あらすじ
妻子ある不遇な作家との八年に及ぶ愛の生活に疲れ果て、年下の男との激しい愛欲にも満たされぬ女、知子……彼女は泥沼のような生活にあえぎ、女の業に苦悩しながら、一途に独自の愛を生きてゆく。新鮮な感覚と大胆な手法を駆使した、女流文学賞受賞作の「夏の終り」をはじめとする「あふれるもの」「みれん」「花冷え」「雉子」の連作5篇を収録。著者の原点となった私小説集である。
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Posted by ブクログ
習慣になった不倫は断ち切ることが難しい。
という言葉に度肝を抜かれた。
不倫が習慣だと? 私たちが普段特に何も考えず、ただ体に染み付いたルーティンのように行っているもの。例えば歯磨き、靴を履く、ご飯を食べる、スマホを触る。
そんな、とくべつ頭で何も考えなくても自然にできるような習慣化したものの1つに、不倫だとは。
瀬戸内寂聴はアッパレです。
感情の言語化が非常に巧みだな。
そして、本の中で妻子持ちの慎吾と付き合いながら、同じく同時進行で関係を持っている涼太から
「僕はあなたにとってどんな存在か?」
と問われたとき、
主人公の言った
「憐憫よ」
という返しにも驚愕した。「P77」
その時は、へぇ〜憐れみ、可哀想っていう自惚れのような気持ちで付き合っているんだなぁと斜に構えて解釈してしまったのだが、
改めて考えると、自分にもそんな憐れみの気持ちで付き合っている存在がいなくも、ない、な。
始めは愛があり、好きなんだけど、本命に気持ちが傾くにつれ2人へ注ぐ愛情は等しくなくなっていく訳で、いつの間にか平行だった天秤はどちらかへ大きく傾き、軽さに上へ上がった方への扱いがぞんざいになってしまう。
インスタントでキープのような愛人。
それに比べて、肉体関係を持たなくとも、ただ2人でいるだけで幸せを感じる。浄福という。それが不倫相手だとしても。いや、不倫相手だからこそなのかな。
2人でいる時間が8年も続けば、それは習慣となるだろう。十何年と毎日行ってきた食後の歯磨きを、今日から止めなさいと言われたら嫌だし違和感感じまくるもの。
それが恋愛相手ならより一層、断ち切るのは容易ではないのだろう。
そして、この物語が瀬戸内寂聴の経験に基づいた私小説だということだから、更にリアリティは増す。人生は経験だよ、と身に染みて感じる。
不倫したことないのに、あたかも自分がしているように思えてしまうから、文章力はさすがだと感じた。
印象的な文章↓
P39 愛は抽象的な聖心の貴族であり、肉欲はその前では無様な道化にすぎなかった。
P117 歳月に綯いからまれた習慣は、裁ち切る努力をするよりも、そのまま巻き込まれていく方が、はるかに安易で楽なのだ。心も安堵の倦怠感になかば満たされかけていることに気づいてぎょっとした。
↓慎吾と別れる決断をする主人公のシーン
P164 別れという土壇場にのぞんでも、知子は新語に切りつける刃があるのなら、それで時分を傷つける方がやさしかった。
(好きな相手、愛することが習慣化した相手を傷つけるなんてできないもの。)
Posted by ブクログ
いかにも、瀬戸内寂聴さんの本です!という題名の、『寂聴 九十七歳の遺言』、『愛に始まり、愛に終わる 瀬戸内寂聴108の言葉』などの本よりも、この本や、『あちらにいる鬼』、あと少し毛色が違うかもしれないが『おちゃめに100歳! 寂聴さん』などの方が、インパクトがあって寂聴さんを身近に感じられるような気がする。
解説にもあるように、「悪魔と愉しみを分つ部分」が拡大されていても、それが深められ、「普遍性を獲得し」ているからなのだろうか。
『和泉式部日記』も読んでみたくなった。
Posted by ブクログ
文章が美しすぎて、いちいち感激しながら読んだ。
離れられない恋も、結局は日々の忙しない日常に戻ればすぐ埋もれてしまう。
ふっきれて軽くなった後、桜を見ているシーンはとても良かった。
Posted by ブクログ
瀬戸内寂聴さんの訃報に接して初めてその波瀾万丈な人生を知り、作品が気になって読んでみた。
