三浦綾子のレビュー一覧
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クリーニング白洋舎創業者の伝記に近い小説。さすが三浦綾子、伝記を書いても上手い。またこの創業者のなんと波乱万丈な人生か。若い時の無鉄砲さは誰しもあるが、時代が時代で食べるものもないのに無一文で旅をする。このあたりはさすがに当時でもぶっ飛んでいるのではないか。また新たに溶剤を開発するところなど、日清のカップラーメン創業者もそうだが昔の創業者の熱意はとんでもなく凄いと思う。
キリスト信者なので後半はかなり色濃く出てくるが、キリスト信者と仏教信者のこの思想の強さと一般への広がりは何が違うのかと思いながら読んだが、それは聖書という文字になって形があるかどうかの違いなのでは、と思った。やはり文字にすると訴求が強くなり、残せるので広まりにも貢献するのかと思う。 -
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ネタバレ明治時代、東京本郷生まれ、士族の家系に生まれた永野信夫の一生。おばあさんに厳格に育てられた信夫の友情や恋愛の話から、最後の事故まで。実際に起きた事故、実在した人物をもとに創作された小説。
(ここからはネタバレになります。)ネタバレというか、何がネタバレなのかすらよく分からないけど、本の後ろに「結納のために札幌に向かった鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めた。声もなく恐怖に怯える乗客。信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた……。明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救った一青年の、愛と信仰に貫かれた生涯を通して、人間という不確かな存在の真の意味を問うた不朽の名作」。と書いてあるから、要するに信夫が事故で死ぬ、というのはもう分かっている前提で読むことになる。「高校生に読んでほしい50冊」という、新潮社がたぶん毎年出しているリストの中にこの本があって、この説明を読んで、読んでみたいと思ってついに読んだ。
まず「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」という、ヨハネによる福音書のとても有名な一節が出てきて驚く。キリスト教の関係する小説だとは全く思っていなかったが、結局は、本当に敬虔なキリスト教徒の信仰に生きる物語、ということだった。宗教とか倫理の勉強には興味があるし、遠藤周作とか読むのが好きだったので、なんかキリスト教の小説と縁があるなあと思った。
で、おれはその「塩狩峠」の事故の話がいつ出てくるのかと思って、それをモチベーションにしてずっと読んでいったが、440ページくらいある小説の中で、その事故の場面に差し掛かるのが410ページ。つまりそこまでの400ページ近くは、全部最後の30ページのハイライトをよりハイライトにするための壮大な助走だった、ということを読んでて思った。ただその助走の分、「それはやめて!」と本当に思いながら事故の部分に差し掛かり、そしてものすごい悲しい感じになって終わった。全然違うけど、同じ悲劇という意味で、ロミオとジュリエットとかは、なんか展開が早すぎて最後もなんかそんなに感情も動かせないまま終わってしまう感じだが、これはその逆。途中はずーっと一青年の思春期的なうじうじした悩み、恋愛もそうだし、性欲もそうだし、死への恐怖とか興味、という青臭い部分が多い。でもそれをひたすら読んだ分、登場人物たちへの感情移入もしやすくなったところで、最後の最後での事故の悲惨さが大きくなった。
「あとがき」で全てを知ったけど、これは1909年の2月28日に実際に塩狩峠で起こった鉄道事故で殉職した長野政雄という人がモデルになっているということで、実際に北海道の鉄道界にキリスト教を広めた人らしい。塩狩峠には「塩狩峠記念館」もあるらしいから行ってみたい。ちなみに1973年にはこの小説は映画化もされたということなので、観たいような観てみたくないような…。
この小説の中で、唯一なんか心に響いた言葉は、「お先祖様を大事にするということは、お仏壇の前で手を合わせることだけではないと思うの。お先祖様がみて喜んでくださるような毎日を送ることができたら、それがほんとうのお先祖様への供養だと思うの」(p.322)っていう部分かな。「善く生きる」というのはお先祖様のためにも大事。あとは、あとがきの部分で、どれだけ実在の長野氏が立派だったのかという証言が出てくるが、「自己に対しては非常に厳格でしたが、他に対しては寛大でした。長野氏がかつて人を非難し批評したことを私は知りません」(p.451)という部分で、立派な人は人を評価しない、ということなのか。ある意味憧れる。
