紫式部の「源氏物語」というと、私の中では勝手に、平安時代という、歌を嗜むような、どこか優雅で気品のある、なんだろう、大人の余裕というかね、そんな貴族達の上品なやり取りの中に、パッと花開くように御座す、光源氏の存在をイメージしていて、「すべての恋する人に贈る最高のラブストーリー」、いいじゃないですか。
と思ったら・・・何これ(笑)
源氏物語は、全五十四帖あり、巻一は「桐壺」から「若紫」の五帖で構成されてまして、もしかしたら、私のように勝手に高尚なイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんので(後々、高尚になるのかもしれないが)、せっかくのこの機会、色々と書いていきたいと思います。なんということはありません。瀬戸内寂聴さんの、そのあまりに素晴らしい訳のおかげで、まるで最近、発売された現代小説を読んでいるかのような新感覚は、最初こそ見慣れない単語に躓きますが、それも巻末の語句解釈で理解出来ますし、読めばきっと面白いと感じ、続きが気になること間違いなしの、平安時代の小説です。
「桐壺(きりつぼ)」
「帝」から、右大臣の娘「弘徽殿の女御」を始め、名だたる妃たちを差し置いて、悪目立ちするくらいの好意を受ける「桐壺の更衣」は、その嫉妬からか、今でいうイジメのような精神的苦痛を受けながらも(天皇の夫人の地位は、皇后、中宮、女御、更衣の順番)、二人の間に誕生したのが、後の文武両道で艶やかな美しさと気品をたたえながら、稀有な相を備えた「光源氏」であるが、周囲からの精神的苦痛が影響したのか、その後、桐壺の更衣は亡くなってしまい、その葬儀の場面に於ける、母君の「娘と同じ煙になって空へ上りかき消えてしまいたい」と泣きこがれる姿には、思わず同情してしまうようなやるせなさがあり、帝も悲しみに暮れるのは分かるとして、もう少し上手いこと出来なかったのかなとも思い、帝がこそこそするのもあれだとは思うが、結果、更衣が亡くなったのはそういうことでしょ、って考えると、その後のメソメソしている様子からも、まさにそれは、男が意中の異性に出会った時、その周りの景色が全く目に入らないくらい、異性だけの世界に没頭してしまう、それに良い悪いの判断は簡単に付けられないのかもしれないけれど、そんな幾つになっても持ち続ける、男のセンチメンタルさの哀愁を描いているようでもあって、それは帝の心境の一つであった、闇の中での逢瀬が、はっきり見た夢のそれより劣っていたという古歌とは反対に、この手に実際に触れたあの生きていた人には到底及ばなかったという思いにも、よく表れている気がして、そんな憎めきれない微妙な在り方に、帝も人間なんだといった、新鮮な体験をさせていただいたようで、紫式部のこの視点、凄いかもしれない。
ちなみにその後、光源氏は、右大臣への権力の偏りを防ぎたい、帝と左大臣の思惑により、その娘、「葵の上」と望まざる結婚をさせられてしまい(所謂、計略結婚?)、当時の貴族の結婚は、婿よりも花嫁の方が年上でリード役との事であるが、案の定、自尊心の高いツンとした冷たさに、それも叶わなかった光源氏は、当時12才だったそうで、可愛そうにと、ここではまだ同情していたが、このような興味深い政治的展開は以後、ほぼ出て来なくなり、この時点では、まあ特に珍しくない普通の話じゃないかと思っていたが、ここからです、衝撃的な展開は。
いよいよ、お待ちかねの光源氏劇場の始まりでございます。
「帚木(ははきぎ)」
ちなみに源氏物語は、後宮に仕えている女房が語る話という設定で書かれてまして(所謂、家政婦は見た的な?)、ここからは、そんな女房ならではの率直で辛辣な心境を上品に語っている点に、また生々しい面白さがあり、早速、帚木の始まりの文章から、これまでと違った雰囲気というか、嫌な予感が。
『光源氏、光源氏などともてはやされ、その名だけはいかにも仰々しく華やかですけれど、実はあれこれ、世間からそしりをお受けになるようなしくじりも、少なくはなかったようでした』
うん、しくじり?
