中野京子のレビュー一覧

  • 名画の謎 旧約・新約聖書篇

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    252P

    中野京子さん映画の話もしてくれるのが良い

    フェルナン・コルモン画塾

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「我々日本人の多くは、さして聖書に興味などないので、「きゅうやく聖書」「しんやく聖書」と聞いて「旧訳聖書」「新訳聖書」と思い込み、翻訳の古い新しいの違いであろうと勝手に納得していたりする(かつては筆者もそうでした……)。  正しくは「旧〈約〉聖書」「新〈約〉聖書」であって、「約」とは「遺言」という語から派生した「契約」の意。要するに神と人との契約である。その契約になぜ新旧あるかといえば──救世主( =キリスト)イエスによる新しい救いの契約を「新約」と呼んだがゆえに、それ以前のものは必然的に「旧約」となる。おまけに「旧約聖書」を、イエス・キリスト出現を予言した旧い契約の書とみなした。  ここに問題が発生する。こうした新旧の分け方は、あくまでキリスト教徒の考えによるものでしかなく、「旧約」という呼称自体が差別的、よって「ヘブライ語聖書」と呼ぶべき、などさまざまな批判が出ている。このいわゆる「旧約聖書」は、キリスト教徒だけの聖典ではないからだ。つまり、  ユダヤ教 =旧約聖書 +タルムード(ユダヤ教口伝律法)  キリスト教 =旧約聖書 +新約聖書  イスラム教 =旧約聖書 +新約聖書 +コーラン  全くややこしい。  もとはといえば、同じ聖典から発した宗教なのに、まるで内ゲバのごとく、何世紀にもわたって角突きあわせているのだから、何とも凄まじい話ではないか。一神教の苛烈さは、温暖な土地で田を耕し、八百万の神々を信仰してきた日本人の、とうてい理解の及ぶ範囲ではないように思えてくる。  というわけで、本書では、信仰の問題や教義解釈には踏み込まず、各時代の各国のさまざまな画家たちが、いかに工夫を凝らして聖書の物語を魅力的に視覚化してきたか、という点にしぼって見てゆきたい。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著


    「ミケランジェロの威風堂々たる神や筋骨隆々の美男アダムに比べ、クラナハはさすがドイツ人、理想化への意志は薄く、全体に世俗感あふれている。神はごくふつうの老人以外の何ものでもなく、髭面アダムは高貴さとは程遠く、その肉体もどちらかといえば中性的だ(人体比も正しくない)。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ミケランジェロ・ブオナローティ(一四七五 ~一五六四)は、フィレンツェの没落貴族の息子として生まれた。彫刻、絵画、建築に数多くの傑作を残したルネサンスの巨人。生前から「神のごときミケランジェロ」と讃えられていたにもかかわらず、本人は自らの才能に懐疑を抱き、苦悩し続けた。六十代のころ友人宛の手紙に、「わたしは哀れな男で、これといって良いところはほとんどない」「若いころマッチ製造でも始めていたほうが、どれだけ良かったか」と本気で嘆いているのが面白い。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「いずれにせよこの話の要が、神の愛、即ち親の愛情をめぐる兄弟間の葛藤にあるのは明らかだろう。ユングはこれをカイン・コンプレックスと名づけた。親という権威者の行為を、子どもの側から問うのはきわめて困難である。親自身が問題を抱えているがゆえに自分は拒否されるのだ、と理解できる子は稀だし、たとえ理解できるようになったとしても、不平等な扱いに心の傷は容易に癒されない。一身に愛を受けるきょうだいに対しても、激しい嫉妬や憎悪を向けずにおれない。  よく知られた歴史では(真偽は確認されていないらしいが)、伊達政宗の例がある。幼いころ天然痘を患って隻眼となり、それを疎んじた実母は弟を偏愛。長じて対立するようになった弟を、ついに政宗は斬り殺したという逸話だ。戦国の世なので苛烈な結末だが、死ぬの生きるのとまではゆかずとも、カイン・コンプレックス状態のきょうだいを抱えた家族は少なくないのではないか。スタインベックの『エデンの東』(映画化作品も有名)も、父の愛に飢えたキャル( =カイン)の悲しみが印象的だった。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ウィリアム・ブレイク(一七五七 ~一八二七)は、時代に全く沿わない画風だったため、生前ほとんど認められなかった。本格的に評価されるのも、二十世紀に入ってからと遅いが、今では幻視的、神秘主義的な詩(特に詩集『無垢の歌』)でも名高い。  フェルナン・コルモン(一八四五 ~一九二四)は、フランス・アカデミーの大御所のひとりで、レジオン・ドヌール勲章も受章している。彼の画塾にはゴッホ、ロートレック、ベルナール、それに藤島武二が学んだことで知られる。『カイン』が発表されたのは、アルタミラの洞窟で壁画が発見された翌年の一八八〇年。考古学の大ブームに乗り、この絵も評判を呼んだ。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著


    「ブリューゲルは大建造物の建築工程を、きわめて正確に描写している。彼が生涯の多くを過ごしたアントワープは、古代のバビロンにも似た国際都市だったから、ひっきりなしに大工事があり、つぶさに観察して一部始終をスケッチしたと考えられる。建築に関心のある人にとっては、それだけでもこの絵はじゅうぶん楽しめるはずだ。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ミヒャエル・ヴィルマン(一六三〇~一七〇六)は、今ではもうほとんど忘れられたドイツ人画家。  ウジェーヌ・ドラクロワ(一七九八 ~一八六三)は、『民衆を導く自由の女神』など、多くの傑作で知られるフランス・ロマン主義の代表的画家。戸籍上の父とは違い、実の父は政治家タレイランとされる。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「また古代ギリシャ・ローマ人なら、「淫乱」がどうして責められるのか不満を表明したろう。この欲望は官能に結びつき、官能は芸術の源であるから、讃美されこそすれ批難される謂れはない、と。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「新作『ノア  約束の舟』(ダーレン・アロノフスキー監督、 2014年製作)は、聖書の記述どおりに方舟を復元したというが半分は CGらしい。何よりテイストがアクション映画以外の何ものでもなかった。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「性を汚らわしいと見る考え方は、司祭の身にとどまらず一般信徒へも及び、必然的に、出産目的以外の性交を禁じる方向へ進む。ヨーロッパでは長らく同性愛が犯罪とされ、時代によっては死刑や流刑となった。マスターベーションも心身を損なうとされ、時に精神疾患の原因にあげられ、少年たちは厳しく監視された。堕胎はもちろん、宗派によってはコンドームも認められていない。  こうした中、マリアの処女受胎が聖性の最大の証となるのは必然であろう。その点は理解できる。しかし科学的にはありえない処女受胎を、いったい現代人がどうして信じられるのか?──クリスチャンによれば、それをそのまま信じることこそが「信仰」の由。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 ずいぶんオデコの広いマリアだ、との感想を持つ向きもあるだろう。そのとおり。これはルネサンス・ファッションであり、金髪で、しかも艶々した広い額が、当時の美女の条件であった。いわば幼児のように、顔の上半分が大きく下半分が小さければ、あどけなさ可愛らしさが醸しだされるという次第。となると美を追求してやまない女性たちがすることは、ひとつ。生え際を脱毛して、頭頂部に近いところまで「額」と言い張るようになった。脱毛後、再び髪が生えてこないように、蝙蝠の血や毒人参をすり込んだ例もあったというから恐れ入る。  それはともかく、レオナルドの異端ぶりが、大天使の持つ白百合に見られるとの説がある。克明な筆致で蕊が描かれているのだ。要するに、百合の花が雄蕊と雌蕊の交配によって開花するように、マリアもまた処女ではなかったと暗示しているという。では、閉じられているべき空間がそうなっていないのも、異端の証拠だろうか?  低い石塀が画面中央あたりで空いており、そこからくねくねした道が続いているのが見える。レオナルドは、処女受胎などありえないと言いたかったのだろうか?  自ら死体を数体解剖、研究し、男女交合解剖図まで残しているレオナルドは、当然ながら懐妊の仕組みもつぶさに知っていた。後年の作品『聖アンナと聖母子』では、マリアの母アンナの足もとに、こっそり胎盤を描き入れたとも言われている。「こっそり」と言うだけあり、他の小石とあまり区別がつかないのが難であるが。彼の作品はどれも不思議に謎めいているため、誰もが深読みしたくなるのかもしれない。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二 ~一五一九)はミケランジェロと並ぶルネサンスの巨匠。『モナリザ』があまりに有名なため、肖像画を多く描いたというイメージがあるが、作品の大部分は宗教画だった。  ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(一八二八 ~一八八二)は、時のアカデミーがラファエロを最高の見本としたのに反撥し、それ以前の初期イタリア・ルネサンスを再評価すべしとして「ラファエル前派」を結成したが、次第に神秘主義的作風になっていった。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ブリューゲルによる、十六世紀半ばフランドル地方の冬景色。いかにも鋭い観察眼と見事な技量の天才らしく、画面の隅々にまで神経のゆきとどいた、しかも秘密と謎がいっぱいの魅力的な作品に仕上げている。  ──夕暮れの村は雪に覆われ、家の軒下には長い氷柱が垂れさがる。点在する木は寒々とした裸形をさらし、川や池には厚い氷が張っているため、人々はもはや渡し舟を使う必要はなく(左端に雪をかぶった大きな平底舟)、徒歩で行き来している。  この時代、とりわけ本作完成前の数年間は、ヨーロッパ全土が強い寒波に襲われ、冬の根雪は長引き、夏の降水量も増大して不作が続いた。食糧貯蔵法も物資輸送もまだ確立されておらず、農民たちには凶作とそれによる飢餓や疫病から身を守る術はほとんどなかった。現実の歴史が伝える彼らの姿は痩せ衰え、なおかつ重税や異端審問に喘いでいたが、絵の中では寒さにも負けず活力を漲らせて動きまわり、一回限りの人生を精一杯味わっているように見える。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ピーテル・ブリューゲル(一五二六頃 ~一五六九)は自己を語らず、秘密に満ちた画家だった。農民の生活風俗を多く描いたが、本人が農民というわけではなく、おおぜいの知識人と交流し、パトロンにはハプスブルク家の面々もいた。そのためブリューゲルが農村風景を扱ったのは、単にテーマとして面白かったからだとか、愚かで無知な農民を知的に観察しただけで、ハプスブルク批判の証拠は見られない、と断言する美術史家もいる。描かれたもの以上を汲み取るのは、美術解釈ではなく社会学的解釈にすぎない、と。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「「最後の晩餐」と聞けば、多くの人がパブロフの犬なみに、レオナルド・ダ・ヴィンチ作品を思い浮かべるだろう。しかもその傾向は、ダン・ブラウンの世界的ベストセラー『ダ・ヴィンチ・コード』以来、とみに顕著になったと思われる。  このミステリが映画化されてまもなく、我が友人が『最後の晩餐』の所蔵先──ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会( =聖母マリア深謝教会)──から戻って曰く、各国語版『ダ・ヴィンチ・コード』を片手にした各国の旅行者がうようよいた!  かつてはそれほどでもなかった。昔むかし、学生のわたしはお気楽な観光旅行中、いちおう有名な絵だから見ておかねばと現地へ行ったのだけれど、事前予約など必要なく、さほど混んでもいなかった。ただし絵の印象は強烈だった。世紀の傑作に感動したからではない。単にびっくり仰天したのだ。壁に描かれたそれは、昼日中に迷い出てきた幽霊みたいに、今にもすうっと消えてしまいそうだった、いや、すでにもう半ば壁に溶けて消えつつあった。わたしは思った、この絵は近々この世から完全に消滅する、しっかり目に焼きつけて、実物を見ることのできない後世の人に伝えねば。  若さの気負いであったが、目に焼きつけるも何も、全体が陽炎のように曖昧ときては、夢を忘れないでいる困難と同じだ。良し悪しどころか好き嫌いすら感じようもない。美術の教科書で見た写真の、それは白っぽい残像でしかなかった。  なぜそんなに保存状態が悪かったのか?  責任は、第一義的にはダ・ヴィンチ本人にある。彼が依頼されたのは、教会に付属した修道院の食堂の壁に、「最後の晩餐」を描くことだった。これは特に珍しいことではなく、イエスが弟子らにパンとワインの意味を語るシーンは修道僧の食事の場にこそふさわしい主題とされ、多くの修道院が発注していた。受けた画家は作品の耐久性を考慮し、壁画向きのフレスコ画法(壁に漆喰の下地を作り、乾かないうちに手早く顔料と水で仕上げる)を用いたので、ほとんどが今なお健在だ(サン・マルコ修道院のギルランダイオ作など)。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「なぜ欧米でユダヤ人は嫌われているのか?  外見や階級の違う相手、また異教徒や異国人に対する差別感情なら(良し悪しは別として)理由はわからなくもない。ところがユダヤ人の場合、どうしてこれほどにも長く社会的差別を受け続け、時に憎悪されてきたのか、一般の日本人には理解困難、というのが正直なところだろう。  なにしろ紀元前のモーゼのころから始まり、シェークスピア作『ヴェニスの商人』のシャイロック、実在の音楽家メンデルスゾーン(拙著『芸術家たちの秘めた恋』〔集英社文庫〕をお読みください)、そしてナチの強制収容所……ごく最近ではキリスト映画『パッション』を監督したメル・ギブソンが、ユダヤ人女優に向かって「オーヴン・ドジャー」( oven dodger =ホロコーストで焼却を免れた奴)と、凄まじい罵り方をしたという。口あんぐりだ。  筆者は以前、反ユダヤを隠さない某ロシア人に、なぜかと聞いてみたことがある。彼の答えは、「ユダヤ人はイエスを殺したから」。しかしイエスは、ユダヤの乙女マリアの腹に宿ったのではなかったか。そこで「でもイエスだってユダヤ人でしょう?」と言うと、返事は何と、「ふん」。そっぽを向かれてしまった!  日本人は宗教問題に触れたがらず、反ユダヤ感情についての説明もどこか及び腰で、「国を失ったユダヤ人は各地へ離散し、蔑まれていた金貸し業にしか就けなかったため、差別された」などと教えられることが多い。腑に落ちない道理だ(おかげで、使徒ユダの裏切りのせいでユダヤ人全体が嫌われるようになった、などと思う人もいる)。  ほんとうは、宗教争いが延々今に至るまで続いており、それが反ユダヤ問題の本質ではないか。ユダヤ人はイエスを救世主( =キリスト)と認めない。同じ『旧約聖書』を正典としているにもかかわらず、救世主はまだこの世に降臨していないと主張する。キリスト教徒にとっては許しがたいことだろう、神の子イエスを信じること、それがクリスチャンとしての信仰の第一なのだから。『新約聖書』はユダヤ人の「罪」をこう描く。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 聖書がマリアにごくわずかしか言及していないことを考えれば(受胎告知でさえ、四つの福音書のうちルカ伝にしか記されていない)、人気の一人歩きは奇妙な事態かもしれない。しかし母なるものへの素朴な信仰は太古の昔からあり、そうした地母神のイメージにマリアを重ねる人々の思いを、明確な男尊女卑を貫くキリスト教といえども無視することはできなかった。むしろそれを教義に取り入れることで、さらなる発展を遂げたのだから、したたかなものだ。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「一般の日本人にはカトリックとプロテスタントの違いは難解で、それぞれの教会の区別もつきにくい。そこで、こう覚えておくといい。外観も内部もとにかく華やかで装飾的、磔刑図や聖母子像が飾ってあればカトリック教会。一方、プロテスタント教会は地味でシンプル、十字架はあってもイエスは架けられていないし、もちろんマリア図像はどこにもない。ついでに言えば、カトリック国(フランス、イタリア、スペイン etc.)の食事が概して美味なのに比べ、禁欲的なプロテスタント国(アメリカ、イギリス、北欧各国 etc.)の食事の不味さときたら……恐れ入り谷の鬼子母神。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「従って絵画では通常、イエスの右側(画面むかって左にあたる)にいるのが善男善女、左側が悪党という次第。こうした「右」と「左」のシンボリズムがどうして生まれたかは明確ではないものの、太古から大多数の人間が右利きなのが要因らしい。西洋では今も宴会で主人の右席が上座だ。そもそも rightという英語(ドイツ語もフランス語もイタリア語も同様)自体、「右」の他に「正義」という意味を持つ。  また羊が天国側なのは、イエス自身が「犠牲の仔羊」だから当然として、山羊はなぜネガティブに解釈されるのか?  おそらくキリスト教以前の異教の神々と関係があるのだろう。ゼウスは山羊の乳を飲んで育ったというし、バッカス信仰ともつながりがある。山羊の脚をもつサテュロスやパンは、好色の代名詞だった。キリスト教が多神教を征服するにつれ、次第に山羊(正確には雄山羊)は、悪臭を放つ淫欲の象徴となり、中世末期には、山羊に乗って魔女は空を飛ぶとの民間信仰がひろがってゆき、ついには悪魔そのものが山羊の姿をとるとされた。地獄の住人となったのだ。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「なにしろいつ審判の日が来るか聖書に記述がないので、かえって戦々恐々としてしまう。油断していると、ふいを突かれ、「おまえは左だ」と断罪されるのではあるまいか、と。絵画もそうした人々の恐怖を煽るように、おどろおどろしい地獄の有り様を展開し、日々敬虔な気持ちで過ごすんだぞ、教会に献金し、免罪符を買えよ、と脅した。もちろん羊側に選ばれた暁には、イエスによって天へ昇る恍惚感が得られますよと、飴を見せるのも忘れない。  そうした図像が数限りなく輩出した中で、これぞ決定版とされるのが(何といってもカトリックの総本山に飾られているのだから、これ以上のお墨付きは無い)、このミケランジェロ作だ。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「『エルミタージュ幻想』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)という映画に、こんなシーンがありました。エル・グレコの宗教画を熱心に見ている異教徒の若者に対し、カトリック教徒が、おまえはいったいこの絵の何がわかるんだ、わかりもしないで感心するな、と怒り出し、その剣幕に若者は逃げ出す……。  若者に自らの姿が重なってしまいました。  異教徒には、確かに聖書の教えの本質はわからない。だからといって、ではクリスチャンにしか宗教画の美しさや素晴らしさもわからないのか、といえば必ずしもそうではないでしょう。  真面目な日本人はキリスト教を、というよりキリスト教を信じる人を、貶めてはならないとの意識があるので、宗教画に対しても──ありがたいと思ってもいないし思えもしないのに──何とかありがたさを感じよう、と苦しんでしまう。だからますます鑑賞が難しくなるのかもしれません。」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「聖書が誕生して以来、クリスチャンは常に聖書を読んできたとわれわれは思っている。しかし、本書によれば、全然そうではなかった。聖書は権力者の独占物で、一般大衆は読んではならず、聖職者から聞かせて貰うものだった。  そこで宗教画が登場し、耳から聞いた聖書の物語を補強する。絵は比較的容易に複製を作れる。版画であればさらに簡単だ。また、物語を伝えることもできる。だから、キリスト教の布教にとって、重要な意味を持ったと想像される。  私は、キリスト教のビジネスモデルに強い関心を持っている。なぜ、あれほどの成功を収められたのか?  その理由は学校制度(修道院)にあるとこれまで考えていたが、もう一つの理由が見つかったように思う。  私はまた、仏教では仏像は多いのに絵画が少ないのはなぜか?と昔から不思議に思っていた。理由は、少なくとも平安時代まで、仏教は、大衆への布教より、権力者に受け入れられることを重視したからではないだろうか?  仏像は、複製を簡単に作ることができないし、物語を伝えることもできないから、大衆布教の補助手段としては、絵画に劣る。しかし、権力者の信仰の対象物としては最適だ。キリスト教と仏教の基本戦略の違いが、絵画中心主義と仏像中心主義というビジネスモデルの差をもたらした、とは言えないか?」

    —『名画の謎 旧約・新約聖書篇 (文春文庫)』中野 京子著

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    2026年07月29日
  • 怖い絵 泣く女篇

    Posted by ブクログ

    673円

    ★再読

    目次
    作品 1  ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』
    作品 2  ミレー『晩鐘』
    作品 3  カレーニョ・デ・ミランダ『カルロス二世』
    作品 4  ベラスケス『ラス・メニーナス』
    作品 5  エッシャー『相対性』
    作品 6  ジェラール『レカミエ夫人の肖像』
    作品 7  ブリューゲル『ベツレヘムの嬰児虐殺』
    作品 8  ヴェロッキオ『キリストの洗礼』
    作品 9  ビアズリー『サロメ』
    作品 10  ボッティチェリ『ホロフェルネスの遺体発見』
    作品 11  ブレイク『巨大なレッド・ドラゴンと日をまとう女』
    作品 12  フォンテーヌブロー派の逸名画家『ガブリエル・デストレとその妹』
    作品 13  ルーベンス『パリスの審判』
    作品 14  ドレイパー『オデュッセウスとセイレーン』
    作品 15  カルパッチョ『聖ゲオルギウスと竜』
    作品 16  レンブラント『テュルプ博士の解剖学実習』
    作品 17  ホガース『精神病院にて』
    作品 18  ファン・エイク『アルノルフィニ夫妻の肖像』
    作品 19  ハント『シャロットの乙女』
    作品 20  ベックリン『死の島』
    作品 21  メーヘレン『エマオの晩餐』
    作品 22  ピカソ『泣く女』

