中野京子のレビュー一覧

  • 怖い絵 死と乙女篇

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    宗教関連の本を読むと読みたくなる怖い絵シリーズ。私が一番怖く感じたのは、最後のエゴン=シーレ。最初はタナトス的なものを描いてるのか?と思いきや、やはり愛憎からくるものだった。

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    2026年09月24日
  • 怖い絵 死と乙女篇

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    主に著者の有名西洋絵画の考察で、約20作品が載っている本。
    怖い絵シリーズは、数年ほど前に上野の美術館で期間限定で展示されていたけど、とんでもなく人気で混んでいた為、諦めてこの本を購入した。
    簡単に言うと、とても買って良かった!
    世界史のテスト40点以上取ったことない私でも、とてもわかりやすい文章でした。
    華やかな雰囲気の絵画が描かれた背景にはこんなにも残酷なことがあるとは...と言うギャップを感じたり、怖いもの見たさを満たして(?)くれる作品でした。
    他にも、怖いだけではなくエロティックな表現も多く、それが現代ではしょうもない下ネタとして捉えられる事もこの時代ではとても偉大であるようなもの(?)みたいになってるのがウケました。語彙力が欠如し過ぎですが、中世の人々の価値観や思想から学べることがありました。

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    2026年09月17日
  • 名画で読み解く ロマノフ家 12の物語

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    家族に対しても国民に対しても容赦無さすぎて怖い。
    また権力争いの苛烈さも極まっていて、血生臭さと過酷さの絶えない渦中にいるからこそ皇帝も女帝も苛烈な人が多かったんだなとよく分かる。

    ユロージヴィや農奴、船曳きといった存在について初めてちゃんと知って、当時の国としての邪悪さが身に沁みるようだった。読んでいてなんとも暗鬱とした気持ちになってくる。

    この時代におけるロシアと日本の関わりもすごく興味深かった。
    当時日本人の、それも女性のイコン作家がいたなんて、驚きと同時になんだか胸があつくなる。

    教会の鐘が有罪判決を受けた末に激しい拷問と厳しい処罰を受けた話で、
    「ものに魂が宿る」という考えは理解できるし、その後の人々の行動を見ても、この話は非道なものであるのはよく分かるけど、
    それはそれとしてやっぱりちょっと変に感じるし、エピソードとしてちょっと面白い。

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    2026年09月12日
  • 名画で読み解く メディチ家12の物語

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    中学の美術の資料集にあったメディチ家の紋章が何故か頭に残っていて、気になったので読んでみました。

    メディチ家の栄枯盛衰が読みやすい分量でまとまっていて、歴史が苦手な私でも楽しくサクッと読めました。

    メディチ家の一族内も、当時の国々や権力者たちも思った以上にドロドロしていたり、何代にわたってもメディチ家としてあまり変わらない部分があったりと、何も知らない状態で読んでも驚きが随所にあって面白かったです。

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    2026年09月07日
  • 欲望の名画

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    やっぱり美術関連は中野京子さんの著作が読んでて気持ちいい。ご本人が独文学者ゆえか、語彙も驚くほど豊富で叙情豊かな文章、なのに賢しらな印象は全くない。取り上げる美術作品も素晴らしいとはいえ、文章をずっと読んでいたくなる。

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    2026年09月05日
  • 名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語

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    絵の中では優雅におすまし顔している彼彼女たちの姿と、血生臭くドロドロしたエピソードとのギャップが面白い。

    ハプスブルク家の歴史を追う形で紹介されているのも、また人物ひとりひとりに焦点を当てた解説も、読んでいて分かりやすい上に物語として読めて面白い。
    あと人間関係の淀みや深さもたっぷり味わえて楽しい。

    個人的に、ナチスが「第三帝国」と名乗っていた理由やスペインが「日の沈まぬ国」と呼ばれていた理由など、なんとなくでしか知らなかった知識をちゃんと理解できたのが嬉しい。

    アルチンボルトの「ウェルトゥムヌスとしてのルドルフ二世」の肖像画が、
    一見しただけでもインパクトとユーモアがあるのに、解説を読んだ後だとより面白く、また違う意味での興味深さが広がったのが良い体験だった。

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    2026年08月22日
  • 名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語

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     中野さんにとってベラスケスの『ラス・メニーナス』は格別の思いがある作品のようだ。著作『名画で読み解くハプスブルク家12の物語 』『怖い絵2』『残酷な王と悲しみの王妃』に登場し、そのうち『残酷な王と悲しみの王妃』では表紙を飾っている。可愛らしい王女の表情とは裏腹に、彼女の運命はなんとも痛ましい。

     かつては日の沈まざる帝国と呼ばれ、広大な領土を結婚によって築いたハプスブルグ家が辿った運命と、彼らに関連した12の絵を絡めて綴ったのが本書である。ヨーロッパに旅行に行くと、必ずどこかの国で「ハプスブルグ家ゆかりの云々」といった遺跡にゆきあう。考えてみれば不思議な一族である。初めから名門だったわけではなく、豪商だったわけでもないのに、華麗なる一族であるかのように説明される。だが、「じゃあ今のどこの国の国王だったの?」と聞かれても、ひとことでは答えにくい。

     ハプスブルグ家の特徴は高貴な青い血で、それ故にあがめられたが、青き血故に不幸になった人もいる。『ラス・メニーナス』のヒロインもその一人だ。『残酷な王と悲しみの王妃』では、いくぶんソフトな言い方もされているが、伯父と姪の近親婚により生まれた彼女は、母の弟―実の伯父の元に嫁いで若くして亡くなる。小姑が母であり祖母が姑になるという、書いていてもよくわからない間柄がいく代にも続いた結果、彼女の弟はどうみても正常とはいえない精神的気質を持って生まれる。「高貴な血を下賤の血と混ぜ合わせてはならない」という考えを優先させた結果、彼は後継者を生む能力すらないまま世を去る。彼の肖像画も残されており、病人のような顔で表情も堂々たる王のそれではない。絵は、写真がなかった時代の唯一の証拠みたいなものだが、こうして何世紀にもわたってその異常さが喧伝されるのは哀れとも言える。

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    2026年08月17日
  • 美貌のひと2 時空を超えて輝く

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    美人はもてる、見初められる、という男性目線のアピールポイント以外にも、自身の美に貪欲な女性はいつの時代も存在する。絵画の中にも、実在、神話、おとぎ話など、それぞれの美女が登場するが、その末路は、必ずしも幸せ一辺倒とは限らない。

    【レディ・ゴダイヴァ ジュール・ジョセフ・ルフェーブル】
    お菓子メーカーゴディバのシンボルとなった女性の伝説が描かれている。意外と知らない人も多いはずだ。
     大変信心深かったレオフリック伯爵とレディ・ゴディバは、初めに大修道院を建設。修道院はさまざまな宗教的、社会的活動の中心となり、この成功により伯爵の野心はますます燃え上がり、次々と公共の建物を建てては、領民から取る税を増やす。あらゆるものを課税の対象とし、肥料にまで税金をかけ、領民は重税に苦しむ。心優しいレディ・ゴディバは、貧しい領民にさらに重税を課すことがどんなに苦しいことか、伯爵に税を引き下げるよう願い出、伯爵は「もしおまえが一糸まとわぬ姿で馬に乗り、コベントリーの町中を廻れたなら、その時は税を引き下げて建設計画を取り止めよう。」と告げる。もちろん、無理だと知ってのことだ。ところが、翌朝、彼女は一糸まとわぬ姿で町を廻る。領民たちはそんな彼女の姿を見ないように、窓を閉ざし敬意を表す。伯爵は約束を守り、税は引き下げられる。自分を犠牲にしてハコモノ行政を止めた賢婦の話。

    【クララ・シューマン アンドレアス・シュタウプ】
    天才と天才の組み合わせが必ずしも幸福とは限らない一例。天才ピアニストとして父親に期待されながら、ロベルト・シューマンとの出会いで、全て彼に人生を捧げる決心をして父親と決別。メンタルをやられたシューマンの子を八人も育て、生活苦に苦しみながら演奏活動をして彼の曲を広める。年下の作曲家ブラームスとの恋愛関係の噂が後を絶たない。

    【クールベ(自画像) ギュスターヴ・クールベ】
    『波』で知られるクールベの自画像。こんな、びっくりした表情の自画像を描く意図が不明。どんな顔をしていても美形と言いたいのか?目鼻立ちがはっきりしている。

    【ローラ・モンテス ヨーゼフ・カール・シュティーラー】
    バイエルン王国の傾城のダンサー。個性的美女。老いらくの恋が国王の晩節を汚す。

    【サラ・ジェニングス チャールズ・ジャーヴァス】
    映画『女王陛下のお気に入り』に登場したアン女王の親友から女官長に昇進したサラ。その子孫はダイアナ后とチャーチル首相という優れもの。子供もいないアン女王を精神的に支配したが、寵愛をかさにきて邪慳にしたため、従妹のアビゲイル・ヒルにその座を奪われる。

    【マリー・ゾフィー・アマーリエ 伝ハインリヒ・フォン・マイヤー】
    エリザベート皇后に激似!それもそのはず、彼女の妹である。長女はオーストリア皇后の座を実の妹に奪われたものの、その後大富豪に嫁ぐなど、五人全員が娘でいずれも美女というヴィッテルスバッハ家の三女は、両シチリア王国に嫁ぐが、後に王国が消滅。五人姉妹の誰よりも長生きしたというから、幸せな一生だったのか。

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    2026年08月13日
  • 愛の絵

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    絵画に関してだけでなく、テーマやモチーフについての広がった説明や解説もあるのが、より分かりやすくて面白かった。
    改めて著者の教養や興味の幅広さも分かって恐ろしい。

    「エコー」や「シャロットの乙女」のように悲哀に満ちたものや、
    「医者の治せぬ病」や「愛のアレゴリー」のように世俗的な視点で人間が人間を皮肉ったようなようなものなど、
    "愛"とはなんなのかを、言葉通り目に見える形で様々な見解や要素を知ることができるのがすごく興味深くて面白い。

    収録されている作品の中だと、エイブラハム・ソロモン「一等車の出会い一目惚れ」が、テーマの面白さや新鮮さ、パッと見た絵の魅力としても一番好きだったけど、
    それとは別で「きょうだい愛」がテーマの作品における著者の言葉や解説がなんだか優しくて温かくて、すごく印象的だった。
    著者の痛烈、痛快な言葉も好きだけど、こういった慈しみや敬愛の籠った文章も、じんわり心に浸透する温かさがあって素敵。

    また著者の解説でもって絵の見え方が何倍にも広がり、かつ画家の技量や創造力の凄さに改めて気付かせてくれるのも良い。

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    2026年07月30日
  • 旅から生まれた名画

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    2200円

    ★再読

    西洋美術はモチーフで生涯で頭蓋骨をモチーフにしたことがないアーティストが少ないのではないかと思うぐらい、頭蓋骨がめちゃくちゃ多いんだけど、日本美術ではまず見ない。それは火葬だからというのもあるけど、日本の土質が酸性だから、骨をそのまま放置しようとしても溶けちゃうかららしい。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「そのうえ森には狼がいる。当時のヨーロッパ人がどんなに狼を恐れていたかは、「ペスト、狼、オスマントルコ」(日本で言えば「地震、雷、火事、親父」に相当)という言葉が残されていることからも明らかだ。ヘンゼルたちもフクロウの鳴き声などに混じって、狼の遠吠えを聞いていたかもしれない。  森には人骨も無数にあった。その多くは、どうしても森を抜けなければならなかった旅人たちの、何世紀にもわたる死の積み重ねだ。それを免れたヘンゼルとグレーテルの奮闘は、口から口へ伝えられ、グリムの童話集に収められることとなった。  森は人類最初の神殿と言われる。古代人にとって森は恵みを与えてくれると同時に、畏怖の対象でもあったからだ。御神木信仰は日本にもあるので理解しやすい。  また深層心理学的には、森は女性的なるものの象徴とされる。特に若い男にとっての女は森のように不気味で不可解で魅力的で、探索すべき対象だという。残念ながら探索に遭難や事故はつきものだが。  世界中の神話に、森に棲む不思議な女性的なるものがよくでてくる。ギリシャ神話における英雄中の英雄ヘラクレスがなぜアルゴ探検隊から脱落したか、というエピソードもその一つだ。」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

    「 リュミネは新文明に懐疑的だったのではないか。  馬と蒸気機関車の関係ばかりではない。本作が生まれた十九世紀後半は、絵画にも革命が生まれていた。画面から物語も意味も排した印象派の登場だ。公共美術館の誕生で、絵画は知的エリートのものではなくなり、歴史画は老いた馬のように思われ始めていた。  リュミネが正統的アカデミック絵画を馬に、人気の印象派を蒸気機関車に重ねていたかどうかはわからない。しかし失われてゆくものへの哀惜は間違いなくあっただろう。いつの世にも、新しすぎるものへ警戒感を抱く者は一定数いる。」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

    「中原中也の『サーカス』という有名な詩がある。「幾時代かがありまして」で始まり、中盤は――サーカス小屋は高い梁そこに一つのブランコだ  見えるともないブランコだ  そしてブランコの揺れる様が、実に個性的な表現でくり返される、「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」と。  この表現によって、サーカス小屋のはるか高みに揺れる空中ブランコが、公園のありふれた遊具のブランコとは似て非なるものだということがはっきり伝わる。人の命を弄ぶように揺れる空中ブランコ。それを見上げる観客は、乗り手の無事を祈ってハラハラする一方で、もしかすると落ちるかもしれないという自覚せぬ黒い期待をも込めて目を輝かせる。  空中ブランコがほぼ現在の形に定着したのは、十九世紀半ばからと言われる。かつてのパフォーマーは世襲が多かったようだが、人気を高めるためできるだけ若い美男美女が選ばれるようになっていた。モーリス・ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドンも、画家になる前にはモデル業、その前にはブランコ乗りをしていたという(拙著『画家とモデル』新潮文庫参照)。」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

    「まずは神話時代。  ブドウと酒と陶酔の神バッカス( =ディオニュソス)は旅が人生だった。  彼は主神ゼウスと人間の女セメレの間の子だが、母は子を妊んだまま死んでしまう。そこで父が彼女の腹から胎児を取り出し、月が満ちるまで自分の太腿に埋め込んで育てた。つまりバッカスは、ゼウスの太腿からオギャアと生まれ出たのだ(今や人工子宮は理論上可能な技術だ。神話というのは突拍子もないように見えて、現代医学を先取りしたかと思うような怖さを秘めている)。  ヴィーナスと同じで、バッカスも子供時代のエピソードはない。ヴィーナスが完璧な八頭身美女として世にあらわれたように、バッカスも嬰児のエピソードをのぞけば、初登場の段階ですでにほろ酔い状態の若者だった。何しろ彼は、ギリシャ、トルコ、エジプト、シリアなど広範囲を自分の信者たちといっしょに旅しながら、各地でブドウの栽培法とワインの醸造法を教えてまわり、教えながら飲みまくっていたのだ。  とはいえ、一瞬、酔いの醒めた瞬間もあったことを、ヴェネチア派最大の画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ( 1490頃 ~ 1576)が、『バッカスとアリアドネ』に描いている。」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

    「魔女はどうか?  魔女には翼など不要で、箒があればよい。箒にまたがって夜の空を飛ぶ魔女のイメージは、箒など使ったことのない現代の若者の目にも、しっかり焼き付いているはずだ。それほどにも魔女と箒の定着度は高い。  箒には魔力があると、古くから信じられていた。一説によると古代ギリシャの数学者ピタゴラスも、少女が箒をまたぐことを禁じている。これは箒の魔力に加えてその形体から男根を重ね合わせ、少女が箒をまたげば妻になる前に母になってしまう、との諫めだという。  また箒の先は、かつて木の枝を束ねて作られていたが、その束ねた先から生命力があふれ出ると信じられていた。さらにその力は、不作と飢餓に直結する恐ろしい荒天を追い払うほど強いとされたのだが、魔女と箒がセットになると、逆に魔女が荒天を呼び起こすと言われるようになり、長期にわたる悪夢のような「魔女狩り」「魔女裁判」へと捻じ曲げられていったのは周知のとおりだ。」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

    「これは「イワン・ツァレーヴィチと火の鳥と灰色オオカミ」という民間伝承がもとになっている。イワンはイヴァンとも表記されるロシアの典型的男性名(日本なら太郎、ドイツならハンスのような)。またツァレーヴィチは姓ではなく、「ツァーリ(ロシア皇帝)の息子」という称号だ。  ロシア文学やロシアの政治家の演説と同じで、民間伝承のストーリーも長い。「イワン・ツァレーヴィチと火の鳥と灰色オオカミ」(タイトルも長い!)の粗筋をざっとまとめると――」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

    「ここではフランス象徴派ギュスターヴ・モロー( 1826 ~ 1898)の作品を見てみよう。縦長画面の中に、伝説の要素が全て含まれている、と言いたいところだが、カルパッチョ作品などに見られる、他の犠牲者たちの白骨の残骸は見当たらない。  とはいえ、それは些末なことで、モローのゲオルギウスと馬は凜々しく美しい。色彩も考え抜かれている。ゲオルギウスの頭部に輝く金色の光輪、黒い甲冑、対照的な白馬、そして翻る布はピンクがかった赤で、長槍は真っ赤だ。その穂先は、今しもドラゴンの胸を貫き、口から血を流させている。ドラゴンの醜悪さも申し分ない。  背景に高い岩山が連なり、右側の崖には生贄の王女が座って手を合わせている。伝承においてもそうであったように、ここでも彼女の存在感は壁紙のように薄い。  ゲオルギウスのイメージが定着すると、肖像画にこの英雄を重ね合わせることで、その人物に実際以上の魅力をまとわせることが可能になった。」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

    「クラナッハ作品は一見ヘタウマだが、聖人伝承を過不足なく伝えている。まずクリストフォロスがサルタヒコノオオカミと同様、桁外れの巨軀であったこと、にもかかわらず、今や肩に載せた小さな幼児が重くて辛くなり、太い杖で必死に身を支えていることがわかる。幼児の頭部には光輪が輝き、画面左には隠者が描かれている。  では前景で泳いでいる人魚は?  これは、人魚の棲むような危険な川だということを、知らしめているのだ。クリストフォロスだから水位は膝下までしかないが、並みの人間ならたちまち溺れるほど深く、しかも急流だということを。  また後景には木が一本だけ真っ直ぐに立っており、クリストフォロスの杖の未来の姿とわかる。前景左の木株には、クラナッハのサイン(翼の生えた蛇)も記されている。」

    —『旅から生まれた名画 (集英社学芸単行本)』中野京子著

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    2026年08月04日
  • 名画で読む「音楽の秘密」

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    2048円

    ★再読

    リラ・キャボット・ペリー

    芥川龍之介とか中島敦とかは文章量少ないけど重い気がする

    アレキサンドル・デュマが芸術性がない大衆小説家ってほんと分かる。モンテ・クリスト伯とか長いから躊躇するけど、読んでみると意外と軽くて面白いんだよね。文章量が多いから重いとは限らないと思う。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。


    「 貧困家庭に生まれたルソーは、五年の兵役を務めた後に下級役人となり、日曜画家を始めた。一度も正規の美術教育は受けていない。五十歳前に退職し、自己認識としてはプロの画家になったが、ほとんど売れなかったから年金生活者という方が正確だろう。評価したのはピカソ(さすが!)などごくわずかで、常に嘲笑の的だった。階級の低い画家に対する、批評家たちの侮りもあっただろうが、今となっては、ルソーの飛びぬけた空想力や個性的な表現に時代が追いつけなかったというだけだ。  美術史においてルソーは「素朴派」に分類されている。一生懸命描いた童画風ではあり、全て自己流、テーマ性にも乏しく、子どもが描いたような作品のイメージから、ルソー自身も素朴な人柄と思われている。  だが実際には単なる無邪気なお人好しというわけでもなかった。十九歳の時に窃盗罪で捕まったこともあるし、六十五歳(本作を描いた二年後)で手形詐欺事件に連座し、執行猶予付き懲役刑と罰金を言い渡されている。主犯ではなかったが、手に入れた金は使っていたからだ。  しかも熱帯を舞台にした数々の自作について、軍隊時代に中米へ行った時の記憶だと語っていたが、実際には一度もフランス本国を離れたことはなく、パリの動物園や植物園でのスケッチをもとにしたのがわかっている。蛇使いも、当時パリに来ていたサーカスで観たのを参考にしたらしい。  素朴な絵を描く複雑な人物、ルソー。彼が描いた蛇使いは横笛でどんなメロディーを奏でていたのだろう。内耳しか持たない蛇にメロディーはわからず、全身で音の振動を感知するだけということを、ルソーは知っていたのだろうか。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著