『ただまれには、強いて苦労の種になるような恋を、ひたむきに思いつめられるという、生憎な癖がおありでした。その結果、不謹慎なお振る舞いも時たま、ないとは言えませんでした』
生憎な癖に、不謹慎なお振る舞いって(笑)
なんか「お」が付いていると、とても雅なことをやっているように感じられるけど、これって大丈夫?
物語は、源氏の君(光源氏)と、その友人「頭の中将」に、「左馬の頭」と「籐式部の丞」が加わって、恋バナを繰り広げる場面から始まるが、このシーンがとにかく長く(30ページ以上)、こういうのって、それぞれの中の理想の女性像の違いは明確なのに、単にそれを人に話したいだけなんだろうなと思いつつも、特に左馬の頭はよく喋るなと思い、「身を入れすぎるのも、家事にかまけきっているのも困りもの」に、贅沢な奴だなと感じたり、「話のわかってくれる妻とこそ、話し合って慰みたい」に至っては、そもそも話し合わないと話を分かってくれないだろとツッコミ所満載で、くどいけれど、なんか面白い。
その後、左馬の頭の昔の失敗談となるが、そこで印象的だったのが、その浮気癖にひどく嫉妬をやいた女が、彼との口論中、その指にがぶりと噛みついた事であり、この生々しさはおそらく理性的なものではなく、私には、本能的な部分から引き出された、その燃え盛る愛ゆえの情念的純粋さに思われ、その形は歪なのかもしれないが、それだけの行動に駆り立てるくらいの本気さに、とても惹かれるものを感じさせられて、思わず、居住まいを正してしまう。
ちなみに、このエピソード、喧嘩の後、男がわざと意地を張って距離を置いていた間に、女は悩み悲しんだあげく亡くなってしまったそうで(えっ!?)、その後はあっさりともう一人の女の所へ行ったが、別の男といちゃつきあうのを見て、腹を立てて、結局別れたという・・あーあ。
しかも、それを聞いた源氏の君は、
「どちらにしても、みっともなく、外聞の悪い身の上話だね」と笑っていて、後々のエピソードを知った後であれば、おそらくお前が言うなよと感じているところであり・・・実はこうした後々の展開に向けた伏線にも、紫式部の凄さがあるそうで、読み返すと、改めてその構成の妙も感じさせられると思います。
また、もう一つ印象的なエピソードとして、式部の丞が久しぶりに女を訪ねたとき、その女は風邪のため、にんにくを服用していて、「この悪臭が消えた頃、お越し下さいませ」と大声をはりあげる中、気を遣った式部の丞は、逃げ腰になりながらも歌を送って走り出したら、その背後から間髪いれず返歌を寄こしたことに、男たちは嘘だろうと笑っていたが、こういうのを男は素直に誉めませんよね。とても健気だと思うし、そもそも、そんな状況だったら声を出すのも嫌なはずなのに、ちゃんと返歌もその場で瞬時に考えて寄こしてくれる、その博識ぶりも素直に認めたくない、単なる負け惜しみですよ。
そして、長い恋バナもやっと終わり、久しぶりに左大臣邸を訪ねた源氏の君だったが、方違えの為に、偶然泊まることになった、紀伊の守の家で、彼の父の後妻「空蟬(うつせみ)」に目を付けてしまい、それはおそらく、彼の父と比較して、かなり年下で若いことと、中流の上の女に掘り出し物があると言っていた、左馬の頭の言葉を思い出したのではないかと思われるが、その夜、なんと源氏の君はいきなり、空蟬の寝間に侵入して、呆れはてた彼女に対して、「長年ずっとお慕いつづけてきたわたしの気持もお話しして知ってほしくて」と、しれっと嘘を付く、この根性凄いなと思っていたら、今度は
