富安陽子のレビュー一覧
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シノダ!シリーズ6作目。休日のドライブに出かけた信田一家。しかし長いトンネルをくぐると地図にも載っていない一本道に出てしまう。引き返すにも広い路上ではなく、仕方なく進む。ついに見えてきた何本もそびえ立つ鳥居。それはキツネたちの婚礼の儀式会場である祝いの宮の入り口だった。キツネ以外は立ち入り禁止であるはずの祝いの宮に入ってしまったユイたち。人間とキツネのハーフであるユイ、タクミ、モエならまだしも、純粋な人間であるパパは見つかってしまったら大問題!それに加えて神聖な場所である祝いの宮内では嘘をついてはご法度という、素性を隠すには大きなハンデが設けられている。どう切り抜けるのか、壮大な一日が幕を開ける。
シリーズ6作目にして初めて見えたイツキおばあちゃん。曲者揃いの狐たちを束ねる抜かりのなさが垣間見える。とんでも婆さんと鬼丸おじいちゃんは言っていたが、キツネたちの中では格段に理性的である。ドキドキハラハラな展開だが、すごく面白い。ユイが木の上でサイと風の耳をすまして笑い合った時間が好き。 -
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シリーズものの中でも、特に一話完結ではない連作形式で進行する物語のレビューは、前の巻を踏まえたネタばれとなってしまうことが多いため、書き方が難しいのだが、ここではライトノベルとも捉えられそうな、このシリーズが如何に細やかな作り込みをされているのか、それを書いていきたいと思います。
五十嵐大介さんの緊迫感漂う表紙の絵からも分かるように、前巻では危機に巻き込まれていながら、割と何とかなりそうな楽観的な雰囲気も漂っていた中、今回は主人公たちのやるべきことに多くの人の命がかかっていることや、最終巻に続く終わり方を知ることによって、これは遊びではない神同士の本気の戦いに巻き込まれてしまったことを、痛いほどに感じさせてくれる。
主人公のアレイに、Q、ヒカル、ハルコ等々、中学生を中心とした学園ものに加えて、天ツ神のカンナギとしてそれぞれに能力を与えられたことで生じる謎解き的要素が、見事に黄泉ツ神のカクレドから脱出するための『ほころび』を見つけることに繋がっている面白さには、富安陽子先生ならではの昔の日本人の生き方が垣間見えてくる『古事記』や『日本書紀』の要素が詰まっていて、このシリーズを読むことで、それらへの興味を促してくれたり、『雷とは神が鳴らすもの』といった言葉に込められた意味の深さや、鏡と太陽と二十四節気の繋がりによる壮大なロマンも感じられてと、今風の作品に昔の情緒深さが見事に溶け込んでいて、こうした趣を物語に醸し出すことができるのも富安先生ならでは。
それから、このシリーズの対象年齢であろう中学生に向けたおすすめポイントとして、アレイたちの年代ならではのくだけた雰囲気で繰り出される会話のやり取りの中にも感じさせる、繊細なキャラクター像があり、それは主人公のアレイ一人を取り上げてみても、『変化を嫌う』彼が戦う相手は、『出会う度に狡猾で且つ巧妙に変化している』ことであったり、彼が抱える見えない傷を癒すには『時間と忘却がいちばんの薬』なのに、彼の能力である『記憶力』がそれを邪魔している点に、このシリーズはアレイの成長する物語でもあることを実感させてくれること等、数え上げればきりがない。
更にそうした傷を他のキャラクターたちもそれぞれ心の中に抱えていることによって、彼らが共に支え合いながら再生を目指していく物語の流れは、彼らの過去や個性、家庭事情も加味することでより繊細さを増し、それはヒカルの触れてはいけない部分に対して、Qとハルコは冗談で和ませる中、共感性の高いアレイは言葉にできず一人で内に抱え込んで苦しんだりと、それは決して悪いことではないと思いつつも、本人がどう向き合うかの問題でもありそうな部分を感じさせる複雑な要素は、これまた他のキャラクターにもあってと、そんな多様な面を持った人物像を見事に描き分けている物語には、神同士の戦いという熱い展開の楽しさ以上に大切なものがあることを知っている、これまで多くのシリーズものを手がけてきた富安先生のこだわりが表れているのだと、私は思う。 -
