あらすじ
「現実」って何だろう? 私たちが知覚している世界と「現実」は、実はかなりズレている!? 「現実」ではノイズとしてカットされているかすかな五感のささやきに、異能の作家・坂口恭平が耳を澄ます。そこで浮かび上がってきたものとは? 驚きの(そしてどこか懐かしい)世界をありありと体験できる本。私たちは本当は、見えないものたち、触れることのできないものたちに包まれて生きているのだ。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
著者・坂口恭平さんの体験をもとに、「現実」と「思考」について考える本。難解な部分も、読みやすくて楽しめる部分もあるけど、色々なことを考えさせられた。「現実は一つ、思考は無限」と考えると面白いかもしれない。
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東京0円ハウス、独立国家のつくり方など、一見して何もない空間から、別の新しい空間を生み出し、その視点から新しい社会を築こうという作者の最新作である。
今作では、目に見える現実のみが唯一の世界なのか。その常識を疑う。
ぬいぐるみ王国のトヨちゃんの話を読みながら、忘れていた記憶がよみがえってきた。
中学生の頃まで、俺もトヨちゃんと同じくぬいぐるみと話すことができていたことを。
小学生の頃、札幌への家族旅行で何故かどうしても買ってほしいと駄々をこねた。
雪印パーラーのお土産の棚に並んでいた、フクロウのぬいぐるみ。ホースケと名付けた。俺のハンドルネームの由来だ。
そのうちフクロウのぬいぐるみは増え続け、大小50匹はいたと思う。
最初のホースケはホースケ村を開拓し、ホースケは友人や家族を呼び村にはフクロウが増えていった。
そんなホースケ村に時々招かれて俺はぬいぐるみを詰め込んだ押入れの中、無限に広がるホースケ村という空想の中で遊んでいた。
いつからだろう。現実しか見えなくなってきたのは。
世界には目に見える現実しかない。思考、空想を現実が抑え込む。
今日は休日、のんびりと小金井の江戸東京たてもの園を散歩してきた。
明治の建築物から昭和中期にかけての一軒家の中まで覗いてきた。
昔の家には無の空間を無限に広げる工夫がある。
ふすま、障子を開ければ、閉じられていた空間は必要なだけ広がる。
かつての江戸は火事ばかり。箪笥一つ担いで逃げ出したという。
無機質なコンクリートで囲われた空間、物で溢れかえる部屋。
合理性を追求した現代建築は人、物とともに思考を抑え込んできたように思う。
現実がある。しかし、現実しかないのだろうか。
子供の頃の空想は、全てが嘘幻だったのだろうか。
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初めて読んだ坂口恭平さんの本。言葉選びのセンスにたまげた。ただ、この人は天才なんだなと思った。自分はこの人の文章を受け入れられるときとそうでないときがあると感じた。この本を読んだあと一気にハマり数冊読んで、あまりの天才っぷりに疲弊した。けれど、面白い本なので皆さんも読んでみてください。
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現実は共通項であり全てではない。
個人が現実に囚われ過ぎると思考を停止(透明化)させてしまう。
思考は現実の中に既に存在しており個人の思考の可視化と伝播が現実を拡張させていくと言う
新たな視点と希望に気付かされた。
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1人1人(もしくは1匹1匹)が知覚する世界と、画一化された「現実」世界には大きな隔たりがあり、そのことを認識したうえで「現実脱出」は有効だということが、躁鬱持ちの著者によって独特な視点から説かれてた。頭掻き回された
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『僕たちは、簡単に知覚しうるものだけで構成された「現実」という名の立体空間を、無意識下で作り上げた。さらに集団を形成することで、「社会」と呼ばれる、言葉をもとに人間を管理し、抑制する空間も生み出した。
もちろんそれらは、個では生きることができない人間にとって欠かすことのできない装置である。普通や常識という概念や尺度も、馬鹿にはできない。それによって、円滑に社会が進むのは事実だ。現実という指針があるからこそ、危険を感じ、身を守ることができているのだろう。
しかし、・・・』
面白かった。
アンリ・ベクルソンが『時間と自由』で言ってることを、すごく日常的な言葉で簡単に表現してる感じかな。たぶん、こういうくくり方が良くないんだろうけど…。
「現実」の外に出ることはすごく大事。
それが分からない人の方が怖い…。
Posted by ブクログ
脱出したいと思って購入(笑)
が,この本は生に悩んでる人や躁鬱な人向けの本でありました.俺の場合金銭で解決できるからそういう点ではあまり役に立たないかな.