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。


    解説
    小池 昌代
    (こいけ まさよ、1959年7月17日 - )は、日本の詩人、小説家、翻訳家。雑誌編集をしつつ詩作し、詩集『永遠に来ないバス』(1997年)で現代詩花椿賞受賞。川端康成文学賞受賞の『タタド』(2007年)で、作家としても注目される。ほかに短編集『ことば汁』(2008年)、『たまもの』(2014年)など。1959年、東京都江東区深川に生まれる。実家は祖父の代からの材木店。江東区立明治小学校・江東区立深川第二中学校・東京都立両国高等学校を経て(石田衣良と同級生)、津田塾大学学芸学部国際関係学科を卒業。小学校時代からピアノを習い、高校で初めてヴィオラを学び、のちアマチュアのオーケストラや弦楽四重奏団に参加した。


    「ジャン・フランソワ・ミレー(一八一四 ~七五)は、北フランスの中農出身で、本来は家を継ぐべきだったが画家になりたくてパリへ出た。当時の人気画家ドラローシュ(作品 1『レディ・ジェーン・グレイの処刑』)に師事し、ロココ風の作品でサロン入選を果たすかと思えば、師匠を真似て歴史画にチャレンジし、失敗するなど紆余曲折の末、けっきょく都会とは肌が合わないのを見極め、三十代半ばで家族とバルビゾンへ移住した。  後に「農民画家」と呼ばれるようになるのは、ここで暮らすうち自分の描くべき対象をはっきり見つけて以来である。現代でこそミレー作品は「名もなく貧しく美しく」生きる人々への素直な讃歌として愛好されているが、発表当時はパリ二月革命後の社会主義思想への危機感もあって、芸術というよりプロパガンダ絵画と見なす人も多かった。  そうした賛否両論の渦には、片やゴッホが、片やボードレールがいる。ゴッホはミレーを神聖視し、ミレーの複製画を二十作も手に入れてせっせと模写し、自己流『種撒く人』も数点描いている。ゴッホにとって彼は画家としてばかりでなく、生きる上での師とも仰ぐ相手だった。貧しさに喘ぎながらも決して妥協せず、芸術に邁進した偉大な手本こそがミレーだった。  一方、ボードレールの貴族趣味的美意識には、現実をリアルに抽出した農民画は合わなくて当然だ。彼は、ミレーの画中の人物たちが「この世の富を奪われた哀れな我々こそが、この世を富ませているのだ!」と常に主張しているようで嫌だ、と公言している。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「しかし彼が長年にわたって『晩鐘』に固執し、これをモチーフに山ほど作品を産み出し、それらの作品には見間違えようなく恐怖が織り込まれているという事実を見れば、やはり強い情動反応を惹き起こす何かが──たとえ万人と共有できるものではないにせよ──この絵にはあったに違いない。先端恐怖症の人間が、先の尖った釘や傘の先といったほんとうに危険なものから始まって、しまいには削ってもいない鉛筆や机の角にまで過剰反応するのに譬えられようか。砂漠に佇む骸骨としての『晩鐘』や、天にとどくばかりの巨大な遺跡としての『晩鐘』など、おそらくダリにしか思いつかない突飛なイメージがそれだ。  ダリはまた、『晩鐘』における土に突き刺さった鋤や手押し車も、明らかな性的表象だと主張している。ミレーのような宗教性の高い清貧の画家に対し、何たる侮辱かと呆れるべきであろうか?  いや、存外、「ミレーは十九世紀におけるもっとも矛盾した画家のひとり」というダリの言葉は正しいのかもしれない。あまり知られていないが、ミレーは農民画家になる以前、「女性の裸しか描かない画家」と見なされていた。それもエロティックな、時にポルノそのものの絵を描いていた(バルビゾンへ移住した後もまだ描いていたといわれる)。売れないと知りつつ農民の真実の姿だけを描き続けた、というのはゴッホの(いや、多くの人々の)誤解である。自ら農地を耕していたというに至っては、先入観からくる思い込みだ(妻が家庭菜園をしていただけ)。貧窮していたというが、それも九人もいた子どもが小さいころまでの話で、死ぬまで赤貧洗うが如しだったゴッホとは違う。四十代後半からは画商と高額で三年契約をしたり、浮世絵の収集をしたり、レジオン・ドヌール章を受賞したりもしている。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「ゴッホといいダリといい、どこか異常性を秘めた画家の心をかき乱す何かが、ミレーの静謐な画面に埋もれているのだろうか?  その意味からもミレー像の修正が必要であろう。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「「レオナルド・ダ・ヴィンチの才能に驚いた師ヴェロッキオは、それ以来、絵を描くのをやめてしまった」──この言い伝えは天才伝説というより、多分に真実を含んだものではなかったか。なぜなら現実に、これ以降のヴェロッキオ絵画作品は見つかっていないからだ。『キリストの洗礼』は怖い絵だ。同じ画面に、ありありと力量の違いを見せつける。技法や表現ばかりではない、努力だけでは如何ともしがたい、持って生まれた品格の差まで、ここには自ずからあらわれている。「一流の人間は、超一流の人間につぶされる」といわれる。二流、三流の人間は己の実力を知らず、超一流との差を認識できないため、相手と同等と思い込んだり、努力すれば追いつくと楽観したりして、つぶされるには至らない。しかし一流ともなれば、己の力もその限界もわかり、圧倒的天才を前にすると完膚なきまでに打ちのめされ、萎縮して才能を伸ばせずに終わる懼れがある、そういう意味だ。  ヴェロッキオには、年若い弟子の天才が痛いほどわかったのであろう。レオナルドの方はただ自然に立っているだけなのに、ヴェロッキオにしてみれば、雲つくばかりの巨岩にいきなり立ちはだかられたように感じる。もはや自分が絵画の分野でレオナルドと肩を並べることはあるまいと、見切りをつけた。まだ三十七歳だったのだから、傑作を生み出す可能性もなくはなかったのに、「つぶされた」。  とはいえ、幸いというべきか、ヴェロッキオの本分は彫刻家だった。そしてこの後も、彫刻の分野で一級の仕事を残している(もし彼も絵画一筋であったら、もうひとつの『アマデウス』が生まれたかもしれない)。工房も繁栄させ続けたし、レオナルドとの関係も悪化することはなかった。人物としては大きかった証しであろう。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「 それはサロメが、未だ男と床を共にしたことのない無垢の乙女、清らかで穢れなき処女だったからだ。男たちは──ヘロデも護衛隊長も根は同じ──何も知らない少女に性的欲求はない、汚濁と無縁、と信じたがる。男と同じ欲望は、結婚して初めて生じるものと安心したがる。己の幻想の中に、少女を囲い込もうとする。  だからワイルドのサロメは、衝撃的なのだ。ぎらぎらした欲望の虜になった処女、一度も経験がないのに官能の歓びを先取りした娘、これは(男にとって)脅威であり、怪物以外の何ものでもない。だからサロメは殺されねばならなかった。  全くの話、男性側の勝手な幻想で殺されたり、死んで当然と思われては敵わないが、これは世紀末の歪な悪女幻想の一環であった。先に触れたように、サロメ図は十七世紀の終わりから世の関心を完全に失っていたが、二世紀を経て再び蘇えったのは、写実主義や印象主義にあきたらず、精神世界や神秘幻想に突き進んだ一連の象徴主義や幻想主義の画家たちが、題材を神話や文学に求めたことからきている。  とりわけ好まれたのが悪女たちで、男の血をすする吸血鬼女、魔術によって男を惑乱させる魔女、漁師を海へ引きずり込む人魚、美女の顔と胸を持ち誘惑し喰い殺す怪物スフィンクス、そして男の首を斬るユーディトとサロメ……。  人を殺めかねない危険な女性は、一面また大いに欲情をそそる存在でもある。男たちは、そんな女性の官能の虜になってみたいと思う。ただ困るのは、そんな女性の寿命である。官能は、いかんせん鮮度が落ちやすい。愛は持続可能だが、官能はほんの短い「瞬間」ときつく捩じり合わさっている。決して長続きしないのが、官能の定めなのだ。  よってサロメのように淫乱で悪徳の処女は、若いまま葬るに限る。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著


    「ホロフェルネスの物語という枠組みの中にある、美しい青年の新鮮な首なし死体を、ネクロフィリア(死体嗜好症)が密かに愛でていた可能性も……まあ、なくはない。  サンドロ・ボッティチェリ(一四四四 ~一五一〇)は、メディチ家という大パトロンを後ろ盾に、十五世紀後半のフィレンツェ美術を代表する画家として名声を馳せた。時代は血なまぐさく、その一方でまた燦然と美に輝いてもいた。この絵のように。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「だからせめて想像してみよう。十七世紀フランドルの人々が、今日ただいま日本で持てはやされているヌードを見たらどう思うか、と。おそらく彼らは、瘦せこけた栄養失調気味の、ラインだけがあって幅も厚みもない、およそ豊穣という言葉からかけ離れた貧弱な裸のどこに美があるか、全く理解できないのではないだろうか。  つまりはそういうことなのだ。我々には大柄すぎ、肉が余分すぎ、官能と無縁に思えるこの三女神は、当時の鑑賞者にとっては目も眩む美女であった。胸の大きさより腹部のふっくら感、引き締まった筋肉より垂れるほどの脂肪が好ましいと思われていた。  ルーベンスの巧みな筆によって、そうした彼女たちの豊かな身体は独特の複雑なねじれを見せ、それによって柔肌の温もりや、さらには甘い芳香すら漂わせていたのだ。そして三人それぞれ異なったポーズをとっているため、あたかも彫刻を見るように、正面、横、バックと、三方向から裸体美を堪能することができた。  これが男性にとっていかに目の保養であったか、実は右端にいるパリスが証明している。描き変えられているのでわかりにくいが、二頭の羊のすぐ下に、いちど脚を描いて消した痕跡が残っている。  つまリパリスは興奮のあまり右脚を突き立てていたのだ。さすがにそれでは露骨で下品すぎると、ルーベンスは(あるいは注文主が)変更を加えたらしい。脚がもしそのままだったら、この絵のエロティックな雰囲気はいっそう濃厚の度を増したであろう。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「いったいこの若者は、どれほどのことをしでかしたというのか?  おどろおどろしい響きの「自然の意志に反した悪行」とは、いったい何なのだろう?──現代人にはのけぞるしかないその大罪とは、マスターベーションのことである!  不健全な、即ち子どもを産むためではない不毛のエロスは罪とされ、それに淫しすぎれば頭がおかしくなると信じられていたのだ。クライストも時代の子だったから、「狂気は道徳の低さの結果」という見方に何ら異議を唱えていない。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「『死の島』は、シュルレアリスムの画家たちにも多大な影響を及ぼした。そして今なお人気は衰えていない。  この絵の核が、小舟でも白装束でもなく、ひたすら島の造型にあると思い知らせてくれるのが、ギーガー(あの戦慄の SF映画『エイリアン』を生んだ美術家)による現代的解釈、いわば「新・死の島」とでも呼ぶべき作品(タイトルは『ベックリンへのオマージュ』)である。  こちらを見ると、ベックリンのオリジナルがいかにロマンティシズムをたたえていたかが、よくわかる。ギーガーの島にそんなものはいっさいない。彼の島は、糸杉を、つまり死そのものを、両腕に抱きかかえ、なおかつ自分は生きて呼吸し、生贄を吞み込もうとする、得体の知れない異生物だ。怖い。直接的に怖い。さすがにこの絵を居間に飾りたいと思う者はいないだろう。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「ド・フリースをはじめとした著名な研究者たちや、数々の美術雑誌も同調する。「『エマオの晩餐』に見られるカラヴァッジョの影響」なる論文まで出た。本作が、同名タイトルのカラヴァッジョ作品と画面構成が似ているからだ。生涯に謎の多いフェルメールだが、これで若いころイタリアで修行していた可能性が強くなった!  二十世紀になって忽然とあらわれたこのフェルメールは、こうしてオランダ美術界の宝とされた。ヨーロッパ美術品を買い漁るアメリカの富豪に持ち去られぬよう、レンブラント協会(ブレツィウス博士が中心になって設立した)の資金援助を得て、ロッテルダムのボイマンス美術館(現ボイマンス・ヴァン・ベウニンゲン美術館)が、当時としては破格の大金五十二万ギルダーで購入。翌一九三八年、当美術館が開催した「一四〇〇年 ~一八〇〇年/四世紀間の巨匠たち」の目玉作品として、華々しくお披露目され、人々を感動させたのである。  これほど大々的とはいえないものの、他にもその後、陸続と「新発見のフェルメール」が美術市場にあらわれ、七点が画商の手を経てコレクターに渡っていた。あまり話題にならなかったのは、第二次世界大戦勃発のせいだ。誰も絵画鑑賞どころではなくなり、美術館は閉鎖された。  やがてオランダはドイツの軍門に下り、どの戦争においても必ず敗戦国になされる仕打ち、即ち、名画略奪(安く買い叩くのも含む)の憂き目にあう。国宝級の作品だけは、何とか守ろうと必死に隠匿したものの、多くが流出してゆく。中に、新発見のフェルメール作『イエスと姦婦』が、絵画愛好家として知られるナチスのゲーリング元帥の手に落ちた。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「この『泣く女』が制作されたのは、大作『ゲルニカ』完成直後である。スペインのフランコ将軍と組んだナチ爆撃機が、バスク地方の無防備な古都ゲルニカを壊滅させた非道を糾弾するため、ピカソは反戦画に取り組んだのだが、制作過程をつぶさに写真におさめたのは言うまでもなくドラであった。たまたまそのときアトリエにマリー =テレーズがやって来たからたまらない。ふたりの女は互いに罵り合い、ついには『ゲルニカ』の前で壮絶なつかみ合いの喧嘩となった。噓かほんとか、「俺がほしければここで戦え!」とピカソがけしかけたからといわれている。  これでは誰だって泣かずにいられまい。  とはいえ一九三六年からの六、七年間が「ドラの時代」だったのは確かで、彼女をモデルに夥しい数の肖像画が生み出された。抽象ではなく具象によるスケッチでは、頰骨の高い端正な彼女の横顔や夢みるような眼差しが、いかにも愛情込めて描かれている。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「ピカソにとってドラは、お高くとまった貴族趣味のオルガとも、若い肉体だけが魅力のマリー =テレーズとも全く違う刺激的なタイプだった。過剰な激しすぎる感情を持て余し、我と我が身を削る危うさを持つドラは「よく泣いた」(ピカソの言)。着飾った美しい女が顔を崩して泣くのだから、まるで顔が突然割れてそこから別の顔が出てきたような驚きを、さすがのピカソも感じたのだろう。『泣く女』シリーズを制作したくなったのもわかる気がする。  シリーズ中の最高峰がこの作品だ。わんわん泣く女への感嘆が伝わってくる。あまりに思いきり泣くので、哀れを誘うというよりその泣きっぷりに惚れ惚れしている。身悶えなどせず、何か顔だけで泣いている感じだ。ドラは捨てられることを予感して泣いているのだろうか。本人にとっては途方もない苦悩かもしれないが、どこか自分の悲しみに淫している気配もある。さんざん泣いた後は存外けろっとしそうでもある。ピカソ自身よく泣く男だったから、泣くことの浄化作用をよく知っていたに違いない。『ゲルニカ』では、殺された我が子をかき抱いて吠えるように全身で泣く母を描いたが、彼はそこに涙は加えなかった。加えないことで、真の悲痛を表現したのである。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「 わたしは絵が好きだが、観るのが速い(恥ずかしい)。展覧会へ行っても、さささ ーっと、ごきぶりのように一巡し、気に入った絵があれば、改めて戻り、じっくり観る、ということをする。  友人と一緒に行った場合は、必ずはぐれるから、最初に、ばらばらに観ようと提案する。ただ、途中で、逆流してきたわたしと、彼あるいは彼女が、ばったり出会うこともある。そういうときは、ちょっと恥ずかしい。  あ、また会っちゃったね。  そういう気まずさもある。でもそれだけではない。絵を観るということは、極めて個人的な経験なのだ。  お互い、ただ、絵を観ているにすぎないのに、それぞれ、絵に、何か、絵以上のものを読み取っている。それが表情に(きっと)表れているので、素顔を観られたように恥ずかしいのかもしれない。  そう、素顔。絵に対面するそのとき、人の心は真裸になる。絵を前にして、何を飾りたてる必要があろうか。真裸と真裸の心が、展覧会をめぐる。その経験を机上で差し出してくれるのが、中野京子さんの「怖い絵」シリーズである。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「 これから、この本の魅力について、語ることになるが、あまりに好きな本というのは、語りにくい。わたしはこのシリーズが大好きで、全巻を手元にいつも置いていた。  仕事に行き詰まると(いつもそうだが)、手にとって、ところどころを拾い読みする。絵を眺めているだけで想像力が刺激され、心が解放されていく喜びを感じた。  中野京子さんの文体が、わたしはたぶん好きなのである。これを書いている今、その文章の波長が、この文章に乗り移ってくるようだ。  著者の文章の特徴は、むしろ、言葉で書かれていないところにある(とわたしは思っている)。一見、論理的で無駄のない、理知的な文章だが、そしてその通りだとも思うのだが、意外にも長い波長を持っていて、人の心の奥深く、ひたひたと押し寄せ、しみとおる。  知識を書いても押し付けがましくなく、洗練されていて知的である。内容はけっこう重たいのに、ぐいぐい読み進めていくことができるのは、怖さの解答を容易に出さず、奥へ奥へと、ひたすら読者を誘うからだ。そのリズムは、まさに展覧会場を歩くテンポ。耳をすませば会場をめぐる、他者の靴音までもが聞こえてくるようだ。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「 わたしたちは、自分自身をよく知らないように、自分が何を、絵から汲み出すのかを知らない。だからこそ何度でも、絵に新しく向き合うことができる。  怖い、というキーワードをシリーズ全体に通したのは、著者の卓抜な直感によるものだろう。  大人になるに従って、一応は経験が増えると、人生から、一つ一つ怖いものがなくなっていくような気がするが、実際は、どうだろう。わたしなどは、人間が怖い。ますます怖いが、それを見てみたいという欲望もある。これほど、人間の芯のところに響いてくる感情はない。生きること、それ自体が、怖いのだから。」

    —『怖い絵 泣く女篇 (角川文庫)』中野 京子著

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    2026年07月25日
  • 怖い絵 死と乙女篇

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    673円

    ★再読

    目次
    作品 1  レーピン『皇女ソフィア』
    作品 2  ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』
    作品 3  カバネル『ヴィーナスの誕生』
    作品 4  ベラスケス『フェリペ・プロスペロ王子』
    作品 5  ヨルダーンス『豆の王様』
    作品 6  レオナルド・ダ・ヴィンチ『聖アンナと聖母子』
    作品 7  ミケランジェロ『聖家族』
    作品 8  伝レーニ『ベアトリーチェ・チェンチ』
    作品 9  ルーベンス『メドゥーサの首』
    作品 10  アンソール『仮面にかこまれた自画像』
    作品 11  フュースリ『夢魔』
    作品 12  ドラクロワ『怒れるメディア』
    作品 13  伝ブリューゲル『イカロスの墜落』
    作品 14  レッドグレイヴ『かわいそうな先生』
    作品 15  フーケ『ムーランの聖母子』
    作品 16  ベックリン『ケンタウロスの闘い』
    作品 17  アミゴーニ『ファリネッリと友人たち』
    作品 18  ホガース『ジン横丁』
    作品 19  ゲインズバラ『アンドリューズ夫妻』
    作品 20  ゴヤ『マドリッド、一八〇八年五月三日』
    作品 21  シーレ『死と乙女』