『わたしはあなたのいう女の身分がどうのこうのということさえ、まだよく知らないほど初心で、こんなことははじめての経験なのですよ。それをまるでありふれた浮気者扱いなさるのは、あんまりだと思います』
に、浮気にありふれたも何も無いのではとは思ったが、これは源氏の君にとって、倫理的問題はともかく、もし初めての恋であるのならば、その無自覚な自分本位の行動が、女性には却って辛いものになることも知らないのだろうし、その無邪気さにイケメンが合わさると、また妖しい魅力となるのかもしれないとは思いつつも、この人馬鹿だなという気持ちは止められず、その後の手紙のやり取りも無理だろうと悟った瞬間、おいおいと泣き伏すのには、ピュアさを通り越して怖いものがあったし、更には、空蟬の弟「小君」を呼び寄せて、彼に姉との手紙のやり取りをさせるといった、小賢しい一面も持っていて、なんだか私の中で勝手に抱いていた、光源氏とはまた違った魅力があるようで、要するに善悪で判断するというよりは、好き嫌いで判断していくような感じというか、これは小説だからこそ楽しめる、ひとつの人間の生き様なのかもしれない。
それにしても、空蟬の気持ちを考えると、何ともやり切れないものがありそうで、彼女の中では既にその地位が決定してしまっているからこそ悟ってしまった、彼の決して本気ではない、一夜限りの遊びに、彼女自身の女としてのプライドを傷つけられてしまい、せめて本気の恋ならばと胸を締め付けられるような言葉に出来ない思いは、はたして、どう静めればいいのかと考えると、何とも罪な男だと感じたが、彼女の物語はまだ続きがあるのです。
「空蟬」
前回、空蟬から、思いっきり嫌われに嫌われた源氏の君だったが、それでも諦めきれず、紀伊の守が留守にしているときを見計らった小君の計らいで、再度訪れるが、ここで彼の生憎な癖が発動してしまい、紀伊の守の妹を覗き見してしまう。
『こんなに油断した無防備な女の様子を覗き見したりなさることは、これまで経験なさらなかったことなので、女たちが何の警戒心もなく、すっかり自分に見られているのは気の毒とは思うものの、もっと長く見ていたいとお思いになります』
ああ、こんな背徳的な事ばかり覚えていって、彼の行く末は大丈夫なのだろうか。
とは書きつつも、彼だけがしているわけでもないのだろうと思うと、割と大らかな時代なのかな。
今の倫理観に照らし合わせるから、そう思うのかもしれないしって、今ならば確実に通報されるけどね。
そしてその夜、小君の斡旋で(この子、健気だな)、再び空蟬の寝間に侵入するが、なんと、そこで寝ていたのは、気配を察して逃げ出した空蟬ではなく、紀伊の守の妹こと、空蟬の継娘の「西の対の娘」であった。
が、何ともばつの悪い感じになっても、挫けないのが(あるいは馬鹿なのか)源氏の君であり、『感心できないいつもの浮気なお心のせい』で、なんと、そのままなさってしまう・・しかし、面白かったのは、その継娘の自然体で個性的な所作であった。
『処女であったわりには、初々しさに欠け、物馴れた様子で、うろたえるという風情もありません』
あははは。その固定観念に若さが見えて、やってることは非道いけど、もはや滑稽だよね。
だから、もっと女性のことを深く知ろうよ。
しかも、この後、変に継母の事まで気遣った挙げ句に吐いた台詞が、
「実はあなたが目当てだったのですよ」(こらっ!)
で、その立ち去り間際には、継母の薄衣を持ち出してしまうといった・・・もう頭痛くなってきた(笑)
結局、あなたは何がしたいの?
また、その後はバチが当たったかのように、年寄りの女房にバレそうになったり、小君には、
「お前はやはり子供で役に立たないね」(こらっ!)