ただクリエイティブな面で気づかされることが多々あったので良かったです.
そしてこういう考えの人がいるってのも面白いと思ったのでした.
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○平方キロメートルという空間でも、その時によって広く感じたり、狭く感じたりする。
同じ一分でもその時によって、長く感じたり、短く感じたりする。
どうやら現実という一つではない世界で、我々が「現実さん」と付き合っていくには……。
坂口恭平さんの「現実脱出論」読み終わる。
現実というのは結局 人が生きるために作り出した仮想空間のツールで、それに囚われてしまっては本末転倒なんだね。
物事に当たる時に、赤ちゃんから年寄りまで、色々な年齢の自分ならどう思うか考えてアドバイスもらうって視点も面白かった。
Posted by ブクログ
渋谷NHK前あたりで時間を潰す必要があり、Googleマップに「近くの書店」と囁いたところ、いちばん近くにあったのが「SHIBUYA BOOKSELLERS」という書店。セレクトショップのような洒落た店構えのその店は、人文、アートなどに強く、今の僕の気分にぴったりの品揃えだった。(あまりに好みに合いすぎて、既読の本が多かったり、新しい分野との偶然の出会いが望めないほど)
気になっていた一冊を購入して近くのカフェで読む。
異才の建築家(?)坂口恭平の、エッセイとも日記ともつかない、「オレ」の生きる様を吐露したようなテキストであるが、いつものようにぐいぐいと引き込まれる。
文中にも出てくる2012年の青山ワタリウム美術館での個展で、彼を初めて見た。ぶらりとフロアに現れた彼はトークライブを始めた。(プログラムだったのかどうかは知らない)はじめは見知らぬ客にそっと話しかける、画廊での作家のように。しかし次第にその話し方は熱を帯びてきて、やがてはものすごいハイテンションで飛び跳ねるように作品と、自分の生き方を叫んでいた。
それは彼が躁鬱症であることを知る前だったのだが、おそらく「躁」の状態だったのだろう。(文中ではその時期は逆に「鬱」だったとあるが)
本書ではその「躁鬱」に、彼自身がどう向かい合っているかが大きな要素になっている。建築家とも芸術家とも作家とも言い切れない、不思議な存在の彼であるが、その目を離せない感じに、私のような凡人はつい惹かれてしまうのだろう。決して好きではないし、尊敬するわけでもないのだが、気になって仕方が無い。もしこの世の中が閉塞したものならば、突破口を開くのはこうした種類の人間なのかも知れないなぁ、という漠然とした予感がするのである。
彼が創造するものはわかりやすい「美」ではない。むしろ混沌としたカオスをごろんと投げ出して、世の中をすこし不安定にする。ノイズといってもいいかもしれない。だけれども、そこに人間の生命力とか、そういった強さを取り戻すヒントがあるような気がする。
ああ、岡本太郎がよく言っていたようなことに近いのかも知れない。原始の力。プリミティブな強さ。洗練されない、上手くないものの美しさ。そんな種類の人なんだろう、きっと。
Posted by ブクログ
現実を一面ではなく、多方面から見た著者の思考。当たり前と思う事も、少し考え方を変えてみると様々な発見がある。現実と非現実の狭間を著者なりに記した一冊。少し哲学的な趣も感じさせられるが、読みやすい印象。
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集団の現実と個人の現実、躁鬱を自分に搭載されている機械だと考える坂口さんの現実脱出論を読むと『徘徊タクシー』や『蠅』などの小説で書かれているフィリップ・K・ディック的な多層な、幾つかのレイヤーを行き来する物語がなぜ書けるのがわかった気がした。