    「こうした大きな鳥に比べ、一般に小さな鳥の鳴き声のほうが人間の耳に心地よい。それにはちゃんと理由があり、スズメ目の鳥は喉の鳴管が複雑な上、その器官の両側面も自在に動かせるので、鍛え抜かれたオペラ歌手さながら、多彩でメロディアスな美声を出すことができるという。  ベートーヴェンの第六交響曲『田園』は、クラリネットがカッコーを、フルートがナイチンゲールを、オーボエがウズラの鳴き声を再現している。ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲『四季』の第一番「春」にも、小鳥たちのさえずりを模したうっとりするような調べが流れる。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「幸いにも普通の人間は、陽気一辺倒の音楽を聴き続ければ飽きるし、哀愁一筋の音楽を聴き続けても飽きる。これまでどおり、喜びと悲しみの間を行き来して生きるのが健やかさの秘訣のようだ。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「「音楽は霊魂を高めるような働きをする、と人はいいますが、それはノンセンスです。でたらめです!」「人は音楽の力に釣られて、じっさい自分の感じないことを感じ、自分の理解しないことを理解し、自分の出来ないことも出来るような気がするのです」」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「絵画においては、楽器は一般に美徳より悪徳を象徴することが多い。耳の快楽、即ち感覚的悦びに奉仕するツールだからだ。性に関しては禁欲的だったトルストイの考え(実際は別)に近い。  イタリア・ヴェネチア派を代表する巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ( 1490頃 ~ 1576)は、そうは考えていなかったようだ。芸術が官能的で何が悪い、と言わんばかりに、数々のエロティックな作品を量産した。そしてそれは、ヨーロッパ中の王侯貴族の求めでもあった。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「スイス人画家アーノルド・ベックリン( 1827 ~ 1901)は、ヨーロッパ中を転々と移り住みながら絵を描いた。今では象徴主義絵画の代表者の一人とされるが、イタリアで描いた『死の島』が好評を博すまでは、さほど売れない貧乏画家だった。  その『死の島』の八年前、四十五歳の時にドイツで制作した『ヴァイオリンを弾く死神との自画像』は、初めてミュンヘン美術館に展示されて注目された作品だ。ほぼ同じころ、パリではモネの『印象―日の出』も発表され、こちらはさんざんな悪評だったのは周知のとおり。いずれにせよこれ以降、印象派の画家たちもベックリンも――方向性は全く異なりはしたが――徐々に名声を高めてゆく。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「画中のベックリンは仕事中にもかかわらず、黒いサテン地で縁取りした同色の上着の下に高衿の白シャツという、エレガントな服装に身を固めている。左手にパレット、右手に絵筆。絵筆の先にはブルーの絵の具が付いている。  彼の視線は目の前のキャンバス、ないしモデルに注がれているが、ふと耳元に響く音色に気づき、少し不自然な形で首を傾けたところだ。ただしヴァイオリンを弾く骸骨の姿は、彼には見えていない。見えていないが、忍び寄る死は意識させられたに違いない。なぜなら死神とともにある人物像は、「メメント・モリ( =死を忘れるな)」という伝統的主題であり、本作もまさにそれだからだ。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「どんな芸術家でも、自分が生み出した作品が時空を超えて生き残るかどうかを気にするものだ。生きている間だけもてはやされ、死後あっという間に忘れられた芸術家は数えきれないが、自分はそうはなりたくない、墓に入っても歌い続けたい、と。  作家のエピソードを最後に一つ。『三銃士』などを書いた作家アレクサンドル・デュマ(大デュマ)は生前、批評家たちから芸術性の欠片もない単なる大衆小説作家と見下され、多作であることを「デュマ工場」とからかわれていた。晩年、気が弱くなり、自分が死んだら作品は完全に忘れ去られるだろうと落ち込んでいると、息子の小デュマ(『椿姫』の作者)が、「お父さん、これでも読んで元気を出してください」と一冊の本を渡した。  読み終わったデュマは、「すばらしい、こんな面白い本をいったい誰が書いたんだ?」と聞いた。もちろん息子の答えはこうだ――「お父さん、あなたですよ」。  批評家が何を言おうとも、デュマの小説が今なお世界中で愛読されていることは事実だ。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「三味線が愛好されたのは、扱いやすさと弾きやすさはもちろん、派手な甲高い音と地味な渋い音の両方を出せて艶っぽいところにある。歌舞伎や遊女屋に無くてはならぬ楽器であり、素人でも男女問わず習い事の上位にくるほどで、どの町にも必ず三味線の師匠がいると言われた。そして師匠の中の相当数が盲人だった。「風が吹けば桶屋が儲かる」という江戸のことわざはここから生まれており、風が吹いて砂埃が舞えば盲人が増える、盲人が増えれば三味線が売れる、三味線が売れれば猫が減る、猫が減ればネズミが増える、ネズミが増えれば桶が齧られて使い物にならない、だから桶屋が儲かる――という論法だ。  目が見えないという大きなハンディキャップを負いながら、江戸や大坂などの大都市に定住し、三味線を教えて生計を立てられたのは歌も演奏も秀でていたからだが、運もあったに違いない。もし僻地の極貧の生まれだったら、按摩か瞽女になる他なかっただろうから。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「作曲家は当初自分で羽根ペンを使って一本一本長い線を引いていたが、そのうちフォーク状の線引き用筆記具が生まれて楽になり、その後はグーテンベルクの活版印刷の普及によって五線紙が売り出され、線引きの手間が完全にはぶけるようになった。  そこで大バッハのエピソード。  ある時、バッハは合唱隊のひとりと一触即発になり、その男から顔を殴られかけて咄嗟に小型ナイフで応戦した。ただしそのナイフは武器として携帯していたわけではない。当時は五線譜の紙が分厚かったため、倹約家の彼は書き直しの際に小型ナイフで紙の表面を削り、いわば消しゴム代わりにしていた。たまたまこの時持っていたので相手に見せて威嚇した、ということらしい。五線譜のおかげで殴られずに済んだという次第。  他方、バッハより一世紀ほど前のイタリア人画家カラヴァッジョ(本名ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ、 1571 ~ 1610)は、「たまたま」ではなく、外出の際は「常時」――騎士でもないのに――帯剣していた。むろん喧嘩用である。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「「線のフィレンツェ、色のヴェネチア」と言われたように、空のすがすがしい青さはもちろん、人々の衣装が実に目も綾なアラベスクだ。ほぼ黒一色の僧服の修道僧たちの目に、さぞや眩しく映ったに違いない。その上に音楽だ。なんといっても本作で一番目立っているのは楽士たちなのだから。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「 その様子をグスタフ・クリムト( 1862 ~ 1918)が、『ピアノを弾くシューベルト』で夢幻的に描いている。ただしリアルタイムだったホーゼマン作品とは異なり、この絵はシューベルト生誕百年を記念して描かれた。一度も会ったことのないシューベルトを、クリムトは肖像画などをもとにロマンティックな靄の中に再現しようとしている。ずんぐりむっくりで風采のあがらなかったシューベルトなので、「リスト・マニア」のような女性たちが存在しようもなく、逆にだからこそ純粋に彼の音楽だけに集中できたのかもしれない。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「リストの端整な顔立ち、スリムな体形、繊細で長い指、「ピアノの魔術師」の異名をとる超絶技巧の演奏テクニック……女性たちが陶酔したのは無理もなく、行く先々に今で言う「おっかけ」が群がった。「リスト・マニア」と呼ばれた彼女たちの中には演奏中に失神する者もいたというから、プレスリーやビートルズに対するファンの熱狂とあまり変わらなかったようだ。  二十八歳のリストを、ドイツの風刺画家テオドール・ホーゼマン( 1807 ~ 1875)がイラストにしている。タイトルは『コンサート会場にて』。  長髪のリストは整った横顔を見せ、長い両腕をしなやかに動かす。右手を鍵盤の上で走らせながら、左手を上げ、画面右の女性に微笑みを送っているようだ。彼女は今にも舞台に上がり込む勢いでリースを振り、生花がピアノの上を舞い散っている。父親か、ひょっとすると夫が、それ以上の行為を止めようと必死に彼女を押し留めている。実際、リストは二十三歳の時に人妻とスイスへ逃避行したことがあった。自分にもチャンスがあるかもしれないと期待するファンもいたのだろう。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「カストラートの「天使の歌声」は、だがたちまち人の心を摑み、教会よりもっと儲かるオペラの分野へ進出してゆく。もちろんカストラートが演じるのは、声は高音でも女性役ではない。ギリシャ神話の神や英雄、また歴史上の人物たちだったから、女性ソプラノ歌手とかぶることもない。私生活では子供を作ることができないので結婚は教会に許されなかったが、セックスは可能だから人気カストラートの女性関係は派手だった。  貧しさに喘ぐ庶民の親が少し歌の上手な我が子を一か八かでカストラートにする例がほとんどだった中、ファリネッリは珍しく下級貴族の出身だった。父親が急死し、家が貧窮したため、やむなく十二歳で去勢されたという。処置には薬剤が使われたらしい(カストラートの詳細は拙著『怖い絵/死と乙女篇』〈角川文庫〉参照)。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「だが彼らの誰も、その目で実際に日本を見た者はいない。遠いということもあろうが、ゴッホ以外は本気で訪日したいと願う者はいなかった。エキゾティックなイメージの中の日本で十分――それが本音だったのだろう。  そんな中、印象派のうちただ一人、当時の日本に三年も滞在し、日本の風物や日本人の姿を描いた画家がいた。アメリカ女性リラ・キャボット・ペリー( 1848 ~ 1933)だ。同じアメリカ印象派の女性画家メアリー・カサットほど知名度は高くないが、カサット同様、アメリカに広く印象派を伝えた一人である。  ボストンのエリート階級出身のリラ・キャボットは二十六歳でハーバード大学講師ペリーと結婚、三人の娘をもうけた。ちなみに夫のペリーは黒船で日本を開国させたペリー提督の甥の息子にあたるので、日本とは縁があったのだろう。一八九八年、彼は慶應義塾大学の英文学教授として、家族ともども東京に招聘された。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

    「敬虔なプロテスタント国オランダは奢侈を戒め、若い娘であっても黒っぽい服が主流だった。その代わり、内側は派手めで、ちらりと覗かせるのが、いわば「粋」とされた。ヴァージナルの彼女は、黒いスカートをかなりたくしあげ、下のもう一枚の赤いスカートを堂々と見せている。情熱の色だ。」

    —『名画で読む「音楽の秘密」』中野京子著

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    2026年08月03日
  • 虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯

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    1294円

    中野京子さん高階秀爾さんのファンらしい。高階秀爾良いよね。高階秀爾の本も全部買お

    中野京子本の中でこれが一番好きかも。ドイツ版堤中納言物語、虫めづる姫君。

    美術を知れば知るほどオランダという国が魅力的に思える。オランダって国的にもヨーロッパの端の方だし、保守的なキリスト教の思想から自由に色々探究してる感じが面白いし、オランダは科学的な絵が多い印象ある。日本人にフェルメールとかレンブラント好きな人が多いのもキリスト教的世界観が薄いからなんじゃないかな?

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    マリア・ズィビラ・メーリアン
    17世紀のドイツ生まれ。画家・博物学者・昆虫学者・自然科学者、生態学者——現代の言葉で肩書を並べるより、上の絵を描いた人物、と言う方がずっと彼女らしいのです。虫を見つめ描き続けたマリアの眼差しと筆使いに迫ってみましょう。


    「彼はじっさい尊大だったのか?  もちろんそうだ。貴族でも大商人でもないが、しかしメーリアン社のようにおおぜいの職人や徒弟を擁した大工房の長は、高級職人として市民階級の上部に位置し、敬意をはらわれている。一七世紀半ばのヨーロッパは、男性の識字率三〇パーセント以下(女性はさらにその半数)といわれるが、マテウスはラテン語の読み書きもできた。〈手工業の親方〉という言葉から受けるイメージとは、はるかに遠い。尊大になることを許された身分だったので、とうぜんそうしたまでのこと。身分による役割をきちんと演じることが正しいとされた社会に、彼は生きていた。  だが妻と長女を相次いで亡くしたころから、マテウスの勢いはかげりを見せはじめる。何より健康状態が悪化した。長年の旅生活、日々の過労がたたったらしい。早描きはできなくなるし、商品の買いつけに対する勘もにぶってくる。しかもだいじなお得意だった貴族たちは、三十年戦争終了後の処理による宮廷縮小などで、注文を減らしはじめた。工房の負債が増え、その心労がまた肉体を痛めつけるという悪循環。とはいえそれは、数年にわたるゆっくりした変化ではあった。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著




    「 しかしながら、序列と人気は別ものである。経済的に豊かな市民層が形成された国、とりわけオランダでは、風景画や風俗画とともに静物画への需要が倍増していた。モノヘの尽きぬ関心が、彼らの好みをそこへ向けたからである。反対に宗教画は、宗教改革以降、偶像崇拝を認めないプロテスタント教会が注文しないため、ほとんどすたれた。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著


    「やがてマリア・シビラが学校へ通うころ、母ヨハンナは長く放っておいた娘に改めて目をとめ、愕然とする。他の少女たちと全然違っているではないか。人形遊びもせず、友だちもできず、いつもひとりで虫ばかり見ている。見ているだけならまだしも、素手で触っている。将来一人前の女性になるためにすべきこと──料理、裁縫、掃除、刺繡、聖書の暗唱──を嫌がり、逃げまわっている。これではいけない。焦った母は、放任から一転、厳しい躾をほどこしはじめた。  良い子のマリア・シビラは、母に逆らわなかった。言いつけられた家事を、黙ってこなした。しかし虫の観察はやめなかった。あんな気色の悪いものを集めるのはやめなさい、といくら止められても、表だっては反抗せず、ただ続けた。家事のせいで虫を見ている時間こそ短くなったが、ヨハンナの思惑どおりには決してならなかった。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 誰もが皆、時代のとらわれびとだ。マリア・シビラのきわめて個性的な絵に見られる、しなやかに波うつ茎の装飾的描写も、まぎれもなく、彼女の生きたバロックという時代の影響である。  もちろん彼女は〈バロック〉などという言葉は知らない。〈歪んだ真珠〉を意味するこのバロックは、一八世紀末の人々が非古典的な一七世紀を蔑んで呼んだものだ。ルネサンスの調和の美に比べれば、バロックの躍動する生命力や過度の視覚効果は、確かに烈しすぎる。しかしそこに生き、そこの空気を吸っている者にとっては、その劇的表現こそがあたりまえであった。  いや、そんなことをいえば、珍しい花、珍しい昆虫への偏愛もまた、この時代の要請によるものだった。ヨーロッパは〈大航海時代〉を経て、植民地から空前の富をかき集めていた。それとともに、これまで見たこともない珍奇な品々や生きものへの熱狂も生じた。世界は驚異に満ちている。人々は何かひとつ発見するたび、さらにまた別の新しい発見を求め、先を争って所有したがった。オランダにおけるチューリップ・バブルに代表されるように、いわば世をあげてのコレクターブームが巻き起こっていたのである。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「だが南アメリカの植民地の様子を描いた版画などを見ても、とうぜんながらまだ自分の身にひきつけて考えられはしない。新大陸どころか、地続きの隣国でさえ、いつの日か行けるときが来るなどと想像するのはむずかしかった。当時の女性は結婚でもしない限り、生まれた土地にほとんど一生しばりつけられていた。どんなに才能があっても、外国へ徒弟修業に出ることはできなかった。少年のころのマテウス が、プッサン(一五九四 ~一六六五)の絵の模写をさらに模写しながら、フランスやイタリアヘ行って実物を見るのを楽しみにしたのと比べれば、なんと大きな落差だったろう。  だからといって、マリア・シビラがそれを悔しがったかといえば、それは違う。むしろ彼女は、恵まれた自分の立場をありがたいと思っていた。なぜならメッセがないときでも、最新の海外情報、最新の書籍や絵画に、いくらでも接することのできる環境にいた。父親や兄弟、職人たちが、絶えずヨーロッパ各地をまわり、そうしたものを持ち帰ったからだ。マレル家でもそうだが、それよりメーリアン家で所蔵品の数々を見せてもらえるのが何よりの特典といえた。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 孤独は必ずしも悪いことばかりではない。マリア・シビラはこれまで以上に昆虫に熱中した。後年、「自然研究という生涯の仕事の礎となった年は一六六〇年」と書いたように、一三歳は大きな転換点になる。生まれて初めて、蚕の変態を目のあたりにした年──。  フランクフルトでも養蚕業は盛んだった。虫好きの少女は近所の養蚕場から、いくつかの卵をもらい、部屋で飼育を始める。蚕は変態時間の短さがとりえだ。端に黒点のある孵化まぢかの卵からは、すぐ幼虫がかえり、旺盛な食欲をしめすので、せっせと新鮮なクワの葉を与え続けた(腐ったのや湿ったのをやればすぐ死ぬとわかると、さっそくメモを残しておく)。丸々と太った幼虫は何度か脱皮をくりかえした末に、あるときぴたりと餌を食べなくなり、同時に体はアメ色に変わって糸を吐き出す。休みなく糸を吐き出し、動きまわって、自分の体をぐるぐる巻きにする。しばらくは外から見えていたその幼虫も、やがて自分で作った楕円形のその白い殻にすっかりかくれてしまう。もちろんマリア・シビラは、どの段階も丹念にスケッチしておくのを忘れない。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「こうして幼虫は二週間近く、繭に守られてぐっすり眠る。繭の中でさらに脱皮して、堅い蛹になり、蛹の中で最後の変身、つまり羽化がおこなわれて、ついに繭をやぶって飛び出てくる。それも夜明けに。マリア・シビラは養蚕業者に教えられたとおり、一晩じゅう寝ずに繭を観察し続けた。やがて繭がふるえはじめ、次いで先端から黒っぽい頭が見えてくる。その頭でぐいぐい繭を押し上げ、苦心惨憺の脱出劇が演じられる。ようやく外へ出られても、体はまだ湿り、翅も縮みきっているので、よろけてとても飛ぶどころではない。しばらくもがくうち体は乾いてくるが、まだ翅とのバランスがうまくとれず、よちよち歩きのヒヨコみたいに、羽ばたきしては飼育箱の壁にぶつかっている。だがそれを何度かくりかえすと、生まれたての蛾はいつのまにか空中を飛んでいる……。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「意外だったのは、必ずしもきれいな色のイモ虫が、美しい蝶になるわけではないこと。ぶよぶよした冴えない醜いイモ虫が、鮮やかな翅を持つみごとな蝶に生まれ変わり、ゆうゆうとはばたく姿を何度も見た。平凡な容姿に生まれついたマリア・シビラが、そのめざましい再生、ドラマティックな変化に勇気づけられたろうことは、想像に難くない。女性なら誰しも少女時代に、「いまは悪きぞかし/さかりにならば/かたちはかぎりなくよく/髪もいみじく長くなりなん」と夢みるものだ。蝶ほど、そんな少女の憧れをすくいとる存在はないであろう。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「恋愛で結婚が決まる時代では全然なかった。ヨハンナの二度の結婚が典型的なように、階級はつりあいがとれているか、宗教は同じか、夫は妻子を養えるか、妻は子どもをたくさん産めるか、そして何より互いの利害が一致するか(持参金の多寡も含め)が肝心で、その他は──相手に性的魅力が感じられなくとも、双方に子どもがいても、妻がはるかに年上でも──あまり問題にならない。  つまりあらゆる点で、グラフとマリア・シビラは申し分ないカップルだった。その上、初婚同士である。ニュルンベルクの教師の息子に生まれたグラフに、継ぐべき工房はないけれど、マリア・シビラとならいずれ新しい仕事場を開いてやってゆけるだろう。彼女はすでに立派にミニョンの代役をつとめ、近隣の少女たちを集めて教えるなど、マレル工房の中心になって働いている。マテウス・メーリアンの血をひくだけあり、絵の腕も天才的と評判だ。グラフが最初からすべて計算ずくだったというわけでもないだろうが、後年、徐々に姿を現してくる遊び人の本能で、依存できる相手をただちに見抜いたということはあるかもしれない。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 いずれを主張するにしても、しかしこの絵の女性が美しくないという点では一致している。ほんもの説は美しくないからであり、別人説もまた美しくないからだった。確かにこの女性は人目をひかない。思いつめたような、生真面目そのものの眼差しこそ印象的だが、目鼻立ちはごくごく平凡だ。ぼってりした頰と、長くて先の赤い鼻、あいまいな顎の線、特徴のない唇。一九世紀のある批評家はこれを評して、マリア・シビラは才能には恵まれたが「容貌に関しては、神は継母が継子を扱うように扱った」とまで言っている。  ──たった一、二枚の肖像画で、その人の何がわかるというのか。  きっとマリア・シビラも、そういう思いだったに違いない。美貌に恵まれていないという自覚があればこそ、自分の姿や、虫と関わりない私生活を、残す気になれなかった。でなければ、父や兄のように肖像画や自伝を残さない理由が見あたらない。なにしろ当時は肖像画の時代、自伝の時代といっていいくらいだった。著名人はむろんのこと、無名でも争って自分の姿を世にとどめたがった。少なからぬ金を払って画家に描いてもらったり、長い退屈な自伝を書く者もいた(一介の床屋の親方ディーツの伝記のおもしろさは、例外的)。その意味では、ふつうの人がふつうの自分の人生を自費出版したり、カメラで自分ばかり撮すなど、強烈に自己にこだわる現代日本とよく似た時代だったのだ。  マリア・シビラの場合、自意識が強すぎたともいえよう。人一倍、美に敏感だったせいで、自分の容姿を肯定しにくかったのかもしれない。特に、流行の衣服をまとうといっそうだめだった。毎日外へ出て採集している顔は、健康的に陽焼けしているのだからあたりまえである。この肖像画の女性は、貴婦人の留守にこっそり衣装を借りた農婦のように見えてしまう。むしろマリア・シビラの高貴さは、昆虫網を持っていたり版画を彫っていたりと、ふだんの自然な姿にこそあっただろう。そんな彼女が描かれていれば、真の魅力が伝わったはずなのに……。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著


    「二〇センチ以上もある巨大毒グモも生息しているのだそうだ。そのオオツチグモは、ふつうのクモとは違って網を張らず、木に登って獲物に近づき、いきなり嚙みつくらしい。ハチドリが襲われたこともあったという。マリア・シビラは夢中になって質問を浴びせたが、しょせん虫に関心のない人間たちの語ることには限界がある。はがゆい思いで終わるのが常だった。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「絶対君主のこの時代にあって、プロテスタント国家オランダはかなり特殊な性格を持っていた。後世から、〈一七世紀の典型的資本主義国〉と呼ばれることになる、商業貴族的共和制が実現しており、裕福な中産市民の層は厚く、彼らが政治経済を動かすとともに、社会秩序を律した。知識欲は旺盛で、女性の識字率もドイツなどよりはるかに高く、三分の一以上だったらしい(男性は六割近い)。芸術は市民のものであり、特に絵画はどんな貧しい家にもない家はない、といわれるほどだった。「けっきょくのところオランダ人はみんな画家として生まれる。それ以外のものとしては存在できない」(エリー・フォール)ほど、絵が好きだった。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著


    「同じものを描き続ける(ないし書き続ける)場合の最大の難点は、やがて本人が飽きるということ。内側から突き上げるものが弱まり、需要があるから制作するという袋小路に迷いこみやすい。たとえば物語画家フェルディナンド・ボル(一六一六 ~一六八〇)は、金持ちの未亡人と結婚したとたん、画家を廃業してしまった。彼はいっとき、レンブラントの有力な後継者といわれたほどである。それでもやめるチャンスがあればやめてしまう。  飽きということの他に、創作だけで暮らす厳しさもあろう。なにしろこれだけ同業者が多いと、飽和状態になるのも早い。少し前まで絵画は──たとえ後世の評価がどんなものでも──購入者にとっては、高価な贅沢品であった。壁に飾った絵にわざわざカーテンを引き、傷まないよう気をつかい、大切にしていた。だが数が多くなればそうはいかない。クヴィリング・ファン・ブレーケレンカムの『仕立屋の店』という絵には、質素な仕立て屋の仕事場の壁に静物画が掛けられ、その額、しかも真ん中に、帽子が無造作にひっかけてある様子が描かれている。もはやその絵は財産でもなければ、部屋の装飾ですらないのだった。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「こうして絵画の値は下がり、実力のない画家は淘汰されてゆく。そんな現実を、しかしメーリアンは子どものころからずっと見てきたから、いたずらに怖れなかった。才能があり、実績があり、幸いコネもある。それならたとえ厳しくとも、ここほど自分を生かせる場はないだろう。ここほど名を上げるのにうってつけの環境はないだろう。なぜならアムステルダムは刺激を求める都市だ。常に新しく魅力的な対象をさがす都市だ。それがどんなに小さな対象──虫のように──でも、そこに驚きと美しさがあれば喜んで認める。今までにない分野であれば、なお。  メーリアンのテリトリーこそ、今までにない分野だった。彼女ほど昆虫に詳しい銅版画家は皆無なのだ。単に昆虫に詳しい者はいる。秀でた銅版画家もいる。だがその両者を合わせ持つ人間は、彼女をおいて他にない。誰よりも虫の生活に通じていなければ、描けない絵。それを誰よりも巧みに描く。この専門分野で、彼女は頂点を極められるにちがいない。頂点を極めれば需要は多い。彼女には自信があり、まさにそのとおりになる。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「仕事の内容は変わらなかった。生徒を集めて絵の教室を開き、画材の販売をし、依頼に応じて昆虫画、植物画、布地絵、科学書のイラストを描く。むろん昆虫の飼育も続けた。都会での採集はたいへんだったので、もっぱら愛好家から分けてもらったり、植物園へ通って研究した。知識を吸収するのは、あいかわらずの悦びだった。  もっとも大きな変化は、これまでにない活発な社交生活である。アムステルダムには『花の本』や『虫の本』のファンが多く、メーリアンはおおぜいの知識人と面識を得て、親しくつきあいはじめる。後年『スリナム本』で、「アムステルダム市長であり東インド会社の長でもあるニコラス・ウィツェン博士と、同市政務次官ヨナス・ウィツェン氏のすばらしいコレクションを見せていただくことができた。また解剖学の医者で植物学教授でもあるフレーデリク・ライス博士、そしてレヴィヌス・ヴィンセント氏、他おおぜいの方々のコレクションを拝見させていただいた」「植物名は現地人の呼び名にしたがったが、ラテン語名は植物園園長であり植物学者、医学者のカスパル・コンメリン博士に付記していただいた」と、謝辞を述べている。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「レーウェンフックのことを、もう少し如才なければ出世できるのに、という者もいたがそうとは限らない。いくら市民国家オランダといえども、正規の大学教育も受けずラテン語もできない人間に、どんなポストも与えられない。本屋の会計係をはじめ、織物商人やら町役場の受付係やらで生計をたててきた彼には、イギリスのロイヤル・ソサイエティの通信員というポストでさえ法外だったろう。だいいち彼はたまにアムステルダムヘ出てくるくらいで、故郷デルフトを離れたがらない。あちらで測量技師の免許も取っている。  もちろん天才である。九一年の長い生涯でただの一冊も著書を書かなかったにもかかわらず、それを認めない者はいない。熟達したガラス研磨術で二倍から三〇〇倍といった倍率の顕微鏡を数百も作り、それで人間の精子や赤血球や筋繊維、またノミの卵やら原生動物を発見した。顕微鏡の構造自体はどれも同じで、二枚の金属板の間に小さなレンズをはさむといった簡単なものだが、彼のようにガラスを磨き、彼のように観察できる者はいなかった。なにせ知りたがりの見たがりだ。盲目になる危険を冒し、火薬の爆発状況を四、五センチのところで観察したことさえあった。同じデルフトの画家ヨハネス・フェルメール(一六三二 ~一六七五)とも親交があり、彼の『地理学者』のモデルはレーウェンフックではないかといわれている(肖像画とはあまり似ていないので、賛否両論ある)。フェルメールの死後、彼の遺産管財人もした。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ピョートルは後年、もう一度アムステルダムヘやってくる。そしてそのときには自分のコレクションにメーリアンの絵を加えるため、わざわざ侍医を彼女の家へよこすだろう。この世で唯一ゴキブリだけを怖がったというこの絶対君主は、どんな思いで彼女の昆虫画を鑑賞したのだろうか。  メーリアンとピョートル大帝の関係、いやメーリアンとロシアの関係は、これだけで終わらない。むしろオランダやドイツより密接な関係を結ぶことになる。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「捕まえた虫はすぐ処理しないと、腐ったり大アリに喰われるので、場合によってはその場で標本にした。せっかくの標本を、家の中で台無しにしてしまったこともある。「アメリカでもっとも悪名高い虫」ゴキブリにやられたのだ。「小さなゴキブリは動きがすばやく、木箱や容器の継ぎ目や鍵穴から中へ入り込む」。もちろん彼らの生態も研究対象である。パイナップルのガクに、びっしり並んで産みつけられた卵とともに、南米産ワモンゴキブリの一生が時間の枠を超えて描かれた。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著


