾子さん。心の人前川正さんを亡くしたときもベッドの上で涙を流すことしかできない状況だった。その現実を改めてつきつけられて,ただただ呆然とするだけだった。あまりにも過酷な運命も受け止め、生き続けた三浦綾子さん。
前川正さん、そして三浦光世さんの愛の力、信仰の力に圧倒された。
Posted by ブクログ
(09.29.2016)
毎日少しずつ読んでいたのだが、100頁から最後まで一気に読み終えてしまった。自分もクリスチャンだからかもしれないが、完全に感情移入してしまった。三浦綾子氏にとっての前川正氏や三浦光世氏がそうだったように、神様は必ず誰かを通して働かれる。ある人との交わりを通して自分の弱さや罪に気づき、神様に出会うのである。
三浦綾子氏の人間味溢れる文章が好きだ。神様を信じますと言いながらも、情けないことに時に心配や不安から完全に信じ切れない時がある。三浦綾子氏の本を読むと、それが人間の姿だと毎回励まされる。自分の弱さと闘いながら、自分なりの信仰生活を送っていこうとこの本を読みながら強く思った。
クリスチャンじゃない人の心にも響く本ではないかと思う。人生に絶望している人、本当の愛を知りたい人に特にオススメの一冊。
Posted by ブクログ
戦後、教師を辞め、病に倒れ寝たきりとなった若き日の三浦綾子。彼女は人との出会いを通じて「自分に与えられた道」を探しながら、人が生きることの陰にある痛みにも気づいていく。実体験をもとにしたノンフィクション。
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文章が侍(?)のように、きりりっとしていて、真面目。色々と、悩んだり、困難にぶつかったり、悲しみにくれたりもするけど、どこかカラッとしていて、明るい。
前川正をはじめ、稀有な人格者がたくさんでてくるが、同じ人間なのか、怪しくなると同時に、素直に頭が下がる。
Posted by ブクログ
父の勧めで『塩狩峠』を読み感銘を受け、
「次は彼女の自伝三部作を読むと今後の作品がまた面白く読めるよ」
というこれまた父のアドバイスを受け、
『氷点』を読みたい気持ちをグッと堪えて読み始めました。
三浦綾子さんの自伝三部作の第一作目、『道ありき』。
本作は青春編となっており、
教職を辞してから13年にも渡る闘病生活が描かれています。
壮絶な病気との闘いの中で
様々な出会い、別れ、愛や信仰について綴られていて、
『塩狩峠』ほどの名作を生み出した彼女の芯に
少し触れることができたように感じます。
確かに自伝を読んでから作品を読むと
さらに理解が深まり面白さも増します。
父のアドバイスに感謝!
続いて自伝二部の『この土の器をも』も読みます。
Posted by ブクログ
人のあり方として感銘を受けずにはいられない場面の連続である。正直、現実離れしている。(言動の)意味が分からないと何度も思った。これが自伝、半ノンフィクションというから信じがたい。山あり谷ありならぬ、罪あり救いあり。(しかし、大抵の人には優れた導き手がいない。前川正に導き手はいたのだろうか。)
ーーー以下引用ーーー
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです」と、自らの足を石で打ちつけた彼の姿を思った時、真剣とはあのような姿をいうのだとわたしは気づいたのである。いや、真剣とは、人のために生きる時にのみ使われる言葉でなければならないと、思ったのである。1032
わたしはパスカルの「パンセ」を読んで、パスカルのいう賭に興味を持った。(なるほど、神があるという方に賭けたなら、わたしは神を信じて、希望ある充実した一生を送ることができるだろう。もし、神がある方に賭けて、神がなかったとしても、わたしは何ものをも失わない。むしろ実りある一生を送れるのだ。もし神がない方にかけて生きたとしたら、わたしのような人間は、おそらく自堕落になり、いい加減に生き、つまらぬ快楽にふけって、一生を浪費することだろう。そして最後に神がおられるということになったとしたら、一度も神を信じなかった自分は、どうやって神の前に出ることができるだろう)1861
罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても何ら良心の呵責がない。それと同様に、わたしもまた、人の心を傷つける行為をして胸が痛まないのだ。こう思った時わたしは、(罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか)と、思った。そしてその時、イエス・キリストの十字架の意義が、わたしなりにわかったような気がした。2449
