744円
養老孟司ランキング3位
確かにお前サルみたいだよなって言われて怒る人って動物見下してる嫌な人だよね。だからフェミニストは性格が悪いだけだよ。
「未成年のタレントが酒を飲んで暴れたことがニュースになりました。それが原因で彼は無期限謹慎の処分を受けたそうです。 昔は若い者が酒を飲んで暴れるぐらい当たり前でした。何度もやるのは問題でしょうが、破目をはずした奴をきちんと叱る、それでさらっと忘れてあげるのが普通の世間の常識でした。 注意をしたら若い奴は逆ギレする、若い奴は短絡的になっている、暴力的になっているとよく言われます。しかし実際のところはどうなのでしょうか。昔と比べて今の若者に本当にそういう傾向があるのかどうかは実はよくわからないはずです。なぜなら統計的に本当に暴力的な若者が増えたかどうかについて調べるのは難しい。単純に昔との比較はできません。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「言いかえれば若い人が自由にフリーターやニートになれるような国になったということです。昔は就職せざるを得なかったですし、こんなにだれもが大学に行けるわけではなかったのですから。 中学を卒業すれば「金の卵」と言われた時代もありました。中学、高校を出れば引く手あまただから、若い人はいわば騙されて就職しました。私の若いころはそういう時代だったから、フリーターやニートが発生する余地がなかっただけです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「今の大人はよくお説教めかしてこんなことを言います。「昔のおれたちは労働というものをきちんととらえていた。大人にならなくてはいけないとわかっていた。今の若い奴らは、そこがわかっていないから駄目なんだ」 しかし落語にもたくさんフリーターもどき、ニートもどきは出てきます。夏目漱石はそういう人を「高等遊民」と称しました。私も、本当はそうありたかった。でもそれを諦めて今に至ったということです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「エコノミストの日下公人さんからこんな話を聞いたことがあります。戦前は旅館に泊まっている客を巡査が見回りに来た。そこで宿帳の職業欄に「無職」と書く客がいるのを見ると巡査は「きょうは客種がいいな」と言っていたそうです。今ならば無職は怪しまれるところですが、当時は働かなくても食べられるような人は地主のような大金持ちだというのが常識だったからです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。 仕事は自分に合っていなくて当たり前です。私は長年解剖をやっていました。その頃の仕事には、死体を引き取り、研究室で解剖し、それをお骨にして遺族に返すまで全部含まれています。それのどこが私に合った仕事なのでしょうか。そんなことに合っている人間、生まれ付き解剖向きの人間なんているはずがありません。 そうではなくて、解剖という仕事が社会に必要である。ともかくそういう穴がある。だからそれを埋めたということです。何でこんなしんどい、辛気臭いことをやらなきゃいけないのかと思うこともあるけれど、それをやっていれば給料をもらえた。それは社会が大学を通して給料を私にくれたわけです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「生きている患者さんを診なくていいというのも、解剖に向かった大きな理由です。一番助かったのは、もうこれ以上患者が死なないということ。その点だけは絶対安心でした。人殺しをする心配がないからです。しかし患者さんを診るという行為から逃げ出しても、遺族の面倒だとか何とか実はもっと大変なことがありました。 社会、仕事というのはこういうものです。いいところもあれば、悪いところもある。患者の面倒の代わりに遺族の面倒を見る。全部合わせてゼロになればよしとする。 あとは目の前の穴を埋めていれば給料をくれる。仕事とはそもそもそういうものだと思っていれば、「自分に合った仕事」などという馬鹿な考え方をする必要もないはずです。 NHKの「プロジェクト X」に登場するサラリーマンも、入社当初から大志を抱いていた人ばかりではないでしょう。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を作ることが仕事だと思っている人が多い。社会が必要としているかどうかという視点がないからです。余計な橋や建物を作るのはまさにそういう余計な山を作るような仕事です。もしかすると、本人は穴を埋めているつもりでも実は山を作っているだけということも多いのかもしれません。 しかし実は穴を埋めたほうが、山を作るより楽です。労力がかかりません。 普通の人はそう思っていたほうがいいのではないかと思います。俺が埋めた分だけは、世の中が平らになったと。平らになったということは、要するに、歩きやすいということです。山というのはしばしば邪魔になります。見通しが悪くなる。別の言い方をすれば仕事はおまえのためにあるわけじゃなくて、社会の側にあるんだろうということです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「向き不向きだけでいえば、私は仕事に向いていないとずっと思ってきました。仕事よりも虫取りに向いていると今でも思っています。