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。


    「とりあえずは年齢順でフョードルがツァーリの座につく。ここまでは誰にも文句は言えない。ところが病弱のため六年後に死去。次はイヴァンの番だが、この子は知的障害があった。そこで、まだ十歳とはいえ利発で頑健な肉体の(将来は身の丈二メートル!の大男になる)ピョートルが適任だとする派閥が、継承順位をきちんと守るべしと主張する派閥を圧倒し、ピョートル一世を誕生させた。  これをたちまち覆し、一気に表舞台へ躍り出たのが、イヴァンの姉──ピョートルにとっても、父が同じなので異母姉にあたる──ソフィアだった。野心満々のこの皇女二十五歳は、イヴァンが敵側に殺されたとの偽情報を巧みに流し、ピョートルとその母親のいるクレムリン宮殿へ銃兵隊を差し向けた。兵士たちは丸二日にわたって暴れまわり、ピョートル支持者たちを血祭りにあげる。ピョートルの眼の前で叔父も殺された。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「ヴィーナスの顔は、腕に半ば隠れ、影がさして見えにくい。だが妖しい笑みをたたえた唇、官能に反りかえる足指とも相俟って、鑑賞者たちの想像力をいやでも刺激し、芸術とポルノの境がいかに曖昧模糊たるものかを教えてくれる。  海面は、水というより大理石なみに硬く見え、女神ならずとも沈む心配はなさそうだ。艶やかに流れこぼれる褐色の髪の毛も、濡れることなく長く長く、膝のあたりにまで達している。これほど豊かな髪をもちながら、ヴィーナスの柔肌には腋毛もヘアもない。なめらかで、つるつるぴかぴかすべすべ(ちなみに絵画史上最初のへアヌードは、これより半世紀以上も昔に描かれたゴヤの『裸のマハ』と言われる。腋毛のほうは、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』〈一八三〇〉。どちらも追従者はいないに等しく、ヌードにおける体毛は眉と睫と髪のみがベストと信じられたらしい)。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「本作は一八六三年のサロン(官展)で入選、芸術の王道として激賞され、速攻、お買い上げとなった。当時のフランスのトップ、ナポレオン三世、直々にだ。偉大なるナポレオン・ボナパルトの甥であるこの皇帝は──中・上流階級の人々と同じ審美眼により──甘美な新古典主義的絵画しか認めなかったので、同年、サロンから締め出されて「落選展」に出品のマネ『草上の昼食』などは、「猥褻」の一言でしりぞけた。  もちろん猥褻の定義は時代が決める。それまで西洋絵画はヌードを描く際、一貫して口実を必要としてきた。神話や歴史の装いを凝らさなければ、心おきなく(?)女体美を鑑賞することができなかった。したがって『草上の昼食』のように、女神や古代女性に扮することもしないモデル(しかも娼婦)が、リアルな肉体を堂々と人まえに出すなど、見る側のほうがいたたまれないほど恥ずかしい仕儀であったのだ。  マネの絵は大スキャンダルを巻き起こしたものの、これを嚆矢として、次第にありのままの、生きた女性のヌードが、いっさいの口実抜きで表現されるようになる。我々がもはや、『草上の昼食』に新しさを感じられないのも仕方がない。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「ラスキンの場合、真相は彼の幼女趣味ゆえとの説もあるが、それにしても、職業上、陶器のような無疵の肌ばかり見続けていることの影響が皆無だったとは言えまい。絵画におけるヌードというのは、決してリアリズムではない。それは、各時代の各地域が要求した理想の肉体、「かくあらねばならない」肉体、夢の肉体であり、だからこそ、生への讃歌、且つ性への讃歌になりえた。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「自然な動きを封じられるのだから、とうぜん赤ん坊には不快きわまりないだろう。だというのに、蓑虫状態にしておけば我慢強くなるし、ぐにゃぐにゃの体がまっすぐになり、大人から病気をうつされにくいし、魔物に変身することもない(!?)と、いくつも効能があげられ、新生児の時期を過ぎてなおスワドリングされ続ける子が多かった。  けっきょくのところこれは、世話する側に都合よい方法なのだ。泣いてもそのへんにころがしておけるし、堅いので壁の隅に立てかけて(?)おくこともできた。まだ衛生観念も発達していなかったから、排泄物もそのまま中に放置されたし、布自体の取り替えや洗濯もめったにしない。病気になりにくいどころか、汗、垢、排泄物のせいで感染症にもかかりやすかった。ルソーがこの育児法を激しく糾弾したのももっともである。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「当時の農民のリアルな食事風景を、イタリア人カラッチが描いている(『いんげん豆を食べる男』)。上目づかいで食事に専念する男の前には、白いんげん豆のスープ、パン、ワイン、そして皿には野菜のパイのようなもの。ネギは生のまま食べたらしい。またワインは現代のような嗜好品ではなく、生水の乏しい地域の水代わりであり、栄養補助飲料だったから子どもも飲んだのだ。  ドイツ人の『ヨーハン・ディーツ親方自伝』にも──十七世紀後半だというのに──、床屋の徒弟の粗食ぶりが記されており、毎朝パン一個と「後ビール」(ビールを汲み終わった後の樽に真水を混ぜたもの)しか与えられなかった由。庶民の日常の食事はこのように乏しく、穀類と豆が中心で、動物タンパクを口にできるのは年に数回程度だった。  いや、実は彼らだけではない。まだ流通網が貧弱だったし、絶えざる戦争でなおのこと物資が滞るときては、いったん大飢饉となれば貴族さえ質素を強いられた。第一、物流がうまくまわらないというのは、豊作でも安心できないことを意味する。防腐が不完全なので食物は長くもたず、ワインも香辛料を入れなければすぐ腐った。いつまた戦いが再燃するかわからず、戦争につきものの傭兵たちによる略奪、栄養不良と不衛生からくる疫病の蔓延、領主による重税……。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「本作はレオナルド・ダ・ヴィンチ晩年の名画で、彼はこれを『モナ・リザ』『洗礼者ヨハネ』とともに、死ぬまで自分の手元に置いていた(特別気に入っていたからか、それともまだどれも未完だったせいか……)。  三作に共通するのは、人物の口元にうっすら浮かぶ謎めいた微笑。とりわけモナ・リザの神秘的な笑みは、世界中の人々を五世紀にもわたって悩殺し続けてきた──ということになっているが、日本人がダ・ヴィンチを知ったのは、鎖国のせいもあり、さほど昔のことではない。ましてその作品の魅力を完全とは言わないまでも理解し、味わえるようになってからそう長年月が経つわけでもない。  夏目漱石の掌編小説集『永日小品』(一九〇九)に、「モナリサ」という一篇がある。  役所勤めの主人公は、休日に骨董屋をまわるのが趣味だった。たまたま書斎に飾るものを探していて、古い西洋複製画を見つける。店主が一円というのを八十銭に負けてもらい、自宅へ持ち帰ると、細君はその肖像画を見て、「気味の悪い顔です事ねえ」と言う。かまわず文机の前の壁に掛けるが、なおも「この女は何をするか分からない人相だ、見ていると変な心持になる」と、しきりに嫌がる。そのせいか、書きものをしていても気になって何度も目をやるうち、だんだん細君の評が当たっているように思えてきた。「口元に何か曰くがある」ように感じられてきた。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「 祖母から母へ、母から子へと、女性を通じて脈々と生命が伝えられる様を、斬新な聖家族像によって表現した、というところであろうか。  しかしそれでも謎は残る。納得しきれない、もやもやしたものが残る。なにしろ画家というものは、自分のほんとうに言いたいことは密かに画面の片隅へもぐりこませ、何くわぬ風をすることが往々にしてある。ダ・ヴィンチのように秘密の多い画家なら、そして彼のこの、詩情豊かな美しさに満ちながら何か「変」な絵ならば、なおさらだ。  ある人が発見した──マリアの「く」の字の真ん中、腰のところに、ありえないほど服の皺が寄っている。このキノコのような形は、もしかして男性の……(ちょっと判定は微妙だけれど)。  またある人が発見した──アンナの開いた両足の間にたくさん石ころがあるが、中の一つ(右足のそば)は、石にしてはやわらかすぎ赤味がかっている。これは血のついた胎盤だ!  三十もの人体解剖を行ない、当時としては極めて正確なスケッチを──臍の緒のついた胎児も、男女の性交図も──残したダ・ヴィンチである。女性が子孫を継承してゆくという科学的事実の証を、さりげなく(堂々と描くわけにはゆかない。異端と見なされて首が飛ぶ時代なのだ)描き込んだ可能性は高い。この仮説は現在ある程度受け入れられているので、ルーヴルで実物を見るときには赤い石に目を凝らしてほしい。  まだ大事な謎が隠されている──そう考えたのが、精神分析学の確立者ジークムント・フロイトだった。  彼は一九一〇年に発表した論文『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』で、詳細にこの絵を分析している。ただし時代の制約から非常にまわりくどく、もってまわった言い回しで、読者の眉をひそめさせないよう細心の注意をはらった。オスカー・ワイルドが実刑を言い渡されてそれほど時も経ていないのだから、同性愛について触れるのも慎重にならざるを得ない。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「だがフロイトの興味はそこにはない。鳥の尾の先はどこにあるだろう?  なんと幼子イエスの口元にあるではないか!  「何度も何度も口をつついた」、ダ・ヴィンチの夢の中のハゲワシと同じように。  フロイトは分析してゆく──この絵に描かれた愛らしい幼子は、美貌で知られたダ・ヴィンチその人であり、ふたりの女性は実母と養母である。だから彼女たちは(実際にそうであったように)年齢が近く見えるのだし、ふたりがまるで溶け合っているかのごとき構図の欠陥は、欠陥ではなく、ダ・ヴィンチが敢えてそうしたものだ。彼はふたりの愛する母を持ったマザコン(しかもダブルの)だったから、それが同性愛者になった原因であろう。ただし直接のきっかけは、同居していた叔父アンドレア(ダ・ヴィンチは彼に遺産を残した)から、幼いころいたずらされたためと思われる。つまり、鳥の尾に口をつつかれた(フロイトの解釈では「鳥」も「尾」も男性そのもののシンボルなのだから)のは、夢の中のできごとではなく、現実に小さいころ叔父にされたことだったのだ。  うーむ、強引で仰天の解釈のように思えるが……しかし面白いことは面白い。  何もかも全て語ってしまう小説が退屈なのと同じで、推測する楽しみのない絵画は味気ない。  ダ・ヴィンチ作品はどれも多義性を感じさせ、否応なく見る者に解釈を迫ってくる。試される気がする。そこが魅力であり、怖さだ。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「万能の天才と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二 ~一五一九)が、自己アピールに書いた履歴書はあまりに有名である。  彼は自分ができることをいくつも挙げている。曰く、橋、運河、建物を設計できる、大砲、戦車、石投げ機、火炎放射器を作れる、敵地までの地下道を音をたてずに掘れる、大理石や青銅で彫刻ができる、おまけに絵も描ける、と。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「 何を描かなかったかでその画家の特質がわかる、という意味では、ピーテル・パウル・ルーベンス(一五七七 ~一六四〇)はあれほどの多作でありながら、決して庶民の日常を日常そのものとして描くことはなかった。その一生を見ても、何ら彼らへ関心を寄せたふうもない。  本作だが、ルーベンス工房として請け負った作品であり、本人はメドゥーサの頭部を、蛇や虫などは助手のフランス・スネイデルが描いたことが知られている。ルーベンスは仕事の分担を隠さず、これこれの作品は助手に描かせたので五百ギルダ、これこれは下絵が弟子、仕上げは全部自分がしたので三千五百ギルダ、というように、細かく価格付けをしていた。  それはともかく日本人には、たぶんこちらの方が怖いのではないだろうか。斬首された罪人がこの世に怨みを残して死んだ瞬間を切り取った、葛飾北斎の『生首図』。  ぎりぎりと歯軋りが聞こえてきそうだ。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「自他共に認める「仮面と骸骨の画家」ジェームス・アンソール(一八六〇~一九四九)は、イギリス人の父、フランス系ベルギー人の母のもと、ベルギーのオステンドで生まれ、青年期の三年間をのぞいては、八十九年という長い生涯、根を生やしたようにそこから動かなかった。  オステンドはブリュージュから程近い北海沿岸に位置し、十九世紀前半から首都ブリュッセルとは鉄道で、またイギリスとはフェリーでつながり、良質の砂浜やカジノを有する夏の避暑地として名高かった。アンソールの生家は、海岸通で観光客用の小さな店を営み、他愛ない土産物や骨董、貝殻、鳥の剝製、絵葉書、そして数々の仮面を売っていた。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「母からの仕送りを受けつつ、アンソールはアカデミーで学び始める。同級生にはクノップフ(『怖い絵』の『見捨てられた街』参照)がいたが、特に親しくはなっていない。そもそもアンソールは生涯ほとんど友人らしい友人を持たなかったのだが、それは周囲の人間に言わせれば、「とんでもない自己中心主義者」だったからという。家庭内で男児ひとり、母親だの姉妹だのおおぜいの女性たちに甘やかされて育つと、まま、そういう例が見られる。似た環境のオペラ作曲家プッチーニも自己中心的ではあったが、囲む女性たちが優美だったためもあってか、呆れるばかりの艶福家になった。一方アンソールときたら女性にも無縁で、一生涯独身を通す。  友人もなく、授業も自分には合わない気がして三年で学校をやめた彼は故郷へ帰り、狭い屋根裏部屋で──天井が低すぎ、画布の下部分を丸めなければならないことさえあった──陰気な絵を描いては展覧会へ出品し続けた。入選は二回きり。作風が次第に世の潮流とは無縁の、オリジナリティあふれるものとなっていったのも落選の理由だろう。二十四歳頃、保守的なベルギー美術界には見切りをつけ、反アカデミーを標榜する若手前衛芸術家グループ「二十人会」へ入会する。クノップフらが中心となった活動だが、ここでも状況は変わらなかった。この会が斬新と認め、熱心に紹介していたのは印象派の作品であり、とうていアンソールの出る幕ではなかった。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「母からの仕送りを受けつつ、アンソールはアカデミーで学び始める。同級生にはクノップフ(『怖い絵』の『見捨てられた街』参照)がいたが、特に親しくはなっていない。そもそもアンソールは生涯ほとんど友人らしい友人を持たなかったのだが、それは周囲の人間に言わせれば、「とんでもない自己中心主義者」だったからという。家庭内で男児ひとり、母親だの姉妹だのおおぜいの女性たちに甘やかされて育つと、まま、そういう例が見られる。似た環境のオペラ作曲家プッチーニも自己中心的ではあったが、囲む女性たちが優美だったためもあってか、呆れるばかりの艶福家になった。一方アンソールときたら女性にも無縁で、一生涯独身を通す。  友人もなく、授業も自分には合わない気がして三年で学校をやめた彼は故郷へ帰り、狭い屋根裏部屋で──天井が低すぎ、画布の下部分を丸めなければならないことさえあった──陰気な絵を描いては展覧会へ出品し続けた。入選は二回きり。作風が次第に世の潮流とは無縁の、オリジナリティあふれるものとなっていったのも落選の理由だろう。二十四歳頃、保守的なベルギー美術界には見切りをつけ、反アカデミーを標榜する若手前衛芸術家グループ「二十人会」へ入会する。クノップフらが中心となった活動だが、ここでも状況は変わらなかった。この会が斬新と認め、熱心に紹介していたのは印象派の作品であり、とうていアンソールの出る幕ではなかった。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著



    「ちなみに「恐怖とは何か」について、ふたりの詩人は正反対の言葉を残している。パーシー・シェリーは、「恐怖は人間の作りだしたものにすぎない」──『夢魔』でいうならば、腹に乗るインキュブスも馬も全て、眠る女性が産みだしただけと言えようか。  一方ジョージ・ゴードン・バイロンはこう言う、「恐怖は人間がこの世にあらわれる前から存在し、人間が滅びたあとも残る」。  これでなくてはロマンは語れまい。  悪魔的バイロンはこんなことも言っている、「恐怖には異様な美がある。美女はそれだけで美しいが、しかしそこに血の一筋でもあればと思う」。『夢魔』の、のけぞる美女の唇の端に、赤を置いてみると……。  おお、確かに!」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著


    「何の予備知識もなくこの絵を見れば、たいていの人はこう思うのではないだろうか、魔の手から逃れ森へ駆け込んだ女性が、迫り来る敵の気配に眦を決してふり返り、いざとなれば我が子を守るため戦おうと、今しも左手の短剣を構え直したところ……。  まんざら外れてはいない。  ただし後半が違っている。彼女は我が子を守ろうとしているのではなく、殺そうとしているのだ!  王女メディアの物語は、同情さるべき被害者が、一転、復讐の鬼と化し、途轍もない反撃に出るという、異様ななかにも恐ろしいほどの真実を含み、であればこそ、紀元前五世紀という気の遠くなる昔(エウリピデスのギリシャ悲劇『メディア』)に書かれたにもかかわらず、微塵も古さを感じさせないのであろう。  発端は、海外遠征だ。ギリシャの英雄イアソンがアルゴー船を率い、黒海東岸、小アジアのコルキスへ金羊毛皮を奪いに行った。コルキス側は侵略者と戦うが、王女メディアは一目でイアソンに恋し、魔術を使って彼の生命を救ってやったばかりか、祖国を裏切り父王を裏切り、彼とともにギリシャへ来て内縁の妻となる(当時ここは国際結婚が認められていなかった)。  やがて子どもがふたりできたころ、イアソンはメディアに飽きがくる。しかもクレオン王の娘に愛され、彼女と正式に結婚すれば思いがけない出世だとばかり、身勝手にも別れ話を切り出す。クレオン王もまた政治権力をふりかざし、早急に国外退去するようメディアを脅した。あまりの理不尽に憤怒の塊となりながら、しかしメディアはいかにも恭順すると見せかけ、別れの記念と称して花嫁へ衣装と宝冠を贈る。花嫁が喜んで衣装をまとうと、そこには猛毒が仕込んであり、また宝冠は被るやいなや火を噴き、助けようとしたクレオン王ともども苦しみぬいて死んでゆく。  驚いたイアソンが従者を連れ、急ぎメディアを捕まえにくると……。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「しかし「レディ」とは何かとなるとまた問題で、いちおう中流の上、ないし上流階級出身であること、相応の言葉づかいや礼儀作法(階級社会では各層で大きく違う)が身についていること、高い教育を受けていること、が挙げられるだろうが、もっと根本的には「働く必要のない」ことが大前提となる。女性はそもそも「職業に就いている」というそれ自体を蔑まれたのだ(「職業に貴賤はない」どころの騒ぎではない)。となればガヴァネスをいったいレディと呼ぶべきか、否か?  もし「本物」のレディであれば、父親の財産によって庇護され、やがては同じ階級の男性と結婚して、今度は夫の財産によって庇護されるはずだから、働く必要はない。働いているのは、早い段階で狂いが生じたからで、父親の死(イギリスでは女性に相続権はなかった)、ないしは破産のため、持参金がなくなり、結婚相手を見つけられなかったということだ。  レディに生まれ、レディとして育ちながら、レディを完遂できなかった女性──彼女たちは、いくら「はしたない」と言われようが、生きるためには働かざるを得ない。場合によっては、母親や弟妹を養うという重荷も背負っていただろう。そして十九世紀のこの当時、中・上流階級出の女性が、どうにかレディの末端と認めてもらえそうな仕事となると、女学校の教師かガヴァネスより他になかったのである。  要するにガヴァネスとは「零落したお嬢さま」なのだ。  ガヴァネスというだけで「かわいそう」と憐れまれるのはそのためだ。レディを躾ける自分は完全なレディではない、という著しく自尊心を傷つけられる立場。一度そんな日陰へ追われれば、逆転のチャンスはほとんどなかった。かつての同じ階級の男たちは、ガヴァネスに「身を落とした」女性との結婚をためらったし、階級の低い男たちとの結婚は、彼女たちの方が怖気をふるった。どこにも行き場はない。階級社会という硬直した装置の、エアポケットにすっぽり嵌って抜けられなくなったのがガヴァネスといえよう。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著