倫理的にみるとどうしようもなくダメダメだけど、文章から情景が浮かんでくるような、其々の気持ちが痛い程伝わってくる、美しい小説だった。惹き込まれたぁ〜
私も、男性に転がり込まれた生活を、別れを決意しそれを告げてもなおズルズルと引き摺って仕舞う遣る瀬無さには覚えがある。隣で横になりながら次の場所での生活の手続きをして、自らの決断で残してきたくせに、心が切り裂かれるように淋しくなって、連絡が途切れたら不安で見捨てられたような気持ちになりながらも、いつの間にか新しい生活に慣れて存在を忘れちゃって、ある時ふと本当の別れを実感して一人感傷に浸っちゃうような…
瀬戸内寂聴さんには遠く及ばないけど、敢えて辛い状況に身を置き、流した涙の量だけ愛が深まるような気がしていた学生の頃の不憫な勘違いを、思い出した。もうあの頃のような気力は到底ない笑
なかなかに心が掻き乱される作品でした。
Posted by ブクログ
もともと映画版がかなり好きで、原作を買ってしばらく積読していたがようやく先月読んでみた。
登場人物がみんなクズすぎて最高に素晴らしい!(ほめてます)特に知子の年下の恋人涼太はめっちゃイイ。すごいわたし好みの甘えん坊系クズで身を持ち崩している雰囲気がたまらない。私の母性本能がバグを起こしている。源氏物語では匂宮が好きだと言っていた晴美ちゃん(!?)。どうにも他人とは思えない男の趣味に、お互い女学生だったらお友達になりたいくらいだ(大先生にすみません)。
ついふざけたことを書いてしまったが、この連作集に登場する人々は、すべてを曖昧にしてズルズルと流されながらも寛容にその身に受け入れ、受け流してゆく。令和の日本にはこれほどの「寛容力」はないと思うのでそういう意味ではたしかに旧い時代の物語にはちがいないのだが、なぜか普遍的な男女関係のしがらみがあり、グイグイ読まされる。手紙でしか登場しない慎吾の妻の存在感が胸に響く。
文章も美しく、夏の花のようないさぎよい余韻とおおどかさがある。大好きな恋愛小説。映画版もすごく良いので観ていただきたい。
Posted by ブクログ
8年間妻子ある男との不倫に疲れてきた主人公。
最初は作者の力に圧倒されたが、少しずつ読み進めると主人公のもとに夫と別れる原因の男と再開し、その男とも関係を持つようになるが、語り口はどこかあっさりとしている。
最後はどちらの男とも別れることになる。
きっと中途半端ではダメなのだということに気がついたのだろう。
大きく分けると2つの話だが、2つとも背景は一緒だった。
Posted by ブクログ
ここまで正確に書き連ねられる冷静さが、
美しくはかなく、彼女を頑強にする。
習慣による常識の逸脱や、
それによって発される異様な存在感。
これを読むことで、私も整理された。
Posted by ブクログ
映画「あちらにいる鬼」がとても面白かったので、面白かったのに、本書を紐解いた。映画は、中年を過ぎて男と確かに別れるために尼になるまでの、男と瀬戸内寂聴とその妻の不思議な三角関係を、淡々と描いたものだった。
本書も、著者と不倫男とその家庭との不思議な三角関係が出てくるが、映画の不倫男と本書の不倫男は現実でも別人である。むしろ、映画の前日譚だった。知っていて紐解いた。
1960年代。未だ不倫が不貞と言われていた時代だ。刊行年は昭和38年(1963年)。瀬戸内晴美(寂聴)が、新進の小説家として台頭していた頃。もしかして未だ井上光晴(「あちらにいる鬼」での不倫男)にも会っていないのかもしれない。晴美(もちろん、小説内では別名になっている。職業も違う)は、経済的に男に依存していない事を誇りにしている。現代ならば当たり前だが、当時としては娼婦以外では画期的だったのか。その他、女性から別れを切り出すとか、新しい不倫の形を描いたとして、当時は意義のある小説だったのかもしれない。
連作短編で前四篇は登場人物は同じで、むしろ長編の雰囲気。知子(晴美)は、売れない小説家の小杉と8年間付かず離れずの関係を持っていたが、昔の男と寝てしまった事をキッカケとして別れを切り出す。現代になって読んで驚くのは、あまり知られていなかった井上光晴との不倫の構造とあまりにも似ていたことである。