虫取りをしている間、自分で全然違和感がない。ただ、そればかりやっていても食っていけないということはわかっています。 向いている虫取りをするためには、どうすべきかと考える。すると、財産も何もないし、とりあえず働くしかない。だから仕事には向いていないと思うけど、やめろと言われるまではやっていていいのではないかと思っているのです。 本気で自分の仕事は天職だと思っている人はめったにいません。仮に虫取りが向いていても、それが仕事になっていいかというと、そうでもないでしょう。もしも虫取りが仕事になるとしてそれが嬉しいかといえばうっかりすると重荷になってしまうかもしれない。楽しんでいられることというのは、ある程度無責任だからこそなのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「今では世襲というと血縁があるというだけでボンクラに継がせるというイメージが強いようですが、そうではありません。築いてきた看板をだれに継がせるのか。そこには知恵が必要になるわけです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「 江戸時代には五人組という制度がありました。これも今の人は封建的だとか、圧政だと捉えているかもしれません。しかし実は庶民はそれで良かったのです。どうしようもない人は、その村でローカルに面倒を見ていた。ともかく生きる権利ぐらいは確保してやるということにしていました。日本人は基本的にはそういう慣習を持っていたのです。 結局、外へ出したら迷惑がかかるから内輪で何とかしていた。自分のところで使えない人が外で使えるわけがありません。今でも日本の会社というのは、そういう人を必ずある程度抱えています。給料を貰っているけれど、実際はニートみたいな社員です。勤めているふりをしているだけ、というような人です。 東京大学でもそうでした。東京大学という看板には、その下に何人か、ただぶら下がっているだけで食っている人がいます。医学部でも下手に外に出すと問題になるなあという人がいました。働かないけれども問題さえ起さなければいいや、というような人。こういう人を下手に放り出すとかえっていろいろな問題が起こる。結局、そういうことを全部きれいにしようとすると逆に大変になっていく可能性もあるのです。 怠け者をかばうのか、と真面目な人は怒るかもしれません。でもアリの集団のなかで全体の二割しか働いていないとして、その二割だけで集団を作るとどうなるか。するとまたそのなかの二割しか働かなくなるということはよく知られています。 これがシステムの持つ基本的な性質なのです(システムという言葉については後でもう少し詳しく述べますが、ここでは社会全体の仕組みのことだと思ってください)。余剰人員を全部合理化しようとしてもあまり意味がありません。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「 そもそも私が育ったころと比べたら今の主婦はなんと暇なことかと思います。そう考えたらニートみたいな主婦がたくさんいます。 ニートや社内ニートに腹を立てたり彼らを放り出したりするよりは、そういう人が働かないから自分がちょっと働くだけで重宝されると思っておいたほうがいいのです。そう考えれば周囲にどんどんニートになってくれ、フリーターをやってくれと言いたくなるかもしれません。まさに努力さえすれば出世できるという社会になっている。 その点においてニートに感謝すればいい。彼らは初めから脱落してくれている。自分の価値を上げてくれているということです。それを働いているほうが怒ってはいけない。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「何かになりたいのならば、やってみなければ駄目ですし、あきらめた段階で駄目になります。でも、あきらめるのは別に悪いことではありません。向き不向きは他人のほうがよく見えていることがあるというのは憶えておいたほうがいいと思います。「合わないと思うんですけど、やめてもいいでしょうか」と聞いてみていいのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「日本人が「私」という言葉を「自己」という意味にしたのは明治以降です。そこで日本の「私」と西洋の「個人」が混同されてしまったのです。英語でいうプライバシー(私事)とインディビジュアル(個人)というまったく別の言葉が日本語では「私」という同じ言葉で表されるようになったのです。 昔の日本での公私の別というのは、それこそ「公」は社会であって「私」とは「家」のことでした。もっと簡単に言えば、「公」というのは天皇家のことでした。天皇家と「俺の家」が「公」と「私」だったのです。その「私」という言葉に明治以降は西洋の「個人」という意味も加えてしまった。それで混乱が生じた。 実際にその言葉の定義通りに何もかもが西洋流になれば別に問題はなかったのです。しかし、どれだけ「私」とは「個人」のことだと国語政策で、言葉の上で定義したところで世間なんてそういうことでは動きません。言葉をごまかしたって社会がそのとおりに変わるわけではないからです。それで、「私」の問題が尾を引いている。 日本人が「自分とは何か」というようなことで一々悩む必要はないのです。本来はそんなことは意識しなくてもわかっているはずです。 仏教は「無我」の必要性を説いてきました。