    「運にも味方され、ようやく全快したときには、もはやこれまでどおりのフィールドワークを続ける力はなかった。三年間という約束を東インド会社とかわしていたこともあり、まだ一年を残して帰らねばならないのは無念の極みだ。しかしこれ以上頑張ってまた病気に倒れては元も子もない。メーリアンの本来の目的は自然研究ではなく、自然研究によって得た知識で絵を描くことである。そのための余力をとっておかなければならない。いったんここは、帰るのが得策だろう。  帰国の決断は、母娘の相談の上と思われる。偉大な母親の後ろにかくれてドロテアの存在はほとんど見失われかねないほどだが、しかしこの娘は毎日のルーティンワークのときも、カヌーでのジャングル探検のときも、常に母によりそって黙々と補助作業をしながら支えてきたのだった。とうぜん病気のときには介護もした。メーリアンにとって、遅くに生まれたドロテアヘの愛情はひとしおだったが、ドロテアもまたその愛情に生涯かけてこたえることになる。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「メーリアンがまず読者に強調したかったのは、自分は正統の学者ではないけれど、各地で長期間研究を続けてきて、すでに評価を得ている人間だという点だった。人に勧められたので出版するという表現は、この時代ではふつうのことなので、別にへりくだっているわけではない。それどころか、彼女には確固たる自信がある。誰の娘か、誰に絵を習ったかを明らかにする必要を、もう感じていない。マリア・シビラ・メーリアンの名前ひとつで、事足りるのを知っている。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

    「では彼女の作品は、「あまりに美麗」な点だけに価値があるのだろうか。そうではない。科学と芸術は、真実を見るふたつの目だといわれている。メーリアン作品の神髄は、やはりサイエンスアートという点にあるだろう。彼女が自然をどう認識したか、その認識の証が絵になり、それが見る者の胸をふるえさせる。彼女への再評価は、けっきょくそうしたところから湧き起こってきたのだった。」

    —『虫を描く女(ひと) 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯 (NHK出版新書)』中野 京子著

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    2026年08月03日
  • 運命の絵 もう逃れられない

    Posted by ブクログ

    880円

    ゴーギャン、ムンカーチ・ミハーイ、ターナー、ローザボヌール、男装れず、

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「『フォリー・ベルジェールのバー』は、エドゥアール・マネ最晩年の大作。画面左端にある酒瓶のラベルに、マネのサイン「 Manet」と制作年「 1882」が見える。この翌年、彼は五十一歳の若さで亡くなるのだ。  高級官僚の息子に生まれ、生涯、経済的に不自由せず、生活のため絵を売る必要もなく、生粋のパリジャン、人好きするダンディーで知られたマネだが、二十代で罹患した梅毒が進んで末期症状を迎え、壊死した片脚を切断したものの、ついに回復できなかった。本作制作中も手足の麻痺や痛みに苦しみ、現地でデッサンした後はもはや外出できず、わざわざ自分のアトリエにカウンターを設え、モデルをそこに立たせて描きついだ。少し絵筆を動かしてはソファで休む、その繰り返しだったという。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「ゴーギャンは晩年、虚実ないまぜの半自伝的紀行『ノアノア(タヒチ語で「かぐわしき香」の意)』を発表し、それに触発されたサマセット・モームが傑作『月と六ペンス』を書いている。ゴーギャンという破天荒な画家の伝説化に、モームのこのベストセラーが果たした役割はきわめて大きい。  とはいえ『月と六ペンス』は伝記ではない。実際のゴーギャンの足跡は小説よりさらに荒々しく、彼が描いた南洋の奇怪な色彩と同じように、凡人の平穏を揺さぶるものだった。生まれる前から波乱は始まっており── ゴーギャンの母方の祖母フローラ・トリスタンは、女性社会主義活動家の先駆者だ。フランス女性とスペイン系ペルー人との間に生まれた彼女は、父亡きあと貧困から逃れるため年長の石版画家と結婚し娘(ゴーギャンの母)を産んだが、妻を私物とみなす暴力的な夫との生活に耐えきれず、娘を連れて出奔。各地を転々として働くうち、父の実家がペルーの富豪と知ってペルーへ渡る。歓待され、援助金をもらい、フランスへ帰るとペルー旅行記を出版、才色兼備ぶりを証明するとともに、女権拡張論者として名を馳せてゆく。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「フランスではお坊ちゃんのままではいられなかった。父方の家族のいるオルレアンで神学校に通ったあと、海軍軍人になろうと試験を受けたが失敗し、水夫見習いとなって世界の海を廻る(母の死はインドで知った)。二十三歳でパリの証券会社に勤め、デンマーク女性と知り合って結婚し、家庭を作り、金融恐慌で画家となったのは、先述したとおり。  ここから始まる売れない画家としての彼の人生は、美術愛好家なら誰しも知るところだ。印象派の画家と交流し、作風を真似たが売れず、印象派から離れても売れず、パリを離れても売れない。貧乏生活を知らなかったので、最初はそうとう堪えたが、会社勤めにもどる気はなかった。妻は子を連れてデンマークへもどってしまう。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「ちなみに仏訳に関してだが、イギリスやドイツ(そして日本)と違い、フランスは基本的に亡霊譚をあまり好まないので(幽霊などいるわけがない、とはなから信じないフランス人は多い)、『レノーレ』訳は次第に翻案・改変されてゆく。ドイツの深い森から生まれた幽霊花婿譚が、フランスでは官能性を前面に押し出すことで大衆人気を得たといっていい。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「エレンがフランスのサラ・ベルナールと並び称される大女優にまで昇りつめたのは、このアーヴィングに拠るところ大である。二人のコンビネーションは絶妙で、互いに互いを最高に引き立てた。彼らは二十年以上にわたってイギリス演劇界を牽引し、それまで軽蔑されていた役者の地位を自他ともに認める芸術家の域にまで高めたのだった。  男優として「サー( Sir =ナイトの称号)」を授与されたのはアーヴィングが最初であり、イギリス人女優として「デイム( Dame =男性のサーに対応する称号)」を獲得したのはエレンが最初だった。二人は愛人関係にあると囁かれはしたが、もはやそのことで社会的制裁を受けることはなかった。芸術家はそうした世間的縛りから自由な身だと、次第に捉えられるようになっていたのだ(現代日本はなぜかそれに逆行している気がするが……)。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「抵抗すべき何ものもなくなったムンカーチは、実質的なハプスブルク最後の皇帝だった老フランツ・ヨーゼフの、ハンガリー軍服姿の見事な肖像画を描いた(左図)。またハプスブルク家が誇る美の殿堂ウィーン美術史美術館からも、大天井画の依頼を受けた。一八八八年に完成したその『ルネサンス讃歌』は、今もホールを見上げれば鑑賞することができる。女神グローリアのもとで、レオナルド、ラファエロ、ミケランジェロ、ヴェロネーゼ、ティツィアーノを描きながら、ムンカーチは何を思っていたろうか。  貧しく、虐げられた時代には心から噴出する主題と表現があったのに、成功して豊かになった途端、それは手からこぼれてゆく。アウトロー的外見に似ず繊細な神経を持つムンカーチは、自らの芸術的展開への焦りを感じていたようだ。そのせいばかりでもあるまいが、少しずつ心も病み(脳梅毒との説もある)、五十六歳で世紀の変わり目にひっそり死んだ。第一次世界大戦の勃発もハプスブルク崩壊も、ソ連によるハンガリーの共産化も知らぬまま……。  ムンカーチ・ミハーイ( 1844 ~ 1900)の作品の大部分は、ブダペストの国立美術館にある。歴史画の他に宗教画の大作もよく知られている。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「ギュスターヴ・モロー( 1826 ~ 1898)は生涯独身だった。作品の散逸を心配し、自邸兼アトリエをモロー美術館とすること、初代館長を弟子ジョルジュ・ルオーが務めること、との遺言をのこしてそのとおりになった。本作もこの美術館に所蔵され、人々を惹きつけている。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「当時のフランスでは、女性の男装(とりわけズボン)は禁じられていた。これは一八〇〇年に発布された警察令をもとに、一八〇四年のナポレオン法典で明文化された法律で、違反者には罰金や禁固刑が科せられた。例外は健康上の理由など特殊な場合のみで、警察に申請して「異性装許可証」を取得する必要があった。一八五〇年代の取得女性はわずか十二人というから、ハードルは高い。  現代人にとっては、何ゆえそこまでズボンにこだわるのかと呆れるが、フランス革命時に女性市民が政治に大きく関与したことを苦々しく思っていたのも一因とされる。ナポレオン法典には、妻は夫に絶対服従と明記されているばかりか、妻の収入は夫の財産であり、離婚も中絶も避妊も禁止なのだから、女がズボンを穿くことが男の権利簒奪と見做されて何の不思議があろう。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

    「 三十八歳の時、フォンテーヌブローの禁猟区域の一角にある城付きの土地を購入し、念願の動物王国を作っている。小さなものだと、犬、猫、イタチ、リス、ウミガメ、トカゲ、カワウソなど。大きなものだと、各種の馬、ヤク、サル、カモシカ、イノシシ、鹿、ヤギ、牛、羊など。野獣だとライオンまで。  次第にほとんどの時間を男装で通すようになり、酒を飲み、煙草を吸い、時に男の女装と間違えられ、ナタリーと同棲し続けたが、スキャンダルにはならなかった。動物画家であり、動物たちとの特殊な暮らしも知れ渡っていたので、「男装は必要に迫られてのもの、奇矯な性癖(レズビアン)ではない」と世間は納得していたようだ。それでも「フォンテーヌブローのディアナ」というあだ名は付けられた。ディアナは言わずと知れた月と狩猟の女神。処女神にして男嫌い。周りには女性しか侍らせなかったことで知られる。」

    —『運命の絵 もう逃れられない (文春文庫)』中野 京子著

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    2026年07月31日
  • カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード

    Posted by ブクログ

    1186円

    ★再読

    「目  次

    「植物」の章

    薔薇 /百合 /リンゴ /月桂樹 /イトスギ 「天体・自然」の章月 /虹 /川

    「動物・虫」の章

    黒猫 /テン /牡牛 /蛇 /ハエ /蝶

    「食べ物」の章

    卵 /ハチミツ /魚

    「相反する要素」の章
    赤と青 /右と左 /分かれ道

    「武具」の章
    剣 /大鎌 /矢 /ハンマー

    「道具・装飾品・楽器」の章
    天秤 /十字架 /鏡 /甕 /子供服 /真珠リュート /シャボン玉

    「建物」の章
    窓 /梯子 /井戸 「技法」の章擬人像 /画中画 /異時同図法 /タイムスリップ

    「現象」の章
    パンデミック /天を仰ぐ /運命

    「人物描写」の章
    道化 /三美神 /聖母マリア

    「身体」の章
    母乳 /骸骨 /髪 /翼 /目隠し

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「歌舞伎に決まりごとがあるのを、日本人は知っている。お女中が頭を振りつつ「よよよよ」と声を出せば、それは(そんな泣き方をする者などいないにもかかわらず)嘆きのしるしであり、派手な隈取りでは(そんな顔の主など皆無なのに)、赤が正義、黒や青が悪、茶が妖怪の証しである。そうした知識が多ければ多いほど、舞台は理解しやすくなる。  西洋絵画もまったく同じだ。十九世紀後半に印象派が登場する前までは絵にも意味があり、読み解くための「絵の言語」があった。シンボル(象徴)、アレゴリー(比喩)、メタファー(隠喩)、アトリビュート(その人物を特定する持ち物)、エンブレム(記号)といった絵独自の言語を読むことで、人々は画面に見えているものだけではなく、その奥に隠された画家からのメッセージを探りあてた。  日本人には西洋的思考を完全に理解するのは難しいが、シンボルのいくつかを覚えておくだけでも、絵画鑑賞はぐんと楽しくなるに違いない。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    百合の花は薔薇とならんで西洋名画の数々を華やかに彩っている。  まずはギリシャ神話中、天の川の起源を物語る作品。浮気性のゼウスは人間の女に息子を産ませ、あろうことか正妻のヘラが寝入ったすきに彼女の乳を吸わせた。赤子があまりに強く吸うのでヘラが目覚め、そのときこぼれた乳が上へほとばしって天の川となり、下界へ滴り落ちて百合ができたという(ちなみにこの赤ちゃんこそが英雄ヘラクレス。名前にヘラが入っていますね)。  さらなるエピソード。清らかで無垢のイメージを持つ百合を憎んだのが、美と愛欲の女神ヴィーナスで、彼女の意地悪によって百合の雌蕊はロバの男根に似せられたのだとか。やることの凄まじいヴィーナスであった。  キリスト教時代に入ると、百合は受胎告知図の定番となる。処女マリアを訪れた大天使ガブリエルが、「おめでとう、マリア、あなたはみごもりました」と衝撃の(?)告知をするシーンだ。百合はガブリエルが手に持つか、あるいはそばの花瓶に活けられている。たいていは透明なガラス製花瓶であり、これまたシンボル的には処女の子宮をあらわす。ダ・ヴィンチの若きころの『受胎告知』は雄大な景色をバックに、美しいマリアが静かに運命を受け入れている。

    日本人は聖書にさほど詳しくないので、イエス・キリストと「犠牲の仔羊」の関係は知っていても、魚までは気づきにくい。実は初期キリスト教におけるシンボルは十字架ではなく、魚だった。魚はイエスその人を指していた。ギリシャ語の「魚(=イクトゥス)」が「イエス・キリスト・神の・子・救い主」の頭文字に重なるからだ。  古代ローマ帝国に公認される前はキリスト教徒とわかれば殺されかねず、魚のマークを仲間うちの秘密の合図にしていた。このマーク(魚を横から見た形を単純化したもの)は──驚いたことに──現代でも欧米のロゴやステッカー、アクセサリーなどに頻繁に使われている。企業がキリスト教を信奉しているとの意思表示でもあるというが、たいがいの購入者は意識せず使っているはず。  聖書と魚の縁はまだある。預言者ヨナが巨大な魚に吞み込まれるものの、のちに吐き出されたというエピソード。これはイエスの復活をあらわす(非キリスト者はピノキオを思い出してしまうが)。  またイエスが伝道したガリラヤ地方には、ガリラヤ湖という大きな湖があり、十二使徒の四人までがそこの漁師だった。魚を満載した小舟に乗る漁師に向かい、イエスが「われに従え」と呼びかける絵画は多い。今でも淡水魚ティラピアは「セント・ピーターズ・フィッシュ(=聖ペテロの魚)」と呼ばれる。イエスの一番弟子、ペテロの名にちなんだものだ。

    「「右」は英語( right)ばかりでなくドイツ語やフランス語なども同様なのだが、「正義」と同じ単語だ。つまりすべてよきものは右なのだ。優位、英知、男性、進化、徳、名誉、幸運と結びつく。必然的に「左」はろくでもないということになる。低位、無意識、女性、弱さ、退化、魔術、不吉、異常……やれやれ。  これはいったいなぜなのか?  どうやら太古の昔から、人間は右利きが圧倒的に多かったためと推測されている。武器を持つ右手が積極性と、身を守る盾を持つ左手が消極性と関連づけられたらしい。『伝道の書』には、「知恵者の心は右に、愚か者の心は左にゆく」との一文がある。現在でも、宴会の場での上席は主人の右側の席だ。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    「ディアナは永遠の処女神であった。自らを「ヴァージン・クイーン」と称したエリザベス一世が、ことのほか真珠を好んだのはこのためだ。彼女の数多い肖像画はどれも、センスを疑うばかりに真珠まみれの満艦飾だ。中には自らが処刑したスコットランド女王メアリから奪ったネックレスもある。これはメディチ家伝来の貴重品。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    「カラヴァッジョの『リュート奏者』は、少年と青年のあわいにいる、いや、男とも女ともまだはっきりしないリュート奏者の妖しいエロスが漂う作品。ここで彼がバグパイプを大音量で吹いていたら、ぶち壊し。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    「宗教画では、二つのシーンにおける梯子が有名だ。一つは新約聖書の磔刑図。イエス・キリストの遺体を十字架からおろすのに、使徒らは梯子を使った。ここでの梯子が、イエス受難の象徴ともなっているのは自明であろう。  ルーベンスの有名な『キリスト降架』にも梯子が描かれている。イエスの蒼ざめた身体を、梯子に足を乗せて抱きおろす使徒の真っ赤な衣服が、死と生の対比を鮮やかに示す。この絵は『フランダースの犬』のネロが、凍え死ぬ直前にようやく見ることができ、「もうこれで死んでもいい」とさえ思った傑作。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著


    「日本の美術教育の多くは、「絵は見て感じなさい」と教える。画家が何をどう伝えようとしたかを知るより、現代人の狭い感性を優先させるべし、ということだろうか。それだとルネサンスから十九世紀まで西洋の画家たちが丁寧に積み上げてきた芸術作品、つまり「意味のある絵」を、一面的な感覚の楽しみだけで判断することになってしまう。  文章に文法があるように、絵画にも「絵画の文法」がある。ただし絵画の場合、文法を知らなくとも見ればわかった気になるのが問題だ。文章なら読んでわからなければ、わからないと自覚できるが、絵は自分がわかっていないことがわからない。文化の違う日本人にとって特に難儀なのが「擬人化」。擬人とは読んで字のごとく、「人ではないものを人に擬す」手法だ。「時」「法」「嫉妬」「勇気」といった目に見えない抽象概念を人間の姿にして、アトリビュートとともに描く高度な手法である。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    「 ユトリロの母ヴァラドンの代表作『網を打つ』がそれで、コルシカ旅行中、地元の若い漁師たちが流れるような動作で網を投げている姿に感銘を受け、前、後ろ、横の三種のヌードとして仕上げた。いわば「女流画家による男性版三美神ヴァージョン」。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    「だがバロックが近づいてきた十六世紀前半、ヴァチカンに激震が走った。ルターによる宗教改革だ。カトリック( =正統)にプロテスト( =異議申し立て)するその運動は瞬く間にヨーロッパ北部を中心に拡がり、プロテスタント国の教会から聖画が撤去されてゆく。これは個人個人が聖書を読むという実践的教えと、聖人崇拝の否定がもとになっていた。  ここからカトリック側による盛大な「反宗教改革運動」が展開される。正統ならざる異端者どもが聖母や聖人を認めないのなら、こちらは優れた画家たちを総動員して、めくるめく聖人崇拝の絵巻物を量産するのだ。とりわけ聖母マリア信仰はかつてないほど高めねばならない。マリアをカトリック美術最大のスターにするのだ!」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    「マリアは処女の身でイエスを受胎した。つまり彼女は他の人間と違い、「原罪」からは免れている。しかしもしマリアの母アンナが通常妊娠なら、無原罪の完璧さは揺らぐのではないか。かくして新たな教義が付け加えられる。マリアの誕生もまた、その父親とは何ら関係ないものである、と。  自らも敬虔なカトリック信者だった十七世紀スペインの人気画家ムリーリョによる『無原罪の御宿り』を見てみよう。あどけない少女のマリアが、けぶるような金の瑞雲の中をすべるように近づいてくる。どこへ?  母アンナの胎内へ。そこに宿るために。  本来ならマリアは赤子か胎児の姿であるべきだが、それでは画家としての工夫のしどころもなく、鑑賞者も美しい女性の姿の眼福にあずかれない。というわけで、「無原罪の御宿り」の定型パターンは、乙女マリアが天使たちとともに、こうして地上へ降り立とうとする形になったのだ。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著

    「 盲目や目隠しの象徴性は多岐にわたる。「無知」や「無分別」の暗喩である一方、古代ギリシャ人の考えでは、優れた詩人や予言者に盲目が多く、それは彼らが「内なる光」を優先したがゆえとされる。  また愛の神キューピッドは恋の矢を射る際に目隠しをするし、玉乗りよろしく球体に乗って走りまわる幸運の女神も「気まぐれ」をあらわして目隠しをしている。ただし「正義」の擬人像の目隠しの意味はそれと違い、相手が誰だろうと公平に判断することを示すものだ。」

    —『カラー版 西洋絵画のお約束 謎を解く50のキーワード (中公新書ラクレ)』中野京子著


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    2026年07月31日
  • 展覧会の「怖い絵」

    Posted by ブクログ

    832円

    189円

    これは皆言うけど、セザンヌは本当に本物を見なきゃ分からないんだよね。私も本物見てから、熱心なセザンヌファンになった。

    ファム・ファタールがアートの源泉だから、マリリン・モンローはアートの源泉。古典美術においてはファム・ファタールが創作の大きな源泉であり、20世紀以降の大衆文化や現代アートにおいては、マリリン・モンローはその系譜を受け継ぎながら、独自の神話となった存在。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「現代音楽の紹介文や批評には、いかにその作品が斬新かを必要以上に難解な専門用語を駆使し、あたかも読み手を無理やり説伏しようとするかのごとき熱っぽさで語るものが多い。それは長く愛され続けてきた古典が力説不要なのと対照的だ──というようなエッセーを何かで読んだ記憶がある(うろ覚えなので大意のみ)。  大いに共感し、ふとセザンヌを思い起こした。どうも個人的にセザンヌは苦手だったのだ。現代音楽が無調でメロディーがないように、セザンヌには物語性と感情がない。また現代音楽のリズムが複雑なように、セザンヌの画面構成は多視点から成る。どちらも人間の自然な感覚に NOを突きつける。また画面とそれを観る者との間に生まれる、ある種のイリュージョン(感動と言い換えてもいい何らかの情動)にも NOを突きつける。  そこが新しいという。  そうかもしれないが、その新しさには酔えない。酔うのではなく、理知の喜びを味わえ、新世界を構築する創り手の苦闘を知れ、と言われても、なべて芸術は生理的心地よさから発して展開してきたのだし、創り手への関心は作品を気に入ってから先の段階なのではあるまいか。  セザンヌを紹介する美術書には、概ね次のようなことが書かれている。  ──後期印象派の画家とされることもあるが、瞬間を捉えようとした印象派の軽妙なタッチからは次第に離れ、堅固さを求める独自の画法を開拓。「自然を円筒・球体・円錐によって扱え」という言葉を残しており、実際、自然の形状を単純で幾何学的な色面に分解した。いっさいの意味や物語を排除し、純粋な絵画的要素のみに価値があると主張したことで、後のキュビスムやフォーヴィスム、また抽象絵画へ多大な影響を与え、「近代絵画の父」と呼ばれる。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「この説明では、だからどうなんだ、と思われるばかりなので、代表作の一つ、『りんごとオレンジの静物画』を見てみよう。  台の上に白いテーブル・クロスが掛かり……と言いたいところだが、その布はシーツであってもおかしくないほど、ぐちゃぐちゃに拡げられ端がめくれている。上には数多くの赤いリンゴ。奥には白い果物鉢に黄色いオレンジ。横には陶磁製の水差し。背後にあるのは模様付きのカーテン、ないしソファ掛け。  セザンヌは写実を目指していないので、遠近法は使用せず、対象はさまざまな視点から描かれる(平皿のリンゴは真上から、果物鉢は真横からというように)。従って台の右側が極端に高く感じられるのも、リンゴが今にもころがりそうに見えるのも意図的なのだ。  さて、美術史家はこう結論を出す──三次元に存在する物を二次元の画布に「実在」させようとする試みは成功した。  セザンヌ・ファンもこう言う──これは「平面の深み」であり、静物画の奇蹟だ。  しかし本作の良さを全く理解せぬ(?)ダリは言う──リンゴを凹状に描こうとして、一生かけても凸状にしかできなかったセザンヌは悲劇的だ。  ほんとうにダリの言葉かどうか真偽のほどはわからないが、いかにも彼なら言いそうな気がする。ただしセザンヌらしさは、写真やネット画像では絶対にわからない。実物のマティエール(材質感)を見て初めて、彼がどんな世界を追求し、格闘していたかを感じることができる。厚塗りや重苦しいタッチが作り出す独特の画肌、存外、美しい色彩。熱心なセザンヌ・ファンがいるのもうなずける。またカメラや動画が美術界を脅かし始めた二十世紀初頭の若い画家たちが、セザンヌの示した「純粋絵画」という新たな方向性にどれほど興奮したかも想像できる。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著