と八つ当たりをしたりと、ここまで来ると、彼自身の社会学習とも思えてくるような物語だが、最後には、空蟬のその名前に因んだ、彼女の切ない胸の内を知ることが出来て、見事な帖締めとなっております。
「夕顔(ゆうがお)」
六条あたりに住む恋人のところに、ひそかにお通いになられている(えっ!?)、源氏の君であったが、この帖で一つのポイントとなりそうなのが、尼君(大弐の乳母)との死別であり、「桐壺」での更衣の死もそうだったが、もしかしたら彼の浮気や留まることを知らない数々の恋は、幼い頃、充分に貰うことの出来なかった愛の枯渇さの裏返しなのではないかと思えてきて、実は彼は彼なりに苦しんでいたのかなと。だからといって、不謹慎なお振る舞いをしてもいいとは思いませんがね(笑)
さて、そんな源氏の君ですが、ついに平凡な身分の女性にまで興味を持つことになり(これで、何股かって…数えたくない)、その女性「夕顔」は、言いようもなく素直でおっとりしていて、ひたすら稚じみた初々しさと無邪気さを持っており、まるで、前回の継娘での無念を晴らすが如くといった心境の中で、紀伊の守の父「伊予の介」が上洛されて、継娘は適当な人と結婚させて、妻を連れて伊予に下るつもりであることを知り、内心慌てふためく源氏の君に、「ざまあ」と思いながらも、空蟬の心境はどうなんだろうと気になってしまう。
そんな心境の筈なのに、彼は、久々に六条と一夜を共にし、しかもその翌朝、何故か女房に手を出し、歌を送ったが、冷静に返歌で断られてしまい、何をしてるんだか・・・ここまで来ると一種の病気か。
そんな不安定な状態の中での、源氏の君と夕顔の逢瀬は、彼女がどうしても素姓を明かさない事から、彼もそれに則り、最初は覆面をしながらの逢瀬だったが、私が印象的だったのは、次第に深い仲へとなっていき、初めて彼が覆面を外した時の歌に対する、彼女の返歌であり、そこには、
『今近くで見ると
それほどでもないあれは
たそがれ時の見まちがい』
とかすかな声で言う、洒落っ気の効いた面白さがあるところに、却って僅かに心を許した彼女の思いの奥ゆかしさを覗えたような気がして、その後も名前だけは絶対に明かさなかった、彼女の真意と照らし合わせると、あまり手がかりを得ることの叶わなかった、彼女の生きていたという、その時間の存在を知ることが出来た嬉しさと共に、上記した幼い頃に貰えなかった愛情と、その名前を明かさないこと以外は、素直に応じていた彼女の姿とを、つい重ね合わせてしまう。
そして、彼女との恋を経験した源氏の君にとって、これまでと異なる点は、たとえ、それが短い期間だったのだとしても、そこに於ける、その無様な姿も一切省みずに(馬にも乗れない落胆ぶり)、一人の女性を思い続けた真摯さのようなものが、初めて見えたのではないかということであり、これまでのどこか一方的なそれとは違った、そこで得た彼女からの愛は、彼をやっと前に向かわせ大人への階段を昇り始めさせてくれるような、そんな期待感をついつい抱かせてしまうものがあった気がする。本当にほんの少しだけど。
その影響か、その後の、源氏の君と空蟬との手紙のやり取りには、どこかしみじみとした哀愁を感じさせられて、結局、空蟬の心に宿したものの緩やかな変化には、源氏の君の魅力が、少なからずともあったことは確かなのかなと思わせるものがあり、この辺りの微妙な女心の心理描写に、女性の懐の深さと奥ゆかしさを垣間見るようでとても切ないながら、最後のどこかこざっぱりとした、醒めた締め方には、思わぬ本音が出てしまった的な生々しさを、ユーモラスに伝えており、こういう書き方、狙ってやってるんだろうなと思うと、やはり紫式部は凄い。
「若紫(わかむらさき)」
病気を治すために、聖の岩屋へと出かける、源氏の君一行は、そこでもやはり、意外な掘り出しものの美女を見つけだすが、彼女は「幼い姫」で10歳くらいとのことで・・待った待った、これだけは駄目だ。冷静に考えろって。