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見ていて思わず、往年の児童文学のそれを思い出してしまうような、本書の舞台となる山のふもとにある小学校を描いた素朴な見返しの絵から既に期待が高まる、自分で読むなら小学中学年から対象となる、富安陽子先生の創作童話です(2022年作)。
総勢10人(?)の小さな小学校だけど、新年度の初日、三年生になったばかりの「アカネちゃん」は、一番乗りで校舎に着こうとはりきって早起きをした、そんな気持ちをいっぱいに表して通学する姿を大島妙子さんの絵が見事に描いており、「オニのサラリーマン」とはまた異なる印象として、改めて大島さんの絵というのは、表紙も含めて子どもたちの感情を全力で描いていることにグッとくるものがあるのだということに気付く。
そして、一番乗りだと思っていたアカネちゃんは、既に同級生の「土居くん」が席に座っていることに気付き、「ちぇっ」と心の中で思ったのも束の間、よくよく見ると、それは土居くんではなくタヌキだったのだから、これには驚いたのだけれども、本人から事情を聞くと、元々タヌキが土居くんに化けていたそうで、なぜ名前を土居くんにしたのかという興味もあったのだが(実は富安先生の見た夢が影響しております)、それではなぜ今になって正体を明かしたのかが気になるところ。
そしたら、今学期の目標『なかよく、元気に、しょうじきに!』を見て決めたということで、元気すぎるお調子者の一面がある土居くんだけれど、こうした真っ直ぐなところもあるんだなという、その潔い行動には、最初こそ戸惑っていた先生や生徒たちだけれども、人間だろうがタヌキだろうが土居くんは土居くんなんだという、見た目以外、何も変わらないことを物語で書いていることには、これまでの富安先生の作品同様、見えないものの大切さを教えてくれますし、結果として土居くんが実現したのは、人間と動物の共生であったことにハッとさせられる。
更に、本書にはどんでん返し的な驚きの結末を知る手がかりとして、最初と最後の見開きの絵を比べてみる楽しさや、かつての土居くんの姿に思いを馳せたくなる裏表紙といった、細やかな配慮も見逃せません。 -
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まず、表紙の女の子、緑の髪に、緑の眉、
緑の目に、赤い瞳、不敵な笑みを
浮かべていて、ちょっと不気味で怖いけど、
インパクト大で興味をそそられる。
月を見上げると月虫がいる。
擬態の絵がリアルで、虫嫌いの人は、
眉をひそめたくなるが、生き物の神秘さ
を感じさせ、しかも、そいつは、
人間そっくりの姿にばける。
(不敵な笑みの正体はそこにあったのかと)
殿方がどんなに高価なプレゼントを持って
きても、興味なし。だって虫だからね。
最後、裏表紙まで物語は続き、時空を超え、
月虫は現代も!壮大なSFで、お話しと絵が
とてもマッチしていて良かった。
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ただ今、富安陽子さんの作品を読み続けて、不思議な物語の魅力を知りたい期間中です。
前回読んだ絵本「月虫の姫ぎみ」に続いて、漫画家の五十嵐大介さんの表紙の絵が印象深い、こちらは2015年発表のシリーズもので、これまで読んできた富安さんの作品の中では、初の中学生が主人公の物語で、現代の若者を思わせるくだけた口調もしっくりとくるような、彼らの奔放さの裏に垣間見える繊細な描写や、能力者と不思議なものが対峙するスリリングな展開には、正にYA文学という言葉がぴったりと感じつつ、そこには富安さんならではの要素をミックスさせることによって、オリジナリティもしっかりと感じられる素晴らしさとなっていたのである。
