坂口恭平のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
坂口さんが幼い頃に抱いていた社会への疑問を投げかけるところから始まる。誰も応えてくれないその質問を前にすると、坂口さんがいかに思考をして生きてきたかが明らかだ。彼は躁鬱病を患った過去があり、死と隣り合わせの人生。死と向き合うことがどのように生きるかへと拡がり、現在では同じように苦しむ自殺志願者を減らすために自らの電話番号を公開し、相談に乗り続けている。社会状況を国のせいにする人が多いなか、彼は不満を言うのではなく別角度から問題に取り組む。自分のためではなく、人のために。
私にはやりたいことがある一方、その一歩がなかなか踏みだせずにいた。金銭面や失敗への不安が頭につきまとっていたからだ。しかし本書を読み終わると考えが変わってきた。何をしたいかではなく、なぜしたいのか。自分を深掘りしてみたら根本的な想いへ辿り着いた。結局のところお金ではなかった。やりたいことがカタチになるまで考え続けよう。生きているだけで希望だよ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレおもしろかった!
最初の河川敷のホームレスの話に引き込まれた。
途中方法論など頭に入ってこないところがあったけど、それでもずっと新鮮におもしろがりながら読めた。
メモ
・憲法25条、生存権とホームレスの矛盾
・本当の意味でのパブリックとは?アイディアの実現、共有
・態度を示す、交易をする
・何をしたいかではなく、何ができるかで社会に貢献する
・社会の疑問を持ち、それに答えを出し行動すること
・鬱期は審美眼の解像度が上がる期間
新しい知見を得た気がする
経済のあり方、生活や自分を見直すこと、考えを放棄しないこと、行動すること
本当にこの世界の矛盾、理不尽なこと、横暴さに絶望してたのだけど、私にできることから少しずつ変えていこう。
まずは自分の生活を見直して、これだけあれば足りる、足る分を得るための労働について考えたい。 -
Posted by ブクログ
浅草の公園で寝ていたら、財布とバッグが盗まれた。
男は無一文になった。
隅田川沿いのホームレスたちのコミュニティに入り込み、いつの間にか路上生活が性に合っていた。
都市に出かけて採集し、工夫して新しくものを作る。
コンロを手に入れて暖かい食事を作るようになり、バッテリーを手に入れて家電製品を動かす。
廃材を手に入れて家を作り、お金にするためにテレホンカードやアルミ缶を採集する。
隅田川には人が集まった。
ホームレスだけじゃなく、何か面白そうだと普通の人も立ち寄るようになっていた。
そんな隅田川に現れたコミュニティにも終わる時が来る。
男は最後に隅田川という自由から旅立ち、より大きな自由へと旅に出る。
これは実在する、あるホームレスの話だ。
クリエイティビティは最新技術の追求なのか。
現代人が忘れた、生活そのものの求道者を描く。 -
Posted by ブクログ
エッセーだと思って読み進めていたら、途中で世界がぐにゃりと曲がる。
どこまでがエッセーで、どこからが小説なのかの境界があいまいだ。
しかし、一歩立ち止まって考えてみると、エッセーと小説の境界を厳密に定義しようとするのは一義的な見方だ。
本作の筆者の主張は「認知症の徘徊老人には常人とは違った世界が見えているはずだ」というもの。
ならば、エッセーと小説の境界線は常人の見方に過ぎず、筆者にとってはエッセーも小説も共存可能な世界の見方なのではないか。
躁鬱病を公言する筆者には、また別の世界が見えているのだろう。
また、徘徊老人に対してスポットが当たる。
ベッドに縛りつけておくだけでよいのか、
老人施設に預けておけばよいのか。
もし、俺が年取ってジジイになって頭がぼけたとしても、一つ同じところに留まりたくはない。
そういった介護に対する純粋な疑問も筆者は提示している。
祖父の危篤で地元熊本に帰った恭平は、祖父が遺したミカン色のワーゲンに徘徊癖の曾祖母を乗せてドライブに行く。
辿り着いた先の丘から熊本の街を見下ろした曾祖母は一言、ヤマグチとつぶやいた。
かつて曾祖母が住んでいた山口を思い出したのだろうか。
恭平は、曾祖母が常人が見ている世界とは違い、彼女にとってはそこが思い出の山口だったのではと気が付く。
徘徊老人が行きたい場所へ連れていく。
「徘徊タクシー」は時と時間と場所を越えて、老人が目指す場所へとエスコートする。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ東京0円ハウス、独立国家のつくり方など、一見して何もない空間から、別の新しい空間を生み出し、その視点から新しい社会を築こうという作者の最新作である。
今作では、目に見える現実のみが唯一の世界なのか。その常識を疑う。
ぬいぐるみ王国のトヨちゃんの話を読みながら、忘れていた記憶がよみがえってきた。
中学生の頃まで、俺もトヨちゃんと同じくぬいぐるみと話すことができていたことを。
小学生の頃、札幌への家族旅行で何故かどうしても買ってほしいと駄々をこねた。
雪印パーラーのお土産の棚に並んでいた、フクロウのぬいぐるみ。ホースケと名付けた。俺のハンドルネームの由来だ。
そのうちフクロウのぬいぐるみは増え続け、大小50匹はいたと思う。
最初のホースケはホースケ村を開拓し、ホースケは友人や家族を呼び村にはフクロウが増えていった。
そんなホースケ村に時々招かれて俺はぬいぐるみを詰め込んだ押入れの中、無限に広がるホースケ村という空想の中で遊んでいた。
いつからだろう。現実しか見えなくなってきたのは。
世界には目に見える現実しかない。思考、空想を現実が抑え込む。
今日は休日、のんびりと小金井の江戸東京たてもの園を散歩してきた。
明治の建築物から昭和中期にかけての一軒家の中まで覗いてきた。
昔の家には無の空間を無限に広げる工夫がある。
ふすま、障子を開ければ、閉じられていた空間は必要なだけ広がる。
かつての江戸は火事ばかり。箪笥一つ担いで逃げ出したという。
無機質なコンクリートで囲われた空間、物で溢れかえる部屋。
合理性を追求した現代建築は人、物とともに思考を抑え込んできたように思う。
現実がある。しかし、現実しかないのだろうか。
子供の頃の空想は、全てが嘘幻だったのだろうか。