Posted by ブクログ
誰かが突然「これから並行世界の話をしよう」といったら、あなたはどう思うだろうか。または「現実脱出の方法について、レクチャーしよう」といったら、頭がおかしいと思うだろうか。
人間が社会を形成するということは、相互扶助のシステムを作って物資の流通効率を上げ、種としての生存確率を高めるための必然的な選択だった。
けれど、いまではその「生きるための社会システム」そのものに絶望してドロップアウトし、果ては死を選ぶ人が爆発的に増えている。これはひとえに現実社会というやつが、そもそも人間が持っていた「もうひとつの世界」を侵食し、食い尽くしてしまったからなのだろう。
それぞれ生物の時間や空間の知覚は、絶対的な尺度では計ることができない。体験の質やタイミング、自身の状態によって時間は長くもなれば、同様に空間も延び縮みする(ように体験されうる)。
アインシュタインは物理法則としての相対性理論を打ち立てたけれど、心理的作用による空間/時間の相対性というものも確かに存在する。
しかし「現実」というやつは、僕たちを絶対的な尺度をもって囲い込み、逃げ場を奪う。常に浴びせかけられる同調圧力によって「ここでしか生きられない」と思い込まされ、限界を超えてもなお、じっと耐えることを強いられる。
でも、実は今いる場所だけがすべてではない、与えられた尺度だけがすべてではないことを感じられたなら……人はもっとうまく、豊かに生きていけるはずだ。
そこで坂口は、自分の「思考の巣」に帰って「創造」をすることを勧める。
現実と対置する「もうひとつの世界」を生み出す余技。これは人類がこれまで編んできた文化のことなのだろう。音楽、文学、演劇などのアートこそ、現代における生命維持装置になりうる。
ただしそれも、承認欲求の発露としてでない場合。つまり、創造という行為そのものに価値を見いだす場合に限られるだろうけれど。
生きるために現実の社会は必要だ。けれど一方で、自分を死ぬまで追い詰めてしまうことのないよう、もうひとつの世界/レイヤーを創造し、常に片足をそちらに置いておく。これは、坂口恭平の一貫したメッセージだ。
現世的な規範や価値基準だけがすべてではない。視点を変えれば、そうしたオーダーの恣意的な、破滅的な側面も見えてくる。そうして自分自身が創造し続けることによって、僕たちはまだ生きていくことができる。
……ビバ、妄想。でもバランスが大事。
うーん、坂口氏の幼少時代のエピソードにはどこか身に覚えがあって、なぜか追っかけずにはいられないのだよなぁ。
Posted by ブクログ
坂口さんは、双極性障害(躁うつ病)を患っているそうです。
本の中で、もっとも印象に残ったのは、
自分が、現実だと思っているものは、本当は、現実ではないかもしれない…
別の現実が、存在するかもしれない…
という箇所。
過去があるから、今がある、だから、今の現状に満足がいかなくても、それは自己責任。
そんな考え方は、つらいよね…。
皆、一生懸命やってきたじゃない、なのに、こんな現実、ありえないよね。
これは、夢にちがいない。
それでは、また。
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いやあ、SF小説を読んでいるかのような、ハリウッド映画を観ているかような、それこそ現実空間が歪むふしぎなスピード感を持った本だった
親族に躁鬱の人がいるのだけど、F1カーと中古車のくだりはああたしかにこんな感じだ見ていると、と思った。自殺したいと思う気持ちは、からだの誤作動なのだ、なるほどなあ。
それにしても奥様・フーさんの存在は大きい
過剰にならずにあるがままを認めること、寄り添うことって、簡単なことじゃないけど構えたらできない
しばし頭をぐるぐるしそうな一冊
これを現実に発行した、編集者という翻訳家の力もものすごいな