両親から突然告げられた引っ越しによって、中学二年から「栗栖の丘学園」に転校することになった、主人公「田代有礼(アレイ)」は、毎日家から学校まで同じ歩数であることを気にする程に変化を嫌うタイプだったのだが、そんな彼の生きるスタンスとは裏腹に、密かに進行しつつある世界の危機に否が応でも巻き込まれていくことになる。
それに関わっていたのは、何とも壮大で規格外の存在である「天ツ神」と「黄泉ツ神」だったのだが、だからこそアレイを始めとした仲間たち(今のところ仲の良さは微妙だけれど)に与えられた能力には説得力がありながら、更に彼が最初に出会う仲間「厩舎修(Q)」の数学の能力には、本書のタイトルとも相俟って、この世のからくり(仕組み)とも繋がるような新たな視点を提示してくれたように、私には思われた。
それはQの、『数学って、すっごく、きちんとしてるじゃん』という言葉から端を発した、『世の中って、けっこうでたらめで、めちゃくちゃに見えるけど、じつは絶対変わんない仕組みがあるんだって』という安心感のようなものの存在には、数学以外は駄目駄目な彼にアレイが共感できた数少ないところと感じながら、そこから『たぶん、数学って、神さまの設計図を読み解くための言語なんじゃないか』と捉えた、Qの言葉に私は目から鱗が落ちる思いとなった、その根拠として、『科学の法則や公式は、全部、発見であって発明じゃない』という、『特許権とかはない、最初からこの世界の中にあったルール』の存在なのだと思い、それは『オウム貝にも、ハリケーンの渦にも渦巻き星雲にもくり返し黄金比が現れる』ような不思議なことも含めた、『この世界のからくりに興味があるから』という、Qが数学を好きな理由へと繋がっていることを知ることで、なるほど、学校でもこうした過程で学んでいたら数学に興味を持てたのかもしれないなと、理系嫌いの私も思えそうな富安さんの物語の展開には、面白さだけではなく知識欲を促してくれる魅力もありそう。
更に本書では、「八つの柱」や「イザナミから逃げるイザナキ」と重なるイメージであったりと、『古事記』とリンクした展開に、また富安さんならではの過去と現実が繋がるような独特な面白さを感じ、更にそこには古事記という歴史書が、この男の記憶を書きとることによって生まれたと言われている「稗田阿礼」という人物名が、主人公のアレイの名前と繋がっている富安さんの拘りを見ても明らかとは思いながらも、そこには名付け親の父が、暗殺された明治時代の政治家の『森有礼』から取ったことに対する、アレイの反発心があることも重要で、その頑なな意志の強さは、本来ならば「有礼」を「ありのり」と読ませるように名付けたけれども、周りが彼の中の繊細な部分を刺激しないように合わせるようになっていったくらい、本人が「アレイ」と名乗り続けることを曲げなかったことが物語っているのだと思う。
ということで本書は、主要な登場人物である中学生たちが大人への道を歩んでいく、その過程を軽快な語り口の中にも真摯に描いており、特にアレイに関しては、自分の説明で内容が伝わらないことに苛立ちながらも、相手にとってはもっとシンプルに要点だけを伝えてほしいことを望んでいることを察して、表現を変えて言い直す場面に、能力を持つが故の葛藤もあってと、世界を救うかもしれないヒーローたちでありながら、単純にカッコいい、可愛いキャラにしていない点に現代の中学生を思わせるリアル感が同居している点には、きっと本書を読む同世代の方々にも響くものがあるのではないだろうか。
以上の事から、このシリーズの物語の魅力として、数学と古事記のコラボレーションという斬新さがありながら、不思議な怖いものたちとの対決を余儀なくされてしまうアレイたちが数々の窮地をどう切り抜けるのかという、エンタテイメント性もあってと、タイトルに1と書かれているように、物語の途中の良いところで終わってしまう「つづく」表記にも期待を持たせてくれて、最後まで読みたくなる魅力は充分にあるのだと思う。 -
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ただ今、富安陽子さんの作品を読み続けて、不思議な物語の魅力を知りたい期間中です。
