瀬戸内寂聴のレビュー一覧
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2017年刊。もとは「群像」連載(2016.4~17.7)。95歳の時の作品。オビには「長篇小説」とある。みな実名で登場、どう読んでもフィクショナルな箇所などないような気もするのだが。
瀬戸内寂聴(1922-2021)。長年のライバル、悪友・戦友でもあった河野多恵子(1926-2015)、大庭みな子(1930-2007)をめぐる回想とレクイエム。いろんな人たちが脇役として登場する。もちろん、ゴシップも山のように出てきて、おとなしくは済まない。
読みどころは大庭みな子。なぜ寂聴が彼女を激しくライバルとみなすのか。寂聴がデビューしたての頃に書いた作品「花芯」は、卑しいポルノグラフィーと酷評された。その10年後彗星のように現れた大庭の作品は「ポルノグラフィーの絶品」という評。なんでこうも扱われ方が違うのか。最後は、この最愛のライバルを喪う悲しみも書いている。夫に尽くされて亡くなった大庭に嫉妬もしている。
意外な登場人物は、ノーベル物理学賞の江崎玲於奈。京都にいた若い頃、江崎の母親のダンス教室に通っていた。息子の玲於奈が現れると、娘たちはキャー。後年、その玲於奈と、共通の友人大庭みな子の話をする。なお、江崎玲於奈先生はご健在。いま101歳か。 -
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習慣になった不倫は断ち切ることが難しい。
という言葉に度肝を抜かれた。
不倫が習慣だと? 私たちが普段特に何も考えず、ただ体に染み付いたルーティンのように行っているもの。例えば歯磨き、靴を履く、ご飯を食べる、スマホを触る。
そんな、とくべつ頭で何も考えなくても自然にできるような習慣化したものの1つに、不倫だとは。
瀬戸内寂聴はアッパレです。
感情の言語化が非常に巧みだな。
そして、本の中で妻子持ちの慎吾と付き合いながら、同じく同時進行で関係を持っている涼太から
「僕はあなたにとってどんな存在か?」
と問われたとき、
主人公の言った
「憐憫よ」
という返しにも驚愕した。「P77」
その時は、へぇ〜憐れみ、可哀想っていう自惚れのような気持ちで付き合っているんだなぁと斜に構えて解釈してしまったのだが、
改めて考えると、自分にもそんな憐れみの気持ちで付き合っている存在がいなくも、ない、な。
始めは愛があり、好きなんだけど、本命に気持ちが傾くにつれ2人へ注ぐ愛情は等しくなくなっていく訳で、いつの間にか平行だった天秤はどちらかへ大きく傾き、軽さに上へ上がった方への扱いがぞんざいになってしまう。
インスタントでキープのような愛人。
それに比べて、肉体関係を持たなくとも、ただ2人でいるだけで幸せを感じる。浄福という。それが不倫相手だとしても。いや、不倫相手だからこそなのかな。
2人でいる時間が8年も続けば、それは習慣となるだろう。十何年と毎日行ってきた食後の歯磨きを、今日から止めなさいと言われたら嫌だし違和感感じまくるもの。
それが恋愛相手ならより一層、断ち切るのは容易ではないのだろう。
そして、この物語が瀬戸内寂聴の経験に基づいた私小説だということだから、更にリアリティは増す。人生は経験だよ、と身に染みて感じる。
不倫したことないのに、あたかも自分がしているように思えてしまうから、文章力はさすがだと感じた。
印象的な文章↓
P39 愛は抽象的な聖心の貴族であり、肉欲はその前では無様な道化にすぎなかった。
P117 歳月に綯いからまれた習慣は、裁ち切る努力をするよりも、そのまま巻き込まれていく方が、はるかに安易で楽なのだ。心も安堵の倦怠感になかば満たされかけていることに気づいてぎょっとした。
↓慎吾と別れる決断をする主人公のシーン
P164 別れという土壇場にのぞんでも、知子は新語に切りつける刃があるのなら、それで時分を傷つける方がやさしかった。
(好きな相手、愛することが習慣化した相手を傷つけるなんてできないもの。)