Posted by ブクログ
・狭い居酒屋だったのが、満席になるとより狭く感じるかとおもいきや、大空間に感じる。
といった空間が膨張したり、停滞したりする瞬間のほうが、正確に測った堆積や均等に流れているはずの時間よりも真実味を感じてしまう。
・4歳から98歳までの自分の98個の鍵盤のようにズラリと横一列に並べて歩いている。
55歳の自分が何をしているのかを想像することと、10歳の時の記憶は音色こそ違えど同じ色。
・人間を機会として捉えることは「人間的」には見えないかもしれない。しかし木の枝に擬態するナナフシを思えば、人間が機会に擬態することも「生物的」な行動であることがわかる。(鬱は脳の誤作動、と捉えること)
・ルドルフ・シュタイナー:蜜蜂が飛び回る姿を「思考が飛んでいる」
今までつながるはずのなかった者同士が、蜜蜂によって交配されていく。蜜蜂にはつなげている、という意識が全く無いように、思考も自由に言葉やイメージを組み合わせ、勝手に新しい世界と戯れ始める。
・ぼくにとって「ものがたり」とは、あらすじを持った作り話ではなく、感覚器官という扉の向にしっかりと存在している空間を、現実のもとにおびき寄せる行為のことを指している。
◎現実が集団にとって飲み実態のある空間であると、気づくことだ。個人にとっては仮想空間なのである。今僕達は、この現実を個人にとっても実態のある世界だと思い込んでいる。そして、思いつきや直感といった言葉で表現されるような事柄に関しては、勘違いや妄想といって排除してしまっている。
個人にとっては、自分自身の体の中に形成された自家製の「思考という巣」こそが実態のある空間であり、現実という空間は個人にとって「錯覚」にすぎない。
Posted by ブクログ
あるブログで薦められていたので、手に取る。
冒頭から引き込まれ、一気に読めた。論というほとカタくなく、むしろ著者独自の体験に根差した提案であり、エッセイ集という感触だった。また、『独立国家のつくりかた』(未読)の著者とは知らなかった。
文章が美麗。修辞が豊か。単なる麗句ではなくて、その表現である必然を感じる。
広義の創造行為が鍵かな、と。
Posted by ブクログ
「現実逃避」ではなく、「現実脱出」。似ているようでまったく異なる。
坂口氏は、一般的に言われる「現実」も、自分の周りにいくつかある仮想空間のうちの1つでしかないという。彼の言う「現実を脱出すること」=「思考」であり、「まずは、現実に自分の体を合わせるのではなく、自分自身の思考をちゃんと中心に置くことだ。現実という他者に合わせて生きるのではなく、自分が捉えている世界を第一に据えよう。」と主張する。
思考こそが、生きることそのもの。見えているものが世界のすべてではない。数年したら再読してみたい一冊。
Posted by ブクログ
前著「独立国家のつくりかた」が面白かったので楽しみにしていた。そこでいわれたレイヤーを掘り下げる本かと思ったが、しかし、どうも違う。うまく読めない。僕としては珍しく、一日数ページずつというスローペースで読んだ。
どこまで読んだかわからなくなって行ったり来たりする。ここは読んだよな、いやはじめてかもしれないな。既視感がある。デジャブを否定されて悲しむ著者に自分を重ねたりしてみる。
「しっかりと言語化されていない叫びを人々に投げかけたとしても、誰も耳を傾けないだろう。他社もまた自分だけの空間を持っているのだから。土足で入り込んではいけないのだ。現実さんともそのように接する必要がある。」
そうだ、これは僕も通り過ぎてきたことの言語化ではないか。既視感はすなわち、うまく言えなかったこと。
だが、読後は引き続き言語化出来ない自分の思考に気持ちわりー、頭いてー、という状態である。ビバ人世(なんて言葉でごまかすからいけないんだよね、わかってるよ)。