少なくともそこまでの強い信仰をなんで持てるのだろう、信仰に生きるとはどういうことなのか、ということを考えると、実は最初の祖母の教育のせいがあるのではないかとか、あるいは立派な父親の性格を引き継いでいるのかとか、色々考えながら味わった悲劇だった。(26/06) -
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ネタバレ明治時代、東京本郷生まれ、士族の家系に生まれた永野信夫の一生。おばあさんに厳格に育てられた信夫の友情や恋愛の話から、最後の事故まで。実際に起きた事故、実在した人物をもとに創作された小説。
(ここからはネタバレになります。)ネタバレというか、何がネタバレなのかすらよく分からないけど、本の後ろに「結納のために札幌に向かった鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めた。声もなく恐怖に怯える乗客。信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた……。明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救った一青年の、愛と信仰に貫かれた生涯を通して、人間という不確かな存在の真の意味を問うた不朽の名作」。と書いてあるから、要するに信夫が事故で死ぬ、というのはもう分かっている前提で読むことになる。「高校生に読んでほしい50冊」という、新潮社がたぶん毎年出しているリストの中にこの本があって、この説明を読んで、読んでみたいと思ってついに読んだ。
まず「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」という、ヨハネによる福音書のとても有名な一節が出てきて驚く。キリスト教の関係する小説だとは全く思っていなかったが、結局は、本当に敬虔なキリスト教徒の信仰に生きる物語、ということだった。宗教とか倫理の勉強には興味があるし、遠藤周作とか読むのが好きだったので、なんかキリスト教の小説と縁があるなあと思った。
で、おれはその「塩狩峠」の事故の話がいつ出てくるのかと思って、それをモチベーションにしてずっと読んでいったが、440ページくらいある小説の中で、その事故の場面に差し掛かるのが410ページ。つまりそこまでの400ページ近くは、全部最後の30ページのハイライトをよりハイライトにするための壮大な助走だった、ということを読んでて思った。ただその助走の分、「それはやめて!」と本当に思いながら事故の部分に差し掛かり、そしてものすごい悲しい感じになって終わった。全然違うけど、同じ悲劇という意味で、ロミオとジュリエットとかは、なんか展開が早すぎて最後もなんかそんなに感情も動かせないまま終わってしまう感じだが、これはその逆。途中はずーっと一青年の思春期的なうじうじした悩み、恋愛もそうだし、性欲もそうだし、死への恐怖とか興味、という青臭い部分が多い。でもそれをひたすら読んだ分、登場人物たちへの感情移入もしやすくなったところで、最後の最後での事故の悲惨さが大きくなった。
「あとがき」で全てを知ったけど、これは1909年の2月28日に実際に塩狩峠で起こった鉄道事故で殉職した長野政雄という人がモデルになっているということで、実際に北海道の鉄道界にキリスト教を広めた人らしい。塩狩峠には「塩狩峠記念館」もあるらしいから行ってみたい。ちなみに1973年にはこの小説は映画化もされたということなので、観たいような観てみたくないような…。
この小説の中で、唯一なんか心に響いた言葉は、「お先祖様を大事にするということは、お仏壇の前で手を合わせることだけではないと思うの。お先祖様がみて喜んでくださるような毎日を送ることができたら、それがほんとうのお先祖様への供養だと思うの」(p.322)っていう部分かな。「善く生きる」というのはお先祖様のためにも大事。あとは、あとがきの部分で、どれだけ実在の長野氏が立派だったのかという証言が出てくるが、「自己に対しては非常に厳格でしたが、他に対しては寛大でした。長野氏がかつて人を非難し批評したことを私は知りません」(p.451)という部分で、立派な人は人を評価しない、ということなのか。ある意味憧れる。
少なくともそこまでの強い信仰をなんで持てるのだろう、信仰に生きるとはどういうことなのか、ということを考えると、実は最初の祖母の教育のせいがあるのではないかとか、あるいは立派な父親の性格を引き継いでいるのかとか、色々考えながら味わった悲劇だった。(26/06) -