    「ただしセザンヌらしさは、写真やネット画像では絶対にわからない。実物のマティエール(材質感)を見て初めて、彼がどんな世界を追求し、格闘していたかを感じることができる。厚塗りや重苦しいタッチが作り出す独特の画肌、存外、美しい色彩。熱心なセザンヌ・ファンがいるのもうなずける。またカメラや動画が美術界を脅かし始めた二十世紀初頭の若い画家たちが、セザンヌの示した「純粋絵画」という新たな方向性にどれほど興奮したかも想像できる。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「当時の小説や現実の事件に触発されて描かれたと推測されるものの、詳細は不明だ。いずれにせよセザンヌはこの時期(二十代後半から三十代前半)、かなりの点数のサディスティックでエロティックな絵を描いていた。『殺人』のような現実社会における犯罪はもちろん、神話や聖書を題材にした乱交やレイプ・シーンの数々である。  このことはセザンヌ研究者ならまだしも、一般にはあまり知られていない。若い頃の非行歴を隠すかのように、本人が破棄したものも多かったらしい。後世の美術史家たちも口をつぐんでいた。「静謐な」と形容されるセザンヌのセザンヌらしさを守るためだろうか、それとも単に無価値と見做したのか。  近年ようやく初期作品に特化したセザンヌ展がフランスで開催されるようになったが、展示自体に反対する評論家が少なからずいたという報告は興味深い。「近代絵画の父」のイメージを壊したくない、ひいては偉大なる画家を研究している自らの優位性を守りたい、それが本音かと勘繰られても仕方がない。  さほどセザンヌに関心のなかった筆者としては、だが初期の激烈な作品に触れて、むしろセザンヌの魅力が増したように感じた。無機質に見えるリンゴや山や奥さんもセザンヌ自身の内面を表している、という解釈に少し共感できるようになった。  セザンヌは同時代人にほとんど認められなかった。最晩年にようやく一部の画商から評価され、個展を開くことができたので、その意味では、生前一枚しか売れなかったゴッホよりははるかにマシだ。とはいえゴッホにはテオという献身的な弟がいて、才能を信じ続けてくれた。セザンヌの場合、彼が誰より認めてほしいと願った父親と親友に理解されずに終わっている。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「南フランスのエクス・アン・プロヴァンス生まれのセザンヌは、一代で帽子屋から銀行家に成り上がった父の期待を一身に浴びて育つ。大学で法学を学び、成金の父の跡を継ぐのが既定路線とされた。家父長の命令は絶対だが、セザンヌは画家になりたかった。それは少年時代からの親友エミール・ゾラの影響でもある。ゾラは作家を目指し早々とパリへ出て、貧しいボヘミアン生活に明け暮れながら創作に励んでいた。  父親の期待に応えたいという思いと自分の夢の間で揺れ惑うセザンヌは、ゾラからの?咤激励の手紙でついに実業家になる努力を放棄し、二十二歳でパリへ。  わがままで癇癪持ちのセザンヌと物静かなゾラは妙にウマがあい、互いに励ましあって、金銭も愛人も野心も分かち合う。夢に燃えた蜜月期と言えた。デッサンの下手なセザンヌはどうやっても美術学校に合格せず、サロン(官展)にも落選し続ける。ゾラは革新的な新聞に印象派擁護の記事をせっせと書く。そうやって日々は過ぎ、運命が彼らの境遇を変えるのはまもなくだ。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「ウィリアム・ホガースは一六九七年、ロンドンに生まれた。その人生はよくチャールズ・ディケンズの小説の主人公のようだと言われるが、実際にはディケンズのほうが一世紀も後に生まれ、ホガース作品の登場人物をお手本にしたという。  二人には大きな共通項がある。どちらも少年時代、父親が破産して債務者監獄に入れられたため(当時、借金を返せない者は投獄された)、貧困と屈辱感を味わっている。学校もやめざるを得ず、工場労働や徒弟奉公をさせられて苦労したが、独学と才能と不断の努力で乗り越え、成功と富を手に入れ、片や「イギリス絵画の父」、片や「国民作家」と讃えられるまでになった。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「 のどかな船遊びの絵。だが『チャールズ一世の幸福だった日々』というタイトルが不穏さを醸し出す。「だった」と過去形なのだから、先には不幸や災難が待ち受けているに違いない。だがどの程度の?  日本人がヨーロッパ人に比べて英国史に詳しくないのは当然だが、それでも世界史の授業の記憶をたぐれば、チャールズ一世 +クロムウェル +ピューリタン革命の三点セットにつながり、イングランド史上ただ一人の処刑された王(女王だとジェーン・グレイがいる)だと気づく人は少なくないだろう。その時に浮かぶ感慨は、日本史に置き換えるとわかりやすい。  平家の公達らが宮廷で花見をする屛風図があり、祖母の二位尼といっしょの幼い安徳天皇も描かれていたとする。鑑賞者はたちまち「祇園精舎の鐘の声……」と『平家物語』の一節を思い出す。雅びな花見の宴から壇ノ浦の戦いまではわずか数年しかなく、無邪気に笑うこの幼帝が二位尼に抱かれて海の藻屑となった史実が喚起され、「諸行無常の響き」すら聞こえてくる気がするのではないか。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「この俯瞰図をいわばズームアップして特定の人物に焦点を合わせているのが、同主題・同タイトルのレンブラント・ファン・レイン作品『ベルシャザールの饗宴』だ。ただし正確には、幻の手があらわれて文字を記した瞬間のシーンだ。  そしてもちろんレンブラント作品のほうが古く、マーティンとは二世紀近い隔たりがある。従ってこうも言い換えられよう、レンブラント作品をズームバックすれば、マーティン作品になる、と。  レンブラントの画面に登場人物は六人のみ。本来の主役ベルシャザールが、背後を振り返っている。闇に沈んでいるのでそこが壁かどうかは判然としないが、ふいにあらわれた形の良い男性的な右手が、なぜか中指で文字をなぞり、文字は光り、この世ならぬ明るさを発する。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「ロトは、死海近くの豊かな町ソドムに住んでいた。だが神はこのソドムと隣町ゴモラを、悪徳の咎で壊滅させることにした。どんな悪徳だったかは、今に残るソドミー(男色、獣姦)という言葉から明らかだ。子孫を増やすためではない性行為(「不自然な肉欲」)を、この唯一絶対神は断罪し続ける。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「性の逸脱現象たるフェティシズム傾向は、圧倒的に男性に多いと言われる。男は女より「物」への偏愛が強いのかもしれない。物を集めることに情熱を燃やすコレクターも、やはり男性に多いからだ。それともそれは「物」そのものに囚われているというよりむしろ、「物への妄想力」が強いということなのか(そのあたり、ビー玉や牛乳瓶の蓋を集める同級生の男子に呆れ果てた身としては、さっぱりわからぬ嗜好ではある)。  呪物に関しては「イワシの頭も信心から」という言葉があるほどで、鉱物、動物、植物と多種多様な物が神聖なる対象とされた。当然ながら性的対象物も多岐にわたり、『フェティシズム』( P = L・アスン著)によれば、それらは次のようなものだという──「身体の部分(胸、鼻、手、おさげ髪)、身体特性(髪の色、体格、身体障害、嗅覚)、衣類と布地(ハンカチ、靴、ナイトキャップ、喪のベール)、行為(髪を櫛でとく行為、排尿行為)、心理特性(残忍性も「フェティッシュ」であり、マゾヒズムに向けられる)」。  クリンガーが描いたのは、手袋へのフェティシズムなので、「靴」と同様、比較的わかりやすい。憧れの女性の手をすっぽり覆っていた手袋に、彼女の放つエロスの残り香が秘められているとの期待は突飛と言えない。聖遺物を収めた聖櫃(アーク)が長い歳月を経て聖遺物と同じような力を獲得し得る(インディ・ジョーンズシリーズ第一作『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』 S・スピルバーグ監督)との考え方に通じよう。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「風景画が認知された十八世紀には各国で専門画家が活躍した。中でも産業革命の発祥地イギリスでは、文明に毒されない自然への憧れが強まっていたこともあり、風景画人気はオランダを凌ぐようになる。すでに「グランドツアー」(イギリスの良家の子弟が教養を深めるため大陸を長期旅行すること)も盛んだったので、異国的風景も大いにもてはやされたし、その美的概念と重なる形で、「崇高」という新たな価値観も生まれる。  この「崇高」に「恐怖」が必須なのだ(ようやく怖い絵になってきた)。  風景画における「崇高」(サブライム sublime)とは何か?  ──これはイギリスの政治思想家エドマンド・バークが著書『崇高と美の観念の起原』(一七五七)で初めて唱えた概念で、簡単に言えば、圧倒的な大自然を前にした時の人間の感情のこと。  バークは、それまで賞讃されてきた「調和的な美」と「崇高」を次のように対比させる。前者は小さく、曲線的、明晰、優美、そして源にあるのは快楽。後者は荒々しく、巨大、鋭角的、曖昧、そして源には恐怖。  風景画の誕生自体が驚きであったのに、それに慣れると今度はさらなる美の地平が開拓されたわけだ。「崇高」は醜をも内包し、感嘆と畏怖をもたらす。題材は、高峰、氷海、瀑布、火山、地震、洪水、雷鳴、嵐といった大自然の凄まじい脅威、さらにはその結果としての崩壊、難破船、廃墟など。「崇高」がロマン主義の到来を告げたと言われる所以である。ちなみに「崇高」な風景画の人気と、イギリスでの恐怖小説の席巻時期は重なっている。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著


    「テーバイがアテナイやスパルタと並ぶ有力な都市国家だったことが、背景の壮麗な建築や石像などで示される。両目を失ったオイディプス(ちなみに両目を睾丸と解釈する説もある)は、眉根に深い皺を寄せてはいるものの、筋肉質の壮健な身体つきで、髪も髭も黒々としている。確かに当時は十二、三歳で成人扱いであったし、女性もそのくらいで結婚した。となるとオイディプスは十五歳くらいで、二十代後半の母イオカステと結婚したと思われる。幸せな夫婦生活が十数年だったとして、このころの彼はまだ三十代半ばくらいだろうか。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著



    「「怖い絵」展に出品されたリトグラフ『マドンナ』は、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが生涯を通して描き続けた愛、死、性、病、不安、嫉妬、狂気、孤独といった、己の生々しい体験を主題にした作品群のひとつだ(後に彼はそれらを「生のフリーズ(装飾帯)」と呼ぶことになる)。  まだ『マドンナ』を制作する前、そしてもちろん『叫び』も生まれる以前からムンクは前衛画家扱いで、国内での展覧会は酷評の嵐だった。主題も筆致も画面構成も全て、伝統的な歴史画の美意識とは相容れなかったからだ。  チャンスが飛び込んできたのは、一八九二年、二十八歳の時。ベルリン芸術家協会の招聘で個展を開けることになった(理事にノルウェー人がいたおかげらしい)。結果は──故国での酷評をさらに上回り、「ベルリン・スキャンダル」だの「ムンク事件」だのと言われるほどで、展覧会自体も一週間で強制終了させられてしまう。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著


    「世はファム・ファタール時代。彼らのようなタイプにとって、「運命の女」「男を破滅させかねない女」「強烈にセクシャルな女」への怖れと憧れは特段に強く、愛と死が創作の主要テーマになるのも必然だった。  ムンクは友人らの肖像も描いている。ストリンドベリの肖像は油彩をもとに版画も制作しており、そこでは──おそらく故意に──名前のスペルを間違えた上、縁を飾る模様に女性ヌードを描き込んだ(二人はこれを契機に疎遠となる)。プシビシェフスキの場合は単独肖像画の他に『嫉妬』という作品にも登場させ、そこでは親密に語り合う着衣の男と裸体の女(ムンクとダグニー?)を背景に、プシビシェフスキと瓜二つの男が正面を向き、嫉妬に身を焦がす。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「最初は油彩で描かれた。タイトルはムンクが付けたのではなく、本作を購入したオスロ国立美術館館長による命名とされる。ぴったりの名だ。本来マドンナとは「私の女主人」の意だったが、カトリックの伝統で「聖母マリア」を指すようになり、転じて「憧れの女性」という意味でも使われることとなった(夏目漱石の『坊っちゃん』に登場するマドンナなど)。  聖母であり、憧れであり、男を支配する女でもあるムンクのマドンナは、長い黒髪を乱し、目を閉じる。下から見上げる男たちに、その表情は行為のさなかの恍惚とも感じられよう。頭部には聖なる光輪。だがそれは真っ赤で、同じ色が上唇、乳首、臍にもほどこされている。ムンク特有の不穏な流線が彼女を包み込む。背にまわした左腕と上に挙げた右腕は途中で消え、腰から下も切れて、トルソー(四肢のない塑像)のごとき印象を与える。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「『マドンナ』は同時期に描かれた『叫び』とともに彼の代表作となる。  さて、マドンナでありアスパシアでもあったダグニーは、黒仔豚亭の誰を夫に選んだか?  一歳下のプシビシェフスキだった。  先述したように彼には妊娠中の愛人がいた。ダグニーが知らなかったはずはなく、この結婚には当初から暗雲垂れこめていたことがわかる。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

    「エドヴァルド・ムンク(一八六三 ~一九四四)は象徴主義の画家にして、表現主義の創始者とも言われる。『叫び』の世界的知名度の高さは、おそらく『モナリザ』に匹敵するだろう。」

    —『展覧会の「怖い絵」 (角川文庫)』中野 京子著

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    2026年07月31日
  • 名画の謎 対決篇

    Posted by ブクログ

    897円

    ベルトモリゾ

    アーティストはアブサンかウォッカを飲むらしい

    宝塚のファンの人か全員レズとかバイではないし、むしろ彼氏とか旦那さんと来てる人が多いけど、パリのムーラン・ド・ラ・ギャレットがレズの溜まり場になってるのは宝塚がレズの溜まり場になってるのと同じだよね。演者が女しか居ないなんてレズからしたら天国みたいだから。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「現代フランスの作家・美術評論家のドミニック・フェルナンデスは、同性愛者であることをカミング・アウトしている。彼の『天使の手のなかで』(岩崎力・訳、早川書房)は、世界的に著名な映画監督にしてやはり同性愛者だったパゾリーニに、自らを投影した一人称小説だ。パゾリーニが五十三歳の時、町角で「買った」十七歳の少年に惨殺されたことはよく知られている。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ルノワールがムーラン・ド・ラ・ギャレットを描いて二十四年後の一九〇〇年、スペインから若い画家がパリへやって来た。パリでの成功イコール世界制覇を意味したので、各国からうじゃうじゃ集ってきた画家の卵のひとりである。だがスペイン生まれの小柄な十九歳は、卵というには達者すぎる腕前だった。  パリ到着の二ヶ月後、彼はムーラン・ド・ラ・ギャレットへ何度か通い、あっという間に一枚の絵を描きあげる。もとより早描きだった。美術学校入学試験の制作でも、期限が一ヶ月というのにたった一日で描き終えたほどだ。自分が天才だと知っていた。小さなころからラファエロのように描けたと豪語していた。パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダート・ルイス・イ・ピカソという長すぎる名前のこの若者は、傲慢でもあった。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「もうひとりの不肖の息子はセザンヌだ。ゴッホと同じで彼の作品も、同時代人にはなかなか受け入れられなかった。  セザンヌの父は立志伝中の人物である。南仏エクスで帽子屋から身を起こし、輸出で成功し、銀行の共同経営者にまでなった。それは別の言葉でいえば「成金」ということだ。そうとうのやり手と評判だった。  セザンヌは一人息子。妹がふたりいたが、父の期待を一身に担う。エクスは保守的な地域だったので、新興の資本家はややもすると軽んじられたため、父は息子の代でセザンヌ家を名家に引き上げてほしいと願う。銀行を継ぐか、そうでなければ誰もが敬意をはらう職業に就いてもらいたかった。そこで十歳になるとエリート校へ通わせる。  内向的なセザンヌとしては、これはなかなか辛い。名門の子ばかり通う学校で、浮いた存在のまま何年も辛抱せねばならない。幸い、下級生に似たような立場の(ただし逆パターンで、家柄は悪くないが貧しい)少年が入ってきた。居場所のない者どうし仲良くなり、将来は作家になりたいと熱く語る友に触発されて、セザンヌは自分も絵画という夢を追っていいのだと気づく。ふたりは芸術家を気取りはじめ、金銭第一の実業家を軽蔑した。  作家の卵エミールはセザンヌの父を、辛辣にこう評した、「冷淡、臆病、吝嗇。自らの財を拠りどころにして、相手を嘲る」。やがてセザンヌも「わたしの家族はこの世でもっとも嫌な連中」と書くようになる。絵を習うことにいい顔をしない父は、未来を閉ざそうとするわかりやすい敵となった。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「若き日のまばゆい恋を描いた『恋人までの距離(ディスタンス)』( R・リンクレーター監督)では、スーラ作『グランドジャット島の日曜日の午後』のポスターが登場。ヒロインはその夢のような絵の雰囲気に今の自分たちを重ね、素朴な感想を漏らす。また『マルホランド・ドライブ』( D・リンチ監督)の主人公の部屋には、父殺しの罪で斬首された『ベアトリーチェ・チェンチ像』(レーニ画)が掛けられ、謎めいた物語にさらなる謎を投げかける。『タイタニック』( J・キャメロン監督)のヒロインは印象派ファンで、買い集めたドガやモネなどをアメリカ行きのタイタニック号に乗せていた(画家の卵である彼女の恋人の作風が、いかにもアメリカ風なリアリズム一本槍なのが、ちと解せなかったけれど)。一方、『ウォール・ストリート』( O・ストーン監督)の成金男は、ゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス』のあからさまな贋作を社長室に飾り、来客に噓だらけの薀蓄を並べて自慢たらたら。教養のない男という設定かと思いきや、癇癪を起こした時にその絵に八つ当たりして叩き壊してしまったから、偽物なのは先刻ご承知だったのだろう。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「言わずと知れたハムレットの許嫁オフィーリアは、「尼寺へ行け、尼寺へ!」と酷い言葉を浴びせられた上に父を殺され、繊細な神経を傷めつけられた末に、とうとう溺死して果てる。直前に編んでいた花輪とともに、川を流されていったという。「まるで人魚のように川面をただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいたという、死の迫るのも知らぬげに」(福田恆存訳)  シェークスピア作品はさまざまな画家によってこれまでも数多く絵画化されてきたが、ヴィクトリア朝を代表する一人、ミレイ描くこのオフィーリアの愛らしさは別格だ。薔薇、キンポウゲ、ケシ、勿忘草、スミレなどとともに、ぽっかり浮かぶ彼女の左の掌自体も、さながら一つの美しい花のようだ。「死の迫るのも知らぬげに」、彼女は水の上にいる。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 やがてジャーナリズムが隆盛を迎え、誰もが王家の面々を写真で確認できるようになると、王妃の美しさが王室の存続にとって断然有利だとわかってくる。人々の好意的関心が集まるし、時には王の失政をカバーしてくれた。  人は美女というだけで讃嘆する。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「曲がった鼻とただれ目、猫背の痩身、ヒゲを生やし、夜のように老いて醜い女。黒い帽子や黒マントを着ることが多く、猫や蟇蛙などに変身でき、大釜でさまざまな薄気味悪いものを煮て薬を作り、呪う相手を病気にしたり死亡させる。暴風雨をもたらし、植物を枯らし、赤子を攫って喰い、箒の柄に乗って空を飛び、土曜の夜にはサバトという魔女の集会へ行く。また年に一度ヴァルプルギスの夜(五月一日前夜)にはドイツのブロッケン山に集い、悪魔と無礼講の宴会に興じる。  このサバトという言葉は、元来ユダヤ人の安息日を意味していたこと、また殊更に強調される鉤鼻がユダヤ人の特徴とされていたことに、先述した反ユダヤ主義があらわれている。  さらに箒は主婦の必需品であり、同時に男根の象徴でもあるから、魔女の醜さは両性具有になろうとすることからきたと解釈可能だし、淫乱さの証ともされる。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ルネサンス以降の画家で、自画像を残さなかった者はほとんどいない。単独自画像がない場合でも、神話画や宗教画のなかにちょろりと自分を紛れ込ませている。それも当然で、自意識が強いからこそ芸術家であろう。  一方、妻を描いた画家はさほど多くない。ましてや自分と妻がいっしょの画面におさまる夫婦像となると、これはもうよくよくの仲良しに限られる。さらにそれが優れた画家の優れた作品となれば、ルーベンスとレンブラントだけ、と言い切ってもいいのではないか。  ふたりは画風の違いはあっても、共にバロックを代表する画家。現代の国割りだと、アントウェルペン(アントワープ)に自邸を構えたルーベンスはベルギー人、アムステルダムで活躍したレンブラントはオランダ人となるわけだが、これらの地域は長らくスペイン・ハプスブルク領であって、国境は流動的、人種も混交している。両画家の生まれる前後に、激しい独立運動が戦われたのだ。  けっきょくアントウェルペンのあるフランドル(ベルギー西部を中心とし、フランス北部とオランダ南部を含む北海沿岸地域)はカトリック圏にとどまり、アムステルダムのあるネーデルラント(現オランダ)は独立してプロテスタント国になった。その違いは彼らの生き方ばかりでなく、芸術性にも影響を及ぼしている。ルーベンスは国際人としてヨーロッパ中を飛びまわったが、レンブラントはオランダから生涯一歩も出ていない。  共通項は、どちらも市民階級出身であること、裕福な名家の美女をめとり、自他ともに認める幸せな結婚生活を営んだが、その愛妻とは共白髪になるに至らなかったこと(彼女らはまだ若くして先立った)。そのためいっそう、愛の形見の夫婦像が輝きを増すのかもしれない。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ラテン語をはじめとして数ヶ国語を自在にあやつる語学力、古典の教養、上流人士としての立ち居ふるまい、円満な人格──これらは後に外交官として縦横の働きをするのに役立った。優れた経営能力──おおぜいの弟子を抱える彼の工房には、各国の王侯貴族や教会、富裕層から注文が殺到し、巨万の富を産んだ。何よりその輝かしい画才──ルーベンスは画家として空前絶後ともいうべき成功例だ。生前も死後も、人気と作品価格にわずかの翳りもない。「王の画家にして、画家の王」という讃辞もまた揺るがない。  彼の絵からは、自己を肯定し、人生を楽しみ、この世の美を官能的に味わう術を知る者が持つ豊かさが横溢する(成功した人間だからなのか、それともそれは成功する必須要件なのか)。  もちろん不幸が舞いこまなかったわけではない。イザベラは三人の子を産んだ後、三十四歳で疫病(ペスト説あり)に罹り急死、彼を嘆かせた。しかしその四年後、五十三歳のルーベンスは肉感的な十六歳と再婚。彼女のヌードを描きまくり、五人も子どもを産ませ、またまたハッピーになってしまう。なんとまあ。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 夫を描いた画家はごくごく稀。古来、女性画家が極端に少ないのだから当然であろう。  そんななか、もっとも数多く夫を描いたのは、フランス印象派のベルト・モリゾだ。よくよく愛していたからと言えなくもないが、実際のところ女性には描く対象が制限されていた。美術学校へは入学できなかったし、人体構造を学ぶためのヌード・デッサンも禁じられ、ましてモリゾのようなブルジョワ女性は付き添い無しで外出はできず、太陽のもとでの人物像となると自邸の庭での夫や子どもに限られてくる。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 モリゾが画家を目指したのは早い。十四歳の時、「良家のお嬢様のたしなみ」の一つとして、姉とともに絵のレッスンをさせられた。姉妹がたちまち才能の片鱗を見せたのに慌てたのは絵の教授で、彼は親に手紙を出して曰く、このままだとお嬢様がたは画家になってしまう、それは破局を意味します!  働く女性は軽蔑された時代である。こうした反応は驚くにあたらない。だがモリゾの両親はわりあい鷹揚で、娘にやりたいようにやらせることにした。後に姉は絵を諦めて軍人と結婚するが、モリゾは不退転の覚悟で絵筆を握って放さない。一八七四年の第一回目からほぼ全回、印象派展に出品する。  モリゾがウジェーヌのプロポーズを受けたのには、マネの影があったのかもしれない。マネの大反対を振り切っての印象派仲間入りと結婚が、ちょうど重なっているからだ。複数の恋人を持つ魅力的なマネへの報われない愛を、ついにモリゾが諦めたのではないかと推測されている。同時に彼の芸術的影響をも振り捨てたのだと。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「アブサンによる幻覚の凄まじさについては、映画『ライアー』(ジョナス&ジョシュ・ペイト監督、一九九七年製作)で刑事のこんな台詞がある、「アブサンのボトル半分でおかしくなった男を知っている。自分の両脚の皮膚を、果物ナイフで剝いていた。大きなリンゴと信じ込んで」!  ゴッホが耳を削ぎ落とした時も、アブサンを飲んでいたという。自分の胸に銃弾を撃ち込んだ時はどうだったのか?  血まみれになりながら歩いて住まいへ帰ったが(翌日死去)、リンゴと信じて脚を剝いた男と同じく、痛みは感じていなかったのだろうか?  危険なアブサンは、二十世紀に入って欧米のほとんどの国で製造・販売が禁止された。だが二十一世紀に近づき、再び解禁される。とはいえそれは、本作のアブサンとは違う。ニガヨモギの香味成分を一定割合に減らし(それで幻覚は起こらなくなる由)、認可されたものだ。  ウォッカへ進もう。「ウォッカはロシアの全て」という言葉があるほどロシア人に愛される酒で、今なおロシア男性の寿命を縮め続けている(何しろ平均寿命が先進国とも思えぬ六十三歳。同国女性より十歳以上も早死にだ)。  ウォッカの歴史も古いが、現在の形、つまり大麦などを主成分とした無味無臭の、ほとんど水とエタノールのみのような姿となったのは、十九世紀に入ってからという。度数四〇から六〇度のこの酒を、ロシア人は何かを混ぜてカクテルにすることなく、生のままストレートで浴びるように飲む。アルコール耐性度が高いから、いくらでも飲める。いくらでも飲めるから限度を知らず、身体を毀すまで飲んで命を削る。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「モンドリアンが行ったころの花の都はキュビズムが席巻しており、彼も影響を受けて、対象を抽象化した作品を手掛けるようになる。  三年目の一九一四年、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争が勃発。やむなくオランダへ帰国し、さらに抽象を推し進めて独自の展開に至る。それが秩序と比例と均衡の美、要するに主題や感情どころか斜線や曲線や立体感までも排除し、水平線と垂直線のみから成る幾何学的画面構成に原色を配するという、極端な単純化であった。  融通のきかない男というべきか、これと決めたら命がけの態で(ちとゴッホに似ている)このスタイルを貫き通し、『新しい造形』という著書も出して自らの芸術を理論化した。彼の作品はデザイン界へ大きな影響を与えたが、絵画の袋小路に入り込んだと見做す人も少なくなく、ダリなどは「明確で的確で素晴らしいが、『絵』が欠けている」と辛辣だ。  モンドリアンは居場所を転々とした。オランダ帰国後、再び一九一九年にパリへもどったが、一九三八年にはヒトラーを嫌ってロンドンへ逃れた。一九四〇年、ロンドン爆撃(第二次世界大戦)でアトリエは焼失。六十八歳の彼はそこからも逃れざるを得ず、新大陸へ渡った。ニューヨークだ。そしてたちまちこの若々しい街の魅力にノックアウトされる。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「恋は通じる。ニューヨークもまたこの独身の、さほど有名ではない老オランダ人画家を歓迎した。モンドリアンは生まれて初めて個展を開くことができ、絵も高値で売ることができた。アメリカという国は伝統の無いのが逆に強みで、感性さえ合えば何でも認める度量の広さがあり、印象派ほど熱烈ではないにせよ、モンドリアンの「冷たい抽象」もすんなり受け入れたのだ。  ニューヨーク生活は天国だった。モンドリアンはディズニー映画とブギウギに夢中になり、ナイトクラブで踊りまくる。相変わらず生真面目な教師然たる顔つきで、しかも相手の女性には何の関心も向けぬまま、激しいリズムに乗って複雑なステップを踏んだ。意外にも彼は──人は見かけによらぬもの──若いころからずっとダンスが趣味で、アトリエで独り練習を積んでいたほどだ。そうとう上達していたようで、老いを感じさせなかったらしいが、それにしても現代の感覚で言えば、高齢の外国人がブレイクダンスを踊るのに近いから、やんやの喝采だっただろう。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「本作は多分にタイトルの勝利と言える。だがデュシャンが男子用便器を『泉』、ピカソが自転車のハンドルを『牡牛の頭部』と命名して出品したのとも異なり、その場限りの驚きには終わっていない。数々の劇場が建ち並ぶブロードウェイというエンターテインメント産業の街が、モンドリアンの幾何学的表現を通して見事にぴったりのイメージへ転じている。線と色だけの平面から、車のエンジン、人声、音楽といったさまざまな音が立ちのぼってくるようだ。ましてニューヨークを実際に知っていれば、また映像などで見たことがあれば、なおのこと、この絵がブロードウェイを高みから俯瞰した光景に思えてこよう。感情を排したはずのモンドリアンなのに、アメリカンドリームを手にした歓びと、自由でうきうきした気分をはからずも伝えている。  彼はアメリカ永住を考えていた。だがニューヨークに住んで三年半足らずで肺炎に罹り、あっという間に世を去った。いま少し長生きできていたら、ダリ曰くの、「欠けていた絵」を描く気になったろうか。そうは思えないが、しかし死の床で「もっと早くニューヨークに来ればよかった」と悔やんだのは確かだろう。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「戦火のヨーロッパから逃れて来たオランダ人が、アメリカンな大都会の明るい側面にしか目を注がなかったのに対し、ニューヨーク近郊生まれのアメリカ人ホッパーは、都会の孤独や不安を抽象ではなくリアルなタッチでくり返し描いた。  服地店の息子として生まれた彼は、早い時期から画家を志し、ニューヨークの美術学校を卒業した後、三度もヨーロッパへ勉強に行っている。しかし流行の抽象画は肌に合わず、帰国して発表したリアリズム絵画は古臭いと酷評された。仕方なく広告のイラストで生計を立てるかたわら水彩画を描き、四十代で大成功を収め(個展に出品した水彩画は即完売)、ようやく経済的に落ち着いて好きなものを描ける身となった。それでも生前の彼はあくまで水彩画家であり、油彩画はほとんど売れなかった。アメリカを代表する画家という名声は、死後のものである。」