それは、自分がどうだなどと無駄なことを考える暇があったら、他のことでも考えろということです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「『バカの壁』で、テロや戦争がなくならない理由は一元論であると書きました。自分の頭の中に「バカの壁」を築き、その向こう側のことなど想像もしない。起きている自分の意識だけが世界のすべてだと思ってしまう。そうした考え方が悪い形で出たものが、テロや戦争であるということです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「保守的というのは実はそういうことなのです。日々平穏というのは日常どおりのことをやっていて何も起こらないということです。それが実は予防ということです。 それは現代の普通の人の考え方とは違うかもしれません。多くの人は社会が進歩するというのは、どんどん変わっていくということだと捉えがちです。 でも、そうではなくて社会が本当に進歩するというのは、どんどん変化するのではなく日々平穏になっていくことなのではないでしょうか。つまり、我々が今防げない危険をだんだん封じ込めていけるようになることが進歩しているということになる。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「 現実に適応しているということは、無駄なことを好まないということです。女性で虫を集めている人はほとんどいません。虫好きの世界は男専科です。虫に限らず、コレクターというのはそもそも基本的に男の世界です。 マッチの箱とか、ラベルとか、切手とか、余計なものを集めるのは男が圧倒的に多い。女性は集めるにしても実用品中心です。フィリピンのイメルダ・マルコス大統領夫人は靴を山ほど集めていました。それも要するに実用品です。使い終わったものが残っているだけ。買い込みすぎて結果的に実用にならなかっただけです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「もしも女性の方が社会的に低い評価を受けるとすれば、それはそういう安定性を低く評価する文化があるからでしょう。女は頑固だ、というときには明らかに安定性を悪く言っている。しかし私はむしろ女性の安定性を高く評価すべきだと思っています。 もちろんこの安定性には欠点もあります。安定しているのはあくまでも自分です。ということは他人から見れば自分勝手だということにもなる。社会性が低いとも思われる。あくまでも個体としての安定性を持っているわけですから、そういう人とはつき合いづらいと思われるでしょう。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「政治家というのは基本的には男性的な職業です。そのなかでも小泉首相は極端な人ですから、ものすごく男性的だと言ってもいいかもしれません。 政治家は選挙中に子供を作っていることが多いそうです。それは要するにギャンブル性が高い行為に興奮しているからです。横山ノック前大阪府知事が選挙中に強制わいせつ事件を起こしたのもその意味ではわかります。選挙とはああいうものなのです。いいこととは言いませんが。 選挙はお祭りだといいますが、まさにお祭りの夜の男女みたいになっているのです。お祭りの夜は非日常的な頭になって興奮状態にある。 政治家に女性問題がつきものになるのもそれが理由です。それを昔は格好よく「英雄色を好む」と言っていたわけです。権力を追求するという行為自体がテストステロンという男性ホルモンの作用ではないかという気がします。多少の例外はあるにせよ、女性はあまり政治に関心を持たないでしょう。昔から、女は政治にあまりかかわっていない。その原因を社会構造や差別に結びつけるのはフェミニズムの発想で、実際にはおそらく関係ありません。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「女性と同様、動物も頑固です。同じことしかしない。あいつらの習慣を変えさせるのは容易なことではありません。鹿児島で捨ててきた飼い犬が北海道まで追っかけてきたという類の話はよく聞きます。忠実といえばそれまでですが、随分頑固なやつらだともいえます。こいつと住むと決めたら絶対に追ってくるのですから。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「世界で最初の公開の解剖がイタリアのパドバで行われました。このとき解剖された二体の遺体はいずれも女性でした。その理由は「より動物に近いから」というものでした。念のために申し上げておきますが、これを言ったのは私ではなく、あくまでも十四世紀の学者ですからね。今そんなことを言ったら大変なことになるくらいはわかります。 別に動物に近いということは悪いことではありません。フェミニストの方は怒るでしょうが、それは動物に対して偏見があるからです。動物差別主義者といってもいい。 実はこれは身体に対する偏見と言いかえてもいい。要するに脳みそが優位だということと、意識の世界が優位だということを勝手に決めているからそういう偏見を持つようになる。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「本当のことをいえば人間の社会でも同じことができる。今は必要がないからやらないだけで、女性だらけのアマゾネスの国はできる。