『月虫の姫ぎみの はなしを して あげよう』から始まる本書(2025年)は、まさに富安さんの空想力が光る創作ものなのに、月虫の臨場感ある描写を読んでいる内に本当にいるものと思い込んでしまったのは、どうやら名前の似た雪虫と勘違いしていたようだと、後になって気付く。
でも、存在していたらロマンチックなのになぁと思ったのは、『月虫は、月の まわりを とびまわって、星くずに たまごを うみつける。もし、うんが よければ、その 星くずは いんりょくに ひかれて、地球へと おちて いく。』と、星くずに母の祈りと共に子の命をのせていることに、宇宙規模の壮大な賭けとも思われた夢のあるお話だからであったのだが、そこには浪漫だけでは生きられない、巧妙な知恵に長けた生き抜くためのアイデアが最大限に活かされていたことを後々知ることとなり、それは感情的なものというよりも生存本能に近い、生き物としての無自覚な冷酷さとも思われる部分に怖さを感じられたことに、創作ものでありながら、妙なリアルさを感じられたのは、『虫たちは みんな かくれんぼの めいじんだ』という伏線の効いたお話の展開も大きい。
この作品は、漫画家の五十嵐大介さんに絵を描いていただくために富安さんが仕上げただけあって、五十嵐さんの絵にも対等に同居していたロマンチックさと不気味さのバランスの良さが絶妙に感じられると共に、その場面毎に於ける漫画家ならではの様々な感情を呼び起こさせる効果的な絵の見せ方には、富安さんの文章には書かれていないけれども、読み手に伝えたい繊細なところを絵が語っている印象を抱かせてくれて、それは表紙と裏表紙の絵を見ても実感できるのではないかと思った、リアルさ漂う月虫の存在感である。
そして、富安さんの絵本に於ける文章からは、児童文学で詳細な表現を綴るのとはまた異なり、必要最小限、且つ、無駄のない文章量で絵を邪魔することなく、その上、お話を目まぐるしく展開させて面白さも損なわない、そうした書き方には児童文学、絵本、それぞれの特性や魅力をどのようにすれば引き出すことができるのかをよく分かっていらっしゃるのだと感じたのも、高校生の頃から執筆し続けている、その膨大な作品量の多さがものの見事に物語っているのではないかと思えば、肯けるものもあるのではないだろうか。
更に注目すべき点は、このお話ならではの中々体験できないであろう面白さで、それは富安さんが『昔から納得いかなかった』と思っていたことが発端となったこともあって、読み始めた当初はオリジナルのお話かと思っていたのに、途中でいきなり、よく知るお話の世界に迷い込んでしまった感覚というか、しかも、その新解釈には理に適った納得感があるのが素晴らしい、ある意味で言うところの衝撃作で、事前情報無しで読むと、かなり驚くと思います。 -
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ただ今、富安陽子さんの作品を読み続けて、不思議な物語の魅力を知りたい期間中です。
本書は「シノダ!」シリーズの一作目(2003年)で、そのタイトルは富安さんのあとがきによると、『信田妻』の物語を元にして生まれたからとのことで、一匹の雌狐が人間の男の妻となって、子どもをもうけるが、やがて正体を知られ、家族の元を去っていく、という内容に、私は切ないものを先に感じたのだが、そこを富安さんは、『狐の母と人間の父、そしてそのあいだに生まれ、ふしぎな能力をさずけられた子ども』という部分に魅力を感じ、物語を書きたいと思われて、あれこれと空想を楽しんできたそうで、そうした前向きな印象が、そのまま本書の物語によく表れていることにも肯けるものがあったのだ。
ということで本書は、人間のパパとキツネのママ、キツネの血をひく三人の子どもたちを中心とした「信田家」の物語で、正体を知られないようにあれこれと苦心したり、癖の強い変わりものぞろいのキツネ一族に振り回されたりと、信田家には災難が付きまとうのだが、それでも大庭賢哉さんのポップな絵や、五人の家族それぞれの個性に感じられた親しみやすさが、そうした辛さを上回ることによって、明るくコミカルなドタバタ劇でありながら家族の絆にほろりとする部分もあってと、様々な感情を呼び起こしてくれる王道の物語となったのだと思う。
