栗本薫のレビュー一覧
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グイン・サーガ4 ラゴンの虜囚
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グイン・サーガ122 豹頭王の苦悩
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グイン・サーガ13 クリスタルの反乱
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グイン・サーガ2 荒野の戦士
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グイン・サーガ外伝3 幽霊船
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グイン・サーガ12 紅の密使
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グイン・サーガ11 草原の風雲児
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グイン・サーガ6 アルゴスの黒太子
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Posted by ブクログ
雑誌連載時に読んだ私の記憶はレダという登場人物の強い印象ばかりだったのだが、再読してみると、登場人物たちがレダという存在の重要性を喧伝するのが不思議なほど、存在感のない、人格を感じさせないキャラであることに、少なからず驚いた。それなのに印象に刻み込まれていたのはその登場の仕方の鮮烈さに尽きるのだろう。
いわば植物的に管理されているシティの人々は本当の個性を持っていない、本当の生を生きていない、本当の存在なのはレダだけだ、というのが本書で主張されることなのだが、シティの住人の主要な登場人物たちだって、案外、個性的で、確固とした人格を感じさせるのだ。むしろレダが記号的・象徴的な位置に留まる。こうして脇役を生き生きと描いてしまうあたりが語り部・栗本薫の技量なのだろうけれど、その点では失敗といえるのではないか。本来ならば、シティとその住人たちがいかに虚像的で異様な存在なのかを特徴付けねばならなかったはずだからである。逆に、シティ住民と対照的なスペースマンたち(地球外で暮らしている人類)が十分に対照的に描かれているかというと、それもいささか疑問である。
安定した社会はついには何も新たなものを生まず。ゆっくりと衰退していくというのはSFでお馴染みのテーマ、哲学であり、本書でも当然そういう流れとなる。だが、本書が鮮やかな印象を残すのは、レダではなく「ぼく」の成長なのである。ビルドゥングスロマン=教養小説だと作者も述べるとおり。
確かに植物的な主体に留まるシティの住人たちの中で、「ぼく」だけが動物的主体性を獲得していくともいえ、「ぼく」の主体形成の小説なのだが、他に主体がない中での主体形成は不気味な独我小説になりかかっている。たとえれば草食系男子の「ぼく」があれよあれよと筋肉ムキムキのマッチョになってしまったかのような異様さ。 -
Posted by ブクログ
『レダ』ではいくつかの重要な哲学的問題が提示されている。
自由、個と社会、自己の固有性・唯一性など、それはすなわち、思春期にわれわれ皆が多かれ少なかれ衝突する問題である。少年の「ぼく」や、イヴが独白し、あるいは周囲の人々が語りかける言葉にはいくつもの大問題が関わっているのだが、読者はそれを共感を持ってなぞっていくことができるだろう。
「理想の社会」ファー・イースト30には何かが欠けている。人が人を害することがないように、強制力を伴わずに、極めて周到に管理されたシティ。II巻では、そこに欠けているものは、人と人とのなまの交流ではあることが示唆される。シティの人々は洗練されたカンバセーションの技術を使って、他人と真に関わらないようにしている。逆にいうと人と深く関わりを持たずになおかつ社会の中にある程度の係累を保ちたいタイプには具合のいい社会だとも思う。人間同士が衝突を繰り返すこの世の中を考えれば、植物のようにフラスコで孵卵し、血縁関係を排除した穏やかな環境の中ではぐくまれていくシティの人間たちの姿は、人類の問題のひとつの解決法であることに違いはない。ロハスなどといった考え方も終局的にはこのような植物型社会に行き着くのではないか。それでは嫌だと思っているのは実は作者であって、作者が強く他者を希求して叫んでいるのかと思えてくる。
シティを愛し、シティと一体化したいという望みにまどろんでいた「ぼく」は、本巻で急に目覚め、シティの重要人物と丁々発止、議論を戦わせたりするのだが、あまりに成長が早い。いまだ目覚めたことがなかった者が新たに目覚めるにはもっともっと時間がかかると思う。まさに作者の生き霊が「ぼく」に憑依したかのようだ。 -
Posted by ブクログ
栗本薫を読んできたかといえばほとんど読んではいないし、ましてや中島梓の読者でもない。『魔界水滸伝』だけは、その設定と永井豪のイラストに惹かれて読んだものの、ところがどっこい話はこちらの期待する方向どころか、訳のわからない方へ進んで、栗本薫ともそれっきりになっていたのではあるけれど、『僕らの時代』でのデビューも、100巻書くというグイン・サーガの執筆開始も同時代のこととして体験してきているには違いないので、彼女の早すぎる死には少しく衝撃を受けた。
『レダ』が再刊されると聞いて気持ちが動いたのは、若干の郷愁もあったのかも知れない。かつて「SFマガジン」の連載中に読んだ強い印象が残っていたからである。とはいうものの、連載の最後まで読んだかは記憶が定かではないくらいで、登場人物も主人公の「ぼく」とレダしか覚えていない。つまり、ストーリーよりもレダという登場人物の存在感が強く印象に残ったのであり、これは語り部・栗本薫の勝利というべきか、敗北というべきか。
舞台は未来の地球、ファー・イースト30という都市。そこでは個人が尊重され、犯罪などない理想的な社会が築かれていた。「理想的な社会」はディストピア小説にはつきものの設定で、それが理想郷でないのはお約束なのだが、いまどきの「草食系男子」には住みやすそうで、それはそれで悪くなさそうだ。「ぼく」すなわちイヴはその理想郷で社会の規格からはみ出す紊乱者(ディソーダー)レダと出会う。たぶん、まだ少年と言っていい年齢から少し出たばかりで、それなりに堅気の道を歩んでいた当時の私にとって、社会からはみ出す存在を称揚するこの小説に、それこそ少しく衝撃を受けたのだと思う。
ころころ変わる自分の気持ちのままに行動し、好意を示したかと思うと悪意を向けるといったレダの振る舞いは、境界性パーソナリティ障害の特性にほぼ当てはまるのだが、当時の私にはそんなことは知るべくもなく、そんな人格のあり方も衝撃的だった。
ファーイースト30は実は自由なようでいて自由でなく、個人が尊重されているようでいて本当の個は存在しない。個性と自由を持っているのはレダのほうなのだ。というのが第1巻において、「ぼく」が周囲に振り回されながら、気づいていくことなのだけれど、自由というのは実はとても曲者でそう簡単に何が自由とはいえないのであって、例えば、あらゆる規範や決まり事から自由でいるというのは狂気か支離滅裂という他ないし、言ってみればレダは自分自身から自由ではないのじゃないかと今の私なら思う。
ああでもないこうでもないと考えをめぐらす「ぼく」の思考や、レダとは何かと、レダの周りの人々(知能を増強した犬を含む)が長々と開陳するモノローグなど、ちょっと辟易とするような饒舌さ、それからやたらとルビの振られたバタ臭さが鼻につく人もいると思うのだが、まあ、それが栗本節なのだろう。
これは少年の成長の物語である。第1巻の最後には「理想社会」のほころびが見え始め、情報を受容するだけだった「ぼく」は行動を始める。