    —『名画の謎 対決篇 (文春文庫)』中野 京子著


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    2026年07月30日
  • 災厄の絵画史 疫病、天災、戦争

    Posted by ブクログ

    1089円

    221P

    ポールドラローシュ大好き

    確かに美術のモチーフでも日本で骸骨のモチーフはまず見ないけど、西洋美術で骸骨のモチーフは見まくるな。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「洪水伝説の多くは神罰に関連づけられている。治水のままならなかった時代の洪水は、そうとでも思わなければ対処できないほどの惨劇だったに違いない。現代でさえそうだ。 3・ 11を経験した我々日本人にはよくわかる。神の怒りというのは、結局は人間に制御不能な大自然の猛威の意なのだ。自然は突然、牙をむく。その時犠牲になった人々が悪いわけではない。  しかしそれでもこうは言える。ノアのように不測の事態に備えておくことで身を守れたかもしれない。また一度死んでも、再び立ち上がる力が蘇ってくるかもしれない。ミケランジェロが描いた助けあう人々の姿、ミレイが描いた一筋の希望。これらの絵は、被災者の胸にも響くものなのだろうか……。少しはそうであってほしい。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「なぜ人骨であふれているのか  ヨーロッパには骸骨寺やカタコンベ(地下埋葬所)があり、観光名所にもなっている。そこは人骨がひしめき(場所によっては数万体)、髑髏や骨を組み合わせて作ったシャンデリア、楽器、紋章などが飾られている。文化の違う者にはそうとうな驚きで、死者への冒涜と思えるほどだが、欧米人にとっては火葬のほうがよほど残酷と映るらしい。キリスト教的考え方だと遺体は死後の復活に必要なので、あくまで土葬でなければならない。  それにしても西洋絵画は──髑髏を抱く聖人や、骸骨姿の死神など──どうしてこんなに人骨であふれているのだろう?  いや、その前に、なぜヨーロッパでは、実際にこれほど大量の人骨が残っているのだろう?  土壌なのだ。土壌が違う。  日本の土は(砂地を除いて)概ね火山性で酸性度が高いため骨を溶かす。一方、ヨーロッパの土の多くはアルカリ性か中性のため、いつまでも骨は形を崩さずに残る。つまりふだんから骨を目にする機会が多かった。とりわけパンデミックが発生して遺体を埋める余裕がなくなった場合がそうだ。  骸骨寺の誕生も、ペストの産物という。あまりにたくさんの死者が出て個々の墓が不足し、おまけに誰の骨かもわからなくなれば、一カ所にまとめるしかない(だからといって装飾品にする感覚は、理解不能だが……)。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「日本の土は(砂地を除いて)概ね火山性で酸性度が高いため骨を溶かす。一方、ヨーロッパの土の多くはアルカリ性か中性のため、いつまでも骨は形を崩さずに残る。つまりふだんから骨を目にする機会が多かった。とりわけパンデミックが発生して遺体を埋める余裕がなくなった場合がそうだ。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「笑いと恐怖は相性がいいのだ。ホラー映画はそれを熟知しており、小さな恐怖が即座に笑いで否定された後、本物の、身も凍る恐怖が押し寄せてくるパターンはおなじみだろう。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「さらにはなんとフランスが──カトリック国でありながら国益優先(ブルボン家としてはハプスブルク家を弱体化させたい)とばかり──プロテスタント側についたのだから驚きだ。  主戦場となったドイツは町も村も無残に荒廃し、終戦後の人口は半減ないし三分の一減(中世のペスト禍なみ)、経済は停滞し、後進性は定着し、プロイセンにフリードリヒ大王が登場するまで、無数の弱小国の寄せ集まりのまま大国の草刈り場状態になった。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「最晩年のレンブラント作品の中のサドル鼻の男  十七世紀黄金時代のオランダに生まれた天才画家レンブラント・ファン・レイン( 1606 ~ 1669)も、最晩年に梅毒の男(『ヘラルド・ド・ラレッセの肖像』)を描いている。だがデューラー作品と違い、レンブラントが描いたのは実在の同時代人。この時には相手が梅毒とは気づかなかった可能性がある。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「フランドル出身の不世出の画家ピーテル・パウル・ルーベンス( 1577 ~ 1640)が、「王の画家にして、画家の王」と謳われたのはよく知られている。各国の王侯貴族からの注文がひっきりなしだったこと、また当時のヨーロッパ画壇に紛れもない「王」として君臨したことが異名の由来だ。  アントウェルペンに大工房を構え、宗教画、歴史画、神話画、肖像画などありとあらゆるジャンルで傑作を生み、生前から現代に至るまで人気は衰えることがない。貴族ではなかったが貴族風の物腰、温和で誠実な人柄、気品ある容姿、当時の教養語たるラテン語をはじめとして七カ国語に精通、良き夫であり良き父、優れた経営能力、そして圧倒的画才。  さらに一時期ルーベンスは、外交特使としても活躍した。彼の国際的人気を頼みにしたスペイン・ハプスブルク朝のフェリペ四世(この頃フランドルはスペイン領)の依頼で、敵国イングランドとの交渉に力を尽くしたのだ。これによりルーベンスは、フェリペ四世とイングランド王チャールズ一世それぞれからナイト爵を授かっている。  そして一連の和平交渉の記念としてチャールズ一世に贈呈されたのが、次ページの『平和と戦争』( =『マルスから平和を護るミネルヴァ』)だ。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「 ルーベンス没後二世紀を経て制作されたのが、ロシアでもっとも著名な戦争画家であり、日本とも少なからぬ因縁(後述)のあるヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・ヴェレシチャーギン( 1842 ~ 1904)の『戦争礼賛』(扉絵)だ。  ロマノフ王朝下の帝政ロシアに生まれたヴェレシチャーギンは、ペテルブルク海軍士官学校を出て軍人となるが、絵画への思い止みがたく、帝国芸術院に再入学。次いでパリに留学し、ロシアへもどった後も世界各地を旅して異国の風俗画をものしつつ、従軍画家としても活動した。彼が常々主張していたのは、戦争を描くのなら双眼鏡で覗くだけではだめだ、兵士と同じように飢えや病気や負傷も経験せねばならない、ということだった(その言葉どおり、露土戦争では重傷を負っている)。  またこんなエピソードも残されている。戦時特派員の目撃談だが、バルカン半島の激戦地で弾が飛び交い、撃たれて倒れる兵士がおおぜいいる中、ヴェレシチャーギンは戦場全体を見渡せる場所で小さな折りたたみ椅子に座ってスケッチを続けていたという。海軍学校での訓練や実戦体験があったにせよ、彼には真の肝の太さが備わっていたのだろう。  戦場をテーマにした数多の作品のうち、「トルキスタン戦争」シリーズが世界的に知られているのは、ロンドンの展覧会に出品されて各国の評論家の目に触れたことにもよる。シリーズ中の一点が『戦争礼賛』で、ヴェレシチャーギンの代表作でもある。当時も斬新さで評判を呼んだが、百五十年を経てなお古びていない。現代の画家が描いたアフガン戦争のアレゴリー、と言われてもなんら違和感がないのではないか。時空を超えた普遍性をもつゆえだ。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著


    「 ルーベンス没後二世紀を経て制作されたのが、ロシアでもっとも著名な戦争画家であり、日本とも少なからぬ因縁(後述)のあるヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・ヴェレシチャーギン( 1842 ~ 1904)の『戦争礼賛』(扉絵)だ。  ロマノフ王朝下の帝政ロシアに生まれたヴェレシチャーギンは、ペテルブルク海軍士官学校を出て軍人となるが、絵画への思い止みがたく、帝国芸術院に再入学。次いでパリに留学し、ロシアへもどった後も世界各地を旅して異国の風俗画をものしつつ、従軍画家としても活動した。彼が常々主張していたのは、戦争を描くのなら双眼鏡で覗くだけではだめだ、兵士と同じように飢えや病気や負傷も経験せねばならない、ということだった(その言葉どおり、露土戦争では重傷を負っている)。  またこんなエピソードも残されている。戦時特派員の目撃談だが、バルカン半島の激戦地で弾が飛び交い、撃たれて倒れる兵士がおおぜいいる中、ヴェレシチャーギンは戦場全体を見渡せる場所で小さな折りたたみ椅子に座ってスケッチを続けていたという。海軍学校での訓練や実戦体験があったにせよ、彼には真の肝の太さが備わっていたのだろう。  戦場をテーマにした数多の作品のうち、「トルキスタン戦争」シリーズが世界的に知られているのは、ロンドンの展覧会に出品されて各国の評論家の目に触れたことにもよる。シリーズ中の一点が『戦争礼賛』で、ヴェレシチャーギンの代表作でもある。当時も斬新さで評判を呼んだが、百五十年を経てなお古びていない。現代の画家が描いたアフガン戦争のアレゴリー、と言われてもなんら違和感がないのではないか。時空を超えた普遍性をもつゆえだ。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「 ルーベンス没後二世紀を経て制作されたのが、ロシアでもっとも著名な戦争画家であり、日本とも少なからぬ因縁(後述)のあるヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・ヴェレシチャーギン( 1842 ~ 1904)の『戦争礼賛』(扉絵)だ。  ロマノフ王朝下の帝政ロシアに生まれたヴェレシチャーギンは、ペテルブルク海軍士官学校を出て軍人となるが、絵画への思い止みがたく、帝国芸術院に再入学。次いでパリに留学し、ロシアへもどった後も世界各地を旅して異国の風俗画をものしつつ、従軍画家としても活動した。彼が常々主張していたのは、戦争を描くのなら双眼鏡で覗くだけではだめだ、兵士と同じように飢えや病気や負傷も経験せねばならない、ということだった(その言葉どおり、露土戦争では重傷を負っている)。  またこんなエピソードも残されている。戦時特派員の目撃談だが、バルカン半島の激戦地で弾が飛び交い、撃たれて倒れる兵士がおおぜいいる中、ヴェレシチャーギンは戦場全体を見渡せる場所で小さな折りたたみ椅子に座ってスケッチを続けていたという。海軍学校での訓練や実戦体験があったにせよ、彼には真の肝の太さが備わっていたのだろう。  戦場をテーマにした数多の作品のうち、「トルキスタン戦争」シリーズが世界的に知られているのは、ロンドンの展覧会に出品されて各国の評論家の目に触れたことにもよる。シリーズ中の一点が『戦争礼賛』で、ヴェレシチャーギンの代表作でもある。当時も斬新さで評判を呼んだが、百五十年を経てなお古びていない。現代の画家が描いたアフガン戦争のアレゴリー、と言われてもなんら違和感がないのではないか。時空を超えた普遍性をもつゆえだ。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「ただし天然痘は免疫性も高かった。つまり一度罹れば二度と罹患しない。そこに気づいたインドでは、なんと紀元前一〇〇〇年ころには予防のための人痘法が行われた。患者の膿を乾燥させて弱毒化した後、健康な人間の皮膚に接種して軽い発症を促すのだ。ただしこの人痘法は死亡率が二パーセントと高いのが難点で、十八世紀初頭には欧米でも知られてはいたものの、なかなか普及しなかった。  そんな中、一七六八年にロシアの女帝エカテリーナ二世が自分と皇太子に接種したのはさすがの早さだ。その二年後、デンマーク宮廷で天然痘が流行した時、侍医ストルーエンゼの勧めで二歳の王太子(後のフレデリク六世)が接種した。宮廷中が大反対し、神学者でもある顧問官などは「神の意志への反逆だ」と糾弾したため、ストルーエンゼはまさに命がけの進言だった(これに関しては拙著『残酷な王と悲しみの王妃 2』[集英社文庫]参照)。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「何にせよ、天然痘は一九八〇年に根絶宣言。現在はワクチン接種も無い。これほどみごとな疫病退治に貢献したジェンナーが、なぜノーベル医学生理学賞を取っていないのかって?  答えは簡単。まだアルフレッド・ノーベルは生まれていなかった。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「さて、この遠征におけるナポレオンの功績は、古代エジプト研究を飛躍的に高めたことだ。彼は愛読していたゲーテの『若きヴェルテルの悩み』を持参するとともに、学者の一団をもエジプトへ引き連れていった。ロゼッタ・ストーンもそこで発見された。そしてその貴重な遺物をフランスへ持ち帰ることに何の躊躇もなかった。  それは勝者の権利なのだ。後にイタリアやスペインで名画の数々を、ドイツではブランデンブルク門の「勝利の女神像」をも奪うことになる(ルーヴル美術館や大英博物館が「泥棒美術館」と呼ばれるのは故無しとしない)。  エジプトの翌年はシリア。勝利はしたものの、この地ではペストが流行し、犠牲は大きかった。ナポレオンの従軍画家アントワーヌ =ジャン・グロ( 1771 ~ 1835)による『ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン』の完成は、シリア遠征から五年後だ。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

    「そして結核は、凡人よりむしろ美しい繊細な女性や才能ある若き芸術家を狙い撃ちすると信じられた。確かに多くの芸術家の命を奪ったのは間違いない。列挙してみよう。(  )内は死去した時の年齢。  詩人・作家:キーツ( 25)、正岡子規( 34)、カフカ( 40)、チェーホフ( 44)、シラー( 45)、オーウェル( 46)  画家:ビアズリー( 25)、青木繁( 28)、ジェリコー( 32)、モディリアーニ( 35)、ヴァトー( 36)  音楽家:瀧廉太郎( 23)、ベッリーニ( 33)、ヴェーバー( 39)、ショパン( 39) etc.  ロマン主義に浸る当時の頑健な芸術家が、胸を病む芸術家に向けた視線の例を二つあげておきたい。ドイツを追われたユダヤ人の詩人ハイネは、パリ社交界でもてはやされていたイタリア人作曲家ベッリーニと出会い、彼が人気を得るため結核を装っていると邪推し、君はもうじき死ぬぞ、と何度も意地悪くからかって喜んでいた(ほんとうに末期にきていたベッリーニはまもなく死去)。一方、若き日のヴァーグナーはヴェーバーの『魔弾の射手』に熱狂し、結核による彼のスリムな姿を高貴さと結び付けて憧れた。」

    —『災厄の絵画史 疫病、天災、戦争 (日経プレミアシリーズ)』中野京子著

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    2026年07月31日
  • そして、すべては迷宮へ

    Posted by ブクログ

    950円

    247P

    メーリアン、

    中野京子さんのファンだから、中野京子さんの本30冊ぐらい買った。ほぼ文庫か新書になってるから、1冊単位が安いから有難い。

    この本は敬愛する中野京子さんの読んでる本が知れて最高だった。やっぱり幼い頃から活字中毒らしい。

    ヨーロッパの部屋の照明が暗い理由って瞳の色が違うから、ヨーロッパの人にとっては別に暗くはないって事実初めて知った。私は碧眼ではないけど、日本の照明明るすぎる気がして苦手なんだよね。特に蛍光灯の白い光が疲れるから好きじゃない。家帰ったら目を休めたいから真っ暗にしてた。

    私もやたらとゴッホを生前評価されなかったからみたいな感じで同情と判官贔屓的に人気がある感じあんまり好きじゃない。ゴッホはドラマが付加されて皆それを見てるだけなんじゃないかと思ってる。ルーヴルで自撮りしかしてないおめえらは、ちゃんと作品を公平に見てるのかな?

