小松左京のレビュー一覧
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小松左京の未完の遺作「虚無回廊」を読んだ。本格的ハードSFだった。
宇宙空間に忽然と出現した長さ2光年、直径1.2光年の途轍もない規模のSS(スーパーストラクチャー)。その探索のために遠藤博士は自分自身を模したAE(アーティフィシャル・エグジスタンス:人工実存)を創造する。長い旅路の果てにAEはSSに到着して、様々な知的生命体と遭遇していく。
まだAIという言葉も馴染みのなかった1986年に、小松左京はAIの先のAE(人工実存)を描いているということに震えた。AEとはAIに魂を吹き込んだものであるらしい。この小説には他にも難しい理論が書き込まれていて、その直感と先見性に舌を巻くと、巻末の座談会には書かれていた。
しかしながら僕には難解すぎて、そういう部分は斜め読みでやり過ごした。座談会にも書かれていたがプロットが単純過ぎて、小説的にはどうなのかという指摘があった。そうあまりにも説明的なのだ。知の巨人の小松左京には書きたいことがいっぱいありすぎて、そうなったのかもと思う。 -
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「虚無回廊」のような頭がぐらぐらするような壮大なビジョンはないけど、このスピード感は気に入った。それにしても、小松左京がこういうエンターテイメントに徹した作品を書いていたというのは、ちょっと意外。もっとも俺が読み始めた頃には、もう大作ばっかりになってたからしかたないのかもしれないけど。アイディア自体は平凡な部類に入るんだろうけど、ストーリーテラーとしての小松左京の実力が発揮されたというところかな。SFとしては、「果てしなき」の方がこれよりすごいけど、勢いはこっちの勝ちだな。
エスパーによるスパイ戦から始まったときには、最後の敵はちょっと予想つかなかった。結構強引だよなあ。ちょっと説教臭くなるのは、まあご愛敬かな。ふと思ったけど、ひょっとして「妖獣都市」の元ネタかな?そうなると、田村が滝で、マリアが麻紀絵ってことか。おっ、頭文字同じだ。ホントにそうかも。サラバット氏とマイヤート氏は違うのか、残念。
やっぱ作家は初期の作品の方がいいのかな。「虚無回廊」は別だけどね。
p.s. これって俺が生まれる前の作品らしい。信じられん。
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01
絶望と悲観の書のように見える.世界は数度にわたり破滅する.最終的な復活には,創世記やキリストの復活のニュアンスがないわけではなく,終末論や黙示録といった全体の捉え方もできるのだろう.
それにしても科学や社会は,痛く批判にさらされているように感じる.また巨視的に地球の活動を眺めた時,人類の破滅は必然であるようにも思えてくる.
最初と最後には現れている日本人(02),吉住という人物がいる.彼が日本だけでなく世界の廃墟を観察する.彼は南極で時間すら凍結したような世界から飛び出し,解体され解凍されたような世界を目にするが,そこには浦島太郎のようなプロットがないわけでもない.