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ネタバレ実は今まで寂聴さんの本は読んだことがなかった。でも、『携帯小説』を少しだけ読んだことがある。瀬戸内寂聴さんが名前を隠して投稿したと話題の作品を読んでみた。
すごい……と思った。
他のケータイ小説と変わりのない時代の物語が忠実に書かれている。高校生が書いているものと思っても不思議ではないくらいのクオリティのものが仕上がっていた。
バカにしているわけではなくて、ちゃんと流行が取り入れられていてその時代の言葉も散りばめられていて、古臭いものが一切消えている事に感動してまうくらいの作品だった。
それでいて、文章は携帯小説にしては固いような気もした。私はその硬さも好きだった。
ただ『ケータイ小説』が好きではなかったため、途中で挫折した。
私が当時知っていた寂聴さんの事と言えば、尼になってる人、小説を書いているようだというぐらいしかなかった。
ケータイ小説の最初しか寂聴さんの小説を読んだことがない。
私がこの『花芯』を読もうと思ったのは、それが『性的だと話題になった作品』だというからだった。その部分に興味を持って、読んでみることにした。
やっぱり『すごい』しかない。ケータイ小説が軽い文体だったので、そのような感じなのかと思えば、全く違って古くて硬い。それでいて、女性の部分の表現が柔らかい。女性の視線があちこちに紛れ込んでいて、ドキッとする。
・いろ
るいという五目(踊、長唄など)の師匠と銀次郎の恋物語。銀次郎18、るい49という年の差から別れて、銀次郎は結婚し、るいは死を迎える。銀次郎もいつの間にかいなくなり、死の連絡が来る。
短くて読みやすい。江戸という馴染みのない設定なので、よくわからない部分もあるけど全体的にはしんなりとしていて嫌いではない。
『きゃしゃなるいの体は、うす青いらんぷの灯りの中では、人魚のような妖しい白さに濡れ、底のない泉のようにゆたかにあふれ続けていた。』25p
性行為中の描写がこれ。すごくしっとりしている。
・ざくろ
亮吉とナミの恋物語。どちらも別の伴侶との間に子供がいる。亮吉は子供が欲しいと言い、ナミはいらないというが……。
『皮を弾いてのびてゆく、白い粉をふいた若竹のようなすがすがしい少女の肌の弾力が、未知の触感として、ひどく私の好奇心をそそってくるのでした』53p
亮吉の娘に生理が来たと聞いて、ナミも自分の娘がそんな年ごろかもしれないと想像しつつ他の少女を眺めているシーン。すこし異常な感覚かもと思うし、これ男性の視線だと危険になる。でも、女性もそんな目で少女を眺める瞬間があるのは分かるような気がする。世間的にはアウトだけど。
子どもが欲しい云々は、正直よくわからない。
・女子大生・曲愛玲
中国人の曲愛玲(チュイアイリン)とみねの恋愛模様?
女性同士の恋愛かと思いきや、愛玲には男がいて妊娠しているといい……。
正直、この物語はわからない。時代背景も複雑な感じがするのに、人間関係も複雑だった。
・聖衣
電車の中で二人のシスターに出会いながら、けい子は過去を考える。
「性の喜びは、けい子にとって、いつまでたっても、あの幅広い、とらえがたい風に似たオルガンの音のようなものであった。男がじぶんの上でうごめき、嘆きを忘れ、恍惚と虚脱するのを感じる時、けい子はじぶんが、まんまんとふくれ上がった、ゆたかな海になった想いがする。」108p
ひっそり言葉が隠されてるのだろうかと思いながら読んでしまった。でも、すごく素敵な心理描写だなと思う。
物語のラストは男に「私とだけじゃなかったんだろう」と言われて子供を下ろして、男が死んでいてくれたらと願う……。過去はドロドロだけど、電車の中ではシスターが微笑むというほのぼのシーンで終わってる。ひっそりとシスターでも『性的なものがある』とほのめかしているのも、どんな意味なのかを考えてしまいそうになる。
・花芯
園子の物語。雨宮と結婚し、越智と浮気する。その後、雨宮とは離婚し園子は娼婦になる。
物語は好みではないし、娼婦になるまでの過程も共感できる点は少ないのだけど、細部は確かにと思うものが多々散りばめられている。
『私の処女なんて、全く偶然に、結婚まで守られたにすぎない。』147p