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。


    「ロシアを訪れたのは、 2001年(あの 9・ 11事件は帰国の翌日だった)。「チャイコフスキー」と名付けられた飛行機で、夕方モスクワへ到着。ホテルは「赤の広場」の近くだったので、その足で聖ワシーリー大聖堂を見に行った。ライトアップされた玉ねぎ坊主頭の教会は幻想的で、建築を命じたイワン雷帝が、二度とこのような美しいものを造らせないようにと設計者の眼を潰した、との伝説が生まれたのも無理からぬ、と思えるほどだった。  そのイワン雷帝を描いたレーピンの傑作は、トレチャコフ美術館所蔵である。なのに当時のわたしはなぜか勘違いし、ペテルブルクのエルミタージュ美術館蔵とばかり思い込んでいて、トレチャコフへは、ルブリョフ作品を目当てに出かけた。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「新しい芸術は新しいパトロンのもとで生まれるという。だがもちろん、新しい芸術が逆に新しいパトロンを産むこともある。 19世紀後半、フランスで起こった印象派の絵画革命がその好例だ。  当時、画家が絵だけで自活するには、アカデミー会員(美術学校の教授や批評家など)に認められ、毎年の国家行事たるサロン(官展)で作品を展示してもらう必要があった。サロンの常連となれば、美術館やブルジョワジーが高値で購入してくれる。  誰もがサロンを目指した。けれど応募しても応募しても落選ばかりの貧乏画家たちは、ついに結論を出す。アカデミーの好む絵と自分たちが追求する絵は違う。違う土俵で勝負はできない。自主発表会(後に「印象派展」と呼ばれた)を毎年開き、購買者を開拓しよう。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「18世紀末まで、彼女の作品を所有することがステイタスシンボルとされた。ところがその後、分類や解剖こそ正しい科学的態度とみなされはじめ、同時に美術と科学が完全に分離したことで、名声にかげりがさしだした。パイオニアとしての業績は故意に無視され、解説文中の巧みな比喩──「おむつをした赤ちゃんのよう」「シャツをくるんと脱ぐみたいに脱皮」──が、およそ科学的でないと冷笑された。  そこには明らかに、〈女は科学と無縁である〉と主張したがる意図が働いていたのだが、こうして研究者としての価値がおとしめられるとともに、画家としての彼女も忘れられていった。  そしてまた新しい時代の波がきた。 20世紀後半からメーリアンの絵は、芸術と科学の幸福な合体と再評価されはじめている。自然を丸ごととらえるその捉え方も、現代の環境問題に対する意識とリンクしていよう。彼女の作品が日本でももっと多くの人の目に触れることを願ってやまない。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「イギリス風景画の巨匠ターナーは、今も本国で絶大な人気を保持している。 2005年に BBCラジオがおこなった「イギリスで見ることのできる最も偉大な絵画は何か?」というアンケートで──ベラスケスやルーベンスを差し置いて──約 12万人の回答者による第 1位作品が、『解体のため錨泊地に向かう戦艦テメレール号』だった。ターナーの色彩家としての頂点を示すばかりでなく、イギリス人好みの物語的要素をも含む代表作である(拙著『運命の絵』参照)。  落日の中、大型帆船テメレール号が曳航されてゆく。昔日のトラファルガー海戦においてナポレオン軍から勝利をもぎとった、いわば英雄艦。しかし時の流れとともに老朽化し、ついに解体が決まる。幽霊船のように影の薄いテメレール号を曳くのは、小さな、だが黒々と力強い近代的な蒸気船だ。盛大に炎と煙を上げている。当時の新聞は本作をこう評した、「まるで一人の人間の晩年を見るようで、痛切きわまりない」。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「ターナーといえば、旅である。頑健そのものの体力にものをいわせ、一日 30キロ以上歩き続けて疲れを知らなかった。 10代から最晩年までの 60年近く、毎年必ず長期の旅に出た。国内はもちろん、スコットランド、アイルランド、スイス、フランス、オランダ、イタリア、ドイツ、オーストリア、チェコ……気に入った町は幾度も訪れた。スケッチ帖は膨大な数になる。当時はもちろんまだ戸外での油彩制作はできないので、鉛筆やペン、時に水彩で写生し、帰宅してからアトリエで記憶を頼りに自然光の移ろいを再現し、景色を再構成したのである。  アルプスの威容を目の当たりにした成果は、『吹雪──アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』に結実した。自然の非情を前に人間の営みなど全く無力であることが、圧倒的迫力で描出される。古代の英雄ハンニバルを背に乗せた戦象も豆粒ほどだ(この象を探す楽しみも鑑賞者に与えられている)。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「ルーベンス( 1577─1640)が「王の画家にして、画家の王」と讃えられたのは、ヨーロッパ中の王侯貴族がこぞって彼の絵を欲しがったからであり、また 17世紀バロック時代に王者のごとく君臨したからだ。  さらにルーベンスは「幸せな画家」とも呼ばれた。人好きする容姿、貴族的立ち居ふるまい、温厚な人柄、円満な家庭、努力を厭わぬ精神、 7カ国語をあやつる語学力、古典の素養、優れた経営能力、契約の順守と迅速な仕事ぶり、何よりその輝かしい画業!  こうした多才ぶりから外交官としても活躍したし、おおぜいの弟子や助手を抱える彼の大工房は巨万の富を生んだ(残された資料から、ルーベンス工房は弟子志願者を 100人以上断ったほどの人気企業だったとわかる)。作品への評価は生前も死後も全く変わらず、欧米のルーベンス所有者が所蔵品を誇るのも当然だろう。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「 学生時代、ドイツ留学中の友人宅にしばらくやっかいになったことがある。そこは古い集合住宅で、エントランスはいつも薄暗かった。おまけに階段部は常に消灯してあり、階上へのぼるときは壁のスイッチを押さねばならない。スイッチを押すと天井の電気が、やはり薄ぼんやりと点くのだが、 2階分ほど上ったあたりで自然に消えてしまう。そこでまた壁を手探りしてその階のスイッチを押し……と、くり返してやっと 5階の彼女の部屋へ辿りつく。  不便といったらありはしない。  同じ建物で顔見知りになったドイツ人に、スイッチの場所が見つけにくくて困りますよね、と挨拶がわりに言うと、そんなことはない、このやり方は合理的だ、と返事がかえってきた。さすがケチと名高いドイツ人だけあると感心した。  それからずいぶん月日が流れ、知人のドイツ人が我が家へ遊びに来た。夕方になり、室内にも闇が近づいてきたので電気を点けると、まだ外は明るいのにもったいない、フロアスタンドだけで充分だと言われた。他人の家の電気代まで考慮してくれるとはさすがドイツ人、と以前と同じ感想を持った。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「たまたま医学雑誌をめくっていた時だ。アジア人の黒い眼と欧米人の青い眼の違いについて書かれていた。彼らは暗い照明でも平気なのだという。いや、「暗い」というのは我々黒目の人種が感じるだけで、彼らにはちっとも暗くない。彼らにちょうどよい明かりは我らに暗く、我らにちょうどよい明かりは、彼らには眩しいのだ!  なんだ、そんな単純な話だったのか!  大人の雰囲気だの、ロマンティックだの、そんなものはこちらの思い込みで、彼らにはあたりまえの明るさというにすぎなかった。どうしてもっと早く気づかなかったのか。だいたい青い眼の一族は太陽の眩しさに耐えきれず、真夏はサングラスをかけている。一方、黒い眼の一族たる我々は、ぎらつく日の下で存外平気だ。そのことはとっくに知っていたのに、室内照明にまで思い至らなかったのが口惜しい。薄暗い欧米ホテル、イコール高級感、との刷り込みが強烈だったからに違いない。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「19世紀末のパリ。小高いモンマルトルの丘では、かつての僻村の名残たる風車をトレードマークにしたキャバレー「ムーラン・ルージュ」(「赤い風車」の意)が大勢の客を引き寄せていた。人々は着飾って酒を飲み、ホールで踊り、娼婦を物色した。何より熱狂したのは、プロのダンサーたちが踊るダイナミックで猥雑なシャユー( =カンカン)だった。  開店はエッフェル塔が建設された年と同じ、 1889年。 2年後にはロートレックのポスター『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』が発表されて大評判となり、店の人気に一役も二役も買った。「ポスターを芸術の域へ高めた」と讃嘆されたこの 4色刷リトグラフは、文字、人物、色彩の配置が大胆、かつ斬新で、今なおデザイン性の高さと魅力を失っていない。  中央で足を高く上げ、スカートをひるがえして激しいカンカンを踊るのが、タイトルのラ・グリュ(「大食い」の意)。モンマルトルのスター・ダンサーだ。手前には相手役の特異なシルエット。極端な鷲鼻、突き出た顎、山高帽をかぶり、どこかくねくねして見える。彼もまたダンスの名手として知られていたが、どれほどアクロバティックに踊ったかは、そのあだ名を聞けば想像できる。「骨なしヴァランタン」というのだった。  本ポスターで一躍脚光を浴び、その後も骨なしヴァランタンを何度か描いたロートレックは、自身、骨に難を抱えていた。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「正式名は、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ゠ロートレック゠モンファ。 8世紀のシャルルマーニュ(カール大帝)時代までさかのぼれるほど、名門中の名門伯爵家の御曹司。おそらくプロの画家としては、空前絶後の身分の高さだ。領地管理は別として、実質的な労働で金銭を得るのは恥と思う大貴族が、いったいどうして画家になったかといえば、これまた骨に関係している。  ロートレックの身長は、せいぜい 152センチ程度。ただし生まれつきの小人症ではない。上半身はごく普通の成人男性なのに、下半身がまったく成長できず極端に短い。写真も残っており、尊大な父親にとっては期待外れの息子だったろうし、本人も階級と身体の齟齬に激しく悩んだはずだ。何しろヨーロッパでは、日本のいわゆる「蒼白きインテリ」の存在は認めず、エリートは頭脳明晰と頑健な肉体がセットというイメージがある。背の高さは地位身分の証なのだ。そこから外れるのは辛い。  しかしロートレックの場合、まさにその不幸のおかげで自由を得、好きな絵の道へ進むのを許された。もし彼が普通の体格であったなら、伯爵として長生きはしても歴史に名は残らず、フランス美術史も欠落感を覚えたことだろう。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「ロートレックの年表では、 14歳で椅子から落ちて左大腿骨骨折、 15歳で道端の溝にはまって右足を骨折し、以後成長が止まったと書いてあることが多く、転倒が原因のように誤解されがちだが、そうではなく、逆だ。濃化異骨症に罹患していたため、骨折しやすかったのだ。これは常染色体異常による、きわめてまれな遺伝性疾病であり、名家に多い血族結婚が(連載第 1回で書いたハプスブルク家と同じ)原因とされる。ロートレックの両親も従兄妹婚であった。  肉体的ハンディにより上流階級に溶け込めず、中産階級にも溶け込めないロートレックは、ダンサーや娼婦、サーカス芸人といった下層階級に受け入れられた。彼らもまた自分の居場所に違和感を抱く人々だったから、互いを理解しやすかったのかもしれない。ほかの画家なら踏み込めないような彼らの日常へ深く入り込み、裸の下半身をさらして性病検査に並ぶ娼婦や、レズビアンの生態までも生々しく描いた。達者な絵筆でリアルに表現されたそれらの作品は、当時のパリの深い闇の部分を容赦なく抉る、まさにゾラの小説の絵画版といったところだ。  ロートレックは長生きできなかった。毎夜の深酒が肉体を蝕んでゆき、アルコール中毒と梅毒で 36歳の短い命を終える。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「 ヨーロッパではこのようなヴァニタス絵画が山ほど描かれてきた。全人口の 3分の 1を死滅させた中世のペスト禍の影響が大きいと言われる。そしてこうしたメメント・モリ( =死を忘れるな)には、必ずといっていいほど骸骨ないし頭蓋骨が登場する。絵画ばかりでなく、実物の骨を大量に飾った骸骨寺も各地にあるし、書斎に頭蓋骨を置物とするのが流行した時代もあった。日本人としては「死者を冒涜しているのでは」と驚くほかないが、彼らに言わせると遺体を焼却するほうが残酷の由。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「かつて「働く女性」が軽蔑されていた時代があった。働くのは働きたいからではなく、働かねばならない惨めな境遇だからと考えられていた。男性に頼らず自立したいとか、自己実現を目指して、などという女性の思いは歯牙にもかけられなかった。  そんな風潮が殊のほか強かった、イギリスはヴィクトリア朝時代。がちがちの階級社会の上層に位置した女性たちは、父の財産に守られて育ち、次いで夫の財産に守られて暮らし、最後は夫の遺産に守られて余生を過ごすのが「真っ当な道」と強制された。許されるのは、ボランティア活動に限られていた。  富裕なジェントリー階級ナイチンゲール家の次女フローレンスが、看護婦になりたいと夢を語ったとき、周りの誰ひとり本気にしなかったのも無理はない。まして当時の看護婦といえば、何の知識も技量もいらない末端の召使であり、不潔で下品な飲んだくれの老女、と見做されていた。事実、老いた娼婦が看護婦になる例が多かった。「白衣の天使」というイメージは、まだどこにもない。それは他ならぬナイチンゲール自身が、このさき創りあげてゆくイメージなのだ。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「総じて日本人は宗教問題に関心が薄く、世界史の授業でもカトリックとプロテスタントの違いについて詳しく教えない。両者が何世紀にもわたり、文字どおり血みどろの戦いに明け暮れていたことなども、さらりと触れる程度だ。まして暦にまで影響を与えた事実は教科書にも載っていない。少なくともわたしは高校の授業で習わなかった……気がする。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「現代日本人アーティストとしてもっとも国際的に活躍し、評価されているのは村上隆氏だろう。『五百羅漢図』に見られるように、魅力的だがきわめて癖のある強烈な作風なので、好き嫌いがはっきりするのはわかる。だが彼を「商売人」と批判する見方には違和感がある。  画家に対するこの言葉からは、三つの意識が透けて見える。一つ目は、商人は画家より「偉くない」との、まるで江戸時代を引きずっているかのような士農工商的意識。二つ目は、多くの人に支持される作品は価値が低いとの思い込み。三つ目は、本物の芸術家は──ゴッホのイメージで──世間的成功を目指さない、というロマン。  最初の二つについてはいつかどこかで書くとして、とりあえず三つ目についての誤解を解きたい。  幼児のお絵描きならいざ知らず、いやしくもプロの画家で、自作が売れなくてもよいと思う呑気者はどこにもいない。自作に支払われる報酬の多寡は、評論家の褒め言葉よりずっと自信になる。ゴッホも同じだ。彼は売れないのに描き続けたのではなく、必ず売れると確信して描き続けたのだ。弟テオの画廊を通じ、売るための努力もしている。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「超のつく真面目人間だった伝道師もまた、何とか人々を救いたいと禁酒運動にのめり込む。どうして酒をやめられないのか──当時の一般的な考え方はアルコール依存と犯罪者はイコールで、それは生まれつきだ。しかし彼はそう思わなかった。自分も貧しいので貧しい者の気持ちがよくわかる。連日の激しい肉体労働の後、憂さを晴らさねばやっていられない。では同じ境遇の自分が酒を飲まないのはなぜか。信仰が支えになったから──そう結論づけてしまえば話は終わる。伝道師は冷静に自己を顧みた。辛い日々の慰めになったのは、伝道のためとはいえ各地を歩き巡り、はからずもそれが観光になったからだ。観光は安酒より確実に人を癒やす。  ちょうど汽車が普及し始めていた。彼は自分で鉄道会社と交渉し、自分で広告を打って参加者を募る。使命感にあふれ、行動力に優れ、その上アイディア・マンでもあったのだ。こうしてレスターからラフバラまでの 11マイル(約 18キロ)の汽車旅に禁酒大会というイベントを組み合わせ、往復わずか 1シリング(農民の 1日分の賃料)のパック・ツアーができあがる。車両は屋根なしの吹きさらしで、椅子無しだが、それでも 500人以上の乗客を興奮の嵐にして、ツアーは大成功だった。  上流階級の子弟が何カ月も何年もかけて異国を修学するグランド・ツアーならいざ知らず、下層階級の観光旅行など想像もされていなかった時代である。いかに画期的だったかわかろうというもの。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「そういえば、元タカラジェンヌと雑誌対談をした際、こんな驚きの話も知った。宝塚の演目でギロチンが出てくる場合、その作り物の処刑台に加え剣や銃などもまとめて、舞台上で神主さんにお祓いをしてもらう由。  それもこれも、劇場といういわば一夜の幻を現出させる装置が巨大で複雑で事故も多く、激しい人間感情が渦巻いて凝ってしまった場だからかもしれない。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「恋愛はロマンティシズム、結婚はリアリズム、子育てはクソリアリズムだそうだ。なるほどね。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「物心つくころから活字中毒で手当たり次第に読んできたが、だんだん二通りの読書になってきた。一つは自分の仕事に直結する美術や西洋史関連のもの。もう一つは別世界へワープさせてくれるエンターテインメント。  思えば、人生論を語るエッセーや身辺に題材を取った私小説などは苦手だった。平凡な暮らしを送っているせいで、非日常的作品しか面白いと思えない体質(?)になったらしい。  そんな次第だからフレデリック・フォーサイスは大好物。とりわけ『ジャッカルの日』は寝る間も惜しんで読んだ。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「旅のお供には、いちおう仕事がらみの本を持ってゆく。ただしそうした本には眠りの精がくっついているらしく、数ページ読むと必ず瞼が重くなる。それを見越してミステリか SF小説も鞄に詰めるが、新作だと当たり外れが大きすぎるから既読本も用意する。これでようやくセーフティーネットは万全だ(読む本がないとパニックになってしまう)。  幾度アガサ・クリスティーのお世話になったことだろう。彼女の作品は中学時代から愛読し、今でも書棚に文庫がずらりと並ぶ。その中のどれかを持ってゆけば間違いない。  推理小説のほとんどは一度読めば十分なのに、ミステリの女王の場合、犯人がわかっても謎が解けても読み返したくなる。どこで自分が騙されたか、検証せずにおれないからだ。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著



    「『シャガール』(ジャッキー・ヴォルシュレガー  安達まみ訳/白水社)  本書は気鋭の女性美術評論家による、シャガールの本格的評伝。英国スピアズ・ブック・アワードを受賞しており、一級資料としての価値はもちろん、読みものとして実に面白い。シャガール・ファンばかりでなく、彼の絵にさほど興味ないという人にもお勧めの一冊だ。カラーを含め、図版も約 200点と充実している。  シャガールは帝政ロシアの片田舎、ユダヤ人特別強制居住地区に生まれた。二流国民と差別され、家庭は極貧、両親はほとんど読み書きできず、血族にただのひとりも社会的成功者はいない。これはアンデルセンなどにも共通し、彼らは 1発の巨大な花火として、それまでの何世代にもわたる闇夜の埋め合わせをしたのだ。天才の出現というのはまこと興味の尽きないものがある。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著

    「関わった多くの芸術家とのエピソードも豊富だ。とりわけピカソとの、互いに笑みを浮かべたままの嫌み合戦は血まみれの相打ちといった様相を呈し、シャガールの意外な一面を強烈に示す。また彼は──母親に溺愛された長男にありがちだが──どんな局面でも自己肯定と楽観は揺るぎない半面、女性は自分に奉仕して当然とばかり利用し尽したという。  著者はシャガール絵画の唯一無二の個性を愛しながら、後期作品についてはやや口が重い。ピカソやマティスのように、死ぬまで自己変革し続けてほしかったのかもしれない。 85歳のシャガールが、破壊されたとばかり思っていたロシア時代の自作を前にこう言うとき、読むほうも切なさに胸が疼く──「わたしは優れた画家だったろう?  あのころは、信じがたいほど若かった!  これらの作品は魂で描かれている」。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「この分析については、今後さまざまに検証されてゆくだろう。賛否両論あるはずだ。しかしその一途な研究者魂には敬意を表さずにおれない。イギリス人の彼女は成人してからフランスへ移住し、職を転々としながらゴッホにのめりこんでいったという。経歴はどこか謎めき、ゴッホと何らかの共通点があるのではないかと読み手は想像してしまう。  それはさておき、膨大な資料を読み込んでゴッホ時代のアルルの住人 1万 5000人ものデータベースを作成したマーフィーは、 19世紀フランスの因習的な田舎町に、オランダからやって来た赤毛の異邦人がどんな存在だったかを浮かび上がらせる。  訳者の山田美明氏が言うように、本書の真の価値は「当時のアルルの生活や社会状況を克明に調べ、それを通じてゴッホを血の通った人間として描き出した点にあると思う」。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著


    「異様な犯罪者の心理が丹念に描かれる。この種の人間はいっさい他者を理解しようとはしないが、追う側は彼を理解しなければならない。行動パターンをなぞり、彼の感じたであろうおぞましい恍惚をも想像し、次の行動を予測して犯罪を阻止せねばならないのだ。  とりわけ主人公の捜査官は共鳴性が高く、犯人の眼で見るという特殊能力が備わっていた。それだけに魂に傷を負いやすい。ニーチェの言葉にあるように、怪物と戦う者は自身も怪物になりかねない。深淵を覗けば、深淵もこちらを覗く。」

    —『そして、すべては迷宮へ (文春文庫)』中野 京子著



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    2026年07月30日
  • 名画の謎 陰謀の歴史篇