・知子は小杉と不倫の終わりかけに、やはり若い男とも関係を持ってしまう。
・小杉の妻は、長い間小杉の不倫を知りながら、知子を非難したり小杉を非難したりする事なく、淡々と過ごしていた。
・知子は小杉との関係を精算するためには、小杉が通ってくる自宅を畳んで他所に引越しをしなければならないと思い込む。男はそれを淡々と受け入れる。
コレは井上光晴の娘・井上荒野が書いた「あちらにいる鬼」と同じ経過だ。引越しの代わりに、もっと徹底的な「尼になる」ことを晴美が選んだに過ぎない。瀬戸内晴美は、全く同じ事を井上光晴との関係で繰り返したのだろうか。詳しい人はいるかもしれないが、今回そこまで調べることができなかった。
短編集の最後の1篇「雉子」だけは、登場人物の名前を変え、彼女の最初の不倫から子供を捨て、次の不倫の顛末までざっと振り返っている。そこで、以下のように「まとめ」のような記述がある(牧子とは瀬戸内晴美のこと)。
男に溺れこむ牧子の情緒は、いつの場合も、とめどもない無償の愛にみたされていた。それは娼婦の、無知で犠牲的な愛のかたちに似ていた。(略)牧子の愛は充たされるより充したかった。たいていの男は、おびただしい牧子の愛をうけとめかね、あふれさせ、その波に足をさらわれてしまう。結果的にみて、牧子に愛された男はみんな不幸になった。
←決定的な不幸を招く直前に、晴美は寂聴になったのだろうか?
Posted by ブクログ
瀬戸内寂聴自選集「あふれるもの」のレビューを書きたかったのだけど、どこを探しても出てこず登録できなかったので仕方なくこの本に。
「花芯」「あふれるもの」「夏の終り」「けものの匂い」「みみらく」「蘭を焼く」「吊り橋のある駅」収録。
少し前に「あちらにいる鬼」という小説を読んだのだけど、それが著者の井上荒野さんによる父(井上光晴氏)と瀬戸内寂聴の不倫を描いたもので、何気に瀬戸内寂聴の小説って読んだことなかったと思い、手始めに私でも知っている短篇を含んだこの短篇集を読んでみた。
あとがきによると、1篇を除き、ほぼ出家前の、瀬戸内晴美時代のものだそう。映画化もされているから代表作とも言える「夏の終り」や、これも映画化されているはずの「花芯」など個人的にとても読みやすいものもあれば、「蘭を焼く」や「吊り橋のある駅」など暗喩めいていて多少難解なものもある。
著者による自選集で、後者のほうは著者的に「この時期は挑戦的だったけれど不評だった」というようなこともあとがきに書かれてある。
読み解くには頭を使いそうなので今回はやめて素直に物語を読んだのだけど、じっくりと読み解いていくのもまた一興なのだと感じるような物語だった。
「花芯」は読み始めから肉欲の世界だなと雰囲気で感じて、個人的には瀬戸内寂聴のイメージ通りだったのだけど、これを発表した当時は世の中に受け入れられず5年ほど文壇を干されたのだそう。女性という性の立ち位置が現在とは違ったせいもあるのだろうけど、このレベルの肉欲の物語って今ならそんなに珍しくもないから、昔は今とは全然違ったのだなと思わされる。
「あふれるもの」と「夏の終り」は連作で、本来は「夏の香り」が先に書かれたもので、後に書かれた「あふれるもの」が物語の時系列としては先になるかたちで描かれている。
38歳独身の主人公・知子が、妻帯者である恋人の慎吾と、かつて愛した元恋人である涼太の間で揺れ動く。女のしたたかさとその陰にひそむ弱さ、業の深さなどを感じる。
全体の雰囲気を一言で言うと、エロい話じゃなくてもどことなくエロい。文章自体に色香が漂っている。
世代的にもそうだし、とくにファンでもない私は、瀬戸内寂聴の生き方をつぶさに知っているわけではないけれど、初めて作品を読んでみて、この方が出家した理由がなんとなく分かった気がした。
そしてまた「あちらにいる鬼」を再読すれば感じるものも違ってくるのかも知れない、などと思った。
Posted by ブクログ
お亡くなりになられたときに私の好きな多くの作家さんが本気で悼み、悲しみから抜け出せずにいるお姿を拝見し、著者の初期の代表作を読んでみたくなりました。
実は、著者の半生はTVで見ただけ、作品は源氏物語とエッセイしか読んだことがなく、小説を読むのは初めてです。
