Posted by ブクログ
2020年05月04日
「仏像は ピースな人の 味方でしょ」
「釈迦も仏像見たかったろうね。見たら驚いたと思うよ。これ、俺かよ?って」
いとうせいこう と みうらじゅん の仏友(ブツユウ)による仏浴(仏を浴びる)の旅の記録。
小学校の時から仏像ノートを作っていたくらいに仏像好きの みうらじゅん が絵を描き、いとううせい...続きを読むこう が文章を書いて仏像から色々考えを巡らせている。
二人の仏像を見ての思考は自由自在。
物を見て何かを考える、違う方から見てみる、当時の人の気持ちになって考えてみる。
そのため仏像そのものの作りから、寺と観光の歴史、仏像の大きさによる感じ方の違い、仏像を伝来か由来かで分けてみたり、仏像に本気で恋したり、大きな仏像を見るために足元に寝っ転がったり、仏像を感じるために周りを走ってみたり、日本の地域の仏像の違いの根本を考えたり…。
仏像の地域の違いは、仏教の玄関である福岡、時代最新である京都や奈良、そしてそんな中央都市から見様見真似で伝わった奥州により、伝わり方が違うんじゃないか、と考えるなど、当時の人たちの事情まで想像が膨らんでいる。
お寺の構造や配置、そして仏像の表情や体格やポーズをみて「格好良さ、色っぽさの基準は変わらないね」などと思っている。
これは、仏像の並べ方が現在の音楽グループと同じ並びだったり、説法ってスターのコンサートや民間から生まれたラップだよねと思ったり、現在の特撮の根本こそ仏像じゃないか?と思ったり、当時の金ピカこそ仏像で侘び寂びは不要だよねと思う反面でも現在でも汚しを入れると格好いいから時間が立ってるからこそ良いのか?などと考えているのだが、たしかに何千年経っても人間がバランスが良いとか、粋だなと思うものは変わらないのだろうか。
そして二人が神仏像巡りで感じたことは「六道を司る仏様なら死んだら俺達会えるじゃん。仏って自分のリーダーじゃん、てことは自分自身じゃん」という結論にたどり着いていて、なるほどあの世で会える存在だと思えば仏像は気負ったりせず身近なものだと感じられるかもしれない。
神仏と言われると背筋を伸ばして見たり学んだりしなければいけない気持ちになってしまうのだが、宗教が救いであるなら気持ちをゆったりと自分が気持ち良い見方、感じ方を各自で自由に感じて良いのだろう。
この本では対象が仏像ですが、何かを見てそこから思いを巡らせてゆく、思考遊びが広がってゆく様という意味でも面白い本でした。
さて、この「見仏記」最後の方で「三十三年後にまた三十三間堂で会おう」と約束してこの本は終了している。しかしこの企画が始まったのは1992年。その後見仏記の続きは出るし、テレビ放送もされるし、そうやって仏を浴びつづけてもう30年経つではないか。それなら数年後に「最初の企画の約束通り、三十三年後にに三十三間堂にやってきました!」企画が出るのだろうか。