中でも印象的なのが、登場人物紹介に書かれた、一つの家系図にまとめることのできる十人のキャラクターの個性であり、上記の五人の他にも、テレビが見たいときだけ信田家に現れる、時代劇好きの「鬼丸おじいちゃん」(ママの父)や、不吉な予言を告げるときだけ現れる「ホギおばさん」(ママの母の妹)、冒険好きで話は面白いけれども、周りに迷惑をかけて評判の悪い「夜叉丸おじさん」(ママの兄)に、化け術の名人だが性格には難がある「スーちゃん」(ママの妹)と、多彩な癖の強さがある中、イツキおばあちゃん(ママの母)に至っては、ママの結婚に大反対だったことから未だに孫たちにも会わない状況にいてと、暗雲立ち込める要素も感じられそうだが、基本的には悪気の無い様が憎めない、キツネ一族の面々である。
そんな彼らの影響もあって様々な災難に巻き込まれる信田家の五人は、理由あって自宅の風呂場で暮らすようになった「チビ竜」に対して、両親は雲竜の子どもということもあって警戒するものの、そこは好奇心の塊である長男の「タクミ」(小学三年生)が、すぐに打ち解けて仲良くなったことで、普段は家の秘密を守るために頑張るしっかり者の長女「ユイ」(小学五年生)も、一緒になって盛り上がり、次女のモエ(三歳)は、チビ竜の件は秘密なのに幼稚園に連れて行きたいと言う無垢さが愛らしい、そんな特別な家庭に於いても他の家庭と変わらないような子どもらしさを見られるのは、物事にこだわらない大らかなパパと、常に周りを明るく愉快な雰囲気にさせてくれるママの支えが大きい。
それでも、時には壁にぶつかることもあり、ユイは身内に翻弄されて、タクミは男子ならではの繊細さを覗かせる一方で、普段、皆から守られることの多いモエは思わぬ場面で活躍したりと、キツネの血をひいた能力の開花と共に成長していく三人の子どもたちの姿も、このシリーズの魅力の一つなのではないかと思われる中、その道を照らすのは人間との愛を選んだママの、ちょっとやそっとでは消えそうもない、強く輝く意志の宿った光だ。
それは、『災難をのりこえられないことは不幸だけど、災難をのりこえていくことは、人生のたのしみの一つなんだから』や、『お日さまにむかっていれば、影は、じぶんのうしろにかくれる』のような、物語の子どもたちだけではなく読み手にとっても励まされる言葉たちに、何よりもよく表れているのだと感じられた、そこには『信田妻』の物語を元に想像を膨らませて、このようなユーモアと力強さとが同居する現代的な家族の希望の物語を書き上げた、富安さんの小説家としての素晴らしさも感じられたのである。
もちろん、富安さんならではの興味深い不思議な楽しさは本書でも健在で、それは稲妻をある姿に例えたことや、水の精霊と大地の精霊が結ばれて生まれた子どもの話と、それらに感じられたロマンには、人間と自然や動物たちとが結びあった絆の賜物とも思われて、また富安さんから素敵なことを教えてもらったと実感したことで、『見えないもの』の魅力はより増してゆく一方なのであった。 -
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ただ今、富安陽子さんの作品を読み続けて、不思議な物語の魅力を知りたい期間中です。
本書は「菜の子先生」シリーズの一作目(2003年)となり、これまで読んできた富安さんの児童文学が全て長編だったのに対して、初の短編集となるのだが、いわゆる各話の内容が繋がった連作集ではなく、舞台となる小学校や登場する子どもたちも違っている中、唯一の共通点は菜の子先生が必ず登場することで、そうした構成から感じられたことは、『どこの小学校でも菜の子先生に会える可能性がある』ということであり、それは見方を変えてみれば、子どもたちは菜の子先生のような、ありそうで無い立ち位置にいる方を、実は必要としていて求めている、ということなのではないだろうかと思った点に、このシリーズならではの素晴らしさがあるのではないかと思う。
山田菜の子先生は、左右にくるっとカールした髪型と丸い眼鏡に白衣を着た小柄な見た目が特徴的で、それはYUJIさんのシュールさと可愛らしさとが同居した絵からも感じられたのだが、中でも他の先生にはできない菜の子先生ならではの素敵な個性(?)として、楽しくて大切なことにも気付かされる、不思議な世界へと連れて行ってくれることがある。