    「それでもガヴァネスに稀少価値があった十八世紀であれば、まだそれなりの敬意を払われた。だがこの絵の舞台、十九世紀ヴィクトリア朝時代になると、男性たちの新大陸移住などによる男女人口比のアンバランス、中産階級以上の男性の晩婚化傾向、未婚女性たちの高学歴化が重なって、ガヴァネスは供給過剰になり、労働条件はひどく悪化した。賃金は下がり、安く雇えるとなると上流階級に属さない者たちまでがステイタス・シンボルとしてガヴァネスを雇いはじめ、当然ながらガヴァネスの地位も低下する。本来はフランス語、歴史、音楽、絵画といった教養を教えるはずの彼女たちに、お針子や子守の仕事までが押しつけられた。本作にも、ヒロインの足もとに赤い毛糸玉がころがり、編み棒の入った籠が描かれており、勉強の時間が終われば、彼女も編み物や縫い物をさせられていることが示されている。  こうした、もともと召使のすべき仕事まで強制されるようになると、ガヴァネスにはまた新たな苦労が増えた。当の召使たちとの軋轢である。もとよりガヴァネスは絶えず周囲から独特の眼差しを受け、精一杯、矜持を保たねばならないため、下層階級である他の使用人と自分は違うのだと常に態度で主張してきた。それが反感を買い、いじめの元ともなっていたのだが、今度は完全に召使の領分を侵犯したことで、上からも下からも侮蔑の対象になってしまう。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「本作の巧みな構図、とりわけ処刑者と犠牲者の対比の妙──ユニフォームの中に個性を埋没させ自らを機械と化した兵士たちと、やわらかで傷つきやすい肉体を持つ個性豊かな個人の集まり──は、後世の画家たちを刺激し、引用を誘った。よく知られているのはピカソ『朝鮮の虐殺』とマネ『マクシミリアンの処刑』である。  ピカソの場合は、ちょっと真似てみた、という感じがありありで、『ゲルニカ』の作者とも思えぬ気の抜けたビールぶりだ(ピカソ作品は玉石混交の度が大きい)。  他方、マネが相当力を入れて描いたのは知られている。ジェリコーの『メデュース号の筏』(『怖い絵』参照)並みの評判を得たいと、野心満々で取り組み、出来栄えにも満足だったらしい。題材は、ハプスブルク家のマクシミリアン(フランツ・ヨーゼフ皇帝の弟)がメキシコ皇帝として赴任したものの、ナポレオン三世の裏切りにあい、処刑されるという、当時大問題となっていたニュース種である。同時代人の関心を大いに引いてもおかしくなかった。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「抜群の素描力をもつエゴン・シーレ(一八九〇~一九一八)は、十六歳でウィーン美術アカデミーに合格している。  彼が入学した翌年、シーレより一歳年上の、青白い顔をした田舎出の瘦せた青年も同じ試験を受け、不合格になった。再度受験し、また失敗した。そこで画家になるのを諦め、ミュンヘンへ移り、新しい生活を始めたのだが、もしこの青年アドルフ・ヒトラーが美大に合格していたら、歴史はどんなふうに変わっていたのだろう?」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著

    「たとえば専門家同士ならば文脈を深く掘り下げ、知識と教養で会話のキャッチボールもできるでしょうが、それを一般の人が聞いたとしても決して面白くはないのです。  その点、中野さんは元来の賢さとアグレッシブさをもって、業界内で確固たる地位を築かれ、さらに歴史の下卑たところにまで興味を伸ばしていき、きちんと自分の根を下ろされた。彼女が持っている歴史家としての天性の才能と、そして人間としての「心のゆとり」があってこそ、この「怖い絵」シリーズが書けたと思うのです。「怖い絵」を読んでいると、映画を見ているような感覚になります。皇族の悲劇とエロスをテーマにしたオムニバス・ムービー。芸術の背景みたいなものは「二割」で、残りの「八割」は人間の持っている妄執ですから。人間そのものに肉薄している書きっぷりは、片平なぎさの二時間ドラマ「 ~事件」のようでもあります。だから目が離せないんですね。」

    —『怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)』中野 京子著


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    2026年07月24日
  • 名画の謎 ギリシャ神話篇

    Posted by ブクログ

    866円

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「曲線ばかりの支配する画面の中で、違和感を与えるこの角ばった形、くっきりした黒は、クリムトの代表作『接吻』にも登場している。花咲く崖の近くで、とろけそうに接吻するふたりは、非現実的な衣装を身にまとっているのだが、その模様は女性は優しい色彩のやわらかな曲線、男性はきつい黒がメインの長方形の集まりだ。要するにクリムトは、男性という性をこの「形」で示したのである。  なんと露骨な!  しかしそれは絢爛たる豪華さで中和される。平面的な画面に目も眩む金色の多用、流麗な装飾、美の爛漫によって、むき出しのエロスはヴェールをかけられ、溜め息を誘う。  ダナエ神話は、中世キリスト教において、「処女懐胎」の予型と見なされたことがあった。処女でありながら懐妊した聖母マリアに先立ち、ダナエもまた神の意思によって子を授かった純潔の女性と解釈されたのだ。  ところがルネサンス以降の画家たちは、先述したとおり、誰もそんなふうに彼女を描きたいとは思わなかった。もっともなことで、神とはいえゼウスは──絶対主義時代の王もかくやの──とんでもないドン・ファンなのだから、彼に関わった女性たちがみんな聖母になったら大変な数になってしまう。第一それでは畏れ多くて、ダナエを裸体にできないではないか。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 今しもヘラは、乳房に吸いつく赤子を振り切ろうとしている。左胸から った乳はスプリンクラーの水みたいに上空へ飛び散り、いくつもの星に変わってゆき、ついには天の川となる。「ミルクの道( Milky Way)」ないし「銀河( galaxy)」(ギリシャ語の乳〈 gala〉からきている)と呼ばれるのは、そのためだ。日本の、ほのかに哀しい七夕伝説とはずいぶん違う。それとも西洋の人々にとっては、ヘラの母乳もロマンティックなのだろうか?  やや見えにくいが、乳は右の乳房からも噴き出し、真下へ向かっている。言い伝えによれば、それは地に滴って白百合となった。本来この絵はもっと縦長で、下部が何らかの理由で切り取られたことがわかっている。その切除部分に、おそらくは百合の花が描かれていたと思われる(白百合の無垢なイメージは、愛欲の女神ヴィーナスの憎むところとなり、彼女によって雌蕊の形はロバの男根に似せられてしまった由)。  ベッドの周りを、弓矢や網を持つ丸々太った可愛いクピド( =キューピッド)たちが飛びかう。矢はクピドが盲目的に放つ「恋の矢」を示すが、網はクピドのアトリビュートではない。ここではおそらく、ゼウスがヘラを「罠」にかけたことを表現しているのだろう。同じく、右下にいるクピドが締めている赤い帯も、本来はヘラのものだ。性的魅力を高めるための帯で、ヘラは不実な夫ゼウスの関心を惹くため、わざわざヴィーナス( =アプロディテ)からこれを借りたのだ(ちょっと涙ぐましい)。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「サルマキスも、失われた片割れの姿をヘルマプロディトスの中に見たのだろうか?  そうではない。  ヘルマプロディトスはすでに、父である男名と母である女名を同時に持たされていた。それはあらかじめ定められた彼の宿命、すなわち男性の肉体を持って生まれてはきたが、女性性も内在していることを、また同性異性を問わず相手を魅了し、且つ魅了されることを暗示している。  十五歳という年齢も偶然ではない。この年頃の少年は、子ども時代を卒業しつつあるが未だ青年とは呼べず、姿形が美しいと容易に女性と見まごう。男として生きるか、女として生きるか、選べる最後の時であると同時に、男でありまた女でいられる、ぎりぎりの時だ。昼を残し夜を待つ黄昏時と同じ、妖しく美しい束の間の時。  そんな時に、ヘルマプロディトスは見知らぬ女から強引なアプローチを受け、処女のごとく恥じらって身を引く。それが相手の欲情にいっそう火を点けるとも知らず。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「一方でまたヘルマプロディトスは、相手が女性だから嫌がった、とも考えられる。サルマキスを受け入れることで、自らの内に在る女性性が強化されることを怖れたのだ。であれば、男性からの求愛なら応じたかもしれない、まことの男となるために!  ──この物語は、両性具有者がなぜ存在することになったかが主題だが、そんな中にも、明らかに男性側の女性嫌悪ないし女性恐怖が見てとれる。  男には、女の愛が時として「蔦のように」「蛇のように」からみつき巻きついて離れようとしないもの、と感じられるのだろう。蔦に覆われて立ち枯れた大樹や、蛇に絞め殺される動物のあがきに我が身を重ねて、精を吸い尽くされるかと怯え、窒息しそうと喘ぐのだろう。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 鯖だが、仏教行事では、餓鬼道に堕ちた亡者どもを供養するための食べ物とされ、今も各地に鯖を持つ僧像が残っている。桃は、周知のとおり古来から不老長寿の果物であり、邪気を祓うとされている。どちらも悪鬼除けには効果満点だったわけだ。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ピーテル・パウル・ルーベンス(一五七七 ~一六四〇)は、フランドル絵画の黄金期を築いた天才画家。彼が天から恵まれたものを数えるだけで、くらくらしてくる──容姿、健康、長命、良き伴侶(しかも二人)、古典の教養、数カ国語をあやつる語学の才、大工房を運営する才、外交官としての手腕、そしてもちろん並外れた画才。これで人格が円満にならねば不思議というもので、とうぜん誰からも敬愛され、富と名誉が雨霰と降ってきた。生前も死後も名声に揺るぎはない。絵に描いたような幸せで満ち足りた人生を送った、稀有な例といえる。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「現代は「ナルシシズムの時代」とよく言われる。  少々気取った態度をとる者を、「ナルシストだ!」と揶揄する場合は別として、現代版ナルシシズムの概念は大まかに二つ考えられているようだ。  ひとつは──経済的に豊かになり、少子化で「蝶よ花よ」と育てられた若者が、幼児期の万能感を保持したまま、忍耐我慢を知らず、自分は特別の存在だと錯覚して傍に迷惑をかける、というもの。  しかしこれは、太古の昔からくり返されてきた「今どきの若者」批判にすぎない気もする。年長者から見ていかに腹立たしかろうと、若者は本来、生意気で自惚れ屋で恐れを知らず忍耐など持たないからこそ活力に満ちているのであり、そうでなくなってしまうことのほうが、よほど問題ではなかろうか。  もうひとつのナルシシズム論は──「個性」が何より大事と喧伝される消費社会において、「独自性」を持つ突出した人間にならねばとの強迫観念にとらわれ、自分を認めてくれない他者や社会へ不満と怒りを募らせてゆく、というもの。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「フロイト説によれば、誇大妄想、監視妄想、幻聴、重度の鬱、統合失調症などは、どれも不健全なナルシシズムが産み出す病だという。しかも彼らはその頑固な自己愛によって、精神分析を困難にし、無意識に治療を拒むというのだからやっかいだ。ゆきつく先は、精神の死、また肉体の死があるばかり。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「──ギリシャ神話には、花へ変身した者がおおぜいいる。  アポロンの章「恋人を死なせて」に書いた、アポロンの恋人ヒュアキントスはヒヤシンスになった。ヴィーナスの章「女の第六感」では、ヴィーナスの止めるのもきかず猪を追って突き殺されたアドニスがアネモネになった。他にも、ニンフのクリュティエはアポロンに片思いしてヒマワリに、アキレウスの武器を手に入れられず自殺したアヤクスはカーネーション(ないしアイリス)に、ニンフのスミラクスに失恋したクロクスはクロッカスに、スミラクスもサルトリイバラ(ないしイチイ)になった etc.  だがおそらくこのナルキッソスが、花への変身譚ではもっともよく知られた例であろう。  水仙( Narcissus)という語は、「眠らせる」「麻痺させる」という意味を含む(ナルコレプシー〈 Narcolepsy =睡眠発作〉もここからきた)。茎葉には毒があり、痙攣や麻痺をおこす。強い香りは狂気を呼ぶと言われ、復讐の女神に捧げられた花とされる。ナルキッソス神話にふさわしい。  また泉は無意識の領域に属し、泉が像を映すこと、即ち鏡は、古来から強く死と結びつけられてきた。というのも、鏡に姿が映るのは、自己の一部が抜け出したためと考えられたからだ。「魂を奪われる」という感情が引き起こされるわけで、これは鏡以外に、肖像画でもカメラでも同じだ。ドッペルゲンガー(もうひとりの自分)に出会えば死ぬ、との言い伝えも同根だろう。  ナルキッソスは自分の鏡像をあまりに長く見つめすぎ、魂を抜かれたのである。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「全人類ばかりか神々の運命まで、次から次へと紡いで測ってちょんぎってゆくとあらば、多忙すぎて自分の人生を味わう暇もなかろう。ワーカホリックの老嬢(?)たちは、壁のシミのごとく無視された。「忘れられた女ほど可哀そうな者はいない」という、ローランサンの詩が思い出される。  こんな女神たちだから、美術作品に取り上げられることも少ない。少ないけれど、しかしゴヤが、まるで悪夢のような名作〔※〕に仕立てた。このモイライがあればもう十分、というほどの。  ──色味を極力抑えた画面に、この世ならぬ風景が拡がっている。暗黄色の空は夕暮れなのか、嵐の前触れを告げるものか、判然としない。時間そのものが非在なのかもしれない。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 供の者たち同様、酩酊していたはずのバッカスの身体から、アルコール分がいっきょに消えうせた瞬間だ。「この人だ!」という直感。そして彼の若さが、一直線に行動へと走らせる。心の飛翔がピンク色のマントをひるがえし、沸き立たせる。恋に落ちるということの、何という美しさ!  これほど美しく、これほどにも真摯なのだから、彼の恋が報われないなどということがあるのだろうか?  だが娘はその勢いに圧倒され、逃れようとするかに身をよじる(おかげで顔かたちがはっきりせず、見る者の想像に委ねられた)。この動作を見る限り、どうやら彼女の方はバッカスの思いに共鳴したとはいえない。酒神の恋は空回りするのだろうか?  彼女の名はアリアドネ。クレタ島のミノス王の娘である。どうしてクレタから遠く離れたナクソス島にいたかといえば、そこには彼女自身の悲恋が絡んでいる。つまりバッカスが一目惚れした相手は、神々の多くが好む「乙女」ではなかった──」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「「美術」という。ここでも私は漢字二文字の意味を素直に受けとって、「ビジュツ」とは「美」を作り出す「術」であるととらえたい。「美」が何であるかはおくとして、ともかく、「術」すなわち、描いたり彫ったりする技術に長けていなければ、「美術」は成立しない。  今、描いたり彫ったりする技術と言った。  しかし、「美」を語る「術」というのもまた、「美術」だとは言えないだろうか。そして申すまでもなく、中野京子さんは「美」を語る素晴らしい「術」の持ち主であり、ゆえに中野さんは間違いなく「美術家」であると、美術家の私は理解している。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「中野さんのスタンスは、これが正しい答えですと頭ごなしに教授するのとは対極にある。まずは美を楽しむための学究的な地固めをし、その基礎に立って読者の誰もが自分なりの答えを見いだせるようにと、一冊の本のなかに、美術について考えるヒントをちりばめる。  どんな絵画にも謎はある。しかしその謎への解答は、鑑賞者の想像力の中にだけある。百人寄れば百の想像力が働き、それぞれがそれぞれに自分の解答を引き出す。これが実現すれば、人の心の中はどれだけ豊かになることだろう。」

    —『名画の謎 ギリシャ神話篇 (文春文庫)』中野 京子著

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    2026年07月24日
  • 怖い絵

    Posted by ブクログ

    673円

    237P

    ゴヤ、

    ★再読

    ブリューゲルはベルギー人か

    目次まえがき
    作品 1  ラ・トゥール『いかさま師』
    ★作品 2  ドガ『エトワール、または舞台の踊り子』
    作品 3  ティントレット『受胎告知』
    ★作品 4  ダヴィッド『マリー・アントワネット最後の肖像』
    作品 5  ブロンツィーノ『愛の寓意』
    ★作品 6  ブリューゲル『絞首台の上のかささぎ』
    ★作品 7  クノップフ『見捨てられた街』
    作品 8  ボッティチェリ『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』
    作品 9  ホガース『グラハム家の子どもたち』
    ★作品 10  ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』
    ★作品 11  ベーコン『ベラスケス〈教皇インノケンティウス十世像〉による習作』
    作品 12  アルテミジア・ジェンティレスキ『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』
    作品 13  ムンク『思春期』
    作品 14  ライト・オブ・ダービー『空気ポンプの実験』
    作品 15  ホルバイン『ヘンリー八世像』
    作品 16  ジョルジョーネ『老婆の肖像』
    作品 17  ルドン『キュクロプス』
    作品 18  コレッジョ『ガニュメデスの誘拐』
    作品 19  レーピン『イワン雷帝とその息子』
    作品 20  ゴッホ『自画像』
    作品 21  ジェリコー『メデューズ号の筏』
    作品 22  グリューネヴァルト『イーゼンハイムの祭壇画』


    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「エトワールとは「スター」を意味するフランス語で、ここではプリマ・バレリーナをさす。  今しもそのエトワールが、背景装置である書割りから舞台中央へ走り出てきて、片足を上げるポーズを決めたところだ。首に巻いた黒いリボンが軽やかに翻り、躍動感を醸し出す。下からの強いライトに照らされたトゥシューズ、脚、胸、首筋が人工的な白さに輝き、顔や腕の一部の暗い影とくっきりした対照を示す。胸元と腰に赤い花を散らした膝丈の白いチュチュの、透けた感じが得も言われず美しい。  この鮮やかに切り取られた「決定的瞬間」を見る視点は、舞台斜め上方である。つまり平土間の観客席からではなく、舞台真横の、ステイタスの高い桟敷席からの視点なのがわかる。ここからだと、本来は観客から隠されている装置の奥や舞台の袖まで見通せることがあり、今もいくつもの層に重なった書割りの陰に、次の出番を待つ脇役バレリーナたち数人の姿が見えている。彼女たちの手前には、黒の夜会服を着てポケットに手を突っ込んだ男がひとり。劇場支配人か、バレエ教師か、新聞記者か、はたまた……。  斬新な構図、みごとな光の表現、大胆と繊細が絶妙に入り混じったタッチ、華やかで幻想的な舞台の魅力を伝えて、これはドガ随一の人気作だ。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「印象派の画家とされ、事実、印象派展に何度も出品したドガだが、「自然を眺めるのは退屈だ」と公言したとおり、自然光のもとでありのままの風景を描く気はなかった。色彩よりデッサンを重視し、膨大な数のスケッチや自分で撮った写真をもとに、人物や小道具を理知的に再構成して画面を作った。彼の作品によく見られる、身体や顔が画面の端で半分に断ち切られた人物は、リアルな瞬間を感じさせるための綿密な計算にもとづいた彼独自の手法であって、スナップ写真をそのまま使用したというものでは決してない。  線や動きに対するドガの興味が、バレエという正確さとバランスを必要とされる様式へ向かったのは当然の成り行きであったろう。彫刻をも含む彼の作品の半数以上がバレエを扱ったものであり、「踊り子の画家」と呼ばれたのも故なしとしない。ほぼ十年にわたり、オペラ座の舞台や楽屋や練習場に毎日のように通いつめ、踊り子たちのありとあらゆる動きを全身カメラのレンズとなって追ったのだ。そのうちドガの存在は透明人間と同じになってしまったらしい。練習光景を描いたどの作品を見ても、彼女たちはくつろいだ素のままの姿を平気で晒している。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「『エトワール、または舞台の踊り子』へもどろう。背後の書割りの陰にたたずむこの男は、着ている夜会服からして舞台関係者ではなく、上演中の舞台に平気で立っているところから報道関係者でもない。つまりエトワールのパトロンである。これは当時の人々にとっては一目瞭然だったろうが、現代の我々、バレエを洗練された芸術と考えている者には、なかなか見えてこない側面だ。いやにくっきりした黒が使われていながら、目に入ってこないのだ。ところがこうしたことを踏まえて見直すと、エトワールの首に巻かれたリボンの色もまた、紳士の服と同じ鮮やかな黒で描かれているのが目にとまる。まるで金で縛られていることの象徴のように……。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「しかしもちろんドガは、当時流行のファッションとしてリボンを描いたにすぎない。がちがちの身分制社会の上方に属していた彼は、その階級の男性が持つ常識内にいた。要するに今の基準で言えば、踊り子に対する偏見を持っていた。この時代は観相学全盛でもあり、階級やら犯罪傾向は顔で判断できると信じられていたので、ドガは彼女たちの顔をことさら醜く描き、それが労働者階級特有の顔であることを示した、との説まであるくらいだ(それに関しての判断は日本人には難しい)。  ともあれ、ドガ描く踊り子たちはどれも個性がないのだけは確かである。誰が誰やら区別がつかない。誰が誰でもいっこうにかまわなかったのだろう。競走馬や騎手を描く場合と同じで、興味の方向が個人にではなく、動きや形態に向かっていたということもあるし、いくぶんかはこの職業への偏見もあったろう。どの絵も踊り子と描き手との交流、あるいは温かな交感といったものが全く見られない。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著


    「ガリラヤのナザレに住む乙女マリアは、同じ町の大工ヨセフの許婚だった。その彼女のもとへ、ある日ガブリエルが突然あらわれ、「あなたは恵まれた方だ、おめでとう」と言う。何のことかと驚く彼女に、大天使は続けて、「マリアよ、恐れることはない、あなたは主の恵みで男の子をみごもった。生まれたらイエスと名付けなさい」。マリアは、そんなはずはない、自分は男性を知らないのだから、と答えるが、「聖霊があなたに下ったのだ。生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれるだろう」との天使の預言に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身におきますように」と受け入れる──。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「天使の方もそこまで見越していたらしく、本題に入る前にまず、選ばれたのは目出度いことだと彼女を讃える。それでもなおマリアの恐怖が去らないので、恐れるなとなだめてからでなければ受胎を告げられない。ところがマリアがすなおに告知を受け入れず、それどころか精一杯抵抗し反論してきたため、これが神の意志、即ち命令であることを明らかにしなくてはならない。そうすることでやっとマリアも諦め、自分が神の「はしため」であるからには、言われるとおりにいたしましょうと答えるのである。読むかぎりでは、神の子を宿して嬉しい、光栄だ、とマリアが感じたようにはとうてい感じられない(それはこちらが異教の輩だからか?)。  昔むかしに、領主の初夜権というものがあった。ほとんど奴隷と変わらぬ境遇におかれていた領民は、結婚にあたって、花嫁の最初の夜を領主から権利として要求されたのである。たいていの花嫁は嫌がったはずだが、領主といえば神も同じ、最後は諦めて従うより他どうしようもなかったし、その初夜において子どもを宿したこともあっただろう。受胎告知はそれに似ている、などと罰あたりなことを考えてしまうが、ここではそれは本題ではない。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著