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全くありがたいもんですなあ。一心に働きさえすれば、認めてもらえる。世の中というものは、そうそうこちらの努力に応えてくれるものとは限らないものです。こちらの真心に感じてくれるものとは限らないものです。しかし、時にそういう人に巡り合うことがある。私はどちらかというと、いい人に巡り合うことが多かった。この酒屋の主人もその一人でした。
「人間は、キリストなしでは、神の前に出ることができない。それは例えば、二階に上るためには、どうしても梯子が要るのと同じことです。この梯子がキリストですな。だから、キリスト倍者が祈る時には、『キリストの御名によって祈ります』と言うのです」 この話にも、私はなるほどと思った。人間の私共には、神に直接お話のできる資格のある者は誰もいない。祈ることのできる者は一人もいない。キリストを仲立にしてやっとお目通しが叶う。そこで初めて神に祈ることができる。それは、名刺に紹介状を書いてもらっていけば会ってもらえるのと同様だと言うのです。
そんなこんなの幾日かが過ぎて、ある朝宿の主人が亡くなってしまわれた。今正に死なんばかりの病人ではあったが、死なれた姿を見た私は、かつてないほどの衝撃を受けました。
この主人が亡くなる朝、中島氏が呼ばれて、枕もとで祈りを捧げられた。中島氏の祈りの内容は、次のようなものでありました。
「在天の父なる御織、この日まで今井兄を守り、導いてくださったことを感謝いたします。
どうか今井兄が今までに犯した罪をおゆるしください。どうか、今井兄がすべてのことを感謝して、この宿のことも、妻君のことも、すべてを神に委ねて、安心して神の御手に想うことができますよう、力をお与えください。もし今井兄の胸の中にいゆるし難き人がいるならば、ゆるし得るよう寛容な心をお与えください。妻君の上にも、親戚ご一同の上にも、豊かな御慰めがありますように、イエス・キリストの御名によって祈り上げます」
こう祈りますとな、宿の主人が、「ありがとう。ありがとう。感謝です。凱旋です」
と言われましたな。私は、人間が死の直前にこんな言葉を出そうとは、夢にも思いませんでした。結核という病気は、死の直前まで、あのように意識がはっきりしているのですな。
そのはっきりした意識の中で、自分の死を凱旋だと、宿の主人は言ったのです。
私は感のあまり、声を上げて泣きました。軍夫ながら戦地から凱旋した私です。将兵の凱旋の様を見てきた私です。こんな小さな宿を残しただけの一生と、人は思うかも知れませんが、しかしこれこそが本当の凱旋だと、私は心打たれました。社会的にどれほど地位が高く、うなるほどの財産を築いたとしても、絶望の中に死んでいくのが、大方の死というものではないでしょうか。
病気が病気なので、葬式に集まる人はほんの僅かでしたが、私はすばらしい葬式であったと、これまた感動しました。そして私は、何とかして洗礼を受けたいものと、切実に願うようになったのです。
「あんこ(若者)、お前働くところを探してるのか」
辺りを憚るような態度に、私は怪訝な思いになりましたが、まさかまた監獄部屋の周旋人でもあるまいと、気を引きしめて、「はい、探しております」と答えると、「そうか。じゃあ洗濯屋の水汲ができるか」とのこと。私は飛びつくように、「やれます。やらしてください」と、頼んだ。これが私と、クリーニング業との初めての出会いとなったわけです。のちに私は、クリーニング会社白洋舎を起こしたわけですが、神はその時既に、この道の備えをしておいてくださったのですな。むろんその時は、神のそんな深い御計らいなど知る由もありません。一時の仕事が見つかったということ、その夜の食事にありつけるということで、もう大喜びでした。
明治の頃の洗濯業というのは、残念ながら世間から高く評価をされていなかった。業者もまた洗濯業というものが、国家社会の被服経済と、どれほど重要な関わりがあるかを自覚していなかった。川柳にも、「洗濯屋近所の垢で飯を食い」などと詠まれていたほどでした。しかし私は、とにかく働く場ができたということで、喜んで男の後について、函館市蓬莱町の加藤という洗濯屋に行った。
当時の函館の洗濯店の上等の得意先は外国船でしたな。船が港を入る時、汽笛を鳴らして入ってくる。あの「ボーッ」という音が何とも言えず胸に沁みましたなあ。汽笛が鳴ると、すぐに屋根の物見台に上って行って、入港を確める。大きな鞄を肩にかける。波止場に駆けつける。孵舟に乗り移る。と、まことに目まぐるしい働きようでした。さて本船に舟が横づけになると、下って来たタラップをましらのように駆け上り、船に乗り移る。乗り移るや香や、駆け足で船室のドアをノックし、洗濯物を集めて廻る。
