いとうせいこうのレビュー一覧
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「ボタニカル・ライフ」は素人園芸家の聖典らしい(いとう氏が自称)以前NHKでやっていた「植物男子ベランダー」をとても楽しく見ていた。その原作の「ボタニカル・ライフ」も、とても面白かった。
その続編である。ベランダーからルーマー(室内園芸家の意)に変身しながらも、変わらず日々植物相手に奮闘するいとう氏。温暖化による猛暑や乾燥にやられたり、引っ越しによる環境の変化で枯らしたり、あくなき好奇心から妙なことを始めて失敗したりしつつ、惜しみなく植物に愛を注ぎ続けている。フェイク植物をうそグリと呼びつつ心が揺らいだり、後ろ側しか見えないからと切り花にしてみたものの満足できず、結局後ろから見ることにしたりするいとう氏。他人の園芸を見る方向へのシフトを考えたり、生協の寄せ植えに手を出したり、いとう氏の植物生活は多忙だ。
さらに、今作ではお子さんが生まれ、いつの間にやら幼い同士になっている。そして避けては通れない地球温暖化。植物にとっては直接生死に関わる大問題であり、その影響が繰り返し描かれる。
いろいろあってもこの先もいとう氏の植物生活は続くのだろう。 -
Posted by ブクログ
国境なき医師団に興味があり、どのような活動をしているか知りたくて本書を読み始めた。
ハイチ、ギリシャ、フィリピン、ウガンダ各国ごとの問題点を筆者の目を通して知ることができる。異国の地で奮闘している人の話を知ることで、自分も頑張ろうと思える。
国境なき医師団という名前から、参加者は医療関係者ばかりなのかと思っていたが、現地の人や施設、物資などの管理を行うコーディネーターや水質を管理する技術者など、様々な人が自分のできることを活かして、役割を果たしていた。
発展途上国での医療的な支援は想像がつきやすいが、ギリシャの難民問題については、よく知らなかったので勉強になった。
一方で、筆者の自己陶酔感あふれる文章に苦戦して、読むのにとても時間がかかった。医療に関して勉強不足であることは否めず、もっと詳しく知りたいと思うことがあった。内容がいいだけにもったいないと感じた。
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バラエティーなどで見るいとうせいこうと、この文章の印象が随分違って、驚き。こんな骨太な文章を書く人だったんだ。
年老いた親の介護をテーマにした物語は、重い空気を纏いがちだが、この小説にも登場人物それぞれが年月と共に背負ってきた人生の重荷が、独特なもの哀しさとやるせなさを伴って行き場なく漂う。
さらに主人公の両親のルーツが語られ、主人公自身の生い立ちにも遡る。決して明るくはないのだが、間に間に挟まれる、どんぶらこっこ、どんぶらこ。どんぶらこっこ、すっこっこ。という調子がふと泣き笑いしてしまうような、力の抜けるようななんともいえない奇妙な気分にさせられる。
生きるにつけ、死ぬにつけ、老いて終幕を迎える直前に途方に暮れてしまう時、それに直面する老いた親を見る時、どんぶらこ、と流れに身を任せるしかない虚無感と、そのどうしようもなさの中にあるおかしみがないまぜになる感覚が、この調子にはある。それは希望でもなく、絶望とも言い切れず、オールも持たずどこか良いところ、はたまた悪いところに自然流されていく他ない、抗いようのない変化の渦のようなもの。
人生の重荷も又、他のあらゆるものと同様に自分の意思とは関係なく、諸行無常。そんなことを思った。
信州弁で綴られる、息子に向けた両親の本音のパートがぐっときた。長年住んだ思い出を便利屋にテキパキと整理されてしまう心情が。
おじいさんとおばあさんの荷物は次々と段ボール箱に投げ入れられて、何十年も一緒だった道具のあれやこれやが位置をばらばらにされて価値がわからねえようにされ、まるで信頼出来ない人間の手に渡って移動し始めただよ。ほして、じきにどこへともなく消えちまった。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。
どんぶらこっこ、すっこっこ。
死生観も人の数だけ、悲哀を帯びたものもあれば、軽やかに自由に凛としたものもある。しかし自分のような俗人は、いつかよるべなく動揺するだろう。どんぶらこと唱えながら。 -
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こうしちゃいられん、何かしなければ
という気持ちに駆られる。
身の毛のよだつような 鳥肌に立つような 経験をしてきている難民の方々。
座ってる場合ではない。私に何かできないか。
寄付もしなくちゃ。
そして知らなければ。
そんなふうに思った。
あともう一つ忘れたくないのでここに書いておくのだけど、日本の緊急医療の中でメンタルケアが軽視されているという記述について。
日本では物理的な怪我の治療 病気の治療以外にその患者やその医療に携わったスタッフのメンタルのケ、PTSD に対する治療や、その予防に関して軽んじられているという記述。この本が書かれたのは10年近く前だけど、その常識は今もほとんど変わってないことに愕然とする。
国際的には、人間が弱いものであるということ、ケアが必要で、メンタルダメージに対しての予防が必要であるということを常識とされているのに、日本では根性論や精神論が大切とされてきた文化があるからなのか、そのケアを二の次にして済ませようとしていること。
愕然としてしまう。
ものすごく遅れているんだ。
それさえ、私はこの本を読むまで全く気付いていなかったのだもの。
怖い。
俺は彼らで彼らは俺。
私が難民にならなかったのは、ただの偶然。
そう思うと、助けずにはいられない。
何故って、
国を追われ、戦闘に巻き込まれ、家族を殺され、水がなかったり、ケガをしたり。
そんな難民の方々の苦しみは、自分のものだったかもしれないのだ。 -
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山東京伝による吉原および深川の遊郭での通な会話や所作の江戸時代のルポ。
後半の仕懸文庫は、蔦屋重三郎による出版らしい。そして2人が処罰された。
現代語訳は過去にも何人かが行っているようだが読み比べていない。いとうせいこうによる現代語訳では、注が多く(見開き2ページの3分の1になることも)、それも今風に解説してある。でも多すぎて、注は飛ばして本文を読み進めた。ときおり注を見るくらいだった。
吉原と深川では、金に余裕のあるものが「尻をふりふり」通い、通な言葉のやりとり、流行やならわし、当時の着物や食べ物などが詳細に解説。本気なのか浮気なのか、二者に分けられないのか、臨機応変な会話などが描かれる。両所の違いもわかる。 -
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小説として、個人の内部から排出されたものを他者性として捉えると、「あいだ」を想定した対人関係論との接点に行き着く。
p54にある「あれ、まだあるでしょう綺麗ね」と、蜻蛉玉について言及するシーンなどがそうだ。人間とは、地続きである。精神とは、究極のレベルで孤立していない。ただ、それを実感するための能力、リテラシーが、近代以降に加速度的に減退しただけのような気もする。
p48 編物のくだり。織物ほどギリギリではないつながり、隙間や空間の存在が「あいだ」の範囲を広げるのか?
p188 「書けば書くほど現実は遠のいていく…私はこれを書きようがない」のくだり。ビオンのOについての表現と重なるか?
妥当性係数は便宜上、相関係数によってなされているにすぎない。1になることはない。言葉にするとはそもそもそういうことなのだろう。