本書は私小説で、主人公が、妻子ある男と8年間不倫関係にあり(それを先方の妻も承知している)、そこに、かつて主人公が離婚する原因となった年下の男が登場し、再び関係を結んでしまうという四角関係が連作短編集の形で収録されていました。
この設定だけ聞くと、ドロドロな愛憎劇をイメージするかもしれませんがそうではありません。
著者の鮮やかな筆至が、初めに感じていた生々しさを読み進める度にどんどん軽減させ、読後はむしろ清々しい印象まで与えています。
主人公は自由だし恋愛体質だし奔放なんでしょうけど、でも、それに勝る覚悟や正直さや冷静さの方が印象的です。
相反する印象が同居し違和感がないのはさすが多くの作家さんが尊敬する方の作品だと思いました。
Posted by ブクログ
寂聴さんのエッセイを読み、小説も読んでみたいと思い読んでみることに。私小説ということで、あの明るいお茶目な寂聴さんと重ね合わせなが読み、過去にこんな波瀾万丈なことがあったのかぁ…と驚いた。不倫、駆け落ち?という、いわば非人道的な出来事であるにも関わらず、じつにみずみずしく書かれていた。そこに嫌悪感はなく、純粋に文学として人間臭さみたいなものを表現していて、素晴らしかった。未婚、独身の私には想像もできないような世界だったが、もうひとつの人生を体験できたような感覚になった。
Posted by ブクログ
いくつもの章に別れた話かと思っていたら、
連作短編だったようだ。
最後の一編以外は、登場人物も同じで
少しずつ「こと」が進展してゆく。
どうしようもない邪恋に悩む袋小路の
人々の苦しい叫びが聴こえるような話だけれど
美しい日本語で描かれていることで
ひやりと冷たい風が、ものがたりの
湿り気のあるけだるい暑さを
どこかクールダウンしてくれるような印象もあった。
人にはそれぞれ想いがあり、
いけないとわかっていても溺れてしまう
哀しい感情がある。
それを眼を背けることなく、きっちりと
醜さは醜さのままに描かれていて、
ひりひりするような読書時間だった。
そして、それは決して絵空事でない
生身の呼吸する人間の熱さでもあった。
Posted by ブクログ
読書会の課題図書。
瀬戸内寂聴さんのことはテレビでたまに見かけるぐらいしか知らないし、本も初めて読んだのだが、とても「女性」を感じた。
「恋」が「愛」に変わっていく様や、「習慣」が想像以上に人を支配し安住させている様や、それらをスパッと断ち切ることのできない様や、恋の終りの冷静なすがすがしさや、それらのあくまで個人としての女と男のダメな感じや、人間的なもどかしさなどがそっと心に寄り添う感じであった。
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実際、そばにいるときよりも離れている方が恋しいし、こっちといればあっちが恋しいとなるのは当たり前のことなのに、どうしても私たちはこれをこういうものだと割り切れない愚かさがある。二人の男に挟まれていることに優越感なんてないし、ただただ不安と申し訳なさが覆いかぶさってくるだけ、でもそんな苦しみの中で一人になることや二人になることを決めることはできるはずがなくて、ふっと、きっとずっとこうなんだという諦念がある、その時まで待たなければいけないんだろうな。
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読み終えて、わんわん泣きたくなった。矛盾するし儘ならないし辛いし疲れるし傷つき傷つけるのにどうしても誰かを好きになってしまう女の業に、共感とも同族嫌悪ともつかない複雑な気持ちになる。綺麗で流れるような文章で書かれているけど、むせかえるような濃い雰囲気。「色恋なんか二人の責任だ、どっちだって加害者で被害者だ」という台詞が真理なのかもしれないと思わせられる作品だった。
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重い重い…胃もたれする。
文書の美しさがより鮮明に心情の複雑さを描いていたと思う。多くの凡人が共感できそうなポイントが垣間見えた後すぐ突き放されるような突飛な思考の主人公に振り回される。