    「さて、受胎告知を描くには、いちおう幾つか約束ごとがあった。必須三点は、大天使ガブリエル、聖母マリア、そして聖霊の鳩だ。ガブリエルは大きな翼を持ち、マリアは赤い服に青いマント姿が多い。鳩はたいてい天上からの光に乗って、マリアの頭部または胸部めざして降下し、受胎の瞬間をあらわす。他にも、聖母の無垢の象徴として白百合の花、また彼女がかつてエルサレムの神殿で祭司の衣服を織っていたとの言い伝えをふまえての糸まき棒、あるいは毛糸を入れた籠が置かれることもある。天使が訪れたときマリアは読書中だったので、ページを開いた聖書も描かれ、これは『イザヤ書』の、「見よ、乙女がみごもって男児を産む」という一節とされる。  先に触れたように、受胎告知といっても三段階になっており、天使の来訪に驚くマリア、受胎したと告げられて当惑、ないし怯えるマリア、そして全てを受け入れた瞬間のマリアである。それぞれ数多く作品化されているが(ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノ、クリヴェッリ、フィリッポ・リッピ、エル・グレコ、オラツィオ・ジェンティレスキ、 etc. etc.)、中でも静謐な美しさで人気の高いフラ・アンジェリコの『受胎告知』(プラド美術館蔵)を見てみよう。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「 ここには、全ての虚飾をはぎとられた女性がいる。必要以上に辱めを受ける、堕ちた偶像がいる。かつて「ロココの薔薇」と讃えられた彼女の、華やかに着飾った肖像画の数々を見慣れた目には、まさに衝撃的といっていいほど残酷な絵だ。リアルだからというより、描き手の悪意が感じられるからだ。ラフなスケッチとはいえ練達の筆によって、さりげなく欠点が誇張され、美化ならぬ醜化がなされている。女性なら誰であっても、決してこんなふうには描かれたくないと思うだろう。こんな姿を後世に残されるのは嫌だと思うだろう。  ここに至るまでにアントワネットは、もうさんざん戯画の対象にされてきた。フランス革命への道のりは情報合戦だったため、王党派も革命派も、噓を承知の報道を夥しく垂れ流した。特に反王妃派は、彼女が「敵国オーストリア生まれ」であること、「淫乱な女性」であることを攻撃材料に使い、男女年齢を問わずさまざまな相手と情事にふける場面を、まるで見てきたように面白おかしく描いて流布させた。大量のパンフレット類や新聞紙上にあふれる、それら版画やイラストの中で、アントワネットはだらしなく肌をさらしていたり駝鳥やら豹に擬されたりしているが、それでもダヴィッドのこの一枚に比べれば、女性としての誇りを真に傷つけるものはなかったとさえ言えるくらいだ。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「アントワネットはこのとき三十八歳。死刑が確定し、一夜にして白髪になったとの伝説が残されたが、それは民衆がそう信じたというだけの話にすぎない。彼らが公式の場で見る王妃は常に麗々しく装っていたのに、ヴァレンヌへの逃亡失敗後チュイルリー宮に幽閉され、さらにタンプル塔、そしてコンシェルジュリ監獄へ移送されると、ほとんどその姿を目にする機会もなくなってしまった。処刑見物(当時は大エンターテインメントだった)に来て久しぶりにアントワネットを見た人々は、彼女の激変ぶりに驚き、一夜にして老け込んだと感じられたのだろう。実際には、革命からすでに丸三年がたち、精神的肉体的苦痛の甚だしさによって、ゆっくりやつれていったのだが。  とはいえダヴィッドのスケッチからは、アントワネットの身体のラインがまだあまり崩れていないのがわかる。胸は高く、ウエストはくびれている。荷車の揺れに抗するためか、やや脚を開きぎみとはいえ、玉座にでもあるように背をぴんと伸ばし、昂然と頭を上げている。子どものころから王権神授説を教えこまれ、高貴なる「青い血」を誇り、下々の者の前で長時間同じ姿勢を保つ訓練を受けた「選ばれし者」たる矜持が、この姿勢にみなぎっている。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著


    「何の飾りもないシンプルな服や粗末な帽子はまだしも、無惨なのは髪の毛だ。ギロチンの刃の邪魔にならないよう首をあらわにするため、襟足よりずっと上の方で鋏を入れられている。刑場へ出発する直前、監獄の中でサンソンから乱暴に切り取られたのだ。誰もがされることとはいえ、耳までのザンギリ頭は女性には、まして誇り高い王妃には辛かったに違いない。髪はとかす暇も与えられなかったらしく、不ぞろいに撥ねている。剝き出しになった首には、若さの消失を示す筋まで描きこまれた。  さらに若くも美しくもない証拠のように、への字に結んだ口元の歪みが強調される。有名な「ハプスブルク家代々の受け口」はアントワネットにも受け継がれていたが、若いころにはそれがかえって可愛らしいおちょぼ口に見えたし、宮廷画家たちが肖像画を描くときには、この特徴は微妙に仄めかされるにすぎなかった。今や遠慮はいらない。真横から見るせいで下唇が突き出ているのがはっきりわかるし、その唇の端は頰のたるみで下へ曲がり、底意地悪そうな印象を与える。やや鉤鼻なのと眼をかたく閉じているのも、それを強める働きをしている。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「もともとアントワネットは、いわゆる美女というのと違って顔立ちはむしろ平凡な方だ。しかしほっそりしたスタイルと透きとおる色白の肌のおかげで何を着ても似合い、また自分を引き立てる豪奢な衣装や宝飾品の選別眼に優れていたのと、立ち居振る舞いの高貴な優雅さ、いや、何よりも王妃という国内女性トップの地位によって、美の時代ロココのリーダーと目されたのである。もはや王妃でもなく、身を飾る何ものもなく、素のまま放り出されたとき、彼女は誰の目にも少しも美しくないのであった。周囲の憎悪に対して、軽蔑と頑なな顔つきで応じる様は、さらにいっそう美しくないのであった。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著


    「現実を意識から完全にシャットアウトするかのように、アントワネットは目を耳を心を閉ざし、全身に見えないバリヤーを張りめぐらせている。毅然たるこの姿は、死に方も見事であったろうと想像させるに十分だ。ギロチン台の上で泣き叫び、懇願し、逃げ回った前代ルイ十五世の愛妾デュ・バリー夫人──アントワネットが嫌い抜いていた相手──とは正反対の、落ち着いた態度を最後まで貫くに違いない、と。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「ブリューゲル描く絵はどれも、風景にさえ、比喩や暗喩、寓意や象徴など、隠されたメッセージがふんだんに詰まって解釈も一筋縄ではゆかない。この奇妙な絵、明るいんだか暗いんだか、騒々しいんだか静謐なんだかよくわからない、しかし一度見たら忘れがたい本作もきっと、幾重にも錯綜した意味が込められているのであろう。全てが解明されたわけではない。  まず手前のふたり並んだ男が何をしているのか、どんな役割を果たしているかが不明である。行列も何のためのものかはっきりしない。踊る三人組のうち、白頭巾に赤いスカート、ブルーのエプロンという女性も、これまでブリューゲルが『農民の婚礼の踊り』などで描いてきたダンス姿の女性たちとは違ってずいぶん姿勢が悪く、腰を折りまげ、鬱屈でもあるように下を向いている。列を抜けた人々がどこへ行くつもりなのかも謎だ。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「不思議なこのパステル画は、ベルギーの町ブリュージュを描いたものである。だが現実の景色そのままではない。  無人の広場、人の気配の全くない家、草一本鳥一羽動くものなく、時の止まった無音無風の街角が、夢のように濡れそぼっている。建物がどこかしら安定を欠いて見えるのは、画面途中でふつりと切れているのと、空が異様なほど広いせいばかりではない。家と平行なはずの歩道が右へ行くにしたがって幅が狭まっているため、建造物がごくわずかながら左へ傾いて感じられ、家が真正面を向いているのかそれとも斜めに建っているのか、確信が揺らぐからだろう。  しかもこの建物は、きっぱり人を拒んでいる。窓はみなかたく閉じられ、短い階段アプローチを上がった先の玄関扉には、どこにも取っ手がない。正面玄関ばかりか地下室への扉も、何かで塗りこめたように出入り不能になっている。これでは中へ入れない。とうぜん中から外へも出られない。思い出を閉じ込めたきり屋内の空気は淀み、煮詰まり、とうに死臭を漂わせているのかもしれない。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「フェルナン・クノップフ(一八五八 ~一九二一)はグレムベルゲン =レ =テルモンドに生まれたが、一歳から六歳までを、ここ中世都市ブリュージュで過ごした。裕福な上流階級に属する彼にとってブリュージュでの幼年時代は平和で幸せだったが、それ以上とりたてて町への執着があったふうでもなく、一家で首都ブリュッセルへ引越したあと、所用以外で故郷を再訪することはなかった。  大学ではまず法律を学ぶ。父と同じ裁判官になるためだったが不向きとわかり、美術アカデミーに入り直す。まもなく退学し、官製美術展に対抗する展覧会をアンソールたちと開くなどするうち、二十代半ばで早くも肖像画家として名を上げる。一方で、スフィンクスやメドゥーサなど神話に題材を取った幻想的な作品群を発表し、ついにはベルギー象徴派の代表的画家として名声を確立。  そんな一九〇二年、四十四歳のとき、一冊の小説が彼の心を烈しく捉えた。ジョルジュ・ローデンバック作『死都ブリュージュ』(一八九二)だ。町そのものが主人公のようなこの小説によって、クノップフの胸に幼いころの思い出が、宝物のように蘇えりでもしたのだろうか。以来、取り憑かれたとしかいえない熱中ぶりで、三年近くにわたってブリュージュの絵ばかり描き続ける。それまではもっぱら人物画で、風景画には目もくれないできたのに、描くとなると彼の風景画には、ただのひとりも人間は登場しないのだった。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「この小説最大の魅力は、ストーリーそのものよりむしろ、主人公の心情を代弁するかのようなブリュージュという町の描写にある。重苦しい北国の空におおわれた中世の町の佇まいが、丹念にねっとりと描かれる。思い出が「泉の顔のように橋の下から湧き出て」くるし、窓ガラスは「臨終の時にかき乱された眼」のようであり、カリヨンの「遠くかぼそい歌のしらべ」は妻の声、水面に映る切妻屋根の先端からは「死の感触が発散」される。霧雨は「魂を突き刺す」し、岸辺のポプラは「悲しみ歎き」、寺院の高い塔は「彼の恋を嘲笑している」。運河の白鳥が飛び立つ姿さえ、「まるで病人が、もだえつつ病床から抜け出す感じだった」。  主人公が何より恐れるのは、あれほど愛していた妻の思い出が薄れてしまうのではないかということ。かつて美しかったブリュージュが、今や「永遠の半喪期から脱しえない灰色の神秘」の町となり、「廃位された王妃」さながら見捨てられてしまったように、妻もまた「記憶のなかで少しずつ変色し、色褪せて」ゆき、自分の中で「いま一度死ぬのだ!」。(『死都ブリュージュ』窪田般弥訳、岩波文庫)」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「西洋では子どもは大人のミニチュア版としか捉えられていなかったから、完全な子ども専用服は十八世紀後半になるまで登場しない。そういうわけでグラハム家の子どもたちも、大人と全く同じ格好でポーズを取っている。中央に立つ姉妹など、花飾りのボンネットを被り、フリルたっぷりの袖、胸元のあいたドレス、レース付きの真っ白なエプロン、成人女性なみにウエストをぎゅっとしぼり、鯨骨入りの外へ広がるスカートをはいて、ずいぶん歩きにくかったに違いない。  だがもっと大変なのは、見るだに身動きしにくい「衣装の檻」に閉じ込められた、左下の幼児である。姉たちと同じボンネットにドレス姿なので、女の子と間違えそうになるが、これはトーマス・グラハム君、れっきとした男の子だ。当時はイギリスばかりでなくフランスも(少女姿のルイ十五世像が残っている)、オランダも(庶民もそうしていたことが数多の絵画から知られている)、そして日本も、三、四歳くらいまでは男の子に女児服を着せていた。男児死亡率が女児より高かったことと関係しているのだろうか。女児と見せかけて死神から守ろうとしたのかもしれない。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「我が子を喰らいながらサトゥルヌスは、凄まじい呻き声をあげているのではないか。画面から動物めいた咆哮が響きわたってくるようだ。さらに戦慄すべきことに、ゴヤはもともと(現状では修復され塗りつぶされているが)、サトゥルヌスの股間に勃起したものまで描いていたらしい。  サトゥルヌス( =クロノス)とは、ギリシャ・ローマ神話における農耕神であり、また「時」をつかさどる神である。絵画では、大鎌を持つ老人の姿で描かれることが多い。その鋭い鎌で、草ばかりでなく、人間の大切な時間をも無慈悲に刈り取ってゆく、老いた巨人だ。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「 サラゴサ州の寒村に生まれたゴヤは、地元の絵画工房で技術を身につけたあと、十八歳で野望を抱いて首都マドリッドへ出る。しかしまだ野望に実力は伴わず、美術アカデミーコンクールに三年かけて二度応募し、二度とも落選してしまう。やむなく私費でイタリア留学したあとサラゴサへもどり、教会壁画の共同制作などするうち、ある王室画家の妹と結婚するのだが、これは出世を狙う彼の計算高さからと言われている。それを証明するかのように、結婚後まもなくゴヤは義兄の紹介で、マドリッドのカルトン(タピストリーの下絵)制作者の職を得る。  庶民を題材に明るい風俗を描いたゴヤのカルトン画は人気を博し、やがて貴族たちから肖像画の依頼が殺到するようになって、いよいよ真価を発揮しだす。三十四歳でアカデミー会員、四十歳でカルロス三世の王付き画家になり、次いでカルロス四世が即位した一七八九年(フランス革命の年だ)には、念願の王室画家へと上りつめる。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著


    「『我が子を喰らうサトゥルヌス』のほんとうの怖さは、単に我が子を喰らっているからではない。そうではなくて、サトゥルヌス自身が感じている恐怖、それが錐もみ状に見る者の胸に突き刺さってくるから怖いのだ。  サトゥルヌスは自分の子どもを喰らわずにはいられない。それが彼の宿命である。そしてその宿命に恐れ戦くサトゥルヌスは、自らを狂気に追い込まざるをえない。せめても狂気の裡でなら、子どもを喰らうことができるだろう。だがそこにはいくばくかの人間の残滓があり、激しく拒むのだ、なんという浅ましさだ!  と。  ゴヤは戦場の血の海で、異端審問の拷問室で、人間が人間をやめる瞬間を何度も見てきた。いっさいの音が欠落した中で見る凄惨なその場面は、ゴヤの眼に焼きつき、眼をはがしたいほどの痛みと怒りを生じさせたに違いない。彼は描いて描いて描きまくり、視て視て視まくったが、それがサトゥルヌスへと凝結したのである。ほんものの恐怖へと──。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著


    「ベーコンが刺激されたのは、ベラスケスの筆で暴かれたインノケンティウス十世の正体(ないしは正体と思えるイメージ)──競争相手を蹴散らして権力の座についた男が身にまとう、一種の「悪」ともいうべき陰険さ──であったろう。これが単なる政治家の肖像であれば、またフェリペ四世像だの宮廷道化師たちの肖像だったなら、決してこのような引用表現を取らなかったはずだ。ここには紛れもなく「罰したい」との画家の思いが見える。宗教界のトップとして民衆の精神へ絶大な影響を及ぼし続けてきたローマ教皇が、信仰の名のもとにこれまでどれほどの悪事を行なってきたか(ベーコンはカトリック嫌いだった)、その罪を肖像画の上で贖わせたいとの、無意識であれ、強い思いが。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「フランシス・ベーコン(一九〇九 ~一九九二)はアイルランドに生まれた。シェークスピア時代の同姓同名の政治家兼哲学者(こちらの方がはるかに有名であろう)は、彼の遠い先祖である。そのことを、というより、ご先祖ベーコンが男色者であったらしいことを、画家ベーコンは常に意識していたと言われる。なぜなら彼自身も同じだったからだ。ホモセクシャルを扱った作品も数多い。  少年時代、陸軍少佐の父親に厳しく鞭打たれて育ったベーコンは、父を憎悪する反面、男らしい父に性的に惹かれていたと後年述懐するようになる。それともそれは、彼らしい露悪的な言辞にすぎないのだろうか。くり返し、自分は作品で何も告発するつもりもないし物語る気もない、とインタビューに答えているが、それと根は同じかもしれない。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「母親の下着をこっそり身につけるような息子を持った彼が激怒し、力ずくで矯正しようとしたのも無理からぬところがある。だがベーコンにしてみれば、それは自己の精神にふるわれる赦しがたい権力の行使以外の何ものでもなかった。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「かっと眼を見ひらいた少女が、裸で簡素なベッドに座っている。  ちょうど子どもから大人の女性への過渡期にあたる、どこか痛々しいような身体つきだ。薄い胸、ぺたっとした髪、骨ばった肩、ひょろりと長い手足……幼いふっくらした頰に似合わない張りつめた表情だけが、妙に大人びている。視線は強い。とはいえこちらを見据えるというより、見えない何かにじっと目を凝らしているかのようだ。  リアルな身体描写に比べ、背景はぞんざいである。壁も床も、素材が木なのやら漆喰なのやらわからず、ベッドも遠近法を考えていない。特に枕は、ただ適当に線を引いただけなのでシーツとの差が曖昧だし、質感が全くない。光源もはっきりしない。大きな黒い影はもちろんリアリズムからはるかに遠い(それこそが絵の核となっているのだが)。  部屋が不必要に寒々と見えるのは、モデルに対する描き手の温かさや愛情が感じられないせいだろうか?  それとも単に色数が少なく抑えられているからか?  いずれにせよ、誰もが真っ先にこの絵から感じるのは、強烈な「存在の不安」とでもいうべきものであろう。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「要するにムンクの絵はわかりやすいのだ。他の世紀末画家たちが題材を神話や歴史に取り、鑑賞者に知的なアプローチを求めることが多かったのに対し、彼はあくまで個人的体験や感情に重点を置き、しかもそれを独特の誇張、歪み、色使いで表現した。そうなるとふつうは理解しにくくなるものだが、彼の個性は見る者の胸にすっと入り込む。それはおそらく現代人が無意識のうちに表現したいと願いながらできずにいたものを、ムンクが自然にやってみせたからではないか。ムンク作品の新しさに驚きながら、しかし誰も拒否しなかったのは、強い感情に襲われたとき、周りの景色が、世界が、確かにこのようにうねり、このようにねじれ、このような色に激変することを、みな心の裡ですでに知っていたからではないか……。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「本作は、科学の市民化時代の幕開けにふさわしい、きわめて知的に計算された絵画といえよう。  まだ前時代の怪しさをたっぷり残した実験者を中心に、老若男女の各年代層が並んでいる。科学に対する態度も、肯定、否定、無関心、懐疑、とさまざまだ。ただし現代の目から見れば、科学を否定したり無関心の者に、いわゆる「女こども」を当てはめているところに古さを感じる(フランス革命以前の絵なのだ)。今なら間違いなく、科学少女も哲学する母もいるのだが。  それはさておき、再び目を画面中央下の幼い姉妹へもどしてほしい。  ふたりは、いかにも資産家の娘らしく、きちんと結い上げた髪に高価な飾りをつけ、大人の女性と変わらないファッションに身を包んでいる。その正装にふさわしく、きっといつもならおしゃまな様子で一生懸命背伸びしていたに違いない。でも今回ばかりは大人のふりは無理で、年相応のいとけなさが──子どもというのは何と手放しで泣けるのだろう──つい顔を出してしまった。姉は妹の細い首に右手をまわし、左手で目を覆わずにおれないし、妹は姉の腰にすがりつき、ガラス瓶を見上げる目に涙をためている。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「しかしまともに話の通じる相手ではない。息子に非難されたツァーリは例の如くかんしゃくを起こし、呪われた長杖をまたも振りあげるや力いっぱい殴りつけた。もちろん殺すつもりなど毛頭ない。大切な跡取り息子なのだ。ただ全く自制がきかなかっただけ。興奮すると、ブレーキの壊れた車のように暴走してしまう。謂わば一時的な狂気に捉われるようなもの。自分が何をしているかわかっていない。  気がつくと息子は死に瀕している。  イワン雷帝はそこでようやく我に返る。犯人は自分だ。もはや取り返しはつかない──。  狂気に捉われるのは怖ろしいことだが、狂気から覚めて自分のしたことを突きつけられるのは、さらにいっそう怖ろしいことではないだろうか。ツァーリの両の眼がそれを如実に物語っている。  イワン四世の生没年は、織田信長のそれとほぼ重なる。前者は一五三〇年から一五八四年、後者は一五三四年から一五八二年だ。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「色彩とその組み合わせに関して研究に研究を重ねたゴッホは、本肖像画では赤茶けた髭と髪以外、全体を淡い寒色で統一した。映画の中にありふれた赤い渦が出てきたことで、かえってゴッホの卓越した色彩感覚が再確認できる。そもそもブルーという色は気持ちを鎮めるはずなのに、これほど見る者の心をざわめかすのこそ画力であろう。ぐいぐい押しつける烈しく執拗なタッチ、絵の具の妖しい盛り上がりも加わり、あたかも人物から立ちのぼる青い瘴気のようで、しかもそれはいつしか画面から漂い出てきかねない。  表情も、凄みを帯びて険しい。削げた頰、きつく寄せた眉間、鋭く陰鬱な光を放つ両の眼。どこにも静けさ温かさ安らぎはない。ただただ冷たく燃えている。上着はいかにも安物で、肩のところが捩れてのたくり、内なる歪みが外へあらわれたかとさえ思う。将軍ならずとも、得体の知れない深みへ引きずり込まれる気がする。」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