    Posted by ブクログ

    897円

    252P

    解説
    宮部みゆき

    ヨーロッパは打ち続く戦争、飢餓、ペストでいとも簡単に死んでたから、メメント・モリなんだよ

    ターナー、

    ゲーテのイタリア紀行は紀行文学で一番面白いよね

    ドイツは耳の人、オランダは目の人

    私は自分の感覚よりも見る人の想像力の方が上だと思うから、見る人それぞれの想像の余地のあるある意味欠損したものを作りたいと思ってる。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「はじめは馬鹿にされていた印象派絵画だが、新興国アメリカに市場を見出してからは徐々に理解者を増やし、影響力も各国へと拡がってゆく。ドガ、モネ、ルノワールなどは生前からもう高値で売買された。しかし彼らより二十年以上遅れて登場したスーラは、ゴッホと同じく仲間の印象派にさえほとんど評価されなかったし、これまたゴッホと同じく、生きている間はろくに売れなかった。ふたりとも若死にである。スーラ三十一歳、ゴッホ三十七歳。  スーラはオタクだった。新しい光学理論をもとに点描技法──絵具を混ぜて塗るのではなく、絵筆の先で色の点を丹念にぽつんぽつんと置いてゆき、鑑賞者の網膜上で混合を起こす──を、徹底して画面全体に敷衍した。さらに彼はプリズム光線にもっとも近い色を使い、隣り合わせに並置する色点の効果に厳密な科学的根拠を求め、誰よりも明るく、誰よりも光輝性を、と夢中になった。「線」ならぬ「点」で全てを描くのはどんなにか時間のかかることか。『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は完成までに二年近く費やし(額縁まで点描法で描いている!)、「難行の好きな人間にして初めてできる離れ業」と揶揄されたのも無理はない。  この点描法(分割法と呼ぶ美術史家もいる)を押し通すとどうなるかといえば、タッチ(筆触)が封印されるため画面から動きは消える。印象派画家の多くはタッチこそ個性と考えていたし、偶然性や直感を利用した躍動感と色彩、そこから生まれる心象描写を重視していたので、スーラの手法は科学偏重、構図も計算しすぎ、非人間的で没個性、と感じられたのだろう。マティスまで本作を「支離滅裂な画面だ」と切って捨てている(アナログ人間がデジタル派を攻撃するように)。マティスほどの画家でもこうなのだ。同時代人を評価することがいかに難しいかわかる。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 猿に対する欧米人のイメージは、日本人のそれと大いに異なる。「万物は神の創造」で、人間は全ての生きものに君臨する、とのキリスト教的思考が根強かったためもあるが、それより何より猿は異国の珍種、もっと言うなら非文明世界の下等動物にすぎず、一般の人々の目に触れる機会はほとんどなかった。先進国で、猿が身近に棲息しているのは日本だけなのだ。古来、猿に親しみを覚え、人間との類似性をよく知り、御伽噺にひんぱんに登場させてきた日本人とは土台が違う。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ミロのヴィーナスやサモトラケのニケが出土したのは十九世紀だったから、できるだけあるがままにしておくべきとの考え、もっと言えば、欠損しているがゆえに想像力を刺戟し、いっそう美しい、との考え(人間の変態性には限りがないというべきか、人間のイマジネーションの豊かさは感動的というべきか)が主流になっていたので、ラオコーンに施されたような継ぎ足しは幸いにして為されなかった。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「フェルナンデスはこうも書いている、「女性美の魅力ばかり受け入れ、われわれ男性の美に感動しないような人々にあっては、(中略)ギリシア美術の美は、常に不可解でしかないだろう」(田部武光訳/創元推理文庫)。  確かに現代人は、その点に関して目も耳もふさがれた状態だ。同性の裸体に興奮することがタブーではなかった時代、彫刻がどんなふうに鑑賞されていたかを、真に知るのは難しい。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「フランクフルトの富裕な商家に生まれたゲーテは、天分と容姿と明るい性格に恵まれ、法律専攻の大学時代からすでに詩人としてある程度名を知られていた。それが一挙にヨーロッパ中でブレイクしたのは、二十五歳で発表した小説『若きヴェルテルの悩み』からだ。  これはゲーテ自身の体験をもとに、瑞々しい感性で等身大の若者の恋と悩みを描いた青春文学の傑作。主人公と同じファッションが流行し、主人公を真似てのピストル自殺者まであらわれる始末だったし、後年はナポレオンがわざわざゲーテを訪れ、エジプト遠征にも持っていって七回も読み返したと褒めちぎっている。何よりこのベストセラーによって、ドイツ文学はようやくにして世界文学の仲間入りができた。それまでのドイツは文化後進国と見なされ、ドイツ語も「馬丁の話し言葉」と侮られていた(何しろ公用語はフランス語だった)。『若きヴェルテルの悩み』に対する国外からの賞讃は、ドイツ人の自尊心にも大いに寄与したのだった。  そしてまたこの小説は、ゲーテの人生をも大きく変える。今や著名人となった彼を、ヴァイマル公国の君主カール・アウグスト公が招聘したのだ。ほんの一時的滞在と思っていたゲーテだが、十八歳の公から兄のように慕われ、国の運営に手を貸すことになって、三十歳の時には枢密顧問官の職につき、三十三歳で貴族にも列せられた。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「フォン( von)」は貴族の称号である。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「ゲーテは無期限の休暇願いを出し、あらかじめ許可をもらっておいた。それからやおら行動に移す。一七八六年九月、アウグスト公やフォン・シュタイン夫人やお歴々と共に、例年どおりカールスバートで湯治している最中、誰にも行き先を告げず(召使にだけは言い置いていったらしい)、密かに宿を抜け出して、一人イタリアへ旅立った。三十七歳の旅立ち。恋人は大ショックだったであろう。宮廷も大騒ぎ。ゲーテは時おりヴァイマルへ手紙を出したが、そこには決して住所を記さなかったのだからなおさらだ。  北方の人々の、南国への憧憬はいじらしい。太陽への、明晰さへの、豊穣な地の恵みへの、それは何世代にもわたる渇望であった。ゲーテの父も若いころローマを旅し、市全景版画を部屋に飾っており、それを見て育ったゲーテがイタリアに、とりわけローマに焦がれ続けたのも無理はない。今や彼はミュンヘンを経由してブレンナー峠を越え、ヴェローナへ向かう。次いでヴェネチア、フィレンツェ、そしてローマで長く滞在、その後ナポリ、シチリア島、またローマへもどってしばらく滞在し、再びフィレンツェを通り、今度はミラノを経由してヴァイマルへもどった。二十ヶ月にわたるこの南国グランドツアーは詩心を甦らせ、ドイツ古典主義文学者としてのゲーテをまこと形成したといえる。  旅行中、彼は画家フィリポ・ミラーという偽名を使った。偽名の理由は作家として知名度が高かったからで、ヴィンケルマンの場合とは違う( 05「トロイア戦争の悲劇」参照)。興味深いことにゲーテは『イタリアの旅』でそのヴィンケルマンについて、こう書いている──」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「それはさておき、ゲーテの関心はもっぱらローマにあった。彼は「わが精神のあらん限りをつくして」古典美術を研究し、ローマそのものを身体全体で受けとめた。ほとんど毎日──現代の観光客とほぼ同じルートを──夢中で見てまわったが、ちゃんと現地のツアコンもついていた。数年前からローマで絵の修業をしているドイツ人画家、ティッシュバインがその人だ。ゲーテより二歳年下のティッシュバインは親切心を発揮し、自分の一部屋を彼に貸したばかりか、くまなくローマを案内し、ナポリまでも同行している。ミケランジェロ派のゲーテとラファエロ派のティッシュバインは、互いにひいきの芸術家論をぶつなど、ローマでは実に楽しくいっしょの時を長く過ごした(最終的には、なぜかふたりは疎遠となる)。ゲーテは夜は執筆にあて、ついに戯曲『タウリス島のイフィゲーニエ』を完成させている。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「フェルメールの生きた時代にオランダを訪れたイギリス人コレクターが、農民さえ市場で絵を買っていること、肉屋もパン屋も表通りに見えるように絵を飾っていること、鍛冶屋の家にも絵があることに驚いている。他の国々では考えられないことだからだ。「スペイン人は母の胎内から踊りながら生まれ出る」ように、またイタリア人がスパゲッティと歌が好きなように、オランダ人は「生まれながらの画家」だと言われる。十七世紀オランダ黄金時代には、セミプロを含めて夥しい数の画家が存在したばかりか、それ以上の数の「ふつうの」購買者、つまり他国のような王侯貴族や教会や大商人などの注文主とは全く異なる中産階級の人々が、狭い自宅に飾るために、あるいは──チューリップ同様──投機目的として、絵を買った。だからオランダ絵画の多くが小ぶりのサイズなのだ。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「かくして死後長く忘れられたフェルメールだったが、十九世紀半ばにフランス人批評家が彼を「再発見」して「スフィンクス」と絶讃したころから、世界的人気に火が点いて現在に至る。値段の高騰ぶりについては、アガサ・クリスティーが一九五三年に発表した『葬儀を終えて』にも触れられている。田舎の屋敷に眠っていた古ぼけた絵をレンブラントと確信して買うと、実はそれはフェルメールだった、新聞で別のフェルメールが二千ポンドで売れたことを知った犯人が……というミステリである。  ヨハネス・フェルメール(一六三二 ~七五)は、デルフト出身。贋作が多く、著名な美術館に飾られている「フェルメール作品」の中にも、そうとう偽物が混じっているらしい。有名なメーヘレン事件(フェルメール作品とナチスがからんだ、美術史上もっとも有名な贋作事件)については、拙著『怖い絵  泣く女篇』に書いたのでお読みください。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著


    「 十七世紀オランダは国力も黄金時代だったが、フェルメールばかりでなく画家とその作品群も黄金時代と言えた。もともとオランダ人が「耳の人」ではなく「眼の人」だということは、近代に至るまで作曲家の数が少なく、逆に高名な画家の数の多さからも明らかだ。  フェルメール時代の画家を列挙すると── 筆頭はレンブラント・ファン・レイン。当時は個々の画家が専門分野を持っていたのに対し、レンブラントは宗教画、肖像画、歴史画、風俗画などありとあらゆるジャンルで傑作を残した天才で、後世のゴヤに「自分の師はレンブラントとベラスケス、そして自然」と言わしめた。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「 十七世紀オランダは国力も黄金時代だったが、フェルメールばかりでなく画家とその作品群も黄金時代と言えた。もともとオランダ人が「耳の人」ではなく「眼の人」だということは、近代に至るまで作曲家の数が少なく、逆に高名な画家の数の多さからも明らかだ。  フェルメール時代の画家を列挙すると── 筆頭はレンブラント・ファン・レイン。当時は個々の画家が専門分野を持っていたのに対し、レンブラントは宗教画、肖像画、歴史画、風俗画などありとあらゆるジャンルで傑作を残した天才で、後世のゴヤに「自分の師はレンブラントとベラスケス、そして自然」と言わしめた。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「なぜデューラーは自作解説をしてくれなかったのか、と恨めしく思うのは、だが間違いだ。画家は描いた絵が全てであり、そこで完結している。文章でうだうだ解説するのは、画家ではなく物書きの仕事ないし道楽だ(だからしょっちゅう的外れを言うのです。自戒をこめて)。  アルブレヒト・デューラー(一四七一 ~一五二八)は、ドイツ・ルネサンスの完成者。ハプスブルク家の宮廷画家としても知られる。「耳の人」たるドイツ人は、夥しい天才作曲家を生み出したが有力画家は少ない。古今通じて最大のドイツ人画家の地位は、いまだ彼のものである。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「中世ヨーロッパの人々が、いかに日々、死を意識して暮らしていたかを、現代人が理解するのは難しい。打ち続く戦争・飢餓・天災ばかりでなく、何といってもペストの影響が決定的であった。  ネズミや蚤に媒介されるペストは空気感染し、リンパ節に炎症をおこし、肺に侵入すれば──抗生物質がないのだから──致死率ほぼ百パーセント。高熱、喀血で三日ともたない。末期は皮膚が黒ずむため、別名「黒死病」と呼ばれた。一定の周期で波のようにくり返し、中でも十四世紀のパンデミックでは、全ヨーロッパの人口の三分の一が死んだと推定されている。まさに「死」が、この絵のごとく全土を覆ったのだ。「ペストが中世を終わらせた」と言われるが、中世が明けてルネサンスが始まっても、ペスト自体が終わったわけではなく、なお十七世紀まで間歇的に流行し、町を丸ごと消滅させることもよくあったから、かつての大惨事の記憶も消える間がなかった。ブリューゲルの時代はまだ爪痕も生々しかったことが、本作を見ればわかる。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「「ダダ」の語源は正確なところは不明だが、幼児語の「木馬」からきたらしい。出発点のほうは、これはもう明確で、一九一六年、スイスへ亡命した芸術家たちが中心となって、近代社会や既成の伝統芸術に対する真っ向からの否定を表明し、自分たちチューリヒ・グループをダダと名付けたのだ。  緊迫する政治情勢に野火のごとく焚きつけられ、ダダは燃えさかった。ほとんど同時多発的な発生と拡がりだった。ニューヨークでは、デュシャンが便器に『泉』とタイトルをつけて展示したり、髭の『モナリザ』を発表した。パリ・ダダ(後にシュルレアリスムへと受け継がれる)もあれば、ローマ・ダダ、ブダペスト・ダダ、そして東京ダダ(村山知義、辻潤、中原中也など)まで生まれた。  ベルリン・ダダの中心人物のひとりがグロスだ。ドイツの場合、敗戦へ向かって現在進行形だったから、他国に比べてずっと政治的に先鋭、且つ心情は虚無的にならざるを得ない。グロスは仲間と反戦雑誌『新青年』を立ち上げるが、一年足らずで発禁処分を受けた。彼の絵はいよいよ諷刺の度を強めてゆき、抜群のデッサン力はドーミエ(約百年前にフランスで活躍)に譬えられ、画集はベストセラー、人気画家となってゆく。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「したがって二大政党とはいっても、どちらも支配層代表なのに変わりはなく、違いといえば、トーリー党は王政擁護で貴族や聖職者が支持基盤、ホイッグ党は王政に批判的で、宗教に寛容、且つ新興中産階級寄りといえる。現在では前者は保守党、後者は自由党と名を変え、保守対革新の構図を鮮明にしている。ちなみに保守党党首だったサッチャー元首相が、よくブルーのスーツを着ていたのは、党のカラーだからなのだ。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

    「私が最初に出会った中野さんのご本は、『怖い絵』の単行本第一巻です。書店の新刊平台で見かけて、次の瞬間には一冊手にしてレジに向かっていました。もともと西洋絵画の画集を見るのは好きだったのですが、画集ってだいたいが大きくて重たいところが辛い。なのに『怖い絵』は軽いソフトカバーに美麗なカラー印刷で、中身はたっぷりと読み応えがあって、一発で魅了されてしまいました。  私がそれまで出会ってきた画集や美術史の本では、数多の画家や名画は全て教科書的なくくりで分類・解説されていました。地域と時代ごとに区分され、「印象派」「フランドル派」などの作風で分類され、時系列で並べられていたわけです。でも『怖い絵』は違った。「怖い」というコンセプトのみで名画のアンソロジーが作られていました。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著



    「本書のシリーズも同じです。「謎」というコンセプトで、全四巻の特設展を構成している。これってコロンブスの卵ですよね。中野さんが登場するまで、名画を解説するプロの美術家や学者さんたちも、それを受け止める私たち読者も、教科書的な分類が当たり前で、西洋絵画を「ちゃんと鑑賞する」にはそれしかないと思っていた。お勉強的に向き合うのが正しいと思っていた。中野さんはマジシャンのように軽やかな手つきで、その思い込みを翻してしまいました。「謎」も「怖い」も、とても日常的なエモーションです。それがコンセプトになることで、美しく素晴らしく貴重で、だからこそ「敷居が高い」感を漂わせていた西洋絵画が、一気に身近なものになりました。誰でも心を引き寄せられて、切実な興味を抱いてしまう。これがまず中野さんの凄いところです。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著


    「作品の成立した背景を正しく知り、本物の教養に触れる楽しみを覚えると、今度は私たち読者の側の鑑賞するまなざしも変わってきます。「謎」や「怖い」のような普遍的なコンセプトに沿って得た知識はスムーズに血肉となるので、中野さんのご本を置いて美術館に出かけても、他の画集を開いても、それまでとは鑑賞する姿勢が違ってくる。これこそが「中野効果」。芸術についての知識を得て教養を深めてゆくのは、実はとても幸せなことなのだと私たちに教えてくれる素敵な効果です。  本書は全十七章、どこから開いても楽しむことができますが、個人的にピックアップするならば、たとえば、第二章「産業革命とパラソル」に展示されているスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』。中学の美術の教科書で初めて見て以来、私はこの絵が好きで、スーラという画家のファンになりました(色鉛筆で点描画の真似っこをしたものです)。でも中野さんの解説に出会うまで、ここに描かれている色とりどりのパラソルが「産業革命の申し子の一つ」だということ──この名画が産業革命の時代だからこそ描かれ得た作品なのだということは知りませんでした。絵のなかの男女が社会階層的にどんな立場の人たちなのか考える機会もなかったし、ペットのお猿さんの意味もわからなかった。」

    —『名画の謎 陰謀の歴史篇 (文春文庫)』中野 京子著

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    2026年07月30日
  • 「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか

    Posted by ブクログ

    990円

    ボッティチェリ、ティツィアーノ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ、ミレー、

    ボッティチェリも同性愛だったのか

    絶筆(ぜっぴつ)とは、筆を止めて書くのをやめること、およびその人が生前に最後に書き残した文章や絵画のことです。

    今はニューヨークが中心の現代アートが始まったのはロンドンだから現代アートという視点で言うとイギリスは良いんだけど、古典的な美術で言うとやっぱりこういうイメージがあるから、ロンドンではなくカトリック国家で一番の都会であるパリを拠点にしたかったのかもしれない。パリは現代アートもちゃんと面白くて古典と現代のバランスが良いんだよね。

    ベルナール・ビュッフェって日本人に大人気で、静岡にベルナール・ビュッフェの作品しかない美術館があるらしいけど、私からしたらじゃあ何故、佐伯祐三はベルナール・ビュッフェ程日本人に人気がないのか謎なんだけど。簡単に外国人を有難がるなよ。ベルナール・ビュッフェの人気の理由はパリ描写だって言ってたけど、佐伯祐三のパリ描写も神がかってるやんけ。

    中野 京子
    (なかの きょうこ、生年不詳)は、日本の作家[1]、ドイツ文学者[2]、西洋文化史家、翻訳家[3]。北海道生まれ[4]。1979年、早稲田大学大学院修士課程修了[5][6]。オペラ、美術などについて多くのエッセイを執筆する。2007年に発表された『怖い絵』を端緒とする『怖い絵』シリーズが大ヒットとなる。新聞や雑誌に連載をもつほか、テレビの美術番組にも出演する[7][8]。早稲田大学講師[9][10]。『怖い絵』シリーズの刊行10周年を記念して2017年に開催された「怖い絵」展では、特別監修を務めた[11][12][13]。2021年9月に開催された「怖いクラシックコンサート」(東京文化会館)での解説[14]、2022年3月公演の舞台「怖い絵」の監修[15][16]、同年7月上映の「星と怖い神話 怖い絵×プラネタリウム」の監修・解説を担当した[17][18]。

    「小説を純文学とエンターテインメントに分けたり、音楽をクラシックとポピュラーで区別したりと、人間は芸術にまで権威付けを必要とするらしい。もちろん美術も例外ではない。  絵画のヒエラルキーは、かつては主題を拠りどころとしていた。十七 ~十九世紀のアカデミー(公的美術組織)が決めた格付けによれば、最高位が「歴史画(神話画・宗教画を含む)」、次いで「肖像画」「風俗画」「静物画」「風景画」の順だという。アカデミーの一員となって自作の価値を高めたい画家にとっては、歴史画家と評価されるか風景画家と見做されるかでは、その後の出世や収入に大きな開きがでる。そこでヴィジェ ルブランのように、得意分野(彼女の場合は肖像画)ではなく歴史画で審査を受けてアカデミー入りする例も少なくなかった。  歴史画がもっとも上位に置かれた理由は、その主題についての知識と理解、効果的な彩色、多数の人物の配置や的確な動きを伴う画面構成など、幅広い教養と技量が必要と考えられたからだ。逆に言えば、格下の主題にそれは必要無しという決めつけでもある。また構成力を云々するわりには、発注者が画面の人物の数を指定する場合もよくあった(登場人物の数で絵の値段が変わったため)。人間中心主義の西洋思想においては、風景画の誕生もかなり遅れた。いろいろ矛盾を含んでいるのだ。そのため時代が下って購入者層が拡大し、画家もまたジャンル分け不能な作品(抽象画など)を生み出すにつれ、主題による格付けは説得力を失ってゆく。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「二千点とも二千五百点とも言われる油彩画を量産したルーベンス工房を例にとろう。親方たるルーベンスが発注者と相談した上で構想を練って下絵を描き、その下絵にオーケーが出てからいよいよ取りかかる。共同制作者や助手たちがそれぞれの得意分野(人物、動物、植物、建造物など)を分担してある程度まで完成させると、最後の仕上げにまたルーベンスが絵筆をふるった。彼は自分が実際に描いた部分の割合によって作品の値段を変えることもあり(良心的販売?)、発注者も納得した上で購入していた。  もしルーベンスが現代に生きていたら、いったいどんな絵を描いていたのだろう?  もしかすると絵ではなく、ハリウッドの映画監督になってヒット作を連打していたかもしれない。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「最初期のキリスト教絵画は、古代ローマ帝国に迫害されていた三世紀ころ、カタコンベ(地下墓地)で誕生した。迫害者に気づかれぬよう、信徒同士でのみ通じる象徴的記号や寓意的人物像が描かれた。たとえば「魚」。初期キリスト教におけるシンボルは十字架ではなく魚で、イエスその人を指した。ギリシャ語の「魚( =イクトゥス)」が「イエス・キリスト・神の・子・救い主」の頭文字に重なるからだ。やがてキリスト教が国教として公認されると、絵も地下から表へ出てくる。ローマ皇帝の庇護を受けた教会・修道院・聖堂などが各地に建てられ、内部が宗教画で飾られる。ほとんどの人が文字を読めなかったので、キリスト教の教義を知らしむるのに絵はもっとも有効だった。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 本作はもちろん「誹謗」への許しがたい怒りだが、なぜボッティチェリがこれを描いたか、つまりボッティチェリがここで描いている誹謗とは何か。それについては解釈が三つある。一つは、本人にかけられた同性愛疑惑、もう一つは、サヴォナローラに心酔してメディチ家を裏切ったとの中傷、最後はサヴォナローラ自身に対する誹謗。どれなのかはまだ定説がない。ただ確かなのは──くり返すが──女性ヌードの激変だ。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「レオナルドは謎めいた『モナリザ』の、ミケランジェロは迫力ある壁画群の、そしてラファエロは『小椅子の聖母』をはじめとした清らかな聖母像の画家として知られる。まるで互いに互いを引き立たせあっているのではないかと思うほど、三人の個性は生き方から作品までことごとく違っているが、ともに生前から一貫して著名であり、おおぜいの有力者をパトロンに持ち、さまざまな仕事に従事した。いずれも教会と関係が深かったので、後世に残る宗教画の傑作も多い(レオナルドは『最後の晩餐』、ミケランジェロは『最後の審判』、ラファエロは『サン・シストの聖母』)。これまた主題選択や表現、方向性や魅力も全く違って興味深い。  育ち方も違う。レオナルドは、公証人だった父の庶子として生まれ、祖父に預けられてほとんど教育を受けず野放しだった。彼の柔軟な思考はこの自由な少年期のおかげとされる。当時の庶子は法律で公証人にこそなれなかったが、それ以外の差別はほとんどなく、チェーザレ・ボルジアやクレメンス七世といった権力者も庶子だ。一方ミケランジェロは名家の出で、父親が法律学校へ行かせようとしたのに頑として譲らず、自分でこれと決めた彫刻の道へ突き進む。ラファエロはウルビーノの宮廷画家にして詩人だった父や後見人などのおかげで貴族的で洗練されたマナーやラテン語を身につけ、上流階級へ自然に溶け込むことができた。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「時代の変遷によって、画家への評価が変わることはよくある。ボッティチェリやエル・グレコなどは生前人気があったのにその後は数世紀も忘れ去られるし、ゴッホやゴーギャンは生きている間ほとんど絵が売れなかった。その点、ルネサンス三巨匠は、死後もずっと名声を保っているが、それでもその重要度に関して言えば、現代ならレオナルドとミケランジェロが神格化されていて、ラファエロへの評価はそうとう低下している。レオナルドのような深みに欠け、ミケランジェロのような力強さが無い、というのがよく聞く批判であろう。  そういえばかつてモーツァルトも、ベートーヴェンやヴァーグナーに比べて軽すぎる、などと貶められていた。今そんなことを言う者は誰もいない。要するに評価はあくまで「その時代の」評価にすぎない。いくらでもまた変わり得る。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「さて、ラファエロだが、彼の描く聖母の甘美さ、三十七歳という早すぎる死、十代のころのロマンティックな自画像、そして数々の恋のエピソードとあいまって、「花開く前に斃れた、永遠に未完の青年芸術家」とイメージされがちだが、それは全然違う。彼はバロック時代以前の単独工房としては最大の、つまりレオナルドやミケランジェロを遥かに凌ぐ、五十名もの弟子や助手を擁する大工房の経営者にして、イタリアばかりでなくヨーロッパ中に名声を轟かせた画家であった。先述した二人のパトロン教皇の肖像画も受注しているし、建築や室内装飾の分野でも有名だった。同じく若死にしたモーツァルトがそうであったように、ラファエロも未完どころか自己の芸術を究め尽くしていたことは、肖像画『バルダッサーレ・カスティリオーネ』一点だけでも証明されていよう。  何より、十九世紀前半までの西洋美術史においては、三巨匠中のトップとされたのがラファエロだった。ルネサンス絵画の端麗典雅とは即ちラファエロ作品のことであり、ルネサンスはラファエロの死でもって一五二〇年に終わったとされる。彼の遺骸がローマのパンテオンに埋葬されている事実が、その栄光を物語っていよう。なぜならパンテオンは王侯貴族の墓所だからだ。  ラファエロの絵画は、死後四百年にわたりイタリア、フランス、イギリス、ロシアなどのアカデミー(教育的役割を担った、王立また公立の芸術専門組織)のお手本であり続けた。彼の円満・中庸・明晰・優雅が、「美によって高きところを目指す」芸術の理想として、画学生らに教えられたのである。かつてピカソが、「わたしは子どもの頃もうラファエロのようにデッサンできた」と豪語したが、それは伝統的なアカデミーの技法をすでにマスターした、という意味に他ならない。ラファエロの権威がいかに絶大だったかがわかる。  しかし芸術がもはや上流階級の独占物でなくなった近代以降、ラファエロの静謐で予定調和の画面は庶民感情に訴えなくなってしまう。新しい時代は、美と聖性の一体化など理解できない。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「レオナルド六十七歳、ミケランジェロ八十九歳と比べると、ラファエロの三十六年間の人生(三十七歳の誕生日に死去とされる)はいかにも短すぎる。死因も不明だ。同時代人がラファエロの過労について記しているので、長年の無理が祟っていたのは確かだ。おまけに女遊びの烈しさは誰もが認めるところで、多忙な仕事の合間に複数の恋人とベッドを共にしていた。ストレス解消のはずが、新たな疲労の蓄積になったのかもしれない。もともと弱っていた体に熱病が襲い、治療ミス(瀉血のしすぎ)も加わっての急死という説に説得力がある。  性病説については、寝ついて二週間ほどでみまかっているため、仮に罹っていたにせよ死因ではなかろう。モーツァルトと同じ毒殺説のほうがまだ信憑性が高い。ヴァチカンからの仕事には大金が動くし、枢機卿になろうとしていたのがほんとうなら、敵はどれほど多かったことか。政治の中枢に近づけば、芸術家でも命の危険はありえた。パトロンのレオ十世も、ラファエロの死の翌年に急死しており、毒殺説が有力だ(数年前に暗殺未遂もあった)。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「世に認められず、また金銭や地位によって報われない画家こそ本物だ、というようなロマン主義的芸術家像を至上とする研究者たちにとっては、ティツィアーノやルーベンスのように生前は王侯貴族御用達で、庶民の嗜好とかけ離れた絢爛たる大画面の絵を制作し、現実主義に徹して高額報酬を要求し、死後も大人気の画家など、気に喰わないのであろう。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ティツィアーノはカール五世、フェリペ二世と、親子二代にわたるスペインの宮廷画家でもあったが、しかし彼がヴェネツィアを離れることはなく(そこがベラスケスの立場とは違う)、はるかに自由を享受した。ヨーロッパ各国の王侯貴族、富裕層、教会からの注文はもちろん、勲章やら名誉称号が雨あられと降り注いだから、一人の王に生活丸ごと頼って仕える必要はなかったのだ。アイディア満載  これほどの大画家になると、肖像画、宗教画、神話画と、代表的ジャンルにそれぞれ複数の傑作を残している(チャイコフスキーがオペラ、交響曲、協奏曲、バレエ音楽など全てを網羅したように)。中でもティツィアーノの神話画は、バロックに決定的方向付けを与えた。  当時、上流階級は競って「書斎文化」というべきものを推進していた。書斎は単に本を読んだり孤独や思索に耽る場ではなく、美術品のコレクションルームともなった。主人の私的空間であるからして、飾られる絵画は自ずとエロティックな香りが望まれ、ギリシャ・ローマ神話が主題に選ばれた。ティツィアーノ作品が愛好されたのは、彼の裸婦がまるで生身のような肌を持っていたばかりではなく、神話における各挿話や登場人物に独特の工夫が凝らされ、謎とそれを読み解く楽しさにあふれ、知的欲求をも満足させてくれたからだ。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著