三浦光世はそのわたしに言った。「あなたが正さんのことを忘れないということが大事なのです。あの人のことを忘れてはいけません。あなたはあの人に導かれてクリスチャンになったのです。わたしたちは前川さんによって結ばれたのです。綾子さん、前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょうね」3968
Posted by ブクログ
三浦綾子が、キリスト教に入信するまでの話。闘病生活の中でもすごく生きている感じがある。
とても魅力的な女性だと思った。ちなみにこの本は韓国人の方から頂きました。
Posted by ブクログ
『氷点』『塩狩峠』で知られる三浦綾子氏の自伝小説。本作品を読む前は綾子氏を職業作家と思っていたが、彼女を見舞った幾多の試練に対して誠実にそして前向きに向き合う姿が印象的だ。
肺結核を患い13年間床に臥すとはどのような思いであっただろうか。しかも敗戦による教師生活の喪失感を抱えながら。しかし綾子氏にはその日常の暗さを感じない。一時的な2重婚を抱えながらやや退廃的に生きる彼女が、前川正そしてキリスト教と出会い聖書と信仰を心の肝に置くことで人間的な成長と深みを増していく姿が印象的だ。
本作は三部作の第一部で、夫である三浦光世と出会い結婚するまでを描いた作品であるが、困難のうちに生きる人間の輝きと強さを感じられる作品であった。
Posted by ブクログ
三浦綾子文学記念館の案内人さんにおすすめされた本。自分の内面をここまでオープンにすることに驚き。自らの経験が三浦文学に入っているということがよくわかった。
Posted by ブクログ
三浦綾子氏の自伝である。
作品は、3部作の1部目となり、著者が結婚するまでの紆余曲折、キリスト教の受洗し、信徒となるまでの体験などを記している。
著者は体が悪く、寝たきりの生活を送っていた。そこに、キリスト教信徒であり、彼女の人生を変えることになる前川正が現れる。
キリスト教とは、御人好しで、きれいごとを言っているように思っていたが、そうではないことを知って、どんどんキリスト教への考えが変わっていく。キリスト教とは、互いに相愛せよ、とか、人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ、とか、そういったものを言っているものとばかり思っていたが、違った。12章に及ぶ伝道の書には、何もかも空なり空なりと書いてある。「われわれが心に言いけらく、汝楽しみを極めよと、ああこれもまた空なりき。われは大いなる事業をなせり。わがために家を建て、園をつくり、もろもろの木をそこに植え、また池をつくりて水を注がしめたり。われはしもべ・しもめを買い得たり。われは金銀を積み、妻妾を多く得たり。かくわれは全ての人よりも大いになりぬ。。。されど、みな空にして風をとらうるがごとくなりき。日の下には益となるものあらざるなり。」。つづいて、自分は知恵があると思っているけれど、愚かな人間の遭うことに自分もまた遭うのなら、知恵などあるとはいえない。利口者も、馬鹿者も、共に世に覚えられることは無い。次の世にはみな忘れられている。みんな同じ様に死んでしまうのだ。知恵などあっても、結局は空の空ではないか、と書いてある。この虚無的なものの見方は、釈迦の話にもある。釈迦はインドの王子に生まれた。健康で高い地位と富に恵まれ、美しいヤシュダラ妃と、かわいい赤子を与えられていた。言ってみれば、この世で望める限りの幸福を一身に集めていたわけだ。しかし、彼は老人を見て、人間の衰えゆく姿を思い、葬式を見て人の命の有限なることを思った。そしてある夜ひそかに、王宮も王子の地位も、美しい妻も子も捨てて、一人山の中に入っていってしまった。つまり釈迦は、今まで自分が幸福だと思っていたものに虚しさだけを感じ取ってしまったのであろう。伝道の書といい、釈迦といい、そのそもそもの初めには虚無があったということに宗教というものの共通する一つのものが見える。ただ、虚無は、この世の全てのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを伝道の書に感じたものがあった。
