【感想・ネタバレ】三浦綾子 電子全集 道ありき 青春編のレビュー

あらすじ

著者の二十歳代前半から療養生活、自殺未遂、光世氏との結婚までを記した自伝的小説。

小学校の教師をしていた綾子は、敗戦を迎え、それまで教えてきたことが間違いだったのではとの思いにさいなまれ、虚無感を覚える。教師を辞め、結婚を決意するが、結納が届くその日に倒れ、その後、肺結核を発病する。長い療養生活の中で婚約解消、自殺未遂などを経験するが、同じ結核患者でクリスチャンの幼なじみ前川正の献身的な支えを得て、生きる希望を見いだしていく。その後、脊椎カリエスを患った綾子は、受洗する。そんな折、前川正が危険な大手術を受けることになり……。

「三浦綾子電子全集」付録として、夫・三浦光世氏による「創作秘話」を収録!

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Posted by ブクログ

ネタバレ

10年以上、折に触れて読み返している。
内容は重たいが、深く悩んだ時や落ち込んだ時に読み返すと孤独が紛れる。閉塞感や低調なテンションの語り口が寄り添ってくれることもある。
誰かを愛するとは、誰かが自立して生きていけるようにすることだという言葉が印象的であった。

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2023年07月31日

Posted by ブクログ

ネタバレ

妹の本棚で、「道ありき」が目に留まり読んだ。読み進めていくうちに、この一日をこの本に使う価値があると感じ、二周した。
虚無感で一人残されていることに嫌な感じを抱かなかった頃から神を信じクリスチャンになるまでのことが書かれている。
私は、洗礼を受けていない。けれども、信じているからクリスチャンである。ただ、最近は求めていた道ではない道を歩いており、毎日のように枕を濡らしている。だから、綾子の考えを理解しやすかった。一度、信仰を持てたからといってそれで終わりではない。神様は、私の信仰が育つように、人を与えてくださる。それは、友人であったり、恋人であったり、はたまた思いがけない人であるかもしれない。人を通して、イエス様の十字架の意味を知る。その人の信仰や愛を見て、与えられている愛がどれほど大きいのかを知る。思い返せば、必要な時に必要な人が与えられていた。人は弱い。弱いから、まずは神様から愛されるだけで大丈夫。完璧を目指さなくて大丈夫。今日、信仰があるのかだけでいい。今日、信じることを貫く信仰を持ちたい。


心に残った綾子と正の言葉

「綾ちゃんの今の生き方がいいとはぼくには思えませんね。今の綾ちゃんの生き方は、あまりに惨め過ぎますよ。自分をもっと大切にする生き方を見いださなくては…」

「結局は、人間は死んでいく虚しい存在なのに、またしても何かを信じようとするのは、愚かだと思った。しかし、わたしはあえて愚かになってもいいと思った。丘の上で、吾とわが身を打ちつけた前川正の、わたしへの愛だけは、信じなければならないと思った。もし信ずることができなければ、それは、わたしという人間の、ほんとうの終わりのような気がしたのである。」

「わたしはあの夜まで、自分自身が虚無的であったにせよ、それはそれなりにやはり人生に対してまじめだと思っていた。まじめだからこそ、絶望的になることができたのだと思っていた。だが、それは自分の間違いであることに気づいたのだ。気づかせてくれたのは、あの丘の上の前川正の姿であった。〜自らの足を石で打ちつけた彼の姿を思ったとき、真剣とはあのような姿のことを言うのだとわたしは気づいたのである。真剣とは、人のために生きる時にのみ使われる言葉でなければならないと、思ったのである。そう考えると、わたしは自分の生き方がどこか中心を外れた生き方のように思うようになった。」

「信頼されているということが、どんなに恐ろしいことかを、この教師は知らなかったのだ。」

「綾ちゃん、生きるということは、ぼくたち人間の権利ではなくて、義務なのですよ。義務というのは、読んでの字のとおり、ただしいつとめなのですよ。」

「ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだと思った。〜神に頼ることを決心するのですね。」

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2022年03月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 三浦綾子氏の自伝である。