02
日本だけが滅びたわけではなく.米ソ冷戦の枠組みもベースになり,米国への視点も取り入れながら,南極を除く地球上が滅んでいる.その破壊の過程が物語の中盤と中核をなし,科学的な説明を加えながら,なす術をもたない人間たちの未熟も描かれているといってよいだろう. -
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1973年に発表され、社会現象ともなった小松左京(1931~2011年)氏の『日本沈没』の続編で、2006年に小松左京氏と谷甲州(1951年~)氏の共著(執筆は谷氏)として刊行された。「続」ではなく「第二部」とされているのは、小松氏にはもともと、難民となって世界中に散っていった日本人の行く末を描く第二部の構想があったためで、小松氏と氏を慕う若手SF作家(谷氏や森下一仁氏)を中心に執筆プロジェクトが立ち上げられ、老齢であった小松氏の代わりに谷氏が執筆を担当したものである。
舞台は、日本が沈没した25年後の世界で、日本人は、ニューギニアやカザフスタンなど世界各地に散らばり、難民として様々なコミュニティを形成して生活し、また、日本の政府機能はオーストラリア北部のダーウィンに間借りする形で存続し、第一部で科学者として登場した中田が首相を務めていた。
テーマは、「日本人とは何か」、「国家とは何か」という壮大なもので、具体的には、故国・日本を知らない若い世代が増える中で、日本人としてのアイデンティティが失われつつあることへの危機感が描かれる一方、中田首相は、旧日本海に巨大な人工島を建設して、世界に散った日本人を再び集める計画を進めるが、その過程で、日本政府が開発したスーパーコンピューター「地球シミュレータ」が地球の寒冷化を予測し、世界規模での難民化が新たな課題となるのである。
尚、全体の構成は以下の通りである。
<上巻>序章:竜を悼む、第1章:慰霊祭、第2章:彷徨える日本人、第3章:日本海、第4章:難民たち
<下巻>第5章:地球シミュレータ、第6章:凍る山河、第7章:流氷の海、第8章:政変、終章:竜の飛翔
私は、第一部が社会現象になった頃、小学生だったが、家にもカッパノベルズ版の同書はあった。その第一部を最初に読んだのは、はるか以前のことであるが、第二部は気にはなりながら、今般漸く読む機会を得た。
読み終えてまず感じたのは、この本は今こそ読まれるべきだということだ。というのは、近年、トランプのアメリカをはじめとした少なからぬ国で自国ファースト主義が支持されるようになっており(日本も例外ではない)、本書の「民族(日本人に限らない)とは何か」、「国家(日本国に限らない)とは何か」というテーマは、今まさに問われるべきものだからである。
私は、本書の各場面をそれなりに楽しみながら読んだが(やや冗長と感じる部分も正直あったが。。。)、強烈に印象に残ったのは、下巻で、中田首相と鳥飼外相が、将来の日本人・日本のあるべき姿について、激論を交わす場面である。そのとき、中田首相は、日本人としてのアイデンティティを維持するためには、愛国主義(パトリオティズム)やナショナリズムが大事だと主張し、一方の鳥飼外相は、世界市民主義(コスモポリタニズム)こそ重要だと反論した。そして、物語の最後では、地球規模での危機が避けられないものと認識した中田首相は、自らの後を鳥飼外相に託すのである。
私は、パトリオティズムとコスモポリタニズムのどちらかが正解だとは思わないし、鳥飼外相がコスモポリタニズムで成功した唯一の民族と言ったユダヤ人の国家イスラエルが、現在ガザで未曽有の大虐殺を行っていることも事実だ。
大事なことは、自分にとって気持ちのいい主義・主張を鵜呑みにするのではなく、様々な異なる立場を受け入れつつ、自らの頭で考えることなのだ。そして、短絡的な自国ファースト主義が声高に唱えられる今こそ、それが最も求められると思うのである。
(2025年7月了) -
Posted by ブクログ
1973年に発表され、社会現象ともなった小松左京(1931~2011年)氏の『日本沈没』の続編で、2006年に小松左京氏と谷甲州(1951年~)氏の共著(執筆は谷氏)として刊行された。「続」ではなく「第二部」とされているのは、小松氏にはもともと、難民となって世界中に散っていった日本人の行く末を描く第二部の構想があったためで、小松氏と氏を慕う若手SF作家(谷氏や森下一仁氏)を中心に執筆プロジェクトが立ち上げられ、老齢であった小松氏の代わりに谷氏が執筆を担当したものである。
舞台は、日本が沈没した25年後の世界で、日本人は、ニューギニアやカザフスタンなど世界各地に散らばり、難民として様々なコミュニティを形成して生活し、また、日本の政府機能はオーストラリア北部のダーウィンに間借りする形で存続し、第一部で科学者として登場した中田が首相を務めていた。
