筒井康隆のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
筒井康隆氏が自らの読書歴を書いた本。
幼年期から作家として活躍するまでに読んだ心に残った本を、当時の生活を振り返りながら紹介している。
筒井康隆氏は、SFや純文学だけでなく、哲学や心理学、文学理論まで精通していることは、彼の作品群を一部読むだけでも分かる。
そんな筒井氏の読書体験を追体験できるように紹介されているわけだから、彼の内実が気になるなら読んで損はないだろう。
筒井康隆氏がマンのブッデンブロークを読み、その早熟の才を羨望し、「良い作家が出る条件は、良い家柄に生まれ、その家に沢山の本があり、その家が没落することだ」という文壇の定説に慰みを得たみたいな話しをしているが、私にすれば幼年期から小説を読む習慣があった筒井氏は十分羨望に値すると思った。
それにしても10年以上前に読んだ気がするが、自分の読みたい本が全然読み進めていないので慄然とした。
イバーニェス「我らが海」、リースマン、ズーデルマン、ディケンズ、その辺を読んでいきたい。。 -
購入済み
良い作品
「時をかける少女」や「富豪刑事」などで有名な筒井康隆が、1972年~で執筆した「七瀬ふたたび」を原作にしたマンガ作品。
作画は「マイナス」「はるか17」「シマシマ」「サイレーン」などの作者である山崎紗也夏。
2001年の作品であり、「マイナス」の連載終了後4年、「はるか17」の連載開始の2年前に描かれたものである。
絵は山崎紗也夏の真骨頂ともいうものであり、美しく近寄りがたい感じの主人公を見事に描いている。
その他の絵もキレイで、絵に関しては文句のつけようがない。
原作が書かれたのがほぼ50年前であり、超能力ブームの待っただ中。
この点が現代の感覚とはやや異なるものがあるが、能力者の孤独さを良く表しており、また派手過ぎない力の使い方でリアル感がある。
一方で、もともと原作が短編集という事もあり、やや話の展開が雑で、あと数巻継ぎ足してでもじっくりストーリーを進めて行った方が作品的には良かったのではないかと思う。
いずれにせよ、マイナスの頃から大幅に進化し、かつ最近の作品ほどコミカライズされ過ぎていないこの絵と、何とも言えない閉塞感と寂寥感の漂う展開が見事にマッチしており、良作と言える。 -
Posted by ブクログ
短篇小説を書く指南書を想像していたら、そんな甘いものではない。著者の理想は「孤高に存在し、誰にも真似られることのない短篇小説。つまりその独特な形式も技法も、ただその短篇小説だけにしか通用しないという短篇小説。そのためにはその独特な形式と技法がそのテーマや内容によってしか生かされず、他のいかなるものにも応用のきかない短篇小説」。
才能ある作家でも一生に一度しか書けない、遥か高みのハードルを呆然と見上げてしまう。
テキスト短篇の中、読んでいたのは「アウル・クリーク橋の一事件」とボーナス・トラック「繁栄の昭和」のみ。
「二十六人の男と一人の少女」はメルヘンのようで興味を引かれた。「爆弾犬」は巧みな紹介に頬が緩んだ。 -
Posted by ブクログ
引用される『敵』『わたしのグランパ』は既読だったが、第七章で扱う『愛のひだりがわ』は未読なので、先にそちらを読む。
ビストロで若者たちから「作家ですよね」「どんな作品を」と訊ねられ「ま、『時をかける少女』とか」で、全員が「ええーっ」。『時をかける〜』が代表作になってしまったのはファンとして忸怩たるものがある。他に傑作・名作・問題作が犇めいているのに……。
「メンズ眉墨で眉を濃くしている」というのは、俳優でもある著者ならではの身だしなみ。あやかりにくい。
「長生きすれば老衰で死ぬことになり、その方が『まるで眠るように死んでいく』ことができるのだから、こんなありがたいことはない」。こちらはあやかりたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ東京パラリンピック開催期間中に読む。
テレビではダイバーシティの実現に感化されているのに、本作では簡単に解決できない超高齢者問題をバトルロワイヤルで減らすというブラックユーモアに思考を巡らすという、ある意味では『考えるきっかけ』週間であった。
高齢者が増えすぎた地区では、年寄り同士の殺し合いをするよう政府通達がでる。武器はヤクザが高価で売り、地区外への逃亡や若い身内の借り出しはNG。
「この国の優しさがこんな事態を招いた」障害者はかわいそうだからと途中で法改正。考えの甘い政府。
「アチチチ。こんなに血が熱いと思わなかった」
ありえないのに現実味を感じる。
読みおわって思ったのは「年寄り同士が殺し合いをしてくれたら、簡単に解決するのに」という人任せな読者と登場する高齢者以外の人たちの存在。こんな極端な事ができないのなら、何か政策を考えないといけないのだと考えさせる作品だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレその当時のアカデミアの人事というか人間関係はこういうところなのだろうか、、、と考えざるをえなかった。。。本当かウソなのかはこの小説を貸してくれた教授に聞いてみよう。
授業形式で前半にアカデミア界隈の人間模様、後半に授業が盛り込まれ、知識も増やせた一冊であったように思う。
以下読書メモ
ーーーーー