    「ゴッホは、数多くの自画像を描くだけでは足りず、生涯に七百通以上もの手紙を書き、自分について饒舌に語った。  牧師の息子として生まれた彼は長男とされるが、実際には一年前に同じヴィンセントという名の兄が、生まれてすぐ亡くなっている。心理学者によれば、親は死んだ子を「良い子」と認識し、そのすぐ後に生まれた子を否定的に見がちなため、置き換えられた子は自尊感情を持てなくなる場合が多いという。ゴッホと両親の関係が一貫してぎくしゃくしていたこと、彼が生涯かけて自分の存在理由を探し続け、餓えるように周囲に理解を求めた遠因は、この出発点にあったに違いない。  常に己を知ってほしがった彼、そんな彼が単に「見たまま」の自分を描くだろうか?  そもそも見えたとおりの自分を描けるものだろうか?」

    —『怖い絵 (角川文庫)』中野 京子著

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    2026年07月23日
  • 印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ

    Posted by ブクログ

    891円

    ★再読

    オルセー美術館行く前にこの本読んでたら完璧だと思うぐらい、オルセー美術館にあるものだけが語られてた。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「 まずは、印象派とは何か?「一八六〇年代からフランスに起こった絵画運動。特徴としては、主題より感覚、形態より印象を重視し、絵具を混合しないことによる明るい色彩と、自在で魅力的なタッチ(絵筆の跡)を残して、光あふれる自然を讃美。マネに大きな影響を受けた若手たち──モネ、ドガ、ルノワール、モリゾ、ピサロ──を起点とし、セザンヌ、スーラ、ゴッホ、ゴーガンへと発展」  これがだいたいの共通認識と言っていいでしょう。  現在では印象派絵画はごく当たり前に受け入れられ、世界中で愛好されているため、侃侃諤諤の論争の時期があったなど、にわかには信じがたいかもしれません。しかし印象派の画家は──穏やかな作品のイメージと違い──既存の権威に反逆し、新時代の「前衛運動」をめざし、ついには世界の美術市場を劇変させた、芸術上の革命家たちだったのです。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著


    「次いで、新印象主義と呼ばれる画家たちが登場します。スーラの『シャユー( =カンカン)』(ダンスの一種)を見てわかるとおり、光学理論を絵画に応用し、点描法で描かれています。ぽつんぽつんと画布に色の点を置いてゆくわけですから、気の遠くなるほど手間のかかる技法です。これまた発表当初は、「蠅のように汚らしい染み」などと酷評されるのですから、たまりません。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「後期印象派で最も著名なのは、オランダ人ゴッホでしょう。彼自身は印象派ではモネしか認めていませんでしたが、パリへ出てきて印象主義の技法を学び、明るい色彩、大胆なタッチへと画風を変えてゆきました。とはいえ『カラスのむれとぶ麦畑』などを見ると、ゴッホはもうゴッホという唯一無二の存在として完結しており、どこかの派に括れるものではないような気もします。  それはゴヤやベラスケスやフェルメールなどについても言えます。しょせん、何とか主義だの何とか派といった仕分けは、後世の人間が美術史をまとめるための便宜上の名づけですから、そこからはみ出す画家はいくらでもいるわけです。  印象派においても、マネはあくまでサロンにおける成功を求め、決して印象派展に出品することはありませんでしたし、セザンヌも後に仲間から離れてゆきました。光を描こうとすれば形態が不明確になることを、容認できなかったからです。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 ところで印象派が脱却しようとしていたアカデミー作品とは、いったいどんなものだったのでしょう?  それはひとことで言えば、ごく一握りのエリートのためのもの、王侯貴族や教会や知識人など、特権階級の嗜好に叶うものでした。彼らが絵を発注し、購買するのですから当然です。  一般向け公共美術館ができたのは、フランス革命後。印象派が登場した時点でまだほんの五、六十年というところです。しかもその間にも王政復古や戦争や内乱があり、ふつうの人々が親しく名画に接することができるようになるのは、社会にある程度ゆとりができて以降です。  したがって当初、人々は「既存の美」とはどんなものか、絵はどうやって鑑賞すべきかを、専門家たるアカデミーに教えてもらわねばならなかった。  聖書ならまだしも、神話や歴史について知らないことは多く、絵画のアトリビュート(「ヴィーナスにはリンゴ」といったような、その人物を特定する持ち物)の知識も足りなかったので、背景のテーマを学ぶ必要がありました。もしかすると眼の歓びより、「勉強」の要素のほうが強かったかもしれません。だからこそ、新たな購買層たるブルジョワ階級は、これまでとは全く違う、『カルメン』のような作品、いま自分たちが生きている近代社会にふさわしい、新たな価値観を持つ絵も見たい、わくわくする歓びを知りたい、と思うようになってゆきます。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著


    「戸外に進出した画家たち  さて、戸外で制作する画家の姿ですが、当時は周囲の目にも新鮮だったに違いありません。携帯電話が登場したばかりのころ、街を歩きながら通話する姿が「カッコいい」と喧伝された(今は昔)のと似ている気がします。軽量の画材を持ち歩き、自然に溶け込んで絵を描くのは、最先端をゆく芸術行為といったところでしょうか。見物人にとりまかれ、ちょっと得意な「日曜画家」もいたはずです。  アメリカ人ホーマーの『ホワイトマウンテンでスケッチする芸術家』はユーモラス。この「スケッチ用日傘」は画家のお肌を守るためではなく、画布に射す光線を調整するためのものです。何と、日傘と一体化したイーゼルまで売られていました。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ルノワールは『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』で、庶民の休日の歓びを描きました。ここはモンマルトルの丘。パリ中心部から離れているので部屋の賃料が安く、労働者階級が居住する地域です。ムーランは「風車」の意。ロートレックが通いつめたキャバレー「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」が有名ですが、こちらは「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」。ギャレットは「焼き菓子」。ここでギャレットを売っていた商人が開いたカフェでした。  画面に木漏れ日の表現が見られるので、日中ということがわかる。このカフェは、日曜のみ三時から深夜まで、店の前の広場を野外ダンス場に開放していました。ダンスは昔から最大の娯楽のひとつですから(これは上流から下々まで変わらない)、パリっ子たちは精一杯着飾って集まり、辛い日々の労働による憂さを発散したわけです。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「カイユボット『床削り』では、厳しい労働が引き締まった筋肉への讃嘆や身体を無心に動かす歓びへと転化されています。裕福なブルジョワ階級のカイユボットは、自分自身、ヨットが趣味の逞しいスポーツマンでしたから、肉体労働とスポーツの共通項だけに目がいったのかもしれません。  いずれにせよ印象派は、社会の底辺で喘ぐ男たちにほとんど関心を示しませんでした。神話も歴史も聖書も描かず、「今という時代」に焦点を絞ったとはいっても、その「今」を生きている肉体労働者は除外したのです。  では働く女性は?  こちらは、少ないとはいえ取り上げられています(娼婦の仕事も含めればもっと増える)。「駅の詩情」が題材となったのと同じ理由から、洗濯したりアイロンをかけたり、赤子に授乳したり帽子を作ったりと、その姿態や動きの──美しさではなく──面白さゆえに、キャンバスに塗り込められてゆく。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「名家に生まれながら、本来の階級に居場所を見つけられないロートレックと、今いる場所から脱出したがっている女たちは、言わず語らず互いをよく理解しあったのです。彼女たちはロートレックになら、本当の自分をさらけだしました。絵を売る必要のないロートレックは、描きたいものを描くことができた。娼館の醜悪さや、男に身を売りながら心は女にあるレズビアンの生態、老いた娼婦の絶望が、彼の達者な絵筆で今に残されたのです。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「「本を読む」という行為  モリゾの姉のような立場にある女性の倦怠を、同時代人ムンカーチが『家の中の女』で克明に描写しています。  ムンカーチはハンガリーの画家。当時この国はハプスブルク家によって、オーストリア =ハンガリー二重帝国というきわめて不自然な王政をとらされていましたから、画中の若い女性は貴族階級かもしれません。何十室もありそうな広大な邸で、さながら豪奢な家具の一部と化したかのように無駄に着飾り、仮綴本の一葉を読んでいる。敷き重ねられた絨毯、貴族趣味のタピスリ、どっしりした家具調度、分厚いカーテン……印象派と違い、背景描写は執拗で、そのためいっそう閉塞感が伝わってきます。  我が子すら慰めにならず、生き甲斐もなく、暇と退屈という魔に蝕まれてゆく人生。彼女もノラになるのだろうか……。イプセンが『人形の家』を書き、もう「お人形」でいるのは嫌だと決然と家を出る新しい女ノラを生み出したのは、本作の二年後、一八七九年のことでした。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ところで本を読むという行為は、今の我々にはあまりに当たり前すぎて、何らかの意味合いが含まれているとは思わない。まして日本は昔から世界に冠たる識字率の高い国で、江戸時代には国中いたるところに寺子屋があり、身分性別に関係なく、五、六歳の子どもたちは皆「読み書きソロバン」を学べました。これは誇るべき文化であり、今日でも日本のようにレベルの高い新聞が全国津々浦々でこれほど読まれている国など、ほとんど無いことを知るべきです(欧米ではインテリの読む新聞と、それ以外の人々の読む新聞は全く違う)。  識字率の割り出し方は難しいのですが、だいたい十九世紀半ばのロンドンやパリで、二割以下だったと推定されています。外国人居住者も多かったので、安易に日本との比較はできませんが(江戸では優に七、八割)、想像よりはるかに読書人口は少なかった。文字が読め、本を読む時間もたっぷりある女性となるとさらに数は限られ、そうした女性の姿が描かれるようになるのは十八世紀半ばを過ぎてから。モリゾのご先祖フラゴナールが、印象派より百年前に描いた『読書する娘』は、その愛らしさで人気の高い作品です。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    その後フランス革命で新聞やパンフレットが量産されましたが、それも皆が個々に読んだわけではありません。革命派がカフェに集まったのは、そこへ行けば文字の読める人間がいて、音読してもらえるからでした。多くの人は新聞を読んだのではなく、耳から聞いたのです。  やがて国全体が豊かになるにつれ、識字率は飛躍的に高まり、小説本も爆発的に売れるようになります。いわゆる三文小説と呼ばれる、恋愛もの、お涙ちょうだいもの、冒険ものなども増えました。すると(案の定?)女性の読書が問題視される。下らない小説ばかり読んでいる女は、アルコール中毒の男と同じくらい、脳が破壊されると言うのです。読書人口が極端に少なかった頃、例えば先のフラゴナールの少女なら、知的で静謐な美と讃えられていたのに、おおぜいの女性たちが小説に夢中になると、今度は由々しき事態と騒がれる。エンマ・ボヴァリー(フローベールの『ボヴァリー夫人』)も、甘ったるい恋愛小説によって頭の中を空想でいっぱいにし、おかげで目の前の現実に幻滅した女性と捉えられていました。読書好きの女は知的な女性ではなく、むしろオバカな女とされたのです。一八八〇年に女子の公教育が制度化されたとき、「わたしが一番好きなのは、字が読めなくて、赤ん坊の尻のしまつができる女だね」と言ったのはルノワールでした。  マネの『鉄道』も、読書する女性の姿です。膝の仔犬が眠りこみ、子どもは退屈そうに眼下の汽車を眺めている。彼女はそれほどにも長く、本に没頭していたのでしょう。そしてふっと目を上げ、こちらを見る。この絵を見ている我々を見る。しらじらと夢から醒めたように……。

    「見る席ではなく、見せる席  そもそもボックス型の桟敷席(四 ~六人用)の大部分は、舞台より他の客席を眺めるのに都合よく出来ています。真横に壁があるのですから、前方の手すり寄りに座らない限り、舞台はきわめて見えにくい。なぜこんな構造にしたかといえば、それは第一義が観劇にはなく、社交の場としての機能にあるからです。自宅の居間の延長のように使うので、接客したり飲食したり、はなはだしくは上演中にカーテンを閉め、よからぬことにも使いました。音楽はバックグラウンド・ミュージックに成り果てる。  舞台と真正面に相対する二階中央桟敷席がロイヤルボックスですが、次にステイタスの高い席は、舞台に一番近い桟敷席でした。しかしここは舞台上手(ないし下手)のほとんど真上に位置していますから、一方の側からしか見えず、全体を俯瞰しにくい。そのくせ書割の奥まで見え、芝居における夢の効果をぶち壊す。ドガ『エトワール』の視点がこれです。控えている踊り子たちの姿が丸見えになっています。これはテレビを例にとると、スタッフの動きまわる姿や小道具の移動が常に画面に映るようなもので、はなはだしく鑑賞の妨げになる。なぜこんな場所が貴賓席か、不思議に思えます。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 ロートレックの石版多色刷ポスター、『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』がそれを伝えています。影絵のように黒く居並ぶ観客の前で、スカートを巻き上げて踊る女性がラ・グリュ、かつての洗濯女にして、今や大人気のカンカン・ダンサー。開脚や側転、素早い足のステップ、下着をさらけ出して踊るカンカンの刺戟の強さを、現代人が理解するのは難しい。宝塚の健康的なラインダンスを思い浮かべてしまうし、またショーダンス自体、アメリカの振付師ボブ・フォッシーに代表される露骨なセクシーさに慣れさせられているからです(この先、男女とも丸裸で踊る時代がきてももう驚きません)。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「風光明媚な田舎アルルでゴッホは、驚異のメタモルフォーゼを遂げます。初期の作品を見ると、よくこれで画家になりたいと思ったものだと呆れるほどなのに、がむしゃらに突き進めば人はどこまで行きつけるかの見本のごとき変身例となる。アルル到着から死ぬまでの三年、彼はアブサンを飲み、テオにねだって高価な絵具を送らせ、ゴーガンと共同生活し、たちまち喧嘩別れし、発作的に耳たぶを切り落としてそれを娼婦に持ってゆき、精神病院へ入れられ、退院し、テオにあたりちらし、今度は自主的に精神病院へ入り、なおかつ五百点もの絵を描いた。二日に一点描いた計算で、玉石混交もやむなし(しかしその玉は、まさに珠玉です)。あげくにピストル自殺。爆発し続けたような晩年でした。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「美術史的には、ゴッホは後期印象派の画家とされます。パリで印象派の明るい色彩を学び、点描画法を試したり、浮世絵の影響を受けたりしたため、そう括られるのです。とはいえ、自然光をあるがままに捉えようとしたモネから、ゴッホはどんなに遠いことか。いかに明るい色彩を使おうと、ゴッホにはモネの幸福な光もやわらかな空気感も表現できなかった。彼の北方的苦悩は、アルルの陽光によっても溶かされることはなかった。同じオランダ生まれの天才レンブラントが、光を描こうとして逆に闇を深めたのを思い出さずにおれません。  強烈な色彩の表現力を遺憾なく発揮した『星月夜』は、一度見たら忘れられない絵です。アブサン中毒で狂気にかられた男が描いた異常世界だからではありません。こんな夜は現実にはありえない。ありえないのに、直感的に、いや、こんな夜を知っている、こんな夜の不安を、苦悩を、叫びを、神秘を、確かに知っている、そう言いたくなるからです。画家の心の闇に渦巻く、形容しがたいエネルギーの塊に、微かに共鳴する我々がいます。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ゴッホは『タンギー爺さん』の他に、浮世絵そのものを何枚も模写しています。浮世絵の鮮やかで粋な色彩と、遠近法を無視した平坦な描写法、そして意表を突く構図の面白さが、驚きをもって受けとめられたことがわかります。  西洋絵画は何世紀にもわたって苦心に苦心を重ね、工夫に工夫を凝らして、二次元の画布に三次元を現出させようとしてきましたが、はなからそれを問題にしない浮世絵の軽やかさ、自由さは、古典の縛りから抜け出そうとする印象派に、大きなインスピレーションを与えたのです。浮世絵の画面の切り方の奇抜さもまた、写真同様、これまで見たことのない視覚を提示しました。スーラ『オック岬』は、明らかに安藤広重『東海道五十三次  箱根・湖水図』にインスパイアされた絵です(それにしても、圧倒的な広重の凄み。比べるも愚か、というほど差がある)。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ではどうして印象派絵画はブランドになったのに、ジャポニスムは短期で終わって浮世絵人気は拡がらなかったのか。大きな理由は、描かれているものが欧米人にとって文化的に遠すぎ、親しみにくかったせいです。そのうえ日本画は油絵と違い、紙に描かれているため耐久性がはなはだ落ちる(飾るにしても資産としても、これは痛い)。また一点ものでない版画は、とうぜんながら価値が薄まる。そもそも浮世絵は、行灯の仄暗い、ゆらめく明かりのもとで広げての鑑賞が想定されており、今とはずいぶん異なった見え方をしていたと思われます。それやこれやで(現代日本人にとっても)敷居が高いのです。  悲しいことに日本人自身、自分たちの持つ宝に気づいていなかった。浮世絵を芸術とは思っていなかったし(現在の漫画に対する評価と似ていたようです)、二十万点も海外流出してゆくのを止めなかった。印象派のたいていの作品より、よほど日本画のほうが優れていると感じる人が増えてきても、印象派の画家や擁護者たちのように、理詰めで外へ向かって発信することをしない。国民性と言おうか、黙って差し出せば、相手がわかってくれると信じている、ないしは自己宣伝はみっともないと考え、鑑賞法を語らない。フランスのやり方と正反対です。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 実のところフランスは、美術も音楽も長らくイタリアに遅れをとっていた。フランス・アカデミーが優れた新進芸術家に与えた「ローマ賞」という名称、そしてイタリア留学という褒賞が、全てを物語っています。フランスは必死にイタリアを追い、己の弱点を補うべく理論武装して、自らの芸術がいかに優れているかを、滔々と世界へ訴え続ける(現在進行形)。小説でさえ、本人があとがきで、こう読め、ああ読め、ここが感動のしどころだ、と読者に指図するほどですから、宣伝能力は比類ない。  日本もその点はもっと見習うべきだし、世界で活躍する日本人アーティストをもっと国全体で支援すべきと思うのですが……。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    富豪の娘と画商  アメリカと印象派の橋渡しをした、重要なふたりを挙げましょう。  ひとりは『オペラ座にて』の、アメリカ人女性画家カサット。富裕な家に生まれ(兄は後年ペンシルヴァニア鉄道の社長)、小さなころからヨーロッパ各地を見てまわるという恵まれた環境に育ち、美術学校で勉強した後、本格的な絵の勉強のためフランスへやってきました。まもなく印象派に魅入られ、ドガに師事して、印象派展にも出品するようになります。先述したハヴメイヤー夫人とは幼馴染みでもあったし、絵の購買層たる上流階級に太い人脈を持っていましたから、いかに印象派が斬新な芸術か、いかに投資として有利な物件かを、あちこちに推薦してまわりました。「モネをもっとたくさん買えばよかったのに」などという手紙も残しています。彼女を通じて印象派の(金儲けの手段としての意味をも含む)魅力に開眼したアメリカ人は少なくありません。  もうひとりは、フランス人画商デュラン=リュエル。彼は印象派が嘲笑されていたころからその将来性を信じ、積極的に作品を手がけ、また個人的にも経済支援を行ないました。何しろそれまで印象派の画家たちは、仲間内で(といってもたいていは、資産家のカイユボットやバジールが)購入する程度でしたから、好意的な画商の登場は彼らにとって命綱といってよかった。デュラン=リュエルはせっせと印象派作品を集め、オークションを開きますが、いかんせん、いつまでたっても安値でしか売れず、次第に窮地に追い込まれてゆきます。もちろんそれを救ったのがアメリカでした。破産の危機に瀕したデュラン=リュエルは、決死の覚悟でニューヨークへ営業に行く、三百点もの印象派絵画を携えて。