例えば本書で読む最初の物語、いわゆる読み手にとっても菜の子先生との初対面となるシーンでは、校庭の周りには誰もいないのに「しずかに しなさい!」と桜並木の下で叫んでいる菜の子先生がいて、ちょっと驚いてしまうのだが、そこには『気分がウキウキしてくると、つい、はめをはずしたくなるのでしょうね』と、春の陽気につい楽しさを覚えるのは子どもたちだけではないことを、さり気なく教えてくれて、それは子どもによっては『自分が上靴になったところを想像するのは、おそろしくむずかしい』と思いながらも、想像してみることの楽しさが、やがては相手の気持ちを知ることへと繋がることの大切さでもあることに気付かせてくれた、そこには本書のキーワードでもある、『目には見えないものがあるのだということを知る素晴らしさ』でもあった上に、それは『教室を吹きぬける風のように』、決して絵空事の話だけではないのである。
時には冷静沈着さが厳しい印象を与えることもあるものの、良いところも手放しで誉めてくれるため、最後には、どの子どもも「またいつかどこかで会えませんか?」と聞きたくなる、そんな魅力が菜の子先生にはあって、それは初対面なのに、何故か出会う子どもたちの名前を知っている菜の子先生の不思議なところも、おそらく子どもたちにとっては自分のことを見てくれているという安心感を与えてくれるのだろう。
そんな菜の子先生が繰り広げる不思議な世界の楽しさは他の物語も同様で、それは飼育委員をやりたくないと思っていた女の子が、思いも寄らぬ冒険に巻き込まれたことによって(富安さんらしく、おとぎ話の要素もあり)、その気持ちが180度変化したことや、菜の子先生の見た目の印象そのままとも思われた理科室での不思議実験は、狭く閉じられた箱庭の世界から生まれ無限に広がる永遠とも思えそうな素敵な内容と、「何が見えても、ひと言も口をきいてはいけません」と、子どもたちにとって無理難題とも思えそうな前振りでスリルのある楽しい展開にさせつつも、最後にはそれを達成させてみせる点に、教師としての説得力も感じさせる素晴らしさがあったのだ。
中でも特に印象深かった物語は、終始優しい雰囲気のまま(これはとても珍しい)菜の子先生が接する女の子の話で、その繊細なやり取りがずっと続いたのは、彼女が水泳を苦手なことで悩んでいたからなのだが、ここでは彼女のネガティブながら共感できる子どもも多いのではと思われる願い事が、思いもかけないほど良い方向へと好転していく、そんなマイナスの発想がプラスへと転換されていくような不思議でありながらも優しくて温かい展開には、現実でも起こり得る可能性の素晴らしさと共に、物語としての面白さもしっかりと確立しており、そういったところにきっと、富安さんの物語の素晴らしさも垣間見えるのだろうと思う。
そして、放課後に忘れ物を取りに行くことになった男の子の、逢魔が時のドキドキ感となぞなぞを解く面白さとが合わさった物語は、『あとがきにかえて』の富安さん自身の小学生の頃のエピソードと共に、そこに隠されたメッセージを探す楽しさも重なるものがあったことから、菜の子先生というキャラクターは富安さん自身の願いから誕生したのかもしれないと思い、それは菜の子先生の言葉『運が良ければ、また、会いましょう』と、『私は、どこにも行きません』という、一見相対した意味合いと思われながらも、そこにこそ世界には見えないものがあるということの素晴らしさを実感させられて、そうした素晴らしさを富安さんは物語という形で、ずっと伝え続けたいのだろうなと私は思うのだ。 -
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ただ今、富安陽子さんの作品を読み続けて不思議な物語の楽しさを知る期間中です。