・ひとに例外を許さない、個性を認めず独自の行動をさせない、そのかわりその人が自分のものとして負うべき苦しみや悩みや責任を忘れさせてくれるような存在を「世人」という。こういう世人と話すときの普通の会話や雑談や無駄話のことを『空談』といいます。これは『語り』の日常的な、非本来的なありかたで、語りというのは、人間それぞれが、自分は他の道具的なモノやモノ的なモノではなくて、そういうものを理解したり照らし出したりできる、そして自分も照らし出せる、この世に生きている存在だと自分でわかっているということ、それを了解し、解釈している場面なの。この場面ではじめて言語が可能になる。だから本来の語りなら、われわれは話している相手がわかっていることを聞いて相手と同じようにわかることができる筈だけど、空談はそうじゃない。直接的な出会いじゃないんだよね。話が話し手からひとり立ちして、内容は薄くなって、語り広められて真似される。マスコミの発達でそれはますますひどくなって、聞く方は了解するという面倒なことをしなくていいわけ。さらにこの語りということの中には、聞くことや焼熟することも含まれています。人間の『語り』というのは、語る存在として自分を示すこと以外にも、世界に耳を傾けるということでもあるの。
・人間の非本来性の中には、自分の死をまともに見ようとしないってのがあったね。では、まともに見るとはどういうことか。他人の死というのは経験できないし、代わってやることもできない。ところが自分の死は、それがやってくれば人間は現存在でなくなっちまう、しかも、いつやってくるかわからない。つまり死はそのたびごとの可能性で、人間はそのたびことに自分の終りにかかわっている存在だ。そのたびごとといったって、やはり死はいくら早くても一瞬先にあるわけだから。つまり本来的に死を見るというのは、自分に先んじて死とかかわり、それを本来的に了解することで、これを『先駆的了解』といいます。おおいやだいやだ。おれなんか自分の死を了解したくないね。あたしゃ自分が死ぬ時なんぞは、もう、そこにいたくありませんよ。しかしハイデガーは、常に先駆的了解のために自分に先立って、自分が先へ投げこまれるのではなく、自分を先へ投げこめと言っています。それが自分の全体性をとらえ、新たな可能性に向けさせるのだと言っているわけで、ハイデガーの場合、人間的な知は、常にこの先駆的了解から始まるの。と同時に、その中から出られないところがこれまた限界なの。ハイデガーに言わせるなら、人間の存在というのはいつでも新たな可能性の問題なのだから、つまり完成なんてことはあり得ない。どんな科学も理論も、先駆的了解を行った結果を部分的に抽象化したものに過ぎないっていうの。
11:29 田村まり ハイデガーの著作は『存在と時間』だったよね。では人間にとって時間とは何か。ハイデガーは、人間の存在している意味、それから、人間が存在することを可能にしているもの、それが時間性だと言います。あのう、歴史、と言わないで、時間、と言ってることにご注目ください。人間が全体的に、本来的にこの世界に存在するには、死という可能性をめざしながら自分を見る、つまり未来を見ると同時に、過去を見て自分の非力なことを知り、同時に現在を見て自分を解放する。つまり『過去を見つつ現在にある未来』というのが人間存在の意味、つまり時間性だっていうの。
・文学作品の意図というのは、ただ作者の意図というだけでは説明できないものがあって、その時代、その文化が、われわれの時代、われわれの文化へやってくる時、そこには作者が意図することのできなかった新しい意味が生まれてくる筈だ。この不安定性こそ文学作品の特質だとガダマーは言うの。たしかに不安定だよなあ。作品から問いかけられるわれわれ現代の読者の方は、何百人も、何千人もいるわけでしょ。そしたらその答えは同じじゃない筈だよね。で、これをガダマーに言わせると、作品を了解するのは常に、別のかたちの了解なのだ、その意味をずらせることだ。だからこそ、現代でほんとの了解をするのは、現代だけにしかない意味で作品を了解することだ。つまり新しい現代的な意味をひっさげて故郷へ帰るみたいなもんだって言うの。
・フッサールってのはほら、意味というのは意図された事象だ、その中から絶対不変のものを発見すればそれが本賞だ、イデアだって言いましたね。だからハーシュがそう言うのも当然といえば当然。意味というのは言葉以前にあるものだ。意味が言葉によって固定されるのはそのあとのことだっていうんだけどさ。じゃあ君たち、ちょっと、言葉を使わないで、頭の中で何か意味することを考えてくれるかい。できましたか。そりゃまあ、あんな感じ、こんな感覚、言葉で言いにくいものはあるだろうけど、それはまだ意味ができていないからだよ。では一方ハイデガーはどうかというと、『存在と時間』の中で彼は、言語が可能になる『語り』というのは、世界に耳を傾けることでもあると言ってたよね。そもそも人間は、時間によって構成されているのと同じで、言語によっても構成されているのだってわけ、つまり言語はコミュニケーションの手段でもないし、意味を表現する手段でもない、それ以前に世界を生み出し、人間を生み出したのが言語だっていうの。言語によってはじめで人間は人間になれる、言爵は、人間が自分の全体性をそっくりそのまま提示するたの場所として、ひとりひとりの人間よりも先に存在していて、それによって人間は成長するにつれ人間らしくなっていく。