    「『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は、彼の母親の手元に残りました。スーラ死去から九年後の一九〇〇年、彼に心酔していた画家シニャックが、この絵を忘れさせてはならじとオークションにかけ、八百フランで、あるフランス人に売られます。同年、シスレーの『ポール・マルリーの洪水』に四万三千フランの値がついていますから、八百フランが不当なまでに安かったことがわかります。いえ、むしろフランス人の見る目の無さがわかる。印象派絵画をようやく受容したものの、少し毛色が変わるともう受けつけない。ゴッホが生前、たった一枚しか売れなかったのが思い出されます。  二十四年後、スーラの本作はまた売りに出され、シカゴのコレクターに二万ドルで買われ、フランスを離れてゆきました。このころになってようやく作品の真価に気づいたフランス人は、買戻し団体を組織して、一九三一年、四十万ドルを提示しますが、すでにシカゴ美術館の聖遺物となっていた『グランド・ジャット島』が、もどるはずはありません。オルセーにこの絵がないのは無念でしょうが、アメリカを恨むのは筋違い。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 印象派は、絵画が商業利用される幕開けの、いわば申し子でした。公立美術館が増え、誰もが気軽に絵画鑑賞可能になるにつれ、規範となる芸術、つまり古典という考え方は廃れ、専門家のお墨付きよりむしろ、多くの人に愛される絵が「傑作」と呼ばれるようになる。クラシックよりポピュラーが愛されるように(もちろんポピュラーの中の少数のほんものは、確実にスタンダードになるのですが)、画面が明るくてきれいなもの、何も考えなくていいもの、心地よいもの、癒し効果のあるもの、知識がなくても楽しめるもの、要するに印象派絵画が圧倒的に支持される。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

     もう一度シスレー『ポール・マルリーの洪水』を見てください。これは一八七六年のセーヌ川氾濫により道路が水没、人々が舟で通わねばならなくなった光景です。それを画家は、何ら同情も憂慮もなく、自然への怒りもなければ、無策な政府を批判するでもない。神を呪うでなし、不便をかこつ住民のけなげさを讃えるでもなし、ただ見ている。ただ水面の光の照り返しや静寂が気に入ったから描いている。  いったいこれはどういうことでしょう? 我々は画家から、災害地の美を感じるよう強いられているのだろうか?  シスレーは上流階級に属する都会人で、田舎の水辺の景色が好きでした。つまりはそういうわけです。リアルな田舎の生活やそこに暮らす人々には興味がない。たとえ住民が難儀していようと、洪水によって一変した景色が美しければ愛でる。印象派を購入する人の眼と、描く者の眼は合致していたのです。それは現代の我々の困惑とも、何ら関わりない。  同じことはドガ『エトワール』にもあてはまります。下層階級の女性を見下していた画家は、踊り子とそのパトロンの関係を当然のものとして、何ら批判精神もなく、しかしみごとに瞬間の美を切り取って見せた。そして後世の美術史家たちもまた、ドガと同じ視線でこの絵を見たのでしょう。なぜならこれまでの美術書の(皆無とは言えないまでも)大半が、書割の後ろに立つ黒い服の男には全く触れず、ひたすらバレリーナの衣装の美しさや構図の斬新さや色彩感覚について説明していたからです。何が描かれているかより、どんなふうに描かれているかのみ重要視するのは、鑑賞者の眼ではなく画家の眼です。その見方では、なぜここにこんな男性が隠れているのかと、疑問に思うことすらできない。

    「何も知らなければ偏見をもって絵を見てしまいます。どんな偏見かといえばこの場合──バレエというのは高尚な芸術で、バレエを習う少女たちは裕福な家の出身で、プリマに選ばれたのは大変な努力をして実力をつけたからだ、という現代の眼です。現代の眼でしか見ない、という偏見です。当時の踊り子の状況が今とは全く異なっていたことは、これまで書いたとおり。バレエはオペラの添え物でしかなく、踊り子は売春婦と同義であり、プリマとして踊っているからといって実力があるとは限らず、単にパトロンの後押しによったのかもしれない、そういった歴史的事実です。  そんな「瑣末」なことなど知らないまま、楽しむべき?  知れば幻滅する?  はたしてそうでしょうか。背景を知っても、そしてその背景が思いもよらないようなものであっても、いくつもの幻滅が重なっても、にもかかわらず絵の価値は変わらない──それこそが真の芸術作品のはずです。作り手の人格と芸術が乖離していることは、少しも珍しいことではなく、文学も音楽も、いえ、芸術以外の世界でも、こんな人間なのにこんな素晴らしいものを産み出したのか、こんな下劣な人間が、こんな崇高な行ないをすることがあるのか、という例は枚挙にいとまがない。こんな社会状況で、こんな意図で、こんな経緯で描かれたのに、それでもなおオーラを放つ。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ジャン =バティスト・アルマン・ギヨマン(一八四一 ~一九二七)  パリ生まれ。叔父が営む服飾店に勤めながら写生学校に通う。一八六一年頃画塾アカデミー・スイスに入学し、セザンヌやピサロと出会う。働きながらの制作なので、描く風景はパリ市内および近郊に限られていた。六三年に落選展に出品、パリ市の土木課で夜間勤務しながら昼間に絵画制作に取り組む生活を続けた。印象派展には第一回から六回参加、『ベルシー河岸─雪の印象』など都市化の進むセーヌ河畔の風景や工業化していく風景などを多く取り上げた。九一年に宝くじに当選し以降絵画制作に専念、最後まで生き残った印象派の画家となった。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「アルフレッド・シスレー(一八三九 ~九九)  フランス在住のイギリスの実業家の息子としてパリに生まれる。ロンドン留学中にイギリスの風景画家の作品に影響され、パリに戻ってから画業に専念、一八六二年、シャルル・グレールの画塾に入り、モネ、ドガ、ルノワールらと出会う。彼らとともにフォンテーヌブローの森やパリ近郊に出かけ、戸外での風景画を精力的に制作した。この頃カフェ・ゲルボアの常連となり、ピサロ、セザンヌ、ギヨマンらとも交友を重ね、七四年の「無名会第一回展」に参加した。生涯にわたって、『アルジャントゥイユのセーヌ河』などの穏やかな風景画を描き続けた典型的印象派。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ジョルジュ・スーラ(一八五九 ~九一)  パリの中産階級の家に生まれる。官立の美術学校に入学するが、兵役のため中退。一八八三年、サロンに素描を出品し入選する。この年から、後に彼が完成する光学理論を取り入れた点描法の技法につながる作品『アニエールの水浴』の制作に着手、八四年に完成しサロンに出品するが落選した。八六年、五十人ほどの人物を点描法で描いた大作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を第八回印象派展に出品し、賛否両論を呼ぶ。この新たな技法を用いた画家たちは新印象派と呼ばれたが、スーラ自身、生前はあまり評価されず、三十一歳の若さで病死した。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ポール・セザンヌ(一八三九 ~一九〇六)  裕福な銀行家の息子として南フランスのエクサン・プロヴァンスに生まれる。法科大学に入学するも中退し、パリのアカデミー・スイスに通い絵を学ぶ。カフェ・ゲルボアでマネを中心とする後の印象派グループと知り合い、特にピサロの影響を受けて、明るい色彩の絵を描くようになる。第一回、三回の印象派展に出品するが、まもなく印象派を離れ、故郷に戻って対象の構造的本質を追求する独自の画風を開拓した。風景、人物、静物すべてに傑作を残すが、特に『リンゴの籠のある静物』など静物画は構図を追求するうえで適した画題だった。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「エドガー・ドガ(一八三四 ~一九一七)  パリに銀行家の息子として生まれる。一八五五年に官立美術学校に入学し、六二年、マネと知り合い、カフェ・ゲルボアで次第に印象派の画家たちと交わるようになった。「無名会第一回展」に『ダンス教室』を出品する頃から踊り子や働く女性などの市井の人物や情景を好んで描くようになり、動作を一瞬にして捉えて描く独自の画風を確立した。印象派展にはほとんど毎回参加したが、八五年頃から視力の低下に悩まされるようになると、石版画やパステル画、写真も手がけ、さらに目が悪くなってからは、記憶の中の踊り子たちを手探りで彫刻した。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「カミーユ・ピサロ(一八三〇~一九〇三)  西インド諸島のセント・トーマス島生まれ。一八五五年、画家を志してフランスに渡り、画塾アカデミー・スイスでモネやセザンヌらと知り合う。六〇年代末にはパリ近郊のポントワーズに移り住み、『赤い屋根、冬の林の眺め』など田園風景を好んで描いた。全八回の印象派展すべてに欠かさず出品、グループ最年長の彼は若い画家たちのまとめ役でもあった。八五年頃からスーラの影響で点描法も試みている。晩年は眼病に苦しめられ戸外での制作を断念、部屋の窓からの眺めを描くようになり、パリの近代都市の景色を多く描いた。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「エドゥアール・マネ(一八三二 ~八三)  パリの高級官僚の家庭に生まれる。一八五〇年にアカデミーの大家トマ・クーチュールの画塾に入学、ルーヴル美術館で過去の巨匠たちの作品を模写、研究した。五九年のサロン初出品では落選するも、六一年には初入選を果たしている。六三年の落選展に出品した『草上の昼食』、六五年にサロン出品の『オランピア』は主題的にも技法的にも当時の保守的な人々には受け入れられずスキャンダルとなるが、カフェ・ゲルボアに集まる、後に印象派となる青年画家グループの中心的存在となる。『フォリー・ベルジェールの酒場』を描いた晩年は壊疽を患い歩行困難となった。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「クロード・モネ(一八四〇~一九二六)  パリ生まれ、ノルマンディー地方の港町ル・アーヴル育ち。一八五九年にパリに出て、画塾アカデミー・スイスで学び、後に印象派の仲間となるピサロらを知る。六二年には画家シャルル・グレールのアトリエに入り、シスレー、ルノワールら同世代の画家たちと知り合う。彼らとともに戸外に出かけ、移ろいゆく光と色彩の描写を追求、「光の画家」とも呼ばれる。七四年の「無名会第一回展」出品の『印象─日の出』が印象派の語源。晩年は白内障による視力の衰えと闘いながら、季節や光の変化のもとに描く連作が中心となり、なかでも『睡蓮』の連作で知られる。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ベルト・モリゾ(一八四一 ~九五)  ブルージュの官吏の家に生まれる。幼少期より姉とともに絵画を学び、パリに出てからはコローに弟子入りして戸外での制作活動を始める。一八六四年にサロンに初入選後、サロン画家の紹介でマネと出会い、印象派の画家たちと交友を重ねるようになる。マネから画風のうえで大きな影響を受ける一方、マネの作品のモデルも務めた。七四年、「無名会第一回展」が開催された年にマネの弟ウジェーヌと結婚、その後は独自の画風を確立し、『ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘』など身近な主題を大胆で奔放なタッチと明瞭な色彩を用いて描いた。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ピエール =オーギュスト・ルノワール(一八四一 ~一九一九)  フランス中南部のリモージュで生まれる。父は仕立屋、母はお針子。一八六二年にパリの官立美術学校に入り、シャルル・グレールのアトリエでモネ、シスレーらと知り合う。六四年にサロンに初入選の後は、入選と落選を繰り返す。七四年の「無名会第一回展」に出品、七六年の第二回印象派展には『陽光を浴びる裸婦』など今日ルノワールの代表作として知られる作品などを出品した。八一年のイタリア旅行でラファエロらの古典に影響されてからは印象派を離れ、色彩豊かな豊満な裸体を数多く描く。一九〇〇年頃からリューマチが悪化し、車椅子で制作を続けた。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著


    「アンリ・ド・トゥールーズ =ロートレック(一八六四 ~一九〇一)  伯爵家の息子として南フランスのアルビで生まれる。十四、十五歳の二度の事故で両脚を骨折、下半身の発育が止まり、以後、絵画に没頭する。一八八二年にパリに出て当時の有名画家コルモンの画塾に入り、ゴッホやドガと知り合う。八四年以降モンマルトルにアトリエを構え、ダンスホールや酒場に入り浸って『ムーラン・ルージュにて、ダンス』など娼婦や踊り子のような夜の女たちを描いた。九一年に「ムーラン・ルージュ」のポスターを制作しパリ中の評判になる。九九年、アルコール依存症で精神科病院に入院、次第に衰弱し、二年後に母親のもとで死去。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著

    ティツィアーノ ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 一四九〇頃~一五七六。ルネサンス期に最も活躍した、イタリア・ヴェネツィア派の巨匠。ヴェネツィア共和国の公認画家として宗教画や神話画を多数手がける一方、神聖ローマ帝国皇帝でありスペイン国王のカール五世と、その息子フェリペ二世からも絶大な信頼を得るなど、肖像画にもすぐれた。 ジェローム ジャン=レオン・ジェローム 一八二四~一九〇四。フランス・アカデミーの大御所。彫刻家でもある。細部にまで気を配る緻密な絵画はアカデミー美術の特徴だが、歴史を題材にしたものばかりでなく、オスマン帝国やエジプトへの旅の後に描いたオリエントを題材にした作品をサロンに出品し人気を得た。当時の前衛絵画「印象派」には批判的だった。 クールベ ギュスターヴ・クールベ 一八一九~七七。フランスを代表する写実主義の画家。自画像でサロンに初入選するが、社会主義に共鳴し社会的芸術としてリアリズムを追求、普通の場所の名もない人々をありのままに描くと、絵画の理想化を求めるサロンには受け入れられなかった。五五年のパリ万博に『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』を出品しようとしたが出展を拒否され、万博会場のすぐ近くに自ら作品を展示し「世界初の個展」を開催した。 ベラスケス ディエゴ・ベラスケス 一五九九~一六六〇。スペイン最大の画家の一人。スペイン・ハプスブルク家の王・フェリペ四世付きの画家になって以降、没するまで宮廷画家として過ごす。徹底した写実に視覚的効果を加味した巧みな画面構成を得意とし、フェリペ四世、マルガリータ王女、マリア・テレサ王女などスペイン王族の肖像画を数多く手がけた。


    ルーベンス ピーテル・パウル・ルーベンス 一五七七~一六四〇。フランドル出身のバロック期を代表する画家。イタリアに留学してルネサンス美術を吸収、動きの多い劇的な構図、豊かな肉体表現、華麗な色彩で独自の世界を構築した。スペイン・ハプスブルク家の宮廷画家となってからは工房を設置し、膨大な作品を残した。 ニクラウス・マヌエル 一四八四~一五三〇。スイスの画家、詩人、政治家。ベルンに生まれ、バーゼルやイタリアに旅行し、その絵画美術を吸収する。またドイツ・ルネサンス期の画家デューラーの影響を受け、木版画・銅版画の技術も学んでいる。十六世紀のスイス絵画を代表する存在。 ブリューゲル ピーテル・ブリューゲル 一五二五頃~六九。十六世紀ネーデルランド絵画の巨匠。イタリアで修業ののち帰国し、怪奇・幻想的な作品や宗教的作品を手がける。アントワープからブリュッセルに移ってからは農民の風俗を好んで描き「農民画家ブリューゲル」の異名をとる。細部まで丹念に描きこんだ作品は、歴史資料としても貴重な情報を提供している。 コロー ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 一七九六~一八七五。十九世紀のフランス絵画のなかで最も優れた風景画家の一人で、バルビゾン派に属し、次世代の印象派への橋渡しをした画家とされる。イタリアやフランス各地の詩情あふれる風景画を数多く描き、夢想的・叙情的な雰囲気を強く感じさせる独自の色調と様式を確立した。


    ホーマー ウィンスロー・ホーマー 一八三六~一九一〇。十九世紀のアメリカを代表する画家であり、アメリカ水彩画の伝統を確立した人物として知られる。もとはイラストレーターとして新聞社や雑誌社に絵を提供する仕事をしていたが、三十歳の頃にパリに渡りバルビゾン派の画風を吸収、田園の風景を屋外で写生するスタイルを身に着けた。 ドーミエ オレノ=ヴィクトラン・ドーミエ 一八〇八~七九。十九世紀のフランスのジャーナリズム勃興期に、国王や政治家を鋭く風刺する石版画で活躍、一世を風靡した。生涯に四千点近い石版画を残す一方、パリ市民の庶民生活を題材にした三百点ほどの油絵も描き、印象派や表現主義の画家たちに大きな影響を与えた。 カバネル アレクサンドル・カバネル 一八二三~八九。フランス・アカデミーの頂点に君臨する画家で、正確なデッサンに基づいた典型的なアカデミックのスタイルで、歴史、古典、宗教を題材に描いた。四五年、二十二歳でのローマ賞受賞以降、順調にアカデミーでの地位を確立、その作風と成功から、印象派の画家からは敵対視された。 マクシミリアン・リュス 一八五八~一九四一。もとは彫刻師の店で働いていたが、兵役の後、一八八五年頃アカデミー・スイスに入学して絵画を学び、ピサロら印象派の影響を受ける。風景画、特に労働者や街路の風景などを画題とした。スーラが創始した点描法によって描く「新印象派」に属する画家の一人だが、後に独自の画風を確立した。


    ピカソ パブロ・ピカソ 一八八一~一九七三。スペインで生まれフランスで制作活動をした芸術家。一九〇〇年にパリに出てロートレックらの影響を受けるが、友人の死がきっかけとなった「青の時代」、恋人との出会いなどによる「バラ色の時代」を経て、ジョルジュ・ブラックらとともにキュビスムを創始、現代絵画への道を拓いた。 ブーダン ウジェーヌ・ブーダン 一八二四~九八。同時代の画家仲間クールベやコローから「空のラファエロ」「空の王者」と呼ばれたフランスの画家。セーヌ河口の港町ル・アーヴルに転居後バルビゾン派のミレーらと知り合い、画家への道を志す。故郷ル・アーヴルやノルマンディーの海岸風景を好んで描いた。 ホガース ウィリアム・ホガース 一六九七~一七六四。十八世紀を代表するイギリス・ロココ時代の版画家・画家。版画家として下積み生活を送った後、上流社会の頽廃や当時の世相をユーモラスに風刺した連作絵画が人気を博し、国民的画家となった。すべての階級に題材を求めて二百五十点以上の銅版画を残し、風刺画の父とも呼ばれる。 レーピン イリヤ・レーピン 一八四四~一九三〇。ロシアの写実主義画家。名士の肖像画を制作する一方、社会の最下層を題材に民衆の姿を力強く描き出した。一八七三年からイタリアとパリに遊学して同時代のフランス印象派に触れる。帰国後リアリズム美術家の集団「移動美術展派」に参加、ロシア・リアリズムの頂点をきわめた。


    ムンカーチ ムンカーチ・ミハーイ 一八四四~一九〇〇。ドイツ系だが、自らマジャール化を望み、ハンガリーの国民的画家になった。パリ滞在中にクールベの影響を受け、写実主義に徹した画風を確立、歴史画、風景画、肖像画の分野で写実派の巨匠として名声を得た。 フラゴナール ジャン・オノレ・フラゴナール 一七三二~一八〇六。フランス・ロココ美術の典型的風俗画家。二十歳のときにサロンのローマ賞を受賞しイタリアへ留学するが、帰国後はアカデミーに入会せず、それまでの歴史画・宗教画から転向。寓意的・官能的な風俗画を多数描いて好評を博し、画家としての絶頂を迎えた。 ゴーガン ポール・ゴーガン 一八四八~一九〇三。ポスト印象派を代表するフランスの画家の一人。二十三歳頃から絵を描きはじめ、ピサロとの出会いから印象派の画家たちと知り合う。一八八六年にブルターニュのポン=タヴェンに移り住み、そこで明確な輪郭線と鮮やかで平坦な色彩で描くという、印象派を超える新たな表現手法を確立、その後もパナマ、アルル、タヒチと放浪し、精力的に制作活動を行なった。 安藤広重(歌川広重) 一七九七~一八五八。江戸時代後期の浮世絵師、画家。はじめ役者絵、美人画を手がけたが、一八三二年、幕府が朝廷に駿馬を献上する年中行事の行列に参加して東海道を上った翌年から『東海道五十三次』を発表して好評を博し、風景画家としての名声を得る。ヨーロッパでは大胆な構図と藍色の美しさでジャポニスムの流行を生み、印象派の画家たちに大きな影響を与えた。


