加藤先生の本は同じことを何度も何度も繰り返し書かれていることが多い。
ACのことを「五歳児の大人」と表現している。
すごい叱られている感覚になる。ぐさっとくるというか、その通り過ぎて。
けれどもその根底に加藤先生の諦めそうになりながらもあきらめたくない愛情を感じられて、何とか抜け出してほしいと思ってくれているんだな、と伝わる。
こうやって自分に対して興味を持ってくれる人も、
叱ってくれる人もいなかった人にとっては、加藤先生のような存在は大きいのだろうな。
怒りで溢れていれば、それすらも気が付かないかもしれないが。
読みにくいし、対処法がたくさん記載されているわけではないが、
読んで良かったとは言える本。
【引用メモ】
・人は、心が満足するからやさしくできる
・五歳児の大人は、社会的には適応しているが、毎日が不満である。面白くない、楽しくない。そうなれば「他人にやさしくなれ」と言っても無理
・鉛筆をイヤイヤ削らされた子は、鉛筆を削るのを忘れた子どもに鉛筆を貸さない。自分がそれだけ嫌なことに耐えさせられたのに、他の子どもがそれをしないということが許せないのである。礼儀正しくしたくないのに礼儀正しくした人は、礼儀正しくない人を許さない
➡ACあるある。
・五歳児の大人の特徴は、「生きるのが辛い」ということと同時に、他人に厳しいということ
・人は、自分がしたいことをした時に、他人のわがままを許す。しかし、それを我慢させられた人は、他人のわがままを許さない
・五歳児の大人が「こんな自分がたまらなく嫌だ」と思うようになれば、もう出口は見えている
・人は、自分がその年齢ですることをきちんとすることで、次の人生を生きる土台を築くことができる。その土台がないままに次の時代に行くから、生きるのが辛くなるのである。五歳児の大人とは、生きる土台のない人々のことでもある
➡愛着理論
・人生にはそれぞれの時期にそれぞれ解決すべき課題があると書いた。そのほかに、人生にはそれぞれの時期にそれぞれ満足すべき欲求がある。五歳児の大人はそれが満たされていない。だから他人に対して厳しい
・多くの日本の親は五歳児の大人である。
日本の親は、我慢ばかりしている人が、アメリカに比べて多い。
だからわがままな子どもを許さない。子どもにやさしくなれない。
それ以外の親は、自信がないから子どもを放任にして
・人から好意を得るために真面目にしている人は、何かあるとまったく人が変わる。人から受け入れてもらうために真面目にしている人は、道徳的でも何でもない。彼らは認めてもらうために倫理的に振る舞っているだけで、もし分からなければ普通の人よりもはるかに反倫理的なことを平気でする
・五歳児の大人は、生き方そのものが「楽しむ」ということに重点が置かれていない
一方、心理的に健康な人は、どちらかというと楽しむことに重点が置かれて生きてき
・五歳児の大人の性格的特徴の第二は、他人の弱点を許せないで、協調性がないということで
辛い思いに耐えて生きてきた人々が、安易さに流されて努力しない人を認めたら、自分の今までの生き方、自分の価値、自分の存在そのものを否定することになる。
何よりも、辛い努力をしないで安易に生きてきた人が嫌い
➡わかる。この人はこれまでどうやって生きてきたんだろう、って思う。
でもそもそもACとACでない人の生きている世界(見えている世界)は違うから。
仕方のないこと。でも理解できないし、許せないんだよね。
・安易さに流されてわがまま放題の人々に、どのくらい激しい敵意を抱くかということは、その人がどのくらい辛い思いをさせられながら生きてきたか、ということに比例する
小さい頃、どのくらい大人の言う通りに嫌なことを従順にしながら生きてきたか、によるのである。辛い思いに耐えて従順に生きてくればくるほど、嫌なことをしないで、安易に流される人間を認められない
➡納得。これは他の本には書かれていないことだった。
怒りの度合いの違いだね。
・多数派になれない人々がいる。人望がない人がいる。言っていることもしていることも正しいが、みんながトップとしての 器 と見なさない。それは、今述べた憎しみを乗り越えていないから
人望のなさとは、人柄の問題
・自分の裸一貫からの努力を社会は考慮しない、それでも貧しい人にやさしい気持ちになれる人が、人の上に立つ器なのである
・心のゆとり」が、人の上に立てる器量である。
そういう人に、人は安心感と信頼感を持つのである。
どんなに正しい理屈を言っても、それだけで人は、その人に安心感を持つわけではない。その人を信頼できるわけではない。
➡なるほどなぁ、、
・本当のやさしさとは、自分がやさしさを感じて、自ら他人にもやさしくできることである。やさしさを強制するのは教育ではない。