彼女は自分の将来を悲観し、死のうとした時があった。また、それを乗り越えて、生きよう、生きたいという時に死にそうな目にあった。その時こう思うのである。死は何の相談もなく突如襲ってくる。死にたいと願ったときには死ぬことは出来ず、しかし、生きようと思い始めたときに死はいつ自分のもとを訪れるかわからないのだ。この世には、自分の意志よりも更に強固な大きな意志があることを感ぜずにはいれなかった。その大いなる意志に気づいてみると、平凡な日常生活の一日にも確かに自分の意志以外の何かが加わっていることを認めないわけにはいかないのである。例えば、今日は洗濯をし、本を読み、街に買い物に出て行こうと大雑把な計画を立てる。ところが洗濯の途中で雨が降り出し、読書の最中に腹痛が起こり、さて街へ出かけようと思うと客が来る。決して自分の意志どおりに事が運んでいかない。人間の考えが余りにあさはかだから、何者かが私たち人間の立てた計画を修正してくれるのであろうか。そんなことを考えるようになった。むろん、この何者かとは、絶対者神のことを指しているのである。
罪の意識が無いということほど人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしてもなんら良心の呵責が無い。それと同様に、人の心を傷つける行為をしても気づいていなければ、胸が痛まない。罪の意識が無いのが最大の罪なのだ。罪の無い人間などはこの世にはおらず、それを感じていない人たちの積みも含め、全ての罪を背負ってキリストは十字架にかかったのであったろうか。
彼女は、療養中、色々な人に励ましの手紙を書いた。その方から、返信が届くようになった。そんな中、彼女は、自分のようなものでも人を喜ばせ、慰め、何かの役に立つことができるのだと。人を慰めることは、自分を慰めることであり、人を励ますことは、自分を励ますことであるという平凡なことにきづくのである。
そんな中でも、悪いことは起こる。彼女の愛する前川正も病気であったが、遂に帰らぬ人になってしまう。このため、彼女は、神に恨みつらみを述べてしまう。しかし、彼女の前に、前川正とうり二つの、しかも考え方までも似ている三浦が現れる。初めのうちは、その人に心が傾いていく自分を呪い、戒めていたが、前川が遺書で、何者にも縛られず、不自然な綾ちゃんでいてはダメだ、とあったことから、前川の深い愛情を認識し、三浦と結婚することになる。必要なものは必ず神が与えてくれる。与えられないのは不必要だという証拠であると。
Posted by ブクログ
私はキリスト教信者でもないし
これまで宗教的な本はほとんど読んでこず抵抗があったのですが、
途中からどんどん引き込まれ、一気に読めました。
人の心はうつろいやすく、ずっとこの人を愛していると一度は思っても他の人に惹かれてしまうことがあったり、そんな自分が不実に思えたり。
この本からは、そんな人間の心に対する答えのようなものを与えてもらったと感じました。
人生において最も大切なことは人に何かを与えることではないか、そして、どんな出来事も神によって与えられたものと思い前向きに自然に乗り越えていくことについて考えさせられました。
Posted by ブクログ
迷いの中にいた私を原点に引き戻してくれた一冊。三浦綾子の自伝的小説。信仰とは人生ということを、強く教えてくれた。ずっと部屋に投げてあったものだったけど、今この時に手にとって読み始めて、読み終えたことに強い導きを感じる。私もまた神の愛の中にいると実感。感謝。
10/5/25
Posted by ブクログ
『氷点』を読みつつ並行して読んでいた本。
色々な自叙伝を読んだことあるけど、この人ほど
苦悩の青年期を過ごした人はいないだろうと思った。
だからこそ、あれほどの小説が書けたのだと納得した。
どんなに病床で苦しんでいても、自己の建設的な思索と
人間関係に希望を持って構築していけたら、
もしかしたら、三浦さんのように克服できるのかもしれないと思った。
自分だったら、きっと絶望感に潰されて立てないに違いない。
そして、自身では決して味わうことのできない環境にいる・
いた人のことを知るきっかけがあってよかったと思う。
Posted by ブクログ
著者の自伝小説。
教師時代からお話は始まるが、綾子氏も熱心な教師であったことが覗える。
折しも時代は戦中、戦後の動乱期。そんななか、敗戦した日本はアメリカの指示の元、綾子氏が教えていた国定教科書の至る所に墨を入れ、修正させる場面がある。
生徒は黙々と墨をすり、修正箇所に黒く修正をいれる。その姿を見るに絶えず、“わたしはもう教壇に立つ資格はない。近い将来に一日も早く、教師をやめよう”とある。
ここに時代背景を感じるが、それ以上に綾子氏の意思の硬さに驚きを隠しきれない。
自身が情熱を傾けていた七年間は何だったのか?日本が間違っていたのか、もしくはアメリカがおかしいのか?一体何が正しいのか?