逆に男だけの部落というのは出来ない。だから空想の話としても聞いたことがない。そもそも気持ち悪い。 一応男性のほうのいい点をいえば男はロマンチックになります。女性が現実主義ですから、それに比べればそうなる。悪くいうと、女は近視眼的だとなる。哲学者のショーペンハウエルは徹底的に女の悪口を書きました。「芸術は長く人生は短し」という有名な言葉をもじって、「髪長ければ知恵短し」と書き残しているほどです。 その原因のひとつは母親と仲が悪かったからです。彼のお母さんは変わった人で「同じ家から天才が二人出るはずがない」という理由で息子をたたき出したという伝説があるくらいです。彼女の言い分は、「この家からはすでに自分という天才が出ている。もう一人天才が出るわけがない。だから出て行け」という無茶苦茶な論法です。そんなこともあってショーペンハウエルは女嫌いになって、下宿のおばさんを階段から突き落としてけがをさせるという問題まで起こしました。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「子供を大事にするというのはどういうことか。それは「手入れ」の問題だと思います。 自然のものというのは、根本的にはこっちが向こうの仕組みを全部理解しているわけではありません。車の修理ならば全部どうすればいいかわかりますが、自然の場合はそうはいかないのです。 だから何か都合が悪いことがあれば相手の反応を見ながら手入れしていくしかない。相手の反応を見ながら手入れしていくというのは、非常に手間のかかることです。 お母さんがうるさいのはなぜか。毎日のように飽きずに、ああしちゃいけません、こうしちゃいけません、こうしなさい、ああしなさいと言い続ける。子供とはそうやって毎日手をかけていかなくてはいけないものだからです。 子供というのは丈夫なところもあるけれども、弱い点についてはものすごく弱い。それは小児科の医者がよく知っていることですが、子供の病気は足が早い。熱がちょっと出たなと思ったら死んでしまうというふうに急激に容体が変化することも多い。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「旅行でもきちんとプランを立てて、そのとおりに進んだと言って喜んでいる人がいます。私はそんな旅行はつまらないなと思う。別に時刻表マニアの人をいけないといいたいわけではありません。人の好みはいろいろで構わないのです。自由です。しかし世の中の原則が「ああすればこうなる」式に支配されてしまうのは絶対におかしい。 もちろん、皆が意味不明、予測不可能なことばかりしたら世の中は回りません。旅行も、お金も持たず、時刻表も読めずでは成り立たない。「ああすればこうなる」式でやる人がたくさんいないと世の中は回りません。 でもその原則が通じるのは実は思っているよりも限られた範囲だと知っておいたほうがいいのです。これが第一原理になるとまずい。 それは暗黙のうちに原理主義につながります。だから常に意識的に気をつけておかなくてはいけない。それで私はこのことをいつも言っているのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「「風が吹けば桶屋がもうかる」ではないですが、「ああすればこうなる」式の蔓延が少子化につながっているのです。子供はああしてもこうなりません。どんなに一生懸命働いても米が不作ということはあります。労働に対価が見合わないといってサラリーマンならば怒って会社を訴えることもできるけれど、農家はお天道様を訴えるわけにはいきません。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「都市化はいじめ問題の原因にもなっています。いじめは、今に始まったものではありません。よくいうのは今は陰湿でひどくて自殺者も出るからよくない、昔はもっと陽性だったということです。でもそれは違います。昔は逃げ場があったということです。 要するに人間が生きるためにやらなくてはいけないことが二つに分かれていたのです。対自然と対人間の二つの世界があった。 対人間世界が嫌ならば自然のほうに逃げるという手があった。仮に勉強が駄目だったり、運動ができなかったりしても、魚取りや虫取りが得意だとかそういう些細なことがきっかけになって、いじめっ子だったはずの子供が面倒を見てくれるかもしれない。 そういう世界が半分になってしまったのです。つまり対人間世界だけになってしまった。対人間世界、対自然世界、それぞれにプラス面とマイナス面があります。いじめは対人間世界のマイナス面の一例でしょう。対自然の世界がなくなるということは、対人間世界のマイナス面が相対的に拡大することになります。かつては世界の四分の一だったものが二分の一になってしまうからです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「 ある女性が中学生のときにいじめられたいきさつを書いた本を読むと、その中に出てこない要素があることに気づきました。それは花鳥風月です。天気や花、季節の話が出てこない。いじめられている当人の目が自然に向いていないということがよくわかります。彼女にも世界が半分しかないから、いじめが相対的に重くなって当たり前です。 もちろん自然にもマイナス面があります。洪水に遭ったとか、雷が怖かったとか、そういうことは自然のマイナス面でしょう。プラス面は晴れた日に外に行けばわかる。 