『女というものは、自分の目でさえ遂に確かめることのできない、小さな薄い一枚の膜のため、死ぬまでの貞操を約束させられねばならないのだ。』147p
『臨月近くには、お臍まで飛び出してくる醜悪な我身の裸を、真正面から真横から鏡に映したことのある女なら、じぶんが女に生まれたのを呪いたくなるだろう』151p
『死というものを、私は、セックスの極におとずれる、あの精神の断絶の実感でしか想像することができないのだ。』249p
女や身体への呪いがこれでもかと書かれてるのはすごいなと思う。ただ性に奔放なわけではなくて、出産後に性の喜びを知ったというのもあり得そうな話だとは思う。(すべての女性がそうなるわけではないし、大半の女性は出産後の性行為は苦痛でしかない。ホルモン的には出産後は性欲が抑えられる)
女性とはこうだと言いたいわけでもないし、人によっては子どもを置いていくなんてありえないのだろうけど。(この短編集の女性キャラたちは子どもに対して淡白すぎる気はする)
母子神話を信じたいわけではないけど、そう簡単でもなさそうな……でも短編だからその辺りがあっさり見えてしまうだけなのかと考えてしまう。
一冊読んで満足したので、寂聴さんの本はもういいかなと思った。 -
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100歳いつまで書いていたいの書評。
この本は、瀬戸内寂聴さんの小説家としての論じた本。
私にこの本に期待したのは、執筆のためのモチベーションを上げること。
読んでみると、執筆に対してものすごいエネルギーを感じた。
99歳で亡くなられているが、直前の98歳までバリバリ執筆しており、原稿用紙も10,000枚注文したと言うエピソードがある。
ただただ感服。
読んで痛感したのは、本を書く事は実は才能だと言うこと。
瀬戸内さん以外にも作家さんが出ている。
共通している点が、本を書く事は才能であることが書かれていた。
つまり、選ばれた天才にしか本を書けないということ。
でも私たち凡人も本を書きたい。
そのためにどうするかと言うと、そのヒントはあって、それは読書することだ。
瀬戸内さんも悩みを解決するために、読書は重要と話している。
後は本を書くことに関して、快楽を快楽を感じることだろう。
この本で得られた事は、書くことへの強い快楽なのだろう。
それは決してノウハウでできるものではないことがわかった。
この本をまとめると「好きこそ物の上手なれ」になる。
良本 -
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小説家の瀬戸内晴美さんを知ったのは十代の頃。
テレビで出家するときの得度式を見たとき。
瀬戸内寂聴さんの本は、かなり読んできた。
美容室での雑誌に載っていると、必ず読んだ。
我が子を置いて、不倫にはしったり、
つぶれそうなお寺を私財をなげうって建て直したり、
国会の前で座り込みをしたり、
とんでもない波乱万丈の生き様だったと思う。
だからこそ、人の悩みや辛さに寄り添えうことができる。
「無常」
平凡な人生は決してない。
どんな人にも。
でも、「笑って生きる」ことは、少しはできるが、
「笑って生ききる」など、
並大抵のことでは出来ないと思う。
寂聴さんならでは。
戦争中の苦労した話や、晩年、娘さんが家族を連れて会いに来てくれた話は、とても胸が熱くなった。
思い残すことはもうないと思う。
あちらでの、法話、行ったときに、聞けたらいいな~ -
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「浮舟(うきふね)」
巻九の最後の「薫」の行動に驚かされて、ちょっと興奮した私が恥ずかしくなるくらい、当の本人は落ち着き払っていて、ここに来てようやく余裕が出て来たのかと思いきや、ここから更に衝撃的な展開へと次第に向かっていく、大変密度の濃い帖となっており、ここでの薫と「匂宮」のお互いに何かと張り合おうとする様に、現代的恋愛ドラマが帰ってきたような気配を見せておいて、実は・・・といった、その計算された巧妙な展開に、ページを繰る手が止まらず夢中で読み耽ったが、ただただ驚くばかりで、誰もが、その本音と建て前を使い分ける見苦しさの中、それに耐えられない者もいて、ここでのタイトルにも表れているように、
『橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ』
といった、とてもドラマティックな場面にも関わらず、このような不安を抱いていた彼女の精神状態は、次第に、ある方向へと傾いていく中で、右近と侍従の話にも出てくる、『色恋の方面のことで、思い悩まれるのは、決してよくない。人それぞれの御身分に応じて、何か困ったことが起こる』も、それを匂わすようでありながら、それは時に、死ぬよりも恥ずかしいこともあるのだという。
最初は、そんな事ってあるのだろうかと思ったが、それは、後の彼女の葛藤に於ける世間知らずさも災いしたことにより、彼女の中では、『死ぬことよりも、人の笑いものになって落ちぶれ流離う』ことの方が、辛いのだと痛感しており、当時の自殺の概念は、親を残して先立つ者として、とても罪深いものとされていたにも関わらず、そう考えてしまったのは、今の時代に生きる私には、理解に苦しむ部分も確かにあったのだと思う。
しかしである。だからといって、その事態の全てに、非があったのが彼女だけとはどうしても思えず、そこには、おそらく浮気の是非や、道徳的観念といった議論もあるのかもしれないが、それでも完璧な存在ではない人間同士が築き上げた、その過程と結果、そして未来への思いに対する直向きさが、仮に、そうした考えに辿り着いたとしても、それだって、おそらく適当に考えていた訳ではなく、限りなく真剣に何度も何度もじれったくなるくらい、繰り返し思い悩んでいた結果であるのならば、何故、罪深いとか情けないとか言う前に、もっと、その人自身の立場に立って、思ってあげられる人がいなかったのか。皆、他人の事、気遣っているようでいて、本音は自分が大事な人ばかりなのに、『この世は全て虚しいと悟る』ことだなんて、笑わせんじゃないよ。結局、全部彼女に、自分の都合の良い未来を押し付けてるだけではないか、と私は思い、その終盤の彼女の歌には、思わず目頭が熱くなってしまい・・・こんなのって無いよ。
『のちにまたあひ見むことを思はなむ
この世の夢に心まどはで』
『鐘の音の絶ゆる響きに音をそへて
わが世つきぬと君に伝へよ』
「蜻蛉(かげろう)」
ここでの男二人の前半と後半の矛盾した行動の様は、人間らしいといえばそうなのかもしれないが、それでも、矛盾さの質が違うというか・・・自分は他の男とはまた違うものを持ち続けるんだとか、そうしたポリシーや個性すら全く感じられない、この真っ黒な精神世界が当たり前にそこにある事の恐怖たるや、生々し過ぎて凄いよね。タイトルは、それに反発したかった紫式部の皮肉なのか? 少なくとも、彼はそんな世界に於いて異質な存在だと思っていたけど。
「手習(てならい)」
この帖が、また驚きの展開で、最初あの場面を読んだとき、思わず声が出そうになってしまい、よくこんな展開を考え付くなと、紫式部のその物語の構成の素晴らしさに感心しきりなのだが、また色々と悩みの種を増やそうとする状況で、「果たしてどう向き合うのか?」がテーマなのかなと感じられたことと、どんな時代に於いても、やはりいろんな人がいていいんだよということを、改めて教えてくれた、それがいちばん私は嬉しかったかな。辛さや切なさもあるけれど、とても好きな帖。
終日吹いている風の音に
『道理で涙もとまらない』わけだ。
「夢浮橋(ゆめのうきはし)」
最終帖。正直、私にとって結末は、とても意外であった。が、それはあくまで彼に対して、ひとつ思うところがあったからであり、それが違った事に気付いた時点で、これで良かったのだと、しみじみと感慨に浸ることが出来たような気がした。
また、タイトルには、ある意味、色々な皮肉が込められているようにも思われ、特に彼にとっては、『浮(浮舟)』も『橋(橋姫=大君)』も・・・といった印象だろうし、それとは対照的に、○○にとっては、あの酷く辛かった現実は・・・といった印象に様変わりしたようにも思われて、その未来を想像してみると、ようやくここに来て、初めて清々しい風が通り抜けてゆく快晴の空といった(ちょっとの雲は残っている気もするが、それでも…ね)、後味の良さを実感させられたのであった。