無理にやさしくさせられたのは、やさしさではない。
しかしこれを、五歳児の大人は小さい頃からやられている。
だから、立派だけれども心がやさしくないのである。
➡その通りだと思った。自分が優しくされていないのに、人に優しくすることをずっと求められてきた。
人に優しくを常に考えながら生きてきたけど、
自分は本当は心が優しくない、とずっと思ってきた。
・いかなる時にも自分の辛さを 切々 と訴える人がいる。「私はこんなに辛いの」と涙ながらに訴える。これが五歳児の大人
同情されると機嫌がよくなる。
「僕をちやほやしてほしい」が五歳児の大人である。
五歳児は、「僕をちやほやしてほしい」のだから、五歳児の大人も同じことである。五歳児の大人は、義務と罰で育てられている。甘えの欲求が満たされていない
➡確かに、ちやほやされたい。
・ロジャースは、子どもは積極的に関心を持たれることを必要としている
・関心を持たれて育った人にしてみれば、
子どもに限らず相手に関心を持つことは自然なことである。
別に努力をして関心を持つわけではない。自然と関心を抱くのだ。
・五歳児の大人は、生まれてから死ぬまで自分の自然を許されないで生きるのが、当たり前のように周囲から期待された人々である。つまり、人間として生まれ、人間でありながら、人間でないことが当たり前のように周囲から期待された人々である。
➡つらいね、、
・愛されて育った人は、周囲に感謝するのを当たり前だと思う。
しかし、愛されないで育った人に、そのことを期待するのは残酷で
・人間にとって本質的な不満とは、要するに幼児的願望が満たされないという不満
・同じ体験が、ある人には苦痛になり、別の人には喜びとなる。
人間の幸せにとって重大なのは、何を体験するかということと同時に、
その体験をその人がどう感じるかということ
・トラブルは、決してあなたの価値を下げるものではない
色々なトラブルに巻き込まれる。そこで「自分はダメな人間だ」などと決して思ってはならない。自分は、よくここまで頑張ってきた人間なのである。どんなトラブルを抱えようが自分は素晴しい、という確信を持ち続けることである。
自分を責めてもいけない。しかし、立派だと信じていた自分たちの家庭に問題があった、ということを認めることである。次に、そのつけを黙々と払い続けること
・この世の中は弱肉強食ではない。少なくとも倫理的にそれは否定されている。実際に暴力が使われたとしても、暴力はいけないという倫理はある。しかし、心理的な世界では、間違いなく弱肉強食である。どんなに五歳児の大人が一生懸命しても、その努力の誠意は認められない。 必死で歩いているよちよち歩きの幼児を、「どうしてそんなに遅いんだ」と殴る人はいないだろう。しかし心理的世界においては、そうしたことは日常的に行われているのだ。心理的には、そうしたよちよち歩きの「大人」は、必死になって努力しても、その努力したことを認めてもらえずに、 怠け者と批判され、自分はダメな人間だ、冷たい人間だ、豊かな感情に恵まれなかった人間だと、自分を 蔑んで死にたくなる。だから、五歳児の大人は「生きるのが辛い」
・自分が悩んだ時には、常に客観的にこれだけ悩む原因があるわけではなく、自分の気質が自分を悩ませている面もあるのだということを心に留めておくべき
これまでの生き方の違いや、生まれた環境の違いがある
・「フロイトは、幼児期の母親に対する愛着――一般にはほとんど完全に消えることのない愛着――には異常に大きなエネルギーが内包されている
・「幼児期の母親に対する愛着」とは、母親に触れたいという欲求である。
人はみな安らぎを求めているのである。
人の安らぎを求めるエネルギーは、巨大である。
人はなんとしても安らぎが欲しいのである。
そのために、人はさまざまなことをする。これが満たされなくて、その満足を求めて、人は悪口を言ったり、長い悩みの手紙を書いたりする
この手紙を書くエネルギーをどうして前向きの生き方のために使わないのだろ
どうして問題の解決のために使わないのだろう、と不思議に思う
読んでいて吐き気がするほど自分勝手なのである。
その、独りよがりの他人を無視したエネルギーに、吐き気がする
この巨大なエネルギーこそ「幼児期の母親に対する愛着」のエネルギー
そのしがみつきのエネルギーは巨大である。 一旦 しがみつかれると、しがみつかれた人がノイローゼになる。それほどものすごいエネルギーでしがみついてくる
・深刻に悩んでいる人は、会う人みなに「母なるもの」を求める。
そしてそれが与えられないので、その人に幻滅する
➡自分で与えられる、自分でしか与えられない、ということを、納得してもらう必要がある。