重い想いの根底にはあまりにもからっと欲のままに生き続けていく知子そのものなのだと感じた。
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自分では手に取らないような本を、
と思い購入してみた『御神籤ブック』という選書サブクスの、記念すべき第一冊目。
不倫という恋の終わりの、終わらせ方。
言葉の美しさと情緒の豊かさに陶酔しつつも、時折微かな不快感によってふっと醒めるのは、やはりこれがモラルに反する恋だからだろうか。
それとも、秘めるべき関係を全く秘めようとしない主人公の図太さに、ある種の妬ましさを感じたのだろうか。
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私小説。受け身でない恋。年月を経て自らが身を引く結果になったとしても、本人が後悔せずに過ごせるのは幾ばかりか。様々な生き方はあるのだけれど。2025.5.6
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短編五つから成る。最後以外の四つは登場人物も同じ連作な感じで、最後のみ異なっている。
著者の本はおそらく初めて読んだけど、これは私小説ということでちょっとびっくりした。私が知っている著者は、既に出家されお年を召してからの活動で信奉者が多数いるように見受けられる方だったので。出家前の氏については全然知らなかった。
なんというか、情熱的かつ衝動的な方だったのだなぁという印象。
Posted by ブクログ
アパートに一部屋借り、8年間、知子と暮らしたまに家庭に帰る慎吾の短編集。こんな感じの男女が次々に出てきたら疲れちゃうなと思ったけど、同じ人たちの連作短編集で助かった。不倫関係を扱うものはあまり生理的に受け付けないんだけど、女がサバサバしている(ように気を配っている)のと何事もなく日々が過ぎていくので落ち着いた風情があってちゃんと最後まで読めた、と思ったらこれは半私小説なのか、道理で背景や描写が細やかでよく作られてると思った。
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1962(昭和37)年から翌年にかけて発表された短編を収めたもの。瀬戸内寂聴さん出家前、瀬戸内晴美名義で可書かれた初期作品集。
瀬戸内寂聴さんは初めて読んだのだが、昭和の昔からよく新聞の広告欄にこの方のいかにも温和そうな笑みを浮かべたまん丸いお顔が載っていて、この顔と作家名はずっと昔から知っている。その寂聴さんも昨年亡くなったそうで、そういえば読んでなかったから、今回読んでみた。
この文庫本の裏表紙には「私小説集」と書かれている。これは本当なのだろうか? 5編中4編は同じ知子なる女性が主人公で、同じ不倫のシチュエーションを描いているのだが、私小説と言うことは、作者の実体験をなぞった設定ということになるが。巻末の解説にはそうは書いていないので、よく分からない。
仮に作家の実体験がストレートに反映されているとしても、これらの短編は「私小説」らしい感触はなく、むしろ心理小説の書き方である。地味な心理描写ではあるが、それだけにリアルで、ラディゲの文体の猿真似ばかりやって喜んでいた三島由紀夫などとは遥かに別次元の小説作品だ。
が、とりとめもないといえば言える。すっきりと構築された作品体とはなっていないし、そもそも「連作」と言うには、重複する部分などもあるのでしっくりこない。特に大きな構想を描くことなく書かれた小品群、といったところか。
描かれている不倫の情緒は、何やらウェットで昭和っぽいのだが、やはり「演歌」で描かれるような単純なものではない。本作で描出される主人公の人物像は、小説ならではの<オブジェクト指向プログラム>によってオブジェクト化し、それゆえに多義的な・あるいは超-意味的な実在として屹立する。要するに「彼女」という第3者として、その存在が立ち現れる。
こういった小説の基本性能を備えた作品群ではあるが、ちょっと狭い世界に閉じこもっているようなところもあり、「優れた小説」と呼ぶには今ひとつのような気がした。