生徒を想うばかり葛藤し、間違ったことを純粋な生徒に教えてきてしまった自身が許せない、ならば潔く教壇から退こう。
熱心で慕われていた綾子先生像が目に浮かぶようです。その当時でも、誰も彼もが就ける仕事でもないものを、キッパリ断つ。なかなか出来る代物でもない。
そしてその後まもなく肺結核を患い、十三年間に渡る長き闘病生活が始まる。
闘病生活の間に師や療友、前川正や三浦光世、キリストの教えと出会う。
失意の底を経験したからこその神の教え、ここらへんは少し共感し難いものに感じたが、著者は様々な人に出会い、そして別れ、苦悶し葛藤し尽くした結果の洗礼。それは大いに素晴らしいことだと思った。
これはこれで良いお話ではあったが、個人的には物語を通じて三浦綾子を知る方が好きだ。
自伝ともなれば、どうしてもキリスト色が濃厚となり、少しとっつきにくいところではある。
しかしながら、著者の生い立ちあっての物語。
残りの第二部、第三部も日を改めて追ってみることにします。
Posted by ブクログ
三浦綾子については、長い闘病生活の後『氷点』でベストセラー作家と話題になったし、小説もいくつか読んでいる。でも、ちょっときついなーという印象が残っている。
そんな先入観があって読んだからか、悪印象ではないけれどやはりたじたじとなった。
絶望的な事が起こっても打ち開いていくその強さに、圧倒されっぱなしだった。打ちのめされたと言ってもいい。それでなければ13年間にも及ぶ闘病生活を乗りきれなかったのだろうが。
キリスト教に目覚めていくのだけれど、はじめは疑っている、その様子が尋常でない様に思えた。すべての事象に強く強く反応する気質がすごい。それが信仰に繋がるのだろうとしても。
他者との交流も一筋縄ではない。すなわち恋人、親友、友人らのかかわりかたが、わたしには出来ない!わからない!と引いてしまうほど絆が深く激しい。 しかし、次々といい関係になっていくのは何ゆえか、やはり魅力が(外見とか媚びるとかではなく)あるのに違いない。
真摯な姿には畏れ入る、感動というのにはあまりにも強すぎて、わたしは疲れてしまったよ、というのが本音。
Posted by ブクログ
本好きの友人から勧められた本。道ありきから、塩狩峠、最後に氷点にいけと、順番まで指定されたが、その通りに読みどハマりした。三浦綾子さんを好きになった原点。
Posted by ブクログ
ノンフィクションは口には合わなかった私ですが(沢木耕太郎は全然ダメでした)、三浦綾子の道ありきはなぜか読めました。女性の目線から見た「風立ちぬ」のようで面白かった。それにキリスト教という要素が入ってきて、塩狩峠という作品の背景理解が進んだ。三浦綾子や遠藤周作は、一体どんな世界を見ているのだろう。