しかし、彼女は、更衣の生き写しと言われるくらい、帝にとっても源氏の君にとっても魅力的な、「藤壺の宮」の姪にあたり(実は藤壺の宮とも色々あるが、ここでは割愛)、その美貌は、宮に帰ってきてからも源氏の君を未練たらたらにさせる程の効果があり、幼い姫の祖母「尼君」のお見舞いに於いても、「前世からの約束事と思われてなりません」や、
「あの可愛らしいお方のお声をせめて一声でも」と、その必死すぎるアピールに徒ならぬものを感じ、更には、彼女の家を尋ねて直談判して、それでも駄目ならばと、ついに・・・ここでは書けません。
取りあえず、一線を越えてはいないのかもしれないが、現世では間違いなく捕まります。
また、ふと油断すると、彼の身に纏う聡明さと無邪気さが、その狂気ぶりを消しているように思われるけれど、よくよく考えてみると、これは怖い。
しかし、彼にとっては、やはり藤壺の宮との事があったから、尚更、このような行動に走らせたのかと思うと、既に戻れないところまで来てしまっている、そんな哀しみもありそうで・・・というか、なんだか今になって、とてもドロドロしたものが渦巻いているような世界に来てしまった感に、今後、彼はどんな人生を歩んでいくことになるのか、ますます気になってしまい、少なくとも、この巻が、彼の若さ故の過ちだったのだと、後から振り返ることが出来るような展開になることを祈りたいと思う。
巻末の瀬戸内寂聴さんの「源氏のしおり」が、また、源氏物語初心者の私には、興味深い事ばかりだったので、かなりの長文になってしまったのですが、もう少し書かせて下さい。
約千年前、平安時代に書かれた「源氏物語」は、子持ちの一寡婦、「紫式部」によるものと言われており、彼女のパーソナリティは、文学少女であり、美貌ではなく小生意気な感じ。
父ほどの年の藤原宣孝と結婚したが、女の子「賢子」の誕生後、病死し、その結婚生活はわずか三年余りで、その後、彼女は誰も寄せつけず、物語を書くことで心の空虚を満たしていたとか。
そして、政治的策略の一環に於いて、藤原道長という何よりも強力なパトロンを持ったことで、心おきなく執筆できた、彼女の最高の読者は、「一条天皇」と道長の娘「中宮彰子」で、そんな至高の国家君主と、政治権力者に支えられているという自信と誇りが彼女の情熱の根源にあったとされています。
また、当時は印刷術はなく、物語は全部手写しであり(すごい)、当時の鑑賞法は声に出して読むのを聞くのが常だったそうで、それが口コミで伝わり、評判を高めていったそうです。
更に興味深いのは、当時から存在していたらしい、週刊誌や月刊誌の連載小説の形をとっていて、読者の反響や希望を参考にしながら、執筆したそうで、例えば、「帚木」を読まれた反響次第で、それならば空蟬のことをもっと書いてみようかとか、次はこんな女性を登場させようか、といった、紫式部の嬉しい悩みや葛藤まで頭に思い描けるような、そんな楽しさを教えてくれた瀬戸内寂聴さんの、この古典に懸けるその情熱の凄さには、ただただ圧倒されて、それは源氏の君に、あれだけの行いをさせておいても、尚、感じさせられる、人間の愛しさや可笑しみに切なさといった、ひとまとめに出来ないような、深い存在であることを、品のある粋で美しい情景を柔らかく浮かばせてくれる文章表現によって教えてくれた事に加え、そこから日本語の素晴らしさを改めて実感させられた事で、日本人としての喜びも伴わせてくれて、改めて、本書に出会えた嬉しさに、感謝の気持ちでいっぱいです。
ここまで読んで下さった方々、
ありがとうございます。
まさか、こんな長文になるとは、
私自身思っておりませんでした。
そして、本書の存在を教えてくれた、
Macomi55さん、ありがとうございます。