    「スペインの代表的宗教画家として有名なエル・グレコは、本名をドメニコス・テオトコプーロスといい、ギリシャ人だった。自作にはその本名でサインしていたにもかかわらず、一般にはエル・グレコで通っている。  グレコとはイタリア語で「ギリシャ人」、エルはスペイン語の男性定冠詞(ドイツ語の der、英語の theにあたる)で、「あのギリシャ人」というほどの意味合いだ。同時代人から、描く絵と同じく本人も変わり者、などと言われていたが、異国語同士の組み合わせによるこの通称もまた、いささか奇妙な印象を与える。  なぜイタリア語が入っているかと言えば、スペインに定住する前、十年近くイタリアで暮らしていたからだ。画風が変わっていると思われたのは、当時まだスペインでは知られていなかったマニエリスム(歪んだプロポーションを特徴とする)様式を取り入れたのが一因である。変わり者と見做されたのは、激情的だったことと、己を天才と信じ、プライドが極端に高かったこと、仕事の報酬額に関して注文主と揉め、何度も訴訟沙汰になったことなどが挙げられよう。  しかしグレコ作品の唯一無二の個性(誰が見てもすぐグレコとわかる)は、ギリシャ、イタリア、スペインの融合に、本人の強烈なキャラクターが注がれて化学反応を起こしたおかげなのは間違いない。ドメニコス・テオトコプーロスがもし祖国を捨てなかったら、西洋美術史にエル・グレコの名はもちろん、ドメニコスの名前が刻印されることもなかったろう。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「画家で外交官で経営者、どれも大成功──この空前絶後ともいうべき存在に、驚嘆しない者はいないだろう。おまけに作品の評価も売買値も人気も、生前から現代に至るまで全く変わらない。もちろん陰口はある。「肉屋のルーベンス」だの「芝居がかった絵」だのと……。  前者は、彼の描く女性ヌードに「お肉」がたっぷり付いているとの揶揄である。メタボに見えてしまうが、ルーベンスの好みだから仕方あるまい(逆に彼が現代日本の若い女性を見れば、栄養失調と誤解するだろう)。とはいえ当時の異国人にとってもルーベンスの美女はやはり少し肥え過ぎだったらしく、それを指摘された彼がこう言い返している、「フランドルの女は餌が違う」。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「そして四十四歳、フランスから初仕事がやってくる。故アンリ四世妃にして、現国王ルイ十三世の母后マリーが、リュクサンブールに二十枚(『マリー・ド・メディシス( =メディチのフランス語読み)の生涯』連作)を納入せよというのだ。二十年以上も昔、フィレンツェで彼女の結婚式に列席したのを思い出したであろう。ルーベンスは何度もパリへ出かけて条件をつめた。とにかくこれは工房あげての大仕事で、何があっても最優先せねばならない。皆が燃えた。  結果は周知のとおり、ルーベンスの力技を世界に向けて知らしめることになった。現在ルーヴル美術館の「ルーベンスの間」に、マリーの生涯を描いたシリーズ二十一枚と肖像画を含めて二十四枚がずらりと並び、圧巻の一言。凡庸で美しくもないどころか何の功績もない王妃の半生を粉飾するためルーベンスがやったのは、華々しい神話世界へ彼女を組み入れ、その中で、自らの超絶技巧を披瀝することだった(拙著『はじめてのルーヴル』参照)。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「マリーの仕事をしている最中に、十二年間の休戦協定が終わった。アルブレヒト大公は永続的平和を願って交渉するが、ハプスブルクに国を蹂躙されるのはもう御免だと、ネーデルラント(後のオランダ)は独立に向けての戦争を再開した。  ルーベンスにまた新たな仕事が入る。交渉の過程でアルブレヒトが亡くなったため、大公妃イサベルはルーベンスに外交官として働いてほしいというのだ。こうして一六二四年から三一年にかけて、彼はマドリッド、パリ、ロンドン、ロッテルダム、デルフト、アムステルダム、ユトレヒト、ハーグと飛び回り、敵国の密使とも接触するなど重要な役割を果たした。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「一方、宮廷画家のほうははるかに長く命脈を保つ。いったん曲を作れば大人数の聴衆を前に演奏することで収入が確保できる音楽家と違い、絵画は一点ものなので相当の高値がつかない限り生活の糧とならない。薄利多売するにしても、それだけの市場は十九世紀半ばをすぎるまで生まれなかった。結果として、優秀な画家は宮廷への道を選んだ。  さて、その宮廷画家だが、時代により国によって、また君主と画家の関係によってさまざまで、必ずしもこれという定形があるわけではない。時代を追っていくつか見てゆこう。  ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼は戦争でイタリアにおけるパトロンを失ったが、その才能を見込んだフランスのフランソワ一世に庇護され、パリ郊外に小さな城を与えられて、晩年の三年間を悠々自適で送ることができた。すでに身体が不自由になっていたため新作は描けなかったものの、宮廷行事にアイディアを出すなどして王を満足させた。これも宮廷画家の特殊例といえよう。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ベラスケスは一五九九年、スペイン南西部セビーリャで生まれた。父親の職業ははっきりしない。祖父母がポルトガルからやって来たことはわかっている。後年ベラスケスが宮廷で出世するにつれ、祖父は下級貴族だったと言われるようになるが、近年の研究ではおそらく商人、それどころか社会的に差別を受けていたコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ人)説が有力だ。もしこれがほんとうなら、ベラスケスは出自を絶対に隠し通さねばならないと思ったはずで、自己を語らなかった大きな理由になりえるだろう。そしてまた彼が、社会的地位や立場が何であれ、そんなものを突き抜けた先の人間性を常に見据えた理由もそこにあるのかもしれない。  いずれにせよ、ベラスケスの生家が裕福だったとは思えない。長男の彼は十歳で工房の徒弟に出されている。わずか数ヵ月で音をあげたが、それは師が無教養すぎたかららしい。翌年、また別の工房へ六年契約で送りこまれる。今度はうまくゆく。多くの知識人や聖職者と交流のある師匠パチェーコは、画家としては凡庸でも学はあり、絵画技法の本を書いて出版し、弟子の個性を潰さない指導力を備えていた。ベラスケスはこの知的な環境で、才能をぐんぐん伸ばしてゆく。  十七歳で早くも親方となり、画家組合に加入。十八歳でパチェーコの娘(十五歳)と結婚、十九歳で子持ちになる。この子も母親と変わらぬ年齢で結婚したので、ベラスケスは三十三歳にしてもう娘婿を持つ身だ。現代と違い、独り立ちの年齢は驚くほど早い。シェークスピアの晩年がベラスケスの青年期に重なっている。『ロミオとジュリエット』のジュリエットが十三歳だったことを思い起こしてほしい。今とは全く異なる世界が拡がっていた。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著


    「その一つが奴隷制度。国が富むためには必須と当然視され、公共の奴隷市場では牛馬と同じく人間が売買されていた。後にベラスケスは宮廷でさまざまな奴隷を目にすることになる。中でも黒人、巨人症、小人症、超肥満体、知的障害などを抱えた「慰み者」と呼ばれる道化たちは、肉体労働専門の奴隷と違い、衣食住にはそうとうに配慮されていたが、ひとりの人間とは見做されていなかった。宮廷人から日常を活気づかせるペットのように扱われ、からかわれ、小突かれ、笑われるのが仕事だった。  ベラスケスは『セバスティアン・デ・モーラ』など、小人症の奴隷の肖像を何枚も描いている。軟骨無形成症によって絶えず痛みに苦しむ彼らのありのままの姿を、いっさいの粉飾無しに、冷徹なまでのリアリズムで抉り出した傑作の数々だ。脳水腫でほとんど知的活動の無理な者もいれば、顔面麻痺で歪んだ者、知性はあるのに肉体に裏切られた怒りを両目に湛えた者もいる。どんな姿であれ、しかしそこにはやはり人間として犯しがたい尊厳が表現されている。矮小な体に閉じ込められた彼らの魂に触れる術を、ベラスケスは知っていた。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著



    「 援助者の紹介でベラスケスがフェリペ四世の肖像を初めて描いたのは、二十四歳の時。王とは年齢が近く、六歳下だった。容貌に恵まれなかったフェリペは、わざとらしい美化もしないのに君主たる威厳を写し出す、この若者の驚異の才能にいっぺんで魅了され、ただちに宮廷画家に任命した。この後、ベラスケス以外の宮廷画家に自分の肖像は描かせなかったほどだ。  ベラスケス一家はマドリッドへ移り住む。その後の人生は、文字通り宮廷画家としてのそれだ。マドリッド市内の広い自邸の他に、王宮にもアトリエが用意され、高給で遇され、官吏としてどんどん高い役職につき、最終的には王室配室長という、宮廷官吏最高位にまで上りつめている。二度の長期イタリア旅行も許され、貴族にのみ与えられるサンチャゴ勲章まで授与された。王の愛顧はひとかたならず、アトリエでベラスケスが落とした絵筆を王自らが拾い上げた──ティツィアーノとカール五世の場合とそっくり同じ──逸話まで残されている。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「 身分の低い、教育もない男がと、周りの嫉妬は並大抵でなく、ベラスケスが慎重の上にも慎重に振る舞い、与えられた役職に常に全力で取り組んだのは当然として、もともと何ごとにも真摯な姿勢の彼は、敵に足をすくわれるような言動は決してしなかった。長い宮廷勤めでただの一度も失敗していない。  だが画家として、幸せだったのだろうか?  あまり笑わない人間だったし、感情を露わにすることもなかったが、恵まれた環境には満足していただろう。ふと疑問を感じた瞬間があったとしたら、それは二十九歳でルーベンスと会った時かもしれない。「王の画家にして、画家の王」と称賛されていたルーベンスは、フランドルの外交官としてスペインを訪れ、その華麗な筆さばきをも披露して宮廷をどよめかせた。この時五十一歳。誰か一人の王に縛られるということはなく、おおぜいの権力者をパトロンに持ち、自由にヨーロッパ中を廻り、大工房を経営して人気作品を量産していた。諸国からの注文が引きも切らず、好きに描いた絵でも完成するそばから売れていた。もちろんヌード画もだ。ルーベンス描く豊満なヌードは王侯貴族の垂涎の的だった。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「その後ヴァン・ダイクはジェームズ一世の招きでイギリスに数ヵ月滞在した後、イタリアへ向かう。イタリアは芸術の宝庫なので、この後も何世紀にもわたって、画家や彫刻家は言うに及ばず作家(ゲーテ、スタンダール etc.)も音楽家(モーツァルト、メンデルスゾーン etc.)も霊感を受けに足を運んでいる。ヴァン・ダイクの滞在は足掛け六年に及び、拠点はジェノバに置きつつ、頻繁にイタリア各地を巡った。常に最高級の衣服を身にまとい、優雅な振る舞いと贅沢な暮らしぶりで、周囲からは何代も続く貴族の出と間違えられていた。妬む者は、「鼻持ちならないほど気取っていた」と評するが、仮にそうだったとしても、仕事や研究をなおざりにはしていない。肖像画の注文仕事をしつつ、イタリアの巨匠たち、中でもティツィアーノに大きな感銘を受け、華麗な色彩感覚を学んだ。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「イギリスは美術後進国で、その上プロテスタント国だ。教会を飾る大プロジェクトは無いに等しく、王宮や貴族の館もイタリアやフランドルに比べると地味で装飾が少ない。イギリス人の下手な画家を教え、芸術的刺戟の少ない環境で、自分は肖像専門へと小さくまとまってしまうかもしれない(こうした葛藤は、明治期に日本へ招聘された、少なからぬ数のお雇い外国人の想いに似ているのではないか)。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「フランシスコ・デ・ゴヤは、一七四六年、スペインの辺鄙な村の貧しい職人の子として生まれた。ドイツの文豪ゲーテより三年早いだけである。共に八十歳を超える長命で生没年がほぼ重なるにもかかわらず、ゴヤはまるでゲーテより半世紀も前に誕生し、逝去した年よりさらに一世紀も長く生き続けたかのように思えてしまう。  それほどに作品のイメージが時代を超えているのは、おそらくゴヤという人間の矛盾に満ちた性格と、激動期のスペインとの強烈な化学反応ゆえであろう。この国では、ヨーロッパ全体が近代社会へ脱皮しつつある中、宗教裁判所が時代遅れの権力を振るい続け(まだ異端審問が続いていた)、政治社会においては中世的封建制のなごりが色濃く残されていた。宮廷と庶民の世界の落差は、他のどの国よりも大きかった。  そのどちらの世界も熟知していたゴヤの、油彩画五百点、版画三百点、デッサン類九百点という膨大な作品群には、地べたを這うように生きる農民をはじめ、最高権力者の国王まで、また獣のように殺しあう人間たちから、優美な恋愛模様までが、画面上で等価に描かれる。作風も感覚的なロココ風あり、内面を覗き見るベラスケス風あり、荒々しいバロック風あり、透徹したリアリズムと異様な暴力性の合体があり、悪夢のごとき幻想があり、ついには現代とも串刺しになった人間心理が焙りだされ、ゴヤは偉大な画家の仲間入りを果たしたのだった。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「今に名を残す画家の多くは、子どものころから並外れた才能の片鱗を示し、若いうちにもうある程度の地位についている。しかしゴヤは遅咲きの花であった。  田舎の工房で十三歳から四年間の修業を終え、十六歳でいちおう職業画家になって生地の教会の聖遺物箱扉絵(消失)などを制作したが、特段の評判は得ていない。十七歳の時と二十歳の時、首都マドリッドへ出て、画家の登竜門たるアカデミー奨学試験を受ける。二度とも不合格。やむなく私費でイタリアを廻り、同地でパルマの美術コンクールにも応募して、ここでも落選。故郷へもどって細々と仕事を続けた。すでに二十七歳になっていた。  猛烈な負けず嫌いで野心家のゴヤが次にしたことは、出世目当ての結婚だ。同郷の宮廷画家バイェウの妹(二十六歳だったから、当時の女性としては晩婚)を妻にし、その伝手でやっと中央との関係を掴む。王室タペストリー工場のカルトン(下絵)画家になったのだ。城や貴族の館を飾るタペストリーの需要は多く、ゴヤは明るく華やかなカルトンを量産した。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「変わり目は四十六歳にやって来た。  もともと肉体は牡牛のごとく頑健だったが、ある日原因不明の重病に陥り、痙攣と頭痛で一時は死の淵までゆく。やっと危機を脱した時、ゴヤの聴覚は完全に失われていた(この直後の自画像は、人生半ばで同じく聾になったベートーヴェンの顔つきを髣髴とさせる)。  後になってみれば、それはまるで神の意志であったかに思える。慢心ではち切れんばかりのゴヤに対し、これ以降の人生はひたすら目で見ることに専念せよと、神が命じたかのように。  無音の国の住人となったゴヤは、確かにそれまで以上に見る目を研ぎ澄ませたが、それでも俗世の垢を落とすことはない。美しいアルバ侯爵夫人と恋に落ち、大臣ゴドイのためとはいえスペインでは禁じられていたヌード(『裸のマハ』)を密かに描きあげる。煩わしい絵画部長職は全聾を理由に退きながら、首席宮廷画家の地位は恭しく引き受け、友人宛に得々と書く、「王侯は君の友ゴヤに夢中だよ」。王立アカデミー院長に立候補して落選し、腹を立てる。ヌードを描いたのがばれて異端審問所に呼ばれれば、八方手をまわしてお咎め無しに持ち込む……。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「遠縁にロココの人気画家ブーシェをもち、家族の友人にも芸術家の多いダヴィッドは、早くから絵で身をたてると決めていたが、なかなかローマ賞(アカデミーが主催する新人試験)に合格できなかった。最初に落ちた時は、自信の鼻を挫かれて自殺を企ったという。間違いなく父親の激しやすい性格を受け継いでいる。  二十七歳でようやく受賞し、イタリアへ留学。当時もうドイツ人美術史家ヴィンケルマンの『古代美術史』は仏訳され、ダヴィッドも決定的影響を受けていた。ヴィンケルマンが説いたのは、時代や民族を超えた「美」が存在すること、そしてその理想美の完成形はギリシャ古代芸術であり、現代の画家や彫刻家はそれを手本にしなければならない、というものだった。ダヴィッドは三年間のイタリア滞在で、ギリシャ・ローマ彫刻やポンペイの発掘品、イタリア絵画を徹底的に研究し、改めてヴィンケルマン理論に深く納得、また自分の進むべき道に確信を抱いて帰国した。  この後ダヴィッドが率いることになる新古典派の作品が、どれも感情や感覚を排して理性と荘厳を前面に押し出し、人物の姿形も個性よりむしろ理想化された無表情が優先され、彫像のごとく静止したポーズを取り、全体に力強い単純さが貫かれているのはそのためだ。移ろいやすい現実を描く風俗画・風景画・肖像画より、歴史画(神話画や宗教画を含む)こそが「高貴なジャンル」であるとする絵画主題のヒエラルキーが、ダヴィッドによっていっそう強化されることとなった。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ただしブリューゲルの時代には、まだ風俗画が絵画の主題として確立したとまでは言えない。突出した画家がそうであるように、ブリューゲルはひとり特別の存在だった。日常生活への取材の範囲が拡がり、風俗画専門の画家がおおぜいあらわれ、一大ジャンルとして発展したのは、何といっても十七世紀オランダにおいてである。「オランダ人は生まれついての画家」と言われるほどの絵画好き。小型の風俗画で安価ならば、狭い室内を花と同じ感覚で飾りたい。そうした人々の望みに応じて風俗画家の数が爆発的に増大する。彼らは薄利多売で絵を描きまくり、売りまくった。専門は細分化し、生涯、帆船なら帆船一筋、花なら花だけ、すごいのはスケートシーンだけを描く画家もいた。隣国からの旅行者が、「ここではパン屋や農家にまで絵を飾っていて仰天した」と記している。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ヤンは兄より才能があり、花の画家として大成功をおさめた。あだ名も「花のブリューゲル」。ルーベンスと親交を結び、彼に家族肖像を描いてもらっている。共同作品も数多い。その息子ヤン二世(ブリューゲルの孫)となると、もう十七世紀人だ。第 2部で触れたように、彼はヴァン・ダイクと共同工房を開いた。詩人でもあり、父ヤンのコピーを大量に産んだことで知られる。さらにその息子アブラハムはナポリに定住し、静物画家として人気を博した。ヤン二世には妹がいて、ネーデルラント総督の宮廷画家ダフィット・テニールス二世と結婚している。息子テニールス三世(ブリューゲルの曾孫)も画家になったが、あいにく凡庸だったらしい。  バッハ家同様、代が下るにつれ先細りとなるのは致し方ない。しかしそれでも始祖の死から数えても百五十年ほど、子孫は美術史に名を残し続けた。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「ピーテル・ブリューゲルの前半生は全く知られていない。姓はブリューゲル村出身というところからきたとされる。ダ・ヴィンチ村のレオナルドと同じだ。ただしフランドル地方にはブリューゲルという村が複数あり、はっきりここと特定されるに至ってはいない。  生地が不明の上、生年月日もわからなければ両親の職業もわからない。後年、「農民画家ブリューゲル」と呼ばれるようになったのは、農民たちの風俗を主題にした作品が多かったからで、農民出身という意味ではない。とはいえこれだけ研究が進んでも何も記録が見つからないのだから、親が中・上層階級に属していたり、組合に属する画家だった可能性はほとんどない。末端の職人か、ほんとうに農民だったかもしれない。  ブリューゲルの名が確認できるのは、一五四五年ころ。どんないきさつからかは不明だが、国際都市アントワープへ移住して、クック・ヴァン・アールスト工房に入門している(後年、師クックの娘と結婚)。クックはイタリア語の建築学の本を翻訳するなどの教養人だったので、弟子は大いに感化されたに違いない。クックが死去した翌年の一五五一年、ブリューゲルは聖ルカ組合に親方登録した。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「多いといえば、絵画好きの国民だけあって画家の数も大変なもので、最盛期にはアムステルダムだけで七百人もいたというから驚く。作品数自体も目を瞠るほどで、試算によれば一六〇〇~一八〇〇年の間に五百万から一千万点も制作されたらしい。  王侯や教会といった大口発注者がいないので、ほとんどが市民の好みにあった小型風俗画だ。値段も安い。必然的に競争は苛烈となり、船の画家、花の画家、雪景色の画家といったように、それぞれ細かく専門化してゆく。二足の草鞋を履く者も多く、画商や宿屋を兼任した。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著


    「三十代半ばのミレーにようやく転機が訪れる。王(ルイ・フィリップ)を追い出した共和派の新政府が、これまでの王侯貴族好みのアカデミック絵画を特別扱いしなくなり、ミレーの『箕をふるう人』を国家買い上げとしたばかりか、さらに新作の注文もくれた。同年、パリにコレラが流行し、一家はルソーの勧めでバルビゾン村へ一時避難。やがてそこがすっかり気に入り、以降、死ぬまで定住することになる。  こうして我々のよく知るミレーらしい作品が、次々生み出されてゆく。美しくも厳しい自然と、そこで糧を得る人間の単調で苛酷な労働、信仰に支えられた日々のつましい暮らし、そして温かみのある手でこねられた粘土細工のような人物像……。そこには都会人が見たがる理想化された農村の姿はない。コローが風景画の革新者だったように、ミレーもまた農民画の革新者だった。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「しかし本物は残る。ミレー作品は上流階級にもじわじわと支持者を増やし、価格は吊り上ってゆく。バルビゾンに暮らし始めてしばらくは油彩一点がわずか五〇フランだったのに、三年後に小品でも二〇〇フラン、さらにその六年後には六〇〇フランとなり、サロンで『羊飼いの少女』が一等になったり、一八六七年の第二回パリ万博では会場の一室丸々ミレー展示室という特別待遇を受け(この時『晩鐘』が絶賛される)、ついにはレジオン・ドヌール勲章まで授与される。苦労が報われた晩年といえる。先述したように糟糠の妻に報い、子どもたちにも囲まれて愛に満ちた一生だった。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

    「フィンセント・ファン・ゴッホをフランス人と誤解している人は少なくない。陽光降り注ぐ南仏アルルのひまわり群が、彼の名前と分かちがたく結びついているせいだろう。だがゴッホが生まれたのは、海抜ゼロメートルの低地が拡がる寒冷な北国の、空がのしかかるように重い陰鬱な風景の中だった。  渡仏後の彼の作品があれほどに明るいのも、またその明るさが底知れぬ暗さに通じるのも、北にルーツを持つゆえに違いない。  印象派の画家の中で、ゴッホほど多く伝記が書かれ、書簡集が各国語に翻訳され、映画化され小説化され舞台化された例はない。強烈な色合いと独特のタッチが魅力のその作品はもちろん、破滅的な生きざまやストイックな芸術観に、近・現代人が惹かれ続けてきた証だ。  ゴッホは一八五三年三月、ベルギー国境に近いオランダの小村で、敬虔なカルヴァン派の牧師の第二子として生まれた。フィンセントという名はブレダの高名な牧師だった祖父の名であり、且つまた、一年前の同月同日に生まれてすぐ亡くなった、兄の名でもある。つまり父は夭折した長男の名をそのまま次男に付けたのだ。子どもにしてみれば、自分は兄の身代わりなのかと──たとえ漠然とであれ──感じたとしておかしくない。」

    —『「絶筆」で人間を読む 画家は最後に何を描いたか (NHK出版新書)』中野 京子著

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    2026年07月29日