本書は「小さなスズナ姫」シリーズ(新美南吉児童文学賞受賞)の一作目(1996年)で、主人公のスズナ姫こと「喜仙菘姫尊(きせんすずなひめのみこと)」は、喜仙山脈をおさめる山神「喜仙大厳尊(きせんおおいわおのみこと)」の娘で、もうすぐ300歳(人間でいうと6歳くらい)になろうというのに、毎日雲の御殿で留守番をすることに耐えられず早く父親から巣立ちをしたいと感じていた、というように神様が主人公でありながら、まるで人間のような過保護な父と自立心に溢れる娘とのやりとりに思わずクスッとさせられた楽しさは、きっと神様に対する親しみやすさを子どもたちに与えてくれるのだろうと思う。
そんな毎日に飽き飽きしていたスズナ姫は、以前父との散歩で(雲に乗って)見た彼女の名前の元ともなった「スズナ山」を気に入り、ある日、意を決して父に「スズナ山をあたしにちょうだい」と大胆発言をしたものだから、山神さまもびっくりぎょうてん。
そんな軽はずみな発言とも思われたスズナ姫に対して父は、『山をおさめるということは、その山に生きるすべての生き物の命をつかさどるということなんだよ』と説いたのだが、それに対する彼女の返事が『この、わからずやのヒゲおやじ』と、実に豪快であることに小気味良さを感じたことには、その陰で『まだ小さいから』と何度も言われることに、いい加減うんざりしていた思いがあったからであり、しかもそこには、「あたしのことをもっと信用してよ」という繊細なものも潜まれているのが感じ取れたからこそ、私も共感することができて、そこから私はもうすっかりスズナ姫の味方となったのだ。
それならばと父は、「スズナ山の木々の葉を一日で全て紅葉させてみなさい、そうすれば望みを叶えよう」と、彼女に持ち掛けることによって、果たしてスズナ姫はその仕事に成功してひとり立ちできるのかという、物語の読み所も明らかとなったのだが、それを達成するためには様々な困難が待ち受けていたのであった。
飯野和好さんの絵に感じられた素朴な雰囲気は、そのままこのシリーズの世界観を表しているようで、それは喜仙山脈の中に於いて、ささやかながら忘れられない景観が個性的な『まあるい』スズナ山の、全体がしっとりと雑木林に包まれている中、まるで『山が金の王冠をかぶっているような』山の頂き周辺だけは木立が途切れて風草の原っぱが光っていて、更に王冠の頂きには大きなクスノキが枝を広げて優しい木陰を作っている、そんな自然の佇まいには、父が『小さいが、やさしくてうつくしい、いい山だろう?』と、娘の名前をここから取ったことにも肯ける魅力を感じられた。
また、子どもたちを魅了する本書に登場する呪文の一つである「雲呼びの呪文」は、山神さまの乗る雲の名前が機能性重視の「天速雲(あまのはやくも)」に対して、スズナ姫の雲は『天ノスズシロ』=『空とぶダイコン』と、自ら名付けた点に見られる遊び心いっぱいの楽しさにも感じられた彼女の個性は、かつては父である山神さまの家来であったが、今は彼の命令に背いた形となった、ある出来事によって罰を受け続けているモッコウギツネを大将としたキツネたちの気持ちにも良い影響を与えたようで、若さ故の過ちもあったものの、それを補って余りうるほどの豪快さと優しさが同居した彼女自身の魅力にはシリーズものならではの、これからどんな風に成長していくのかといった楽しみも潜まれていたのである。
『からだはちいちゃいが、きもっ玉はでかい。水のようにすましかえっているかと思うと、火の玉みたいにポンとはじけるぞ』
そして、富安さんの物語の素晴らしさの一つとして、これは前回読んだ『空へつづく神話』もそうだったのだが、子どもが大人に感じているモヤモヤ感を代弁してくれることによって、読んでいる子どもたちの、時に誰にも打ち明けられないような繊細で微妙なところにも、彼女の児童書はしっかりと寄り添ってくれる温かさがあり、例えば本書では、『なんでもみとおせる山神さまが、むすめの心の中をみすかせないというのは、まったくふしぎなことです』と、お父さんは内心、一日でスズナ山を紅葉させるのは無理だろうと予想していたことだって、実際にやらせてみたら・・・というように、子どもたちの中にある可能性も不思議なものであることに変わりはない、とても魅力的な扉なのである。 -
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富安陽子さんの作品を通して、彼女の物語の魅力を知るため、彼女の作品を読み続けている期間中です。