以上で、源氏物語は完結しましたが、「源氏のしおり」で瀬戸内寂聴さんが書かれていた、『紫式部は源氏の○までを道長の注文によって書かされ、それ以後は、自分の為に書いた』に同感の思いがし、それは、私が読み始めた当初、光源氏の、その常人離れした好色ぶりだけが物語の主旨であるかのように着目していたのが、実は違っていたことを、この巻でようやく実感したように(そこには、シニカルな笑い以上に、とてもシリアスな彼女自身の思いが宿っていたのではないか)、真の主役は源氏では無かったんだということを悟り、それは、千年以上も前の当時から紫式部が提唱していた、世の中は決して男性優位では無く、女性には女性それぞれの生き方が必ずあるはずだという、そうしたテーマを秘かに模索していたのではないかと、この巻を読み終えた時には確信し、そこには、とても堂々としながらも、軽やかに皮肉も交えながら、やはりほくそ笑んでいる紫式部の姿を(それとも、あっかんべーだろうか)私は抱き、世間では彼女の印象を面白可笑しく綴った文献もあるようですが、そこについては、とても真摯でチャーミングな方だなと感じました。
それにしても、さすがに全十巻は長かったなー。所謂、日本の古典と呼ばれるものを読んだのも初めてでしたし、途中の冗長さに挫けそうになった時もありましたが、そこからまた、紫式部の素晴らしき人間臭さを醸し出した物語の面白さに、完読することが出来て、今はとても達成感と満足感でいっぱいです。
そして、本書の面白さ、素晴らしさを教えてくれたMacomi55さん、ありがとうございます。
「もちろん最後まで読まなくちゃ!」に、励まされて、ここまで来ることが出来ました。しかも、私の想像していた以上に、その物語に垣間見えた人間の奥深さといったら。小説家というのは、人を客観的に見ながら、自分の未来を重ね合わせることも出来るのだなと、感動いたしました。 -
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「若菜(わかな)」上、下
いや驚きました。もしかして、このままずっと、同じようなダラダラした感じでいくのかと思いきや、ここにきて、こんなザックリと切り捨てるような展開を用意しているとは、民俗学者の折口信夫が『源氏は若菜から読めばいい』というのも肯けるくらいの(実際には登場人物の心理描写の推移が分からないので、やはり最初から読むべきだとは思うが)、その波瀾の展開には、紫式部、恐るべしと言わざるを得ない。
いくつかポイントはあると思うが、まずは、なんといっても「紫の上」であり、彼女ほど、いつまで経っても、真の安らぎを得ることの出来ない姫君もいないのではと思える、この苦悩の連続は何なんでしょうね。実質的には源氏から最も愛されているはずなのに、本人には全く実感として湧いてこない、その虚しさこそが、まさしく彼女の悲劇であり、しかもここに来て、彼女に跡継ぎの子がいないことと、「明石の女御」の台頭による、「明石の君」の存在感の増す様子に、引け目を感じてしまったことも加わることで憂鬱な日々を送るのを、源氏は見ているはずなのに、それに対して何かするわけでもなく、他の姫君よりも素晴らしいと言うばかり。本当に誰よりも愛おしいと思っているのなら、何か気の利いた行動でもしてみろよと、思いますけどね。口ばかりで行動に起こさない結果が、後の、あれに繋がったと言っても、決して過言では無いと思う。
そして、それとも関係の深い出来事が、よもやの彼女の再登場であり、もう出て来ないと思っていただけに、これが最も怖かったかな。はっきり言って、こんな事が起こると、全ての一挙手一投足が気になってしまう程の、安心して生活出来ないレベルの話だけど、でも、自業自得だよねという感じで、本人が一番良く自覚していることでしょう。