何しろ同業者が多いわけですから、素早く立ち廻らねば仕事を取りそこねる。幸い私はこの機敏さだけは優れておりましたから、ずいぶんとたくさん仕事を取ったものでした。そうそう、気をつけていても、急いで廻るものですから、受取ったズボンのポケットや、服のポケットに、紙幣だの、シャープペンシルだの、時計だのが入っていることがありましてな。
そんな時には、必ずきちんと返したものです。当り前のことをしたまでですが、当時の洗濯屋業界では大変珍しいこととされ、信用もついたのでした。
ところで、私の仕事というのが、実に思いもかけない仕事でした。私の毎日の仕事は、大きな箱を二つ積んだ大八車を曳いて・・・・・・どこへ通ったとお思いです?何と宮内省だったのです。私は驚きましたなあ。十カ月程前には、北海道のタコ部屋に、脅され、しごかれて土方仕事をしていたこの私が、毎日大手門から宮内省に通うのです。生涯、中をうかがうことさえできぬと思っていた皇居に、毎日通うこととなったわけです。
この私に広瀬太次郎氏が目をかけてくれた。はあ、この広瀬太次郎氏は三井呉服店…今の三越の前身ですな…の店員でした。商人だまりの中でもひときわ目立つ人でしたな。店員と言っても、今で言えば係長クラスでしょうか、時折私に本など貸してくれました。
「健ちゃん、お前、岡野の養子になる気はないかい」と言われたのです。私は、「冗談言いっこなしだよ。ぼくは五十嵐家の跡取りだしね」と、聞き流していたのです。が、主人はまじめな顔で言いました。
「近頃、お前のようなまじめな若者を見たことがない。夜の夜中まで、むずかしい勉強をしているということだが、うちの養子になってくれんかね」これが私の生まれて初めての縁談でした。ありがたい話でしたなあ。
まあ人生、いろいろなことが絡み合って、次第々々に自分の歩むべき道に歩んでいくものなのですな。もし、この養子の話がなければ、私はそのまま、少なくとも何年間かは、岡野洗濯店に勤めたにちがいありません。何しろ、毎日宮内省の商人だまりで、二時間も三時間も勉強することができる。これは大変得難い特権でした。
「では三井呉服店に勤める気はないかね。夜学に行く時間はなくとも、夜勉強する時間ぐらいはあるかも知れないから」と言ってくれた。私は喜びましてね、早速岡野の主人に申し出て、三井呉服店に入社することになった。明治三十一年(一八九八)五月十四日付の三井呉服店の辞令を、今も持っております。社長は三井源右衛門と言われましたな。食事付で日給十八銭でしたから、岡野洗濯店より、月一円近く高かったわけです。はあ、二十二歳になっておりました。
神のお計らいは不思議なものですな。岡野をやめて、宮内省商人だまりでの、あの三時間の勉強時間を失ったと、はなはだ惜しく思っていましたが、何と三井呉服店に入社した私は、広瀬氏の配下となって、またまた大手門から宮内省に出入する身となったのです。
よろしいですか、当時東京にどれほど商店があったかわかりませんが、宮内省に出入を許された商人は、極く限られた数だったと思います。それらの商店に、どれほどの店員がいたかわかりませんが、店主に命ぜられて皇居のご用にうかがうことのできた店員も、そう多くはなかった筈です。
にもかかわらず、どうしたわけか、北海道から舞い戻った、言わばどこの馬の骨とも知れぬ私が、岡野洗濯店に勤めるや否や、宮内省係に廻された。そして、養子にその係を奪われた筈の私が、三井呉服店に勤めると、またもや宮内省係となった。こんなに、二度までも大手門から出入を許された店員は、先ずなかったかも知れませんな。お陰で私は、三井呉服店に勤めていたおおよそ十年、毎日三時間ずつ、商人だまりで勉強する時間を与えられたのです。
ところで、宮内省では、呉服物及び洋品の一切を随時三井呉服店にご用命くださった。反物や布地の他に、テーブルクロス、どんすの壁掛、カーテン、紫ちりめんの幕なども、お納めするのだが寸法を取らねばならない。その度に私は、鳳凰の間、豊明殿、千種の間、御学問所などなどにも参上したものです。ま、放浪時代の生活を思うと、まことに畏れ多いことでしたな。
それはともかく、その時はまさかこの自分に、何十年かのちには、藍総製章をいただき、受章者を代表してお礼を言上する日が来ようなどとは、夢想だにいたしませんでした。むろん、私の入社を世話してくださった広瀬氏にも、これは想像のできぬことだったでしょう。
怒り狂った手紙を私に書き送った実父が、もしその日まで生きていたとしたら、何と言ったことでしょうなあ。
そうそう、自転車と言えば、自動車も私は非常に早くに乗った。日本に初めて自動車が入ったのは明治三十五年でしたな。はあ、これはアメリカ大使館の自動車でしてな、日本人が使った第一号は、その翌年の三十六年、東京府庁の公用でした。第二番目が三井呉服店で購入いたしました。幸いにも、これに私が乗せてもらったわけですが、それは宮内省係であったためです。