同じように対人間の世界にもプラス面とマイナス面がある。先生に褒められた、親に褒められた、お小遣いをもらったというのはわかりやすい対人間世界のプラスです。それから先生に怒られた、親に殴られた、友達にいじめられたというのは対人間世界のマイナスです。そんなふうに世界は四つあったのです。 その本には、先生が何を言った、友達が何を言った、というような人間のことは嫌というほど書いてありました。しかしその日が雨だったのか、風が吹いたのか、月夜だったのか闇夜だったのかがわからない。こういう世界では当然いじめは深刻になるのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「こういう子供のいじめとは別に大人でもいじめられる人はいます。私の知り合いでも大人になってもそれで悩んでいる人がいました。彼は今は大学教授ですが、かつてはかなりいじめられたものです。その理由は傍目にはわかりやすかった。私ですらいびりたくなる人だったからです。それであるとき、彼に「いじめられるでしょう」と言ったら、案の定「いじめられるんですよ」と答えた。そのいじめのせいで彼は勤務先の大学から出て行くことになったくらいです。 この場合、彼自身にいじめを受けやすい癖がありました。ちょっと鈍感なところがあるのです。子供のいじめとは異なり、単に弱いというようなことではなくて、他人をいらいらさせるところがあるからいじめられる。それに本人は気がついていないのです。 それでも本人が強ければいじめられないのですが、弱いからいじめられる。その点においては人につけ込むすきを与えているのです。そういうすきがあったら、他人はいじめてくるものです。 それをなぜ防御できないかといえば、それも見ているとわかります。いじめられるタイプは自分の筋でしか物事を理解していません。必ず「なぜ私ばかりがいろいろ言われるの」と思ってしまうのです。それは相手の嗜虐性、サド性を誘発する性質を自分が持っているということでしょう。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「 たとえば、その人の特徴は、相手が関心を持っているかどうかにかかわりなくしゃべるということでした。しかも、ある種のしゃべりのプロだから非常にきちんと長くしゃべる。これがまずい。そのときに相手の反応を見ていないのです。自己中心的なのです。そのうえ決して強面ではありません。そういう人は大学でもたちまちいびられます。 自己中心的にしゃべり続けるということは、ある意味では相手を無視しているのです。それは相手からみれば、ある意味では、潜在的に自分の方が被害者になります。だから反撃として加害行為に出て、その部分だけを見るといじめになるわけです。こういう流れについて自覚のない人がいじめられっ子なのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「中国の首相もそんなことがわかっていないほど馬鹿ではないと思います。反日は政策の一環としてやっているわけです。中国共産党というのは結局革命で、武力で天下をとった。正当性は腕力にしかないというのが彼らの根本にあるわけで、その点には十分注意する必要があります。 むしろ北京政府の正当性とは何かということについては、日本政府は絶えず意地悪く尋ねてみるべきでしょう。直接そう聞かなくて回りくどい言い方でもいいのです。新しく誕生した中国共産党だと主張しているけれど、それならばなぜ清朝の歴代の皇帝が住んでいた紫禁城に幹部が巣くっているのか聞いてみればいいのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「東京外国語大学の学長をやっていた中国の専門家、中嶋嶺雄さんにこんな話を聞いたことがあります。五十年ぐらい前の時点でも中国には自分の村から一歩も出たことがない人が人口の半分くらいいた。逆にいうと、中国の村は、そうやっていても生きていけるところだった。それが今、近代化で壊れていっているのではないかというお話でした。 壊れつつあるとはいえ、まだ成り立っているならば、中国は相変わらず、毛沢東が言った通り農民の世界です。そうすると、今日本にいろいろと言っているのはごく限られた人たちだということになる。 中国の問題は常に彼らの内政問題です。こちらからすれば、中央政府、つまり中国人の脳みそはがちゃがちゃ言っているけれども、身体に相当している部分、農村の人たちのことは何も見えてこない。中国が変化していくときは、内政問題として変化していく。北京政府なんて鶏のとさかであって鶏ではないと思っていればいいのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著
「ただし中国の言っていることに正当性がないということと、こちらが潔白であるかどうかは別の話です。人間がよく陥るのは、自分が正しくないといられないという過ちです。要するに自分が負い目を感じていたくない。自分が潔白でありたいというのが、結構日本人に根強い感覚です。 初めから人間は罪を背負っているものである、気がついていなくても何らかの罪を背負っている、ということを意識していない。腹に一物もないということは、いいことだと思っている人が多い。そういう後ろめたさのない政治家は怖い。 その後ろめたさとずっと暮らしていく、つき合っていくというのが大人なのです。」
—『超バカの壁(新潮新書)』養老孟司著