それと、もう一つ忘れられないのが、とある男の狂気的な恋模様であり、何より私がはっとさせられたのは、こうした男、現実にもいるよと思わせる、その生々しい描写の過程であり、まるで紫式部が、この男の心の中を実際に覗き見たかのような、人間の純情さ故の怖さが存分に発揮されているのが、何より凄く、ちょっとだけ書くと、この男、最初は自分の思いだけをつらつらと話し続けるが、相手にとっては、何の前触れもなく、いきなり現れて、意味不明な事を言っているのだから、唯々呆然と怖がっているのにも全く気付かない。そりゃそうだ、自分がどれだけ好きであるかを言うことしか、頭に入っていないのだから。そして帰るときには、何かひと言仰ってくれと頼んだことに対して、無反応にされると、「もうわたしみたいなのは死んだ方がいいですね」と、まさかの逆ギレで、彼女を抱き上げたまま部屋を出て、ちょっと怖い怖い、いったい何する気だと思ってしまう、こんな描写を平安時代にしているんですよ。紫式部、恐るべし。というか、これは貴族達の恋愛方法を、暗喩的に皮肉っているのだろうか? 私としては、彼の純情さもよく分かるんだけど、でも、相手の気持ちも考えられれば、もっと良かったのにとも思うし(まさに恋は盲目)、それは相手にしても、ああ私のこと好きだから、こんな思い切ったことしてるんだなといったことに気付かなかった悲劇もあったのだと思うが、そもそも、そんな狂気性を持った要因の一つに、姫君の姿自体を表に見せない当時の習わしもあったような気がしてならない。あまりに見ることの叶わないものは、どうしても見たくなるのが、男の性のような気もするし。
しかし、そんな男に降りかかった出来事が、また何ともやるせなくて、そこには、他人の振り見てなんとやらで、ようやく過去のあの忌まわしい出来事を、あるまじきことだと思い知った彼の行動がまた・・・この巻は怖いことばかりだけど、これも凄まじく、ある意味、一種のパワハラかと思ってしまう、その描写は、実際の当事者の感情が分からないだけに、余計に怖く感じられて空恐ろしいものがあった。
こんな展開に、まるで物語の世界が様変わりしたような印象は受けたが、私にとって意外だったのは、源氏に抱く私自身の気持ちであり、彼は自業自得を思わせるようなことを、本当にたくさんしてきたのだけれど、それでもここまで長く読んでくると、そんな彼にも人間らしさというか、もうあんたのことなんか知らない、どうとでもなれといった気持ちになれないものもあるというか、何だろう、これだけ長い歩みで読んでくると、一応、彼は彼で教訓的な苦い思いもしてきたし、この先、彼の身にどんなことが起ころうとも、それはそれで仕方ないよねと思いつつ、それも彼の人生なんだなとも思えるというか、人としての魅力はあるなと感じたし、それは、この巻で初めて私が共感した、この一節、『人の誉めない冬の夜の月を、源氏の院は特にお好みになるという変わった御趣味』にも感じさせられて、冬の月の何が悪いんだといった思いに、彼に対する印象が変わったのも、きっとあるのだと思い、やはり、人間は色々変わっていても人間なんだといったことを、改めて実感させてくれたようで、私は嬉しかった。
そして最後に、瀬戸内寂聴さんが書いていた、『全篇に漂う、暗さと重さが~』に反抗したくて、私にとって一服の清涼剤となったのが、一夜限りのスペシャルユニット、女楽(おんながく)のスペシャルライブであり、もうメンバーが豪華で、明石の君(琵琶)、紫の上(和琴)、明石の女御(箏のお琴)、女三の宮(いつもお稽古に使う琴)による合奏に、「夕霧の大将」が拍子をとって唱歌(そうが)で加わり、源氏もときどき扇を鳴らして、息子と共に歌に加わる、素晴らしくも温かいものとなり、私の推しは、もちろん紫の上で、その想い出深い楽しさは本文に於いても、『言いようもないほど親しみのある、味わい深い夜の音楽の宴となった』と締められており、この時ばかりは、皆、楽しそうで幸せそうな印象を抱いたのが、たとえ一瞬のひと時なんだとしても、私は決して忘れないと思う。 -
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下巻に入ると白河上皇による専制政治が始まり、堀川、鳥羽、崇徳の三代まで続く。平氏も重要な役どころとして登場し、貴族から武士の時代に移り変わっていくのが伺える。