    「音楽を芸術の最高峰に置くドイツ人が「耳の人」ならば、浮世絵が証明するように日本人は「眼の人」ですから、今の美術展の賑わいも納得できます。」

    —『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)』中野 京子著


    それにしても、ではなぜ日本人はこれほどまでに印象派を好むのでしょう?  西洋美術受容の先ぶれとして、白樺派の作家たちが印象派を称揚したからとの説がありますが、とてもそれだけとは思えません。本文で書いたように、印象派作品が明るく、わかりやすく、心を癒し、市民階級(まさに現代の我々)の日常を肯定している、という点が大きい。何かを強く主張してこないので、疲れないのも良いのかもしれない。  でもさらに言うならば、日本人はまだ西洋美術の学びの途中です。印象派以前の絵画には意味があり、その意味がわからなければ感じることさえできない。そのためには、肖像画であれば、それが誰でどんな功績のあった人物か、歴史画であれば、それがどの時代のどんな事件か、神話画であれば、それはギリシャ神話のどの物語か、宗教画であれば、それは聖書のどの場面か、そういった知識が不可欠なのに、とてもまだそこまでは手がまわらない。また印象派以降の絵画は、それこそ百花繚乱のうえ抽象性と個別性が強くなりすぎて、どう感じていいのかさえ謎。そこで、すんなり理解できる印象派への殺到、という状態なのかもしれません。

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    2026年07月23日
  • カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード

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    ネタバレ

    今までは、絵を見て「きれい」「好き」「ちょっと怖い」くらいで終わることも多かった。

    でも、この本を読むと、絵の中にある細部をもっと見たくなる。

    これからもっと美術館に行くのが楽しみになった。

    この花は何を意味しているのか。

    この人物はなぜこの道具を持っているのか。

    背景の動物や果物に意味はあるのか。

    明るい場面に見えて、本当は何か不穏なことが描かれているのではないか。

    そう考えながら見ると、美術館での時間がもっと豊かになりそう。

    西洋絵画は、ただ眺めるだけでも楽しい。

    でも、少し「お約束」を知っていると、絵の中に隠された物語やメッセージが見えてくる。
    一見きれいで明るい絵でも、そこに死、裏切り、嫉妬、欲望、警告のような意味が込められていることがある。表面的な美しさと、裏にある物語の差が面白い。

    美術館に行きたい人に、短めにすすめたい一冊。

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    2026年07月19日
  • 名画で読み解く ブルボン王朝 12の物語

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    読書録「名画で読み解くブルボン王朝
        12の物語」5

    著者 中野京子
    出版 光文社新書

    p68より引用
    “ 第一難関はクリアした。だからといっ
    て思うままに男児を授かるわけではないの
    だから、ここでアンヌの、ひいてはフランス
    の、強運のほどがわかるというもの。
    「奇跡の子」ルイ十四世は、九月に元気な
    産声を上げた。”

    目次より抜粋引用
    “ルーベンス『マリーのマルセイユ上陸』
     リゴー『ルイ十四世』
     カンタン・ド・ラ・トゥール
    『ポンパドゥール』
     ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
     ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』”

     作家でドイツ文学者で、欧州の歴史に造詣
    が深い著者による、フランス黄金期を築い
    た王家の栄枯盛衰を名画に絡めて記した一冊。
     血で血を洗う争いの後の王朝の始まりか
    らその血脈が途絶えるまで、フルカラーで
    掲載される名画や由来ある地の写真と共に
    語られています。

     上記の引用は、太陽王ルイ十四世の母・
    アンヌ・ドートリシュについて書かれた項
    での一節。
    世界は、ほんの少しの運不運で大きく変わっ
    てしまうものだと、思わざるを得ない出来事
    です。しかし、ルイ十四世の出生について
    は、どうにも疑わしいところが多いようで
    す。面白いと見るか、いい加減と思うか、
    今となっては昔の物語として楽しむだけで
    すが。DNA鑑定のない時代であればこその、
    出来事なのでしょう。
     p41辺りには、マリー・ド・メディシスと
    息子・ルイ十三世の不仲について書かれて
    います。
    母はいつまでも、息子を無能と呼び続けて
    いたとのこと。そんな風に接していたのな
    ら、反乱で追放されるのは自明の理と言え
    るのではないでしょうか。
    大切に扱わなかった身内に、大切にされる
    はずはないのは、当たり前かと。
     p54に記される、チャールズ一世の失敗を
    みると、厳しい状況にある時は、適当にや
    り過ごすというのも手段の一つとして、覚え
    て置きたくなる。そんな逸話です。
    いい加減とか、テキトーと言うと悪い印象
    を受けがちですが、丁度良いという側面を
    忘れないようにしたいところです。
     ほんの少しの運の差で、何がどうなるの
    か分からないのなら、しぶとく粘るという
    のはとても大事な事なのでしょう。
    それが突然出来なくなることも、もちろん
    あるでしょうが、それこそ運不運、致し方
    なしです。
     欧州中が憧れて真似たきらびやかな文化
    だそうですが、先頃執り行われたパリオリ
    ンピックのセーヌ川の様子を知った後だと、
    先にやるべき大切な事があるとしか思えな
    くなります。
    今と昔とでは、人口密度が違うのでしょう
    けれども。現在は解消されつつあるみたい
    ですね。
     教科書の副読書として、学校で紹介され
    たら、世界史に興味を持って向き合えてた
    かもしれない。そんな面白いシリーズです。


    ーーーーー

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    2026年06月20日
  • 別冊NHK100分de名著 読書の学校 中野京子 特別授業 『シンデレラ』

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    最近ちょこちょこシンデレラに関係するジェンダーに関する本を読んでいた中で、中野京子さんの授業をまとめた本があるのか!これは読まねば!と手に取った。
    中学生向けの授業だったということもあり、今まで読んだ中で1番わかりやすく、面白かった。さすが中野京子さん、シンデレラ関係の絵も挟まれて楽しい。

    これまで読んだ中では、ディズニーやペローのシンデレラは何の行動も起こさず、成長もせず、棚から牡丹餅を待っているだけだとして否定されるだけのことが多く、この本でも女性像の古めかしさは指摘されている。
    ただ、現実と夢を区別できなくならなければ、「いくらでも夢をみてかまわないのではないでしょうか」と中野さんは言っていて、その優しさがよかった。
    「社会や学校や家庭で自分を異分子と感じ、疎外感に苛まれ、不当ないじめに耐えている子どもたち大人たち、老若男女に、この物語がみせてくれる夢はやはり貴重」とのこと。
    美醜のイメージの無意識レベルの刷り込みがよくないのは事実だから難しいけど、ディズニーのシンデレラって音楽もいいし、ファンタジーとして魅力的だしな。いい付き合い方でいつか子供にも見せられたらいいな。

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    2026年06月19日
  • 異形のものたち 絵画のなかの「怪」を読む

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    背景を知ったら実は怖い、という絵も多い『怖い絵』シリーズとは違って、こちらはダイレクトに異形が描かれた絵が中心。
    怖いもの見たさが確実に満たされる。こんなに恐ろしくも変な絵が、この世にはたくさんあるんだな。

    ハルピュイアやセイレーン、人魚など、この世ならざる生き物が描かれた絵画も面白かったけれど、『サイコ』の家のモデルになったという(恩田陸さんもこの家にインスピレーションを得て短編書いてた気がする)ホッパー『線路脇の家』、家具も最小限の寂寥感漂う屋内空間にいる、後ろを向いて顔の見えない女性を描いたハンマースホイ『室内』など、こちらに物語を想像させるような絵も好きだった。
    木にからまれた女性の胸に赤子の顔がむしゃぶりつくセガンティーニ『悪しき母たち』、小鳥を無造作に拳で握り潰すミノタウロスの、そこはかとない哀愁漂う後ろ姿を描いたワッツ『ミノタウロス』も、怖いけどどこか切なくて印象的。

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    2026年05月29日
  • 美貌のひと2 時空を超えて輝く

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    あまり見たことが無いモチーフの絵画が多くてすごく興味深かった。

    また、別方面から知っていた話の原典となる話もいくつかあったのが、個人的に嬉しかった。
    GODIVAのロゴのモチーフや、映画の元ネタとなった人物たちなどなど。

    登場する麗人たちの、時に波乱万丈で、時に劇的な人生と生き様を知った後だと、
    それぞれの肖像画から受ける印象がまた変わるのが体験として面白かった。
    美しさの上に人間的な魅力が加算されて、より美しく見えるようになったものや、もしくは人間の暗い側面を知って、肖像画の姿に闇深さを感じてしまうようになったものなど。

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    2026年05月24日
  • 名画で読み解く ロマノフ家 12の物語

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    ロマノフ朝、おもしろすぎる。
    身内で殺し合うロシアの歴史、人は歴史から学ばない。
    ニセモノが頻繁に出てくるロシアの歴史、カオスすぎる、面白くないわけがない。
    今回は日本も少し絡んでくるので、親近感が湧いた。

    ロマノフ朝について、ロシアの歴史について知らなさすぎることを痛感した。

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    2026年05月19日
  • カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード

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    ・本当に中野さんの本は毎回面白い。
    ・特に今回は絵画の決まりを色々と解説してくれるからためにもなる。西洋絵画、見続けて色々と解説を読んでいくとどんどん面白くなるから不思議。学生の時はつまんないなあって思ったいたけど、これは含蓄とセットだと俄然面白いわ。

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    2026年05月17日
  • 中野京子と読み解く カラヴァッジョと惨劇のローマ

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    ネタバレ

    本文にある
    「カラヴァッジョが驚かれるのは、無法者なのに天才だったというのではなく、天才で、しかも社会がそれを正当に認めているのに、なおまだ無法者であり続けた、という事実である。」

    この一文に、カラヴァッジョという人間のすべてが詰まっていると感じた。

    天才でありながら破滅する人物は珍しくない。
    しかし彼の場合は、すでに成功し、評価も名声も手に入れていたにもかかわらず、自ら無法者であり続けた点が異様である。

    今で言えば、米津玄師が現在の地位のまま、歌舞伎町で荒れた若者たちとつるみ、日常的に喧嘩や暴力に明け暮れ、ついには人を殺してしまうようなものだろう。
    そのくらい、彼の才能と行動はちぐはぐで理解しがたい。

    実際、カラヴァッジョは教会から高額の依頼を受ける売れっ子でありながら、暴力沙汰を繰り返し、ついには相手を死なせ、追われる身となる。
    彼の転落は不運ではなく、差し伸べられた手を自ら振り払い、転がり落ちていくような圧倒的な自業自得だった。

    しかし一方で、彼自身がどのような考えを持っていたのかは、ほとんど語られていない。
    逮捕歴などの記録は詳しく残っているのに、内面は驚くほど見えてこない。

    暴力に明け暮れる無法者でありながら、聖書の場面を独自の切り口で描き出し、無学では成し得ないような壮大な作品を残している。
    その矛盾が、彼を単純な人物として理解することを拒んでいるように思えた。

    作品には神聖さというよりも、血の通った肉体や、今この瞬間の「生」が描かれている。
    どこか泥臭く、生々しい。

    また、艶やかな少年像に比べて女性があまり魅力的に描かれていない点から、著者が指摘するような性的指向についても、素人ながら納得感があった。

    同時代のルーベンスが社交性と知性で地位を築き、満ち足りた生涯を送ったのとは対照的に、カラヴァッジョは制御不能な衝動のままに生きた人物である。

    その危うさこそが魅力なのだと感じた。
    さらに、彼はイタリアではお札に描かれたとも言われているが、冷静に考えれば人を殺している。
    日本の偉人の逸話とは明らかに次元が異なる。

    それでもなお評価され続けるという事実に、彼の天才と社会の受容の異様さ、そして一口では語れない底知れなさがよく表れていると感じた。

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    2026年04月19日
  • 中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク

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    読みやすくて面白い
    当時の空気感と影響を受け、また与えた画業。画家を絞っているおかげで点描でも時代の輪郭が浮き出てくる
    エロスに満ちて魅惑的で最後の輝きを発する
    クリムト展ないかな
    あったらこの本を再読してから観に行きたい

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    2026年04月17日
  • 名画で読み解く ブルボン王朝 12の物語

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    元々、美術館に赴いて絵画を鑑賞するのが好きだったが、この本で今まで見てきた絵が数倍魅力的に視えるようになった。ついこの間まで受験で世界史の勉強をしていたが、ここまで面白く感じたことはなかった。

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    2026年04月17日
  • 名画で読む「音楽の秘密」

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    ネタバレ

    久しぶりの中野京子さんの著作。
    絵から音楽がインスパイアされるのは聞くが、音楽から絵が描かれるのは?という問いが印象に残る。うーん、パッと思い浮かぶものがないなあ。

    章立てされているが、あまり印象に残らなかった章もあるので、印象に残った絵画で感想を書くことにする。

    ドラクロア「怒れるメディア」
    子どもの頃にギリシャ神話に夢中になった。その中でも「アルゴー船物語」は本当に好きだった。メディアの残酷さも夢中になった理由の一つだと思う。弟をバラバラにして海の中に放り込む(このことで名がついた海峡があったと思うが、分からなくなってしまった)までした、メディアをイアソンは裏切るなんて…とすっかりメディアに感情移入する子どもだった。そしてメディアはイアソンとの子どもを殺す。ピアスの音、という音を中野先生は出しているが、私がこの絵から感じるのは息遣いの音だ。ハッ、ハッという短い息遣いが聞こえてくるような緊迫感溢れる絵。狂気を孕んだ目ももちろん、印象深い。
    しかしドラクロア、半裸が好きなのか。「民衆を導く自由の女神」も半裸。半裸にしておく必要性を感じないのだが。

    ミレー「晩鐘」
    バルビゾン村は今もこうした風景が見られるという。飛ぶ鳥、遠くに見える建物、淡い色合い、静謐という言葉がこんなに似つかわしい絵もなかなかない。今年は都立美術館に「落ち穂拾い」が来る。楽しみだ。



    白鳥は死に瀕して美し声で鳴く、とされ、そこから芸術家が亡くなる直前に残した最高傑作を「白鳥の歌」というそう。知らなかった。


    ヴァスネツォフ「シリンとアルコノスト」
    スラブの民間伝承にもとづく絵。ロシアにも泣き女がいたという。天才的な泣き女 イリーナ・フェドソーワという人もいたそうで、本が書かれていた。泣き女に著名人、驚き。古代エジプトとか韓国の泣き女は聞いたことあったけど、ロシアにもいたとは。
    シリンとアルコノストは喜びの歌、と悲しみの歌、を歌う。シリンはギリシャ神話のサイレン、セイレーンからくるもので、アルコノストはニンフ、アルキュオーネからきたもの。英語の辞書で見たハーピー(ハルピュイアイ)のような姿形。足が雷鳥のようだ。ちょっと可愛らしい。
    ウォーターハウス「オデュッセウスとセイレーン」で描かれるセイレーン。女の顔と鳥は相性がいいのだろうか。男性型を見たことが私はない。
    モッサ「飽食のセイレーン」この絵を見るとビスクドールが苦手な人がいるのも分かる気がする。中野先生「その声で人間食うかやハルピュイア」と詠むのが可笑しい。其角「あの声で蜥蜴くらうか時鳥」から。

    ブリューゲル「死の勝利」
    大好きなブリューゲル。悲惨な状況を風刺して描いたはずの絵なのに、おかしみを感じるのは何故だろう。骸骨がカタカタ鳴っているのが聞こえるかのよう。
    もう一つ、ブリューゲル「農民の踊り」
    手前側の二人が明らかに小さいのが気になるが、主題とは関わりの薄いものが小さく描かれているとのこと。同じ縮尺で描かれるとバグパイプの人を隠してしまう。フランドルにもバグパイプあったんだね。スコットランドだけかと思った。ブリューゲルは他にも農民の踊りを描いているがどれも躍動感があり、好きだ。特に「野外での婚礼の踊り」が好み。

    ラ・トゥール「ハーディー・ガーディー弾き」
    このハーディー・ガーディーという楽器を私は知らなかったが、音大生に聞いてみたら、やはり知っていた。盲人が弾いているようだ。ラ・トゥールは「いかさま師」が中野先生の著作では有名だが(怖い絵の表紙になったし)、この絵は著名がなく、忘れられていた絵画だったそう(とYouTubeで知った)。盲人が生計を立てて行くのは並大抵のことではなかっただろう。年老いて、困窮しているように見えても、最後まで生きていくのを諦めない姿勢は、なんだか現代人が失ったもののように感じる。

    テンペル「ダーフト・レーウと家族」
    4人の娘と一人息子と夫婦が描かれる。どうやら跡継ぎ息子に期待がかけられているようだ。しかし、息子は6年後には亡くなり、この家族がその後どうなったかは分からない。しかしこの絵があることで、確かに、この家族がいたという証にはなる。この描かれた一人一人の名前まで分かることから、この絵を描かせたのは正解だったのだ、と中野先生は言うが、私には分からない感覚だ。消えて思い出されないでいたい、と思う人もいるんじゃないだろうか。

    クリムト「ピアノを弾くシューベルト」
    金が使われていない、クリムト。初めて見たかも。でもこの絵は第二次世界大戦で焼失している。形あるものは失われるのだ、と分かってはいても、哀しく感じるのは仕方の無いことだ。


    つらつらと書いてしまった。
    また中野先生の別の作品を読みたい。今年も美術館に行こう。

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    2026年04月10日
  • 名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語

    Posted by ブクログ

    中野御大に大きな大きな拍手を送りたい。あなたのおかげで、絵画に潜むそのストーリーを面白おかしく知ることができていますありがとう。時たま挟まれる、中野御大の毒舌っぷりが、いいアクセントになっていて心地いい。でも本当にすみません、やっぱり登場人物の名前は覚えられない!大枠を楽しく学ぶには中野御大が一番ですわ。

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    2026年04月06日
  • 怖い絵 泣く女篇

    Posted by ブクログ

    面白い!!視覚的に入る怖さと、歴史的に入る怖さがある絵を丁寧に説明してくれるのが、絵に対する面白さを倍増させてくれる。
    「これって怖くない絵じゃない?」と思っても、歴史的背景を含めれば「怖っ!?」となるのが楽しかった

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    2026年03月30日
  • 名画で読み解く メディチ家12の物語

    Posted by ブクログ

    大好きな中野京子さんの著書『名画で読み解く メディチ家 12の物語』を読んだ。

    「芸術家のパトロンをしていて、何で稼いでいるかは謎だけど、とにかく大金持ちの一族」それが、読む前の私のメディチ家に対するイメージだった。

    しかし、本を通じて彼らの歴史を追っていくうちに、その魅力にすっかり取り憑かれ、読む手が止まらなくなった。

    暗殺未遂や何度も繰り返される国外追放など、イメージとは裏腹に苦労が絶えない。
    それでも、才能ある後継者や周囲の思惑、そして何より「運」を味方につけて何度も返り咲く姿は、まさに圧巻だ。
    歴史は実力だけでなく、運や巡り合わせにも大きく左右されるのだと感じた。

    ただ、イタリア人の名前を覚えるのには本当に苦労した。
    海外の名前が並ぶだけでも大変なのに、一族内で同じ名前を使い回すし、王族ではないから「一世・二世」といった区別もない。

    さらに、一族から教皇が出ると「ジョバンニ」が「レオ10世」に呼び名が変わる。

    2ページ前の名前すら怪しくなり、何度も読み返しながらの読書となったが、それでも2日で読み終えてしまうほど面白かった。

    私の推しは、フィレンツェで「祖国の父」と称えられた初代領主、コジモ・イル・ヴェッキオだ。
    彼は政治家として敵国と戦いながら、真面目に働いて納税する。
    商才にも長け、当時のフィレンツェの納税額の6割以上を彼一人が納めていたというから驚きだ。

    特に惹かれたのが、国外追放から復帰した際のエピソード。

    国民が大歓迎で待ち構えていたのに、目立つのが恥ずかしくて夜中に裏門からコソコソと帰ってきたという。
    そんな人間味のあるギャップに、思わず心を掴まれてしまった。
    華やかな功績の裏に、こうした控えめな一面があるからこそ、多くの人に支持されたのではないかとも感じた。

    また、10代の頃のラファエロやミケランジェロを自宅に住まわせて面倒を見ていたというエピソードからも、一族の審美眼の高さが伺える。

    ただ、これほど芸術に精通していた一族なのに、家紋のデザインだけはどうにもセンスがない気がしてならない。
    「誰か才能ある芸術家に新しくデザインさせればよかったのに」と、そこだけは勝手にダメ出しをしたくなってしまった。

    華やかな名画の裏には、ドロドロとした権力争いと、人間らしい迷いや弱さがあった。
    そうした一面を知ったことで、歴史上の人物がぐっと身近に感じられるようになった気がする。
    そして私は、目立たずとも着実に信頼を積み重ねるコジモのような在り方に、強く惹かれたのだと思う。

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    2026年03月29日