たぶん瀬戸内寂聴さんはどちらかというと大衆文芸サイドの「流行作家」であったと思われるので、後年はもっと面白い小説を書いたのかどうか、またそのうち読んでみようと思う。
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昨年11月の瀬戸内寂聴さんの死去を受けて、冬休みに人気作を読んだ。
主人公は妻子ある男と不倫関係にあるが、一方で昔の男とも関係を持つという四角関係が描かれ、連作で収録されている。
あらすじを読むだけでは酷い女だ、なんて惨い話なだと思ったが、読み終えるとモヤモヤするより清々しい感じだったのは、瀬戸内寂聴さんの巧みなワードセンスと人物像の表現によるものなのだろうと思う。
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初寂聴作品。
なんかすごい濃くて強圧だった。
これが原点となった私小説だって。
これが瀬戸内寂聴か。
善悪で量れない人間の深さや顔が
あることをしみじみ感じる。
ひかりちゃん主演の映画があるらしい。
映像の方がぐっとよさそう。
Posted by ブクログ
「あふれるもの」「夏の終わり」「みれん」「花冷え」
主人公は官僚かなにかの妻だったのだけど
終戦後の混乱のさなか、男をつくって家を飛び出してしまう
それはもしかすると
戦争に負けてなお国家によりかかる生き方しかできない
そんな亭主への失望があって
そういうことになったのかもしれないし
またそうではないかもしれない
どっちにしても、その年下の男とは長続きせず
次には売れない小説家の愛人となって、8年間をやり過ごすのだが
そこに再び、かの年下の男があらわれるのだった
…どうも主人公には
オイディプスやエレクトラに自らを擬そうとする願望があって
そのためのお膳立てを無意識におこなっているようにも思えるんだが
そんなことで周囲の人間が、望みどおりの役を演じてくれるわけはない
結果的にこれらの短編群は
再現不可能性を通じた物語批判となっており
そういう意味で
戦後自然主義のありようを非常にわかりやすく…はないものの
あらわしていると言えるだろう
「雉子」
雑誌の取材で、堕胎手術に立ち会う主人公だったが
そこにおいて彼女が発見したのは
自分こそ、娘に殺されるべき存在であるという事実ではなかったか
Posted by ブクログ
終わりがあるようで、終わりのない旅のよう。
寂聴さんの文書は、とても美しい。
道理にかなわないことすら、美化され崇高され酔わせてくれる。
最後の生々しさも、生命の尊さを感じる。
Posted by ブクログ
不倫はよくないという常識を持ち出すような余裕がない。
感情の機微の描かれかたがとても素直で、うつくしくて、共感できるはずはないのになんだか入りこんでしまう。てんでおかしい関係なのに、空気はとても自然で爽やかなのが、谷崎潤一郎とかと(比べるものでもないけれど)ちがうんだなあ。
映画「夏の終り」のキャストのイメージで読んでいたら本当にぴったりなようで、ああすてきだ。そして愚かだ。心地よい。
Posted by ブクログ
妻子ある売れない作家の愛人である知子
妻も公認の愛人であり
妻子と愛人の間を規則的に行き来する生活!!
知子もまた、かつての年下の恋人と関係を重ねる。
その恋人は、知子が離婚する原因になった男性!
どう考えても、
現実にはありえない関係!!に
少し戸惑いながら、読み進めましたが
はるか昔の古典の世界を連想させられるような
気がしました。
Posted by ブクログ
いつも正直な瀬戸内寂聴さんの作品を最近読んでいます。
この作品 完璧に私小説ですね。
びっくりするほどの純粋さで、好きになった人を追いかける。
自分が不倫しているのに、奥さんのことを心配したり、年下の情夫に不倫相手の愚痴を言ったり・・・。
小説なのに、(え~こんな思考回路なの???ぶっ飛んでる~)と思ってしまう。
しかし・・・昔では相当叩かれたんだろうなぁ。と思う内容に同情したり。
好奇心で瀬戸内寂聴を知るには入門編ですよ。