そして話の中心人物も承香殿女御・道子から、貴族の血を引きながらも数奇な運命を辿る美少女たまき(祇園女御)に広がっていく。
人生とは分からないもの。白河院の寵姫だった中宮賢子は若くして薨去する。続いて中宮の形見として愛しんでいた内親王も崩じられる。ウィキペディアを見ると、道子は91歳の長寿だったらしい。寵を失い後宮を離れることになったものの娘の斎宮とともに伊勢に赴き、後年は心休まる日々を送ることができたのかなと思う。私は最後まで道子びいきである。
「美しく、身分高く生まれたばかりに、たどらなければならなかった自分たちの生きた道が決して女として、人間として幸福ではなかったことに思いをはせずにはいられない」
「藤原氏の最も栄えたあの道長全盛の時代の数々の中宮や女御たちも、ひとりひとりの生涯をつぶさにしらべてみれば、みんなあわれな淋しい末路をとげている」
晩年の道子は、長い間忘れていた記憶として霞の中で微笑む若い貴公子の俤(おもかげ)を思い出す。その貴公子とは誰だったのだろう。政権掌握に貪欲な古狸でも老いらくの恋に溺れるエロじいさんでもない、今ではもう面影すら全く見当たらない東宮と呼ばれていた頃の若き日の法王の姿だったのだろうか。「あんな人々もいたのか」と言っているくらいだから、道子の青春期を彩った男性達が出てきたのかな。藤原伊房?藤原祐家?
祇園女御の本なのに道子の生涯に深く心を動かされてしてしまった。(祇園女御たまきの生い立ちはあまりにもドラマチック過ぎて、いまいち感情移入できない)読み終えた時に上巻の最初に出てきた「5帖の和とじの本」の正体が分かった。
今度「源氏物語」を読む時には、六條御息所の気持ちに少し寄り添えるような気がする。 -
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永井路子の「望みしは何ぞ」を読み、藤原道長の子、藤原能信が彼ら藤原一族による長きに渡った摂関政治を終わらせたことを知った。当書「祇園女御」の中心的人物・藤原道子は、その能信の子である能長の娘である。能長は養子だけど、彼の実父・頼宗は養父・能信と同腹の兄弟でもある。つまり道子は道長の曽孫にあたるのだ。
私は源氏物語に出てくる「六条御息所」があまり好きではない。光源氏よりも年上で気高く美しく、血筋、教養、知性どれを取っても非の打ち所がない、そんなパーフェクトウーマンに息苦しさを感じるのも無理はないわ…と光源氏に珍しく同情したものだった。
しかしながら、この本の主人公(だと思う)道子にはどうしてだろう、嫌悪感を抱かない。美貌は勿論のこと、家柄、気品、教養、知性全てにおいて申し分ない后である。それなのに東宮(白河帝)の寵があからさまに薄れ、やがて後宮では日陰の身となっていく様が哀れに思えた。この先、どうか彼女のもとに幸せが訪れますようにと願わずにはいられないのだ。
上巻を読み終えたあと、白河帝が道子から興味を失っていった理由を考えてみた。彼女のほうが11歳も年上だからだとか、プライドが高過ぎて本心が見えづらいだとか、やっぱり年下の賢子の方が可愛いとか(笑)そういうこともあるのだろうけど、藤原家を毛嫌いする院(後三条院)の影響を少ながらず受けて、藤原道長に繋がる道子とは心理的にも物理的にも距離を置きたくなったのかなと思った。道子に皇子が産まれたとしても皇位継承がまわってくるとは考えにくい。うかうかしていると後三条院の皇子(白河帝の歳の離れた異母弟)の方に皇位がいってしまうので、自分の子供を確実に立太子させるには賢子(藤原師実の養女であるが、実の父は源顕房)に一刻も早く産ませたいと躍起になっている姿がなんとなく想像できる。
…と書いたところで藤原師実について調べてみると、彼も道長の孫(頼道の子)であり道子だけが疎まれる理由が分からない。師実は他の関白家の人間よりも帝にとって手懐けやすかったのだろうか?彼と協調することで利点があったのであろう。
そういった権力争いに知らずのうちに(いや、頭の良い人だから気づいていただろう)巻き込まれていく道子を哀れに思うと、寵愛を失ったのは自らの行いが不運を招いたからだとか、自業自得だとも思えないのだ。下巻では彼女の運命が好転して欲しい。