テーマは、「日本人とは何か」、「国家とは何か」という壮大なもので、具体的には、故国・日本を知らない若い世代が増える中で、日本人としてのアイデンティティが失われつつあることへの危機感が描かれる一方、中田首相は、旧日本海に巨大な人工島を建設して、世界に散った日本人を再び集める計画を進めるが、その過程で、日本政府が開発したスーパーコンピューター「地球シミュレータ」が地球の寒冷化を予測し、世界規模での難民化が新たな課題となるのである。
尚、全体の構成は以下の通りである。
<上巻>序章:竜を悼む、第1章:慰霊祭、第2章:彷徨える日本人、第3章:日本海、第4章:難民たち
<下巻>第5章:地球シミュレータ、第6章:凍る山河、第7章:流氷の海、第8章:政変、終章:竜の飛翔
私は、第一部が社会現象になった頃、小学生だったが、家にもカッパノベルズ版の同書はあった。その第一部を最初に読んだのは、はるか以前のことであるが、第二部は気にはなりながら、今般漸く読む機会を得た。
読み終えてまず感じたのは、この本は今こそ読まれるべきだということだ。というのは、近年、トランプのアメリカをはじめとした少なからぬ国で自国ファースト主義が支持されるようになっており(日本も例外ではない)、本書の「民族(日本人に限らない)とは何か」、「国家(日本国に限らない)とは何か」というテーマは、今まさに問われるべきものだからである。
私は、本書の各場面をそれなりに楽しみながら読んだが(やや冗長と感じる部分も正直あったが。。。)、強烈に印象に残ったのは、下巻で、中田首相と鳥飼外相が、将来の日本人・日本のあるべき姿について、激論を交わす場面である。そのとき、中田首相は、日本人としてのアイデンティティを維持するためには、愛国主義(パトリオティズム)やナショナリズムが大事だと主張し、一方の鳥飼外相は、世界市民主義(コスモポリタニズム)こそ重要だと反論した。そして、物語の最後では、地球規模での危機が避けられないものと認識した中田首相は、自らの後を鳥飼外相に託すのである。
私は、パトリオティズムとコスモポリタニズムのどちらかが正解だとは思わないし、鳥飼外相がコスモポリタニズムで成功した唯一の民族と言ったユダヤ人の国家イスラエルが、現在ガザで未曽有の大虐殺を行っていることも事実だ。
大事なことは、自分にとって気持ちのいい主義・主張を鵜呑みにするのではなく、様々な異なる立場を受け入れつつ、自らの頭で考えることなのだ。そして、短絡的な自国ファースト主義が声高に唱えられる今こそ、それが最も求められると思うのである。
(2025年7月了) -
Posted by ブクログ
小松左京はデビューが31歳であり、遅咲きのSF作家といってよい。しかし、ここからわずか8年後には万博のサブプロデューサーを務めることになる。小松の30代は恐ろしく濃密なものである。
先に8年後と書いたが、万博とのかかわりはそれより前である。本書の年表に従うと、未来学研究会を発足し梅沢忠夫らと各国へ万国博の視察に行くのは1966年、小松は35歳だ。いまのぼくは、万博開催を迎えたときの小松と同年齢だが、自分が梅沢忠夫などと丁々発止のやりとりをできるとはまったく思えない。
本書の話をすると、前半は小松の学生時代を振り返るエッセイ、後半は万博に携わった顛末である。直接的なつながりがあるわけではない。
だが、共通する部分はある。小松の万博への関わり方は、いまとなっては公的なイベントに積極的に関わった小松左京という印象もなきにしもあらずだが、本書を読むと印象はかなり違う。むしろお上とは喧嘩ばかりしているし、冷ややかな視線さえ持っている。
小松の学生時代は戦時中が含まれている。学生時代と万博に関わっていた時代のつながりは一見わかりにくいが、通して読むとたしかにつながっている。
教師=万博協会=国家と、生徒=未来学研究会=大衆は対になっている。だから、生徒と教師は対立するし、協会と研究会は喧嘩もする。梅棹らと囲んでいる会合も、学生らが徹夜で話してるような雰囲気がある。
万博の顛末では、理念の重要性について幾度となく語られる。これは2025の大阪万博でも批判的に取り上げられたものである。2025年の万博には理念がない。当事者らは「ある」というのかもしれないが、少なくとも理念が大衆に伝わっていないことはまちがいないと思う。
2025年の万博が成功か失敗かを判断する能力はぼくにはないし、あったとしてもいまはまだ判断できるタイミングではない。ただ、1970年の万博が成功し、そのかげには小松らの活躍があったことは疑い得ない、そう思わせてくれる一冊だった。