そうでないと、相手は母親からの愛をカウンセラーや他人に求めることになる
・愛着人物がいない時には「良い子」であり、
愛着人物がいる時には手のかかる子になるということで
➡HSPの親しい人には思っていることを言える(=わがままを言える)のに近い気がする。
・燃え尽きる人は、嫌いな人にさえ愛されたい
・「幸せになる能力」とは、ほかならぬ「自分を尊敬すること」であり「愛する能力」のこと
・生きるのが辛い、辛いと騒いでいる人は、多くの場合、周囲の人が嫌いなのである。そして、嫌いな人のために働いている
まず第一に、孤独を覚悟することである。
周囲の人から好意を期待しないことである。
周囲の人の好意を期待して何かをしないことである。
一人になること、そのほうがいい。そうすれば自分にやさしくできる
●周囲の人から好意を期待している限り、あなたはますます周囲の人が嫌いになる。あなたの期待したようには周囲は動かない。
その結果、また周囲への憎しみを増すことになる。
そうした体験の積み重ねの結果、ますます生きることが辛くなる。
地獄とは、「人が嫌い」ということであり、天国とは「人が好き」ということ
➡納得。
・「誰も私の気持ちを分かってくれない」などと言うのは、甘えている証拠
・子どもに甘えないとはどういうことか。
子どもに自分の気持ちを 汲み取ってもらうことを 諦めるということである。
「親の苦労も少しは分かってくれ」と思わないこと
・自殺していった人は、みな自分の挫折を受け入れられなかった
・「母なるもの」を持たない母親のもとに生まれた人として生きていく覚悟を決めることである。
最後まで地獄で生きてしまうのは、自分が分からないからである。
自分が分からないとは、自分には何が欠けているかが理解できないということである。
生き方を間違ってしまうのは、自分には何が欠けているかが理解できないからである。そういう人は、人生の目的も間違える。
・自分は「母なるもの」を持たない母親のもとに生まれたのだと理解した時に、人々への恨みも消えていく。
それは自分の運命を受け入れた時である
・今日まで立派に生きてきた。あなたは今、生きていることに自信を持っていい。どのような心の状態であろうと、自分は素晴らしいのだと自信を持っ
・人間というのは、お互いに相手は自分と同じだと思っているし、何をしていても同じことをしていると思っている。しかし事実としては同じことをしていても、実は心理的にはお互いに違ったことをしている
・五歳児の大人は「母なるもの」に接することなく成長している。その結果、心の底に憎しみを持っ
この憎しみの感情を処理することが、五歳児の大人の最大の課題
欠けていることに注意がいくから不満になるのではない。
不満だから欠けているところに注意がいってしまうのである。
人は不満だと、どうしても欠けているところに注意がいってしまう
他人と自分を比較するから劣等感を持つのではなく、
劣等感があるから他人と自分を比較するようなもの
不満な人に満足した人と同じ物の見方をしろと言っても無理なのである。満足すれば、自然と満足した人の物の見方になる
自分を傷つけた人といつまでも心理的に 拘わっていれば、
人は心理的に成長できない。
いつまでも憎んでいては、どんなに努力しても人は変わらない。
・傷ついている自分をそのままにして、どうして心やさしい人間になれるだろう
何度も「今に生きる」と書くのだ。自分が納得するまで「今に生きる」と書くのだ。自分の恵まれない過去に囚われ続けて、今を犠牲にしてはいけない
・恨みを消すためには「今日は人から何をしてもらったか」の日記をつけることである。五歳児の大人は、自分が相手にしてあげたことは覚えているが、相手からしてもらったことはまったく忘れてしまっている。
また人からやられたことはいつまでも覚えているが、自分が相手を傷つけたことは意識してい
・本当は自分のわがままを通そうとしているのだが、わがままとは思われたくない。そこで表面は立派なことを言っている。当然、生きるのは辛くなる。そしてわがままが通らないと周囲の人を責める。 そうした責任転嫁をしていても、生きることはいつになっても楽にならない。むしろ、自分はわがままを通そうとしているのだと分かることが幸せに通じる道なので
・自分が子どもに好かれる母親を演じながら、自分の望みを遂げようとする。子どもに嫌われないで、自分の思うように子どもを動かそうと
・人が幸せを感じるのは、求めるものが分かっている時でもある。
それなのに五歳児の大人は、自分が何を求めているか分かっていない。
今、五歳児の大人に大切なことは、自分は何を求めているかを知ること