 作品は、3部作の1部目となり、著者が結婚するまでの紆余曲折、キリスト教の受洗し、信徒となるまでの体験などを記している。

 著者は体が悪く、寝たきりの生活を送っていた。そこに、キリスト教信徒であり、彼女の人生を変えることになる前川正が現れる。

 キリスト教とは、御人好しで、きれいごとを言っているように思っていたが、そうではないことを知って、どんどんキリスト教への考えが変わっていく。キリスト教とは、互いに相愛せよ、とか、人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ、とか、そういったものを言っているものとばかり思っていたが、違った。12章に及ぶ伝道の書には、何もかも空なり空なりと書いてある。「われわれが心に言いけらく、汝楽しみを極めよと、ああこれもまた空なりき。われは大いなる事業をなせり。わがために家を建て、園をつくり、もろもろの木をそこに植え、また池をつくりて水を注がしめたり。われはしもべ・しもめを買い得たり。われは金銀を積み、妻妾を多く得たり。かくわれは全ての人よりも大いになりぬ。。。されど、みな空にして風をとらうるがごとくなりき。日の下には益となるものあらざるなり。」。つづいて、自分は知恵があると思っているけれど、愚かな人間の遭うことに自分もまた遭うのなら、知恵などあるとはいえない。利口者も、馬鹿者も、共に世に覚えられることは無い。次の世にはみな忘れられている。みんな同じ様に死んでしまうのだ。知恵などあっても、結局は空の空ではないか、と書いてある。この虚無的なものの見方は、釈迦の話にもある。釈迦はインドの王子に生まれた。健康で高い地位と富に恵まれ、美しいヤシュダラ妃と、かわいい赤子を与えられていた。言ってみれば、この世で望める限りの幸福を一身に集めていたわけだ。しかし、彼は老人を見て、人間の衰えゆく姿を思い、葬式を見て人の命の有限なることを思った。そしてある夜ひそかに、王宮も王子の地位も、美しい妻も子も捨てて、一人山の中に入っていってしまった。つまり釈迦は、今まで自分が幸福だと思っていたものに虚しさだけを感じ取ってしまったのであろう。伝道の書といい、釈迦といい、そのそもそもの初めには虚無があったということに宗教というものの共通する一つのものが見える。ただ、虚無は、この世の全てのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを伝道の書に感じたものがあった。

 彼女は自分の将来を悲観し、死のうとした時があった。また、それを乗り越えて、生きよう、生きたいという時に死にそうな目にあった。その時こう思うのである。死は何の相談もなく突如襲ってくる。死にたいと願ったときには死ぬことは出来ず、しかし、生きようと思い始めたときに死はいつ自分のもとを訪れるかわからないのだ。この世には、自分の意志よりも更に強固な大きな意志があることを感ぜずにはいれなかった。その大いなる意志に気づいてみると、平凡な日常生活の一日にも確かに自分の意志以外の何かが加わっていることを認めないわけにはいかないのである。例えば、今日は洗濯をし、本を読み、街に買い物に出て行こうと大雑把な計画を立てる。ところが洗濯の途中で雨が降り出し、読書の最中に腹痛が起こり、さて街へ出かけようと思うと客が来る。決して自分の意志どおりに事が運んでいかない。人間の考えが余りにあさはかだから、何者かが私たち人間の立てた計画を修正してくれるのであろうか。そんなことを考えるようになった。むろん、この何者かとは、絶対者神のことを指しているのである。

 罪の意識が無いということほど人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしてもなんら良心の呵責が無い。それと同様に、人の心を傷つける行為をしても気づいていなければ、胸が痛まない。罪の意識が無いのが最大の罪なのだ。罪の無い人間などはこの世にはおらず、それを感じていない人たちの積みも含め、全ての罪を背負ってキリストは十字架にかかったのであったろうか。

 彼女は、療養中、色々な人に励ましの手紙を書いた。その方から、返信が届くようになった。そんな中、彼女は、自分のようなものでも人を喜ばせ、慰め、何かの役に立つことができるのだと。人を慰めることは、自分を慰めることであり、人を励ますことは、自分を励ますことであるという平凡なことにきづくのである。

 そんな中でも、悪いことは起こる。彼女の愛する前川正も病気であったが、遂に帰らぬ人になってしまう。このため、彼女は、神に恨みつらみを述べてしまう。しかし、彼女の前に、前川正とうり二つの、しかも考え方までも似ている三浦が現れる。初めのうちは、その人に心が傾いていく自分を呪い、戒めていたが、前川が遺書で、何者にも縛られず、不自然な綾ちゃんでいてはダメだ、とあったことから、前川の深い愛情を認識し、三浦と結婚することになる。必要なものは必ず神が与えてくれる。与えられないのは不必要だという証拠であると。

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2018年01月16日

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