今回はずっと前から作品名は知っていたものの、敷居の高そうな印象を勝手に抱き敬遠していた作品なのだが、これが読んでみると、グイグイと引き込まれていく面白さで、明治時代のことを全く知らなくても楽しめるのは、やはり物語の魅力なのだろう。
富安さんならではの歴史、伝承、怪奇ものを贅沢に詰め込んだ本書は、大阪の古物商の娘「花岡イカル」が主人公であることや、彼女が働く場所が「文部省博物館(現、東京国立博物館)」であることによって、当時の古道具や美術工芸品を楽しめる趣向にもなっていることから、学校の授業とはまた違った視点で知る日本史の面白さにも繋がっているようで、それは、河鍋暁斎、田中芳男、トノサマこと織田賢司など、実在の人物が物語に登場することによって感じる親近感が、より興味を持たせるきっかけとなる上に、それは物語自体に臨場感を持たせた面白さにもなっている。
日本史の面白さや興味深さについて、もう少し書くと、私は明治時代について殆どと言っていいほど無知だったのだが、馬車鉄道や海の上を走る汽車など、本書で初めて知る過去の出来事から改めて日本の面白さを実感したり、当時の新しい立派な博物館が戦場跡に建ったことに思いを馳せてみたり、そこで行った美術工芸品等の収集には、『文明開化や廃仏毀釈の流れの中で打撃を受けていた日本古来の文化財の損失をくいとめ、保護する役目もはたした』ことを知ることで、当時の人々はどのような気持ちであったのだろうと想像してみたくなる、そこには「文明開化」や「廃仏毀釈」の言葉の意味を知るだけでは分からない、当時の人々の思いを知りたくなる気持ちが、より興味を抱かせるきっかけとなるのではないかと思ったのである。
勿論、学びの面白さだけではなく物語自体の面白さも印象的で、両親を相次いで失い、母の遠縁を頼って東京にやって来たときは、「これからどう生きていけばいいのだろう?」という不安な気持ちでいっぱいだったイカルであったが、その後に「古蔵」での「怪異研究」という仕事を知ったときの、『あやしげであったが、その言葉に胸が高鳴るのを覚えた』ことによって、古物商での父の姿を見て育った彼女が好きなものに出会えた喜びへと好転する、そうした展開には思わず読み手も乗せられてしまい、イカルと一緒にワクワクするような不思議な謎を追いかけたくなる。
イカルにとって上司にあたるトノサマや、河鍋暁斎の娘「トヨ」、トノサマの奉公人「アキラ」といった登場人物が物語に更なる彩りを与える中、彼女が挑む「黒手匣」の謎には思いの外に切なさが宿っていて、それは『生と死』や『命の存在』について考えさせられる部分も強く、単に楽しいだけの物語にはしていないところもポイント。
そして、「イカル」という名前に込められた母の気持ちを思い出して、前を向こうとする彼女の未来への思いと交錯するのは、『目に見えているものだけが全てではない』という新たな視点で知る世界の見方だと思い、そこにはイカルが挑む謎や怪異だけではなく、現代でも自然の多い地で耳を澄ませば不思議なものたちの声が聞こえてきそうだと感じる、富安さんの、そこには決して畏怖だけではなく古代の人々への敬意やロマンも垣間見えた、彼女のいつまでも変わらぬ思いが物語の根幹に潜んでいるのではないかと、私は思うのである。 -
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ネタバレ冨安陽子さんと言えば、昔々に読んだ『キツネ山の夏休み』実に久方ぶりにこの著者の作品を読ませてもらった。
大阪の古道具屋の娘イカルが、両親を亡くし、上野の遠縁のもとへ身を寄せる。河鍋暁斎の娘、おトヨと友達になり、それがきっかけとなって、博物館の古蔵にお勤めすることに。
貸してくれた方も言っていたが、とてもしっかりした少し不思議ミステリー。なかなか知識が要求されるので、大人でもしっかり楽しめる。上野博物館の横の古蔵って、寛永寺の持ち物だったのねぇ。確か今でもあったような…
トノサマ御用達の鰻屋さんもいいけれど、お豆腐屋さんにも行ってみたいのです。
3歳で不老不死はやっぱりやだなぁ。
五島列島への憧れは強まりました。