実父の船崎資郎は、会ってくれるかどうかはわからぬが、万一会ってくれるとしても、手ひどく叱られることは覚悟せねばなるまいと、ぬいを従えてプラットホームに下り立った。
その途端、大声で、
「健治!」
と呼ぶ声がした。驚いて声のするほうを見て仰天した。何と実父の船崎資郎が、私を目がけて走り寄って来るのです。私は驚きのあまり、持っていた土産物を取り落した。
「健治!よく帰った!よく帰った!」
父は私の両肩に手を置いて、ゆさぶりながら声を詰まらせた。
「お父っつあん!」
私もそう呼ぶのが精一杯でした。あの一瞬を、私は永遠に忘れることができません。父は近日中に私が帰ると手紙で知って、毎日のように駅まで迎えに出てくれていたというのです。
父はそういう人だったのです。激しい愛憎の持主だったのです。
ぬいを紹介すると、父はじっとぬいを見つめてから言いました。
「うん、立派な嫁さんだ。お前のように気忙しくなくて、よくできた嫁さんだ。大事にするんだぞ」
と、こう申してくれましてな。私はその言葉に、二人の妻に別れた父の深い難きを見たような気がしたものです。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」と、生犀星は詩いましたが、ふるさとは訪ねて行くところでもありますな。
今有名になった三浦綾子を訪ねる人、訪ねたい人は、うんざりするほどいる。しかし貧しく、無名の、しかも日本の北の果てに近い旭川に、病いをやしなう堀田綾子を海を渡ってはるばるたずねる見舞客はいなかった。そこへ五十嵐健治が湘南の茅ヶ崎からしばしばたずねて行ったのである。健治は東京証券市場一部上場企業・白洋舎相談役の身でありながら、しかもはじめは堀田綾子から面会を謝絶されながら、辞を低くして尋ねていった。そして彼女のベッドの傍らで、くりかえしキリストの愛を聖書を開いて語るとともに、自分の子供のころからの放浪ばなしゃ、この北海道の小様でキリストを肩じるに至った波乱に満ちた物語りを枕もとで語り聞かせた。三浦子が本書執筆のペンをにぎる時、父親が子供に寝物語りに話してくれた昔ばなしを思い出すように、健治の声がよみがえったはずだ。本書はそれゆえか、珍しく主人公の一人語りで物語りがすすんでゆく。
だれが想像しえたであろう。貧しく、無名の、この病める娘が、のち日本を代表する著名な女流作家となって、自分をはるばる見舞ってくれたその人物の伝記小説を三十年後に書こうとは。人と人との出会いの不思議さ、大切さをつくづく思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ2026.05.07
上下巻ありボリュームのある作品ながら登場人物は数少ない。
その人物たちの織りなす憎悪や嫉妬などの黒い感情たちが絶妙に絡みあい、陽子を追い詰めていく。
どんな状況でも自分を見失わない陽子の底なしの強さが眩しく、たとえ他人から意地悪をされても自分は絶対にそれに屈しない、やり返さないところがかっこよかった。この作品の中で唯一まともと言える。
それぞれがそれぞれに対して色々な感情を持ち合わせて長々と続くので疾走感がなく、少し途中飽きてしまった。
ドイツ語は得意なので時々出てくる医療用語には親しみが持てたのはよかったかも。笑
陽子以外、誰にも感情移入できず、私には難しいテーマだった。夏枝が1番人間の醜さの権化のようで見ていて痛々しいが、これが人間なんだよなとも思わせるキャラ。
続編も気になるが、陽子がその他全員を見返して最高にハッピーになるなら読みたい。
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Posted by ブクログ
ネタバレ2026.05.07
上下巻ありボリュームのある作品ながら登場人物は数少ない。
その人物たちの織りなす憎悪や嫉妬などの黒い感情たちが絶妙に絡みあい、陽子を追い詰めていく。
どんな状況でも自分を見失わない陽子の底なしの強さが眩しく、たとえ他人から意地悪をされても自分は絶対にそれに屈しない、やり返さないところがかっこよかった。この作品の中で唯一まともと言える。
それぞれがそれぞれに対して色々な感情を持ち合わせて長々と続くので疾走感がなく、少し途中飽きてしまった。
ドイツ語は得意なので時々出てくる医療用語には親しみが持てたのはよかったかも。笑
陽子以外、誰にも感情移入できず、私には難しいテーマだった。夏枝が1番人間の醜さの権化のようで見ていて痛々しいが、これが人間なんだよなとも思わせるキャラ。
続編も気になるが、陽子がその他全